愛とは権力である。
2008/11/23/Sun
「キチガイを救ってあげたい」と正常人は言う。「正常という精神障害」には特徴的な症状である。
これは、「救う」なんてものではなく、底なし沼に溺れている人間が、自分の足を引っ張っていて、自分が溺れないために、その足を引き抜くようなものであって、結局は幻想(象徴界あるいは想像界)に己を維持させる自己防衛としての反応なのである。
蹴落とせばいいじゃないかって?
そうなのだ。キチガイはむしろ蹴落として欲しいと思っている。
しかし、正常人の足とキチガイのすがる腕は、完全に分離できない。何故なら、器官なき身体は自然と外延を共にしているからだ。正常人とはいえ、ファルスを軸にした幻想あるいはSAMを根拠にした心の理論という鎧が皮膚に癒着しているだけであり、鎧の中では器官なき身体が眠っている。
この鎧は、器官なき身体が流出するのを防ぐ役割もあれば、LANケーブルのような役割もある。器官なき身体が幻想の中を生きるための宇宙服でもあり、かつ幻想の中で器官なき身体が撒き散らかすエネルギーを制御しつつ現実界を横断させるライフラインでもある。生後十八ヶ月までにこの宇宙服を着させられ、一度も脱ぐことを許されないまま育った正常人たちは、それが皮膚に癒着してしまっている。
キチガイが絡ませる腕は、鎧や皮膚を浸透し、正常人の足の内部組織と繋がっている。
むしろそれは、ある物体の一部がたまたま鎧を着込んででおり、鎧を着込んでなかった一部が現実界という底なし沼に溺れている、といった具合なのである。キチガイが絡ませる腕と正常人の絡め取られた足は、一続きの物体なのだ。
そこで正常人は、鎧を着込んだ一部分は、キチガイを、底なし沼から自分を襲ってくる触手を、鎧で切断しようとする。
切断操作である。
この時、どこを切断するかも、時と場合によるだろう。何せキチガイの腕と自分の足は一続きの物体なのだから。
一続きとはいえ、だいたいの境界はある。「この辺は明らかにお前の腕でこの辺は明らかにオレの足だ」ぐらいは一応判断できる。シャムの双生児みたいなものだ。しかし実際切り離すとなると多大な知識や技術や労力などが必要とされる。
一続きの双子の間に挿入された金属片が、部分と部分を切り離す。
これは、片方の部分であるキチガイも望んでいることなのだ。何故ならその金属片は、彼にしてみれば(正常人のと比べればはるかにささやかなものではあるが)鎧でもあるからだ。キチガイは正常人と同じ世界を生きたくて底なし沼から手を伸ばしているのだ。
しかし、キチガイという部分は鎧を着慣れていない。鎧が皮膚に癒着するのに多くの困難が生じるだろう。癒着するまではあちこちがすれて血が滲んだりするだろう。
キチガイは鎧を組み立て直す。神から授けてもらったささやかな金属片を、まるで積み木遊びでもするかのように、カッターで皮膚を傷つけるかのように、組み直す。
できあがってくる鎧は、正常人たちのそれと比べ異形のものとなるだろう。
正常人たちは鎧を着慣れている。かつ長くそれを着続けている。現実界からの保護機能も、同じ鎧を着ている部分との通信機能も、幾度となくバージョンアップされている。いきあたりばったりで試行錯誤しながら作り上げたキチガイの仮の鎧とは、性能差がありすぎる。
正常人たちは、高性能の鎧をもって、自らの一部でもある底なし沼からの触手を切断し続ける。さまざまな知識や技術や労力を費やして。キチガイたちは、その時賜った鎧の金属片をもって、現実界から保護されたささやかな幻想を生きようとする。同じく、さまざまな知識や技術や労力を費やして。
忘れてはならないのは、この時、双方が切断される痛みを感じていることである。
正常人は鎧が皮膚と癒着しているため、この痛みに鈍感である。自分が鎧を着けていることを忘れて丸裸のキチガイを殴り倒す。しかし、見えないへその緒は今でも底なし沼と繋がっている。それを忘れて正常人はキチガイを殺戮し続ける。一続きの物体であることを忘れて殴り続ける。
しかし、現実はやはり一続きである。キチガイの絡ませる腕と正常人の絡め取られた足は繋がっている。か細いへその緒から、鎧のうちのうちに、痛みが供給される。狂気が蓄積していく。ある時、この痛みあるいは狂気が、本来別の物体であった鎧との癒着を気づかせる。この癒着そのものが痛みあるいは狂気だったことを思い出させる。鎧を着た正常人は内側から痛みあるいは狂気に襲われる。
狂気とは、底なし沼とは、精神分析の理屈で言えば、生後六ヶ月ぐらいまでに全ての人類が経験する妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢である。去勢以前の自分という物体である。過去は忘れることはできてもなくすことはできない。内側から襲ってくる過去が、正常人をパラノイアックにあるいはスキゾフレニックにあるいはメランコリックにさせる。
これらは全て「部分を横断する」器官なき身体の仕業なのである。精神医学における治療とは、器官なき身体の撲滅を意味している。
「キチガイを救ってあげたい」という言葉は、「自分他人問わない器官なき身体を切り刻もうとしている」ことを示している。
それを愛と呼ぶらしい。正常人の世界では。
だからわたしはこう言う。
「なんだ、やっぱり愛って権力と同じものなんじゃん」
これは、「救う」なんてものではなく、底なし沼に溺れている人間が、自分の足を引っ張っていて、自分が溺れないために、その足を引き抜くようなものであって、結局は幻想(象徴界あるいは想像界)に己を維持させる自己防衛としての反応なのである。
蹴落とせばいいじゃないかって?
