闘牛
2008/11/29/Sat
なんかの番組で、「子牛の方が気が荒い」などと言っていた。多分スペイン闘牛のロケだったと思う。
キチガイと正常人の軋轢即ち残酷演劇は、闘牛のようなものだけど、牛と人間の力の差は均衡している。猟銃で撃っておしまい、あるいは罠にかけちゃえ、ってことにはならない。
子牛を相手にするのは子供の見習い闘牛士だ。
うん、厳密には、キチガイとは子牛だ。
子供が一人前の闘牛士になるための、踏み台。
わたしの語用におけるキチガイとは、ファルスに不具合がある者を言う。未去勢者である。具体的には、統合失調症やスキゾイドや自閉症という症状が相当する。広義的には、大人と比較した場合の子供や、男性と比較した場合の女性も、傾向的にキチガイに親近すると言えるだろう。木村敏の論ならばアンテ・フェストゥムという概念も、わたしのキチガイ論において便利に使用できることから、近いものを指していると思われる。
正常人とはいえ、キチガイに近い主観世界を、アンテ・フェストゥムを生きる場合がある。去勢(鏡像段階)の回帰によりファルスが不安定になる、思春期。
常にファルスが不安定なキチガイにとって、その時期は晴れ舞台だ。
残酷演劇の。
残酷演劇は、観光客が大喜びする、本番の闘牛にはない。
舞台裏にある、子供の見習い闘牛士と子牛の対決こそが、残酷演劇だ。
正常人たちの踏み台である現実を、顕現させる瞬間だ。
子供が危なくなったら、大人は子牛を制止する。
それが残酷演劇だからだ。
どなどなどーなーどーなー♪
荷馬車が倒れて子牛が脱走する。
道端に立つ、目に涙を浮かべ見ていた子供を、角でなぎ払う。
一緒に揺られていた何匹かの子牛が、銃で撃たれる。
しかし知ったこっちゃない。
血に濡れた黒毛を艶かしく躍らせながら、子牛はリアルを顕現させる。
って今wikipedia見たらスペイン闘牛禁止になってるのね。
うぜーな動物愛護団体。奴らのやっていることこそ精液ぶっかけまくりだ。
多少抑圧隠蔽劣化しているとはいえ立派な残酷演劇の一つとして考えてあげなくもないのに。
こうやってキチガイは棄却されていく。精液で窒息死していく。
Q.子牛は何故自分に同情してくれる子供を襲ったのか?
A.襲いやすかったからです。
酒鬼薔薇とかこう言いそうだもんな、確かに。
追記。
そういえばムツゴロウさんがなんか動物に噛まれてるのに「よーしよしよし」ってやってるシーンとかちょっとわたしのキチガイセンサーが反応するよな。彼の動物と接する時の目ってマジだもん。いわゆる日常的語用における演技じゃない。とはいえ演技ではあろうから、演劇的な語用での演技だと言える(この違いは実際に舞台に立った人間しかわかんめえ)。また、ペットの子犬を抱いて歩くデブマダム(イメージですよ)の目とも違う。彼の動物に対する愛情は、ある瞬間精液を超えているように思える。動物に向かっている欲望は欲動の臭いをさせている。ああ見えて平気で肉喰らうらしいし。動物王国そのものも、それの倒産なんかも(人間的な)社会でうまくやってけない人な感じ丸出しだもんな。
「こうやって自分に危害を加えない相手なのか確かめてるんですよ」
窮鼠猫を噛む、とは言えないけど、少なくとも獣は人間より物自体的なわけで、物自体の作用と反作用を体で知っている発言とも受け取れる。すっげー好意的に解釈すれば。
2ちゃんの悪名高いペット大嫌い板の名無しが「黒いムツゴロウ」を略した「黒ムツさん」になっているのは名無したちの慧眼と言えよう。
自閉症者はこの段階を経てなつくことは普通に可能なんだけど、それを社会的な人間に矯正しようとするところで大きな難関があるんだな、と、ある自閉症児の親御さんのブログを再読しながら思った。
ムツゴロウさん症例で言えば、獣に「ムツゴロウさんになついたんだから他の人間にもなつきなさいよ」と言っているようなもんだ。全くとんちんかんな理屈である。
このトリックに気づけなかったわたしは他の人間にもなつこうとして裏切られまくりましたのでもう人間は信用できません。体が信用しないんだもん。しゃーない。
これが明確なトラウマとして摘出できれば物好きなエセムツゴロウたちに同情はされるんだろうな。
ごめんなさいどうやらわたしの心因(環境因)じゃないみたいです。
