物自体の祝祭――主人公はイザナギではなくグリーン姉さん。
2008/11/26/Wed
去勢済みな主体から見る未去勢者は、キチガイは、ぴくりとも動かなければ、対象aだ。アニマだ。マリアだ。村下孝蔵の『少女』だ。
死体のふりをしていれば、未去勢者は、キチガイは、愛される。
人形でいれば、愛してもらえる。
ただ、人形の中身から見ると、それは死体である。人形の裏側は、死蝋化している。
未去勢者は、キチガイは、息をつめる。死蝋が表に出てこないように、身をすくませる。
未去勢者は、キチガイは、ファルスを、去勢を、生死の極みを、バンジージャンプを、未だ知らない。知らないから死のうとしている。死体になろうと試行錯誤する。
それを「哀れ」などと言われてもどうしようもない。ただ怖いから、息をつめる。身をすくませる。何が怖いのかもわからない。何が怖いのか、何故怖いのか、わからないから怖いんじゃないか。
「哀れ」はまだマシだ。現代では精神疾患の被害妄想などと呼ばれる。
愛してもらえる?
愛ってなんだ?
愛なんてわからない。
わからないから怖い。わからないから体が自動的にそちらに向く。
中身からは見えない腕が、人形の顔をいつも同じ方向に向ける。
死体はいつも同じ方向を向いている。生者の世界を見つめている。生者の背中を見つめている。
死のうとしている?
死ってなんだ?
死なんてわからない。
わからないから怖い。わからないから体を動かそうとする。
しかし、人形は動いてはならない。
動けば生者は振り返ってしまう。
振り返られると、死蝋になってしまう。
振り返ると、生者は、去勢済みな主体は、正常人は、イザナギは、グリーン姉さんと対面する。
だからぴくりとも動いてはならない。
動いたら彼は振り返ってしまう。
人形の裏側を見られてしまう。
わたしは彼の背中しか見てはいけない。
自分から手を伸ばしてはならない。
わたしは人形であり続けなければならない。
なのに、この人形は完全じゃない。死蝋が漏れる。糞便が漏れる。わたしがわたしじゃない何かが漏れる。
わたしがわたしじゃない何かが、手が肉片が何かの伝染病が、漏れる。伸びる。無方向に。
彼は粒子性と波動性を併せ持つ量子だから。
存在の許されない物自体が、存在を許されている物自体に、ストーキングしている。
お前も物自体ではあるけれど、お前が思うお前ではない。わたしが見ている背中は。
自分から手を伸ばしてしまうと、対象aは斜線の取れたSになる。
生々しい現実界が立ち現れる。
グリーン姉さんが伸ばす腐った腕を、イザナギは振り払う。
腕が落ちる。
それでも伸ばす。振り払う。落ちる。
また伸ばす。落ちる。何度でも伸ばす。落ちる。何本もの腕が、後から後から生えてくる。
きりがないイザナギは宣言する。
「よろしい、ならば戦争だ」
わたしのしたことは戦争だったらしい。
「ヨロシイ、ナラバ戦争ダ」
それでも人形であろうとするグリーン姉さんは、オウム返しをする。どこか嬉しそうだ。
死者と生者の戦いが始まる。
残酷演劇が開演する。
ランダとバロンの舞踏劇が開演する。
量子が火花を散らす。物質と反物質が衝突する。
「どっちが物質でどっちが反物質なのか」なんて野暮な問いはやめてね。お祭りなんだから。
と、グリーン姉さんは吐き捨てる。
ドゥルーズ=ガタリもチョイ役だけど出てるよ。レヤックとチュルルックで。
ジジェクは、なんでこうどうしようもなく小物感漂わせてるんだろう。学問的にじゃなくて演出家視点で見て。というわけで観光客でいいです。ピザでも食っててくださいデブ。
たまにはファルスに紛れてルミナリエで感動したっていいじゃない。
死体のふりをしていれば、未去勢者は、キチガイは、愛される。
人形でいれば、愛してもらえる。
ただ、人形の中身から見ると、それは死体である。人形の裏側は、死蝋化している。
未去勢者は、キチガイは、息をつめる。死蝋が表に出てこないように、身をすくませる。
未去勢者は、キチガイは、ファルスを、去勢を、生死の極みを、バンジージャンプを、未だ知らない。知らないから死のうとしている。死体になろうと試行錯誤する。
それを「哀れ」などと言われてもどうしようもない。ただ怖いから、息をつめる。身をすくませる。何が怖いのかもわからない。何が怖いのか、何故怖いのか、わからないから怖いんじゃないか。
「哀れ」はまだマシだ。現代では精神疾患の被害妄想などと呼ばれる。
愛してもらえる?
愛ってなんだ?
愛なんてわからない。
わからないから怖い。わからないから体が自動的にそちらに向く。
中身からは見えない腕が、人形の顔をいつも同じ方向に向ける。
死体はいつも同じ方向を向いている。生者の世界を見つめている。生者の背中を見つめている。
死のうとしている?
死ってなんだ?
死なんてわからない。
わからないから怖い。わからないから体を動かそうとする。
しかし、人形は動いてはならない。
動けば生者は振り返ってしまう。
振り返られると、死蝋になってしまう。
振り返ると、生者は、去勢済みな主体は、正常人は、イザナギは、グリーン姉さんと対面する。
だからぴくりとも動いてはならない。
動いたら彼は振り返ってしまう。
人形の裏側を見られてしまう。
わたしは彼の背中しか見てはいけない。
自分から手を伸ばしてはならない。
わたしは人形であり続けなければならない。
なのに、この人形は完全じゃない。死蝋が漏れる。糞便が漏れる。わたしがわたしじゃない何かが漏れる。
わたしがわたしじゃない何かが、手が肉片が何かの伝染病が、漏れる。伸びる。無方向に。
彼は粒子性と波動性を併せ持つ量子だから。
存在の許されない物自体が、存在を許されている物自体に、ストーキングしている。
お前も物自体ではあるけれど、お前が思うお前ではない。わたしが見ている背中は。
自分から手を伸ばしてしまうと、対象aは斜線の取れたSになる。
生々しい現実界が立ち現れる。
グリーン姉さんが伸ばす腐った腕を、イザナギは振り払う。
腕が落ちる。
それでも伸ばす。振り払う。落ちる。
また伸ばす。落ちる。何度でも伸ばす。落ちる。何本もの腕が、後から後から生えてくる。
きりがないイザナギは宣言する。
「よろしい、ならば戦争だ」
わたしのしたことは戦争だったらしい。
「ヨロシイ、ナラバ戦争ダ」
それでも人形であろうとするグリーン姉さんは、オウム返しをする。どこか嬉しそうだ。
死者と生者の戦いが始まる。
残酷演劇が開演する。
ランダとバロンの舞踏劇が開演する。
量子が火花を散らす。物質と反物質が衝突する。
「どっちが物質でどっちが反物質なのか」なんて野暮な問いはやめてね。お祭りなんだから。
と、グリーン姉さんは吐き捨てる。
ドゥルーズ=ガタリもチョイ役だけど出てるよ。レヤックとチュルルックで。
ジジェクは、なんでこうどうしようもなく小物感漂わせてるんだろう。学問的にじゃなくて演出家視点で見て。というわけで観光客でいいです。ピザでも食っててくださいデブ。
たまにはファルスに紛れてルミナリエで感動したっていいじゃない。