そうなのだ。キチガイはむしろ蹴落として欲しいと思っている。
しかし、正常人の足とキチガイのすがる腕は、完全に分離できない。何故なら、器官なき身体は自然と外延を共にしているからだ。正常人とはいえ、ファルスを軸にした幻想あるいはSAMを根拠にした心の理論という鎧が皮膚に癒着しているだけであり、鎧の中では器官なき身体が眠っている。
この鎧は、器官なき身体が流出するのを防ぐ役割もあれば、LANケーブルのような役割もある。器官なき身体が幻想の中を生きるための宇宙服でもあり、かつ幻想の中で器官なき身体が撒き散らかすエネルギーを制御しつつ現実界を横断させるライフラインでもある。生後十八ヶ月までにこの宇宙服を着させられ、一度も脱ぐことを許されないまま育った正常人たちは、それが皮膚に癒着してしまっている。
キチガイが絡ませる腕は、鎧や皮膚を浸透し、正常人の足の内部組織と繋がっている。
むしろそれは、ある物体の一部がたまたま鎧を着込んででおり、鎧を着込んでなかった一部が現実界という底なし沼に溺れている、といった具合なのである。キチガイが絡ませる腕と正常人の絡め取られた足は、一続きの物体なのだ。
そこで正常人は、鎧を着込んだ一部分は、キチガイを、底なし沼から自分を襲ってくる触手を、鎧で切断しようとする。
切断操作である。
この時、どこを切断するかも、時と場合によるだろう。何せキチガイの腕と自分の足は一続きの物体なのだから。
一続きとはいえ、だいたいの境界はある。「この辺は明らかにお前の腕でこの辺は明らかにオレの足だ」ぐらいは一応判断できる。シャムの双生児みたいなものだ。しかし実際切り離すとなると多大な知識や技術や労力などが必要とされる。
一続きの双子の間に挿入された金属片が、部分と部分を切り離す。
これは、片方の部分であるキチガイも望んでいることなのだ。何故ならその金属片は、彼にしてみれば(正常人のと比べればはるかにささやかなものではあるが)鎧でもあるからだ。キチガイは正常人と同じ世界を生きたくて底なし沼から手を伸ばしているのだ。
しかし、キチガイという部分は鎧を着慣れていない。鎧が皮膚に癒着するのに多くの困難が生じるだろう。癒着するまではあちこちがすれて血が滲んだりするだろう。
キチガイは鎧を組み立て直す。神から授けてもらったささやかな金属片を、まるで積み木遊びでもするかのように、カッターで皮膚を傷つけるかのように、組み直す。
できあがってくる鎧は、正常人たちのそれと比べ異形のものとなるだろう。
正常人たちは鎧を着慣れている。かつ長くそれを着続けている。現実界からの保護機能も、同じ鎧を着ている部分との通信機能も、幾度となくバージョンアップされている。いきあたりばったりで試行錯誤しながら作り上げたキチガイの仮の鎧とは、性能差がありすぎる。
正常人たちは、高性能の鎧をもって、自らの一部でもある底なし沼からの触手を切断し続ける。さまざまな知識や技術や労力を費やして。キチガイたちは、その時賜った鎧の金属片をもって、現実界から保護されたささやかな幻想を生きようとする。同じく、さまざまな知識や技術や労力を費やして。
忘れてはならないのは、この時、双方が切断される痛みを感じていることである。
正常人は鎧が皮膚と癒着しているため、この痛みに鈍感である。自分が鎧を着けていることを忘れて丸裸のキチガイを殴り倒す。しかし、見えないへその緒は今でも底なし沼と繋がっている。それを忘れて正常人はキチガイを殺戮し続ける。一続きの物体であることを忘れて殴り続ける。
しかし、現実はやはり一続きである。キチガイの絡ませる腕と正常人の絡め取られた足は繋がっている。か細いへその緒から、鎧のうちのうちに、痛みが供給される。狂気が蓄積していく。ある時、この痛みあるいは狂気が、本来別の物体であった鎧との癒着を気づかせる。この癒着そのものが痛みあるいは狂気だったことを思い出させる。鎧を着た正常人は内側から痛みあるいは狂気に襲われる。
狂気とは、底なし沼とは、精神分析の理屈で言えば、生後六ヶ月ぐらいまでに全ての人類が経験する妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢である。去勢以前の自分という物体である。過去は忘れることはできてもなくすことはできない。内側から襲ってくる過去が、正常人をパラノイアックにあるいはスキゾフレニックにあるいはメランコリックにさせる。
これらは全て「部分を横断する」器官なき身体の仕業なのである。精神医学における治療とは、器官なき身体の撲滅を意味している。
「キチガイを救ってあげたい」という言葉は、「自分他人問わない器官なき身体を切り刻もうとしている」ことを示している。
それを愛と呼ぶらしい。正常人の世界では。
だからわたしはこう言う。
「なんだ、やっぱり愛って権力と同じものなんじゃん」