「よーしよしよし。思う存分僕のファルスを噛み千切りたまえ」
キチガイと正常人の軋轢即ち残酷演劇は、闘牛のようなものだけど、牛と人間の力の差は均衡している。猟銃で撃っておしまい、あるいは罠にかけちゃえ、ってことにはならない。
子牛を相手にするのは子供の見習い闘牛士だ。
うん、厳密には、キチガイとは子牛だ。
子供が一人前の闘牛士になるための、踏み台。
わたしの語用におけるキチガイとは、ファルスに不具合がある者を言う。未去勢者である。具体的には、統合失調症やスキゾイドや自閉症という症状が相当する。広義的には、大人と比較した場合の子供や、男性と比較した場合の女性も、傾向的にキチガイに親近すると言えるだろう。木村敏の論ならばアンテ・フェストゥムという概念も、わたしのキチガイ論において便利に使用できることから、近いものを指していると思われる。
正常人とはいえ、キチガイに近い主観世界を、アンテ・フェストゥムを生きる場合がある。去勢(鏡像段階)の回帰によりファルスが不安定になる、思春期。
常にファルスが不安定なキチガイにとって、その時期は晴れ舞台だ。
残酷演劇の。
残酷演劇は、観光客が大喜びする、本番の闘牛にはない。
舞台裏にある、子供の見習い闘牛士と子牛の対決こそが、残酷演劇だ。
正常人たちの踏み台である現実を、顕現させる瞬間だ。
子供が危なくなったら、大人は子牛を制止する。
それが残酷演劇だからだ。
どなどなどーなーどーなー♪
荷馬車が倒れて子牛が脱走する。
道端に立つ、目に涙を浮かべ見ていた子供を、角でなぎ払う。
一緒に揺られていた何匹かの子牛が、銃で撃たれる。
しかし知ったこっちゃない。
血に濡れた黒毛を艶かしく躍らせながら、子牛はリアルを顕現させる。
って今wikipedia見たらスペイン闘牛禁止になってるのね。
うぜーな動物愛護団体。奴らのやっていることこそ精液ぶっかけまくりだ。
多少抑圧隠蔽劣化しているとはいえ立派な残酷演劇の一つとして考えてあげなくもないのに。
こうやってキチガイは棄却されていく。精液で窒息死していく。
Q.子牛は何故自分に同情してくれる子供を襲ったのか?
A.襲いやすかったからです。
酒鬼薔薇とかこう言いそうだもんな、確かに。
追記。
そういえばムツゴロウさんがなんか動物に噛まれてるのに「よーしよしよし」ってやってるシーンとかちょっとわたしのキチガイセンサーが反応するよな。彼の動物と接する時の目ってマジだもん。いわゆる日常的語用における演技じゃない。とはいえ演技ではあろうから、演劇的な語用での演技だと言える(この違いは実際に舞台に立った人間しかわかんめえ)。また、ペットの子犬を抱いて歩くデブマダム(イメージですよ)の目とも違う。彼の動物に対する愛情は、ある瞬間精液を超えているように思える。動物に向かっている欲望は欲動の臭いをさせている。ああ見えて平気で肉喰らうらしいし。動物王国そのものも、それの倒産なんかも(人間的な)社会でうまくやってけない人な感じ丸出しだもんな。
「こうやって自分に危害を加えない相手なのか確かめてるんですよ」
窮鼠猫を噛む、とは言えないけど、少なくとも獣は人間より物自体的なわけで、物自体の作用と反作用を体で知っている発言とも受け取れる。すっげー好意的に解釈すれば。
2ちゃんの悪名高いペット大嫌い板の名無しが「黒いムツゴロウ」を略した「黒ムツさん」になっているのは名無したちの慧眼と言えよう。
自閉症者はこの段階を経てなつくことは普通に可能なんだけど、それを社会的な人間に矯正しようとするところで大きな難関があるんだな、と、ある自閉症児の親御さんのブログを再読しながら思った。
ムツゴロウさん症例で言えば、獣に「ムツゴロウさんになついたんだから他の人間にもなつきなさいよ」と言っているようなもんだ。全くとんちんかんな理屈である。
このトリックに気づけなかったわたしは他の人間にもなつこうとして裏切られまくりましたのでもう人間は信用できません。体が信用しないんだもん。しゃーない。
これが明確なトラウマとして摘出できれば物好きなエセムツゴロウたちに同情はされるんだろうな。
ごめんなさいどうやらわたしの心因(環境因)じゃないみたいです。
「よーしよしよし。思う存分僕のファルスを噛み千切りたまえ」