わたしはうずくまらない。
2008/12/02/Tue
一つはっきりさせたい。
わたしは正常人でいたい。
自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが生きる主観世界なんて生きたくない。
なのに、彼らが自分の主観世界を示したテクストや表現作品に引っかかる。爪で引っかかれるみたいに引っかかってくる。
わたしはハイウェイを走りたい。走っているつもりだ。なのに気がつけば獣道にいる。なのにハイウェイを走っているつもりなので、「スーパーカーで獣道を走っている」状態になる。スーパーカーはぼろぼろになる。辺りの草木も荒らされる。
獣道からハイウェイに戻ると、大概ハイウェイを走る他の車たちの流れと別方向を向いている。そりゃそうだ。ハイウェイを走り続けているから大体同じ方向同じ速度で走れるんであって、横道たる獣道からひょいと戻ってきたら他の車と衝突するに決まっている。
統合失調症者は、発症する以前はハイウェイを走れている。他の正常人たちと、他の多くの車たちと大体同じ方向同じ速度で走っている。しかしなんらかの原因で獣道に入る。いや、獣道すらない森の中に入ることもあろう。結果、森の中をありえないスピードで走ることになる。自分自身のファルスたる車も傷つくし、森自体も傷つく。ある統合失調症者は、森の中でうずくまったりする。このうずくまる過程を、たとえば小説でリアルに表現したのが古井由吉の『杳子』である(一方、村上春樹の統合失調症(と思われる症状)の描写はライトノベルレベルである。ライトノベルはライトノベルでおもしろいが。だからわたしも彼の小説をおもしろいと言うこともある)。
統合失調症者の語らいは、破壊そのものであり、何も生産しない。本人もそれがわかっている故、森の中に、症状の中にうずくまる。
確かにガタリの言うように、破壊という現実を生産しているのかもしれないが、そんなのレトリックにすぎない。言葉は単なる言葉である。従って、破壊は破壊である。
アスペルガー症候群者は、ハイウェイを走ることもあるが、いつもは一般道を走っている。ハイウェイばかり走っていたのに、なんらかの原因で一般道を走ることになったのが、さまざまな神経症の症状であるとしたら、確かにアスペルガー症候群の症状は神経症のそれと表面上は似ているものとなろう。正常人が罹患可能な対人恐怖症やひきこもりやBPDや学習障害と混同されてしまう。ここが実務としての診断の難しいところとなる。
しかし、いつもはどこを走っているか、が問題になるのだ。
アスペルガー症候群者は、われわれの目には一般道を走っているように見える。つまり、心的外傷により一般道しか走れなくなった正常人と同じ症状を示している。
しかし、ここのコメント欄を参照して欲しい。その実体は(少なくともこのコメント者は)、獣道のエキスパートであることがわかるだろう。彼らはいつもは獣道を走っている。それ故実体がわかりにくいだけで、たまたまわれわれの視界に入る一般道における走行、即ち神経症的な症状として表出する、という構造である。
獣道になく一般道にはある利便性は、ハイウェイとの合流に、なんらかの工夫が既に施されている点である。
ハイウェイとは、たとえば、感情論を含めた日常的な会話が代表となるコミュニケーションである。一般道とは、たとえば、パトスを排除するなどという作法により開拓された学問的なコミュニケーションである。
一般道ばかり走っていると、もろもろの日常的な感覚、即ちハイウェイの走行方向、走行速度からずれてしまうこともあろう。インターチェンジを見失うこともあろう。一時期の哲学がそのような症状に陥っていたのは明らかだ。哲学という一般道路網はキルケゴールなどといった神経症者を多数生み出している。そんな閉鎖的なディスクールを日常の感覚に戻そうと、インターチェンジを新たに構築しようとしているのが、たとえば永井均の哲学である。
ところが、獣道で育ったアスペルガー症候群者は、たとえインターチェンジが設置されていようと、ハイウェイの規定を満たす速度で走れない。彼らの車とは呼べない車は獣道を走る目的で作られている。この車とは呼べない獣道専用車が、山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」である。
従って、彼らはハイウェイで事故を起こす。それならまだ学問的な一般道を走った方がマシなのだ。とはいえ一般道においても獣道専用車は速度が遅いため、兎から見た亀のように、そこを走る姿は非常にとろくさいものに見えるだろう。獣道専用車は、周辺を分析しながら進むものであり、移動だけを目的とした正常人の車とは走行性能に大きな差がある。
ほとんどの正常人は、ハイウェイから降りることなく日常を生きていける。時々一般道に降りることもあろう。ハイウェイと一般道しかない主観世界を生きることが、神経症という症状であり、正常という精神疾患の固定観念的な症状なのである。
ハイウェイでエンストしている車もちらほらある。知的障害はあるがファルスに大きな不具合がない「聞き分けのよい学習障害者」あるいは「聞き分けのよい知的障害者」たちである。彼らはそこがハイウェイだとわかっているので、道端に停車する。彼らは獣道に降りることなく、一生をすごす。
また、エンストしていたとしても、なんらかのきっかけで再び他の正常人の車と同じ方向同じ速度で走り出す場合もある。『自閉症の謎を解き明かす』で「自閉症ではない野生児」として論じられているカスパー症例である。
わたしは、自分が今どこを走っているかわからない。ブログのテクストの、表面だけを見れば、一般道を走っているように見られるかもしれない。しかしわたしにとって、そこがハイウェイだろうが一般道だろうが獣道だろうが関係ない。
道路を走るエネルギーは、ファルスによるせき立てである、と(ラカン論ならば)なる。ファルスから放たれる力が道路上の車を走らせている。ここでのテクストなら、ファルスとは車である。車だから走る、というわけだ。確かに走らない車など車ではない。車を持っているからドライブしたくなる。免許を取ったから遠出したくなる。いかにもラカン論的な理屈である。しかし、ここには一つの隠蔽構造がある。車関係なしに存在する、どこかへ行きたい、という気持ち。止まっていたくない、止まっていられない、というエネルギー。車を持っているから、ではなく、肉体という機械そのものの作動。
アルトーによる思考の奔流は、分裂症者による「自己増殖する机」の制作は、ファルスのせき立てによるものだろうか。ファルスによるせき立てという定義には収まらない、流動的で粘着的で浸透的でなおかつ粒子的で衝突的で孤立的な、エネルギーが存在してはいないか。
いや、定義的には簡単な問題だった。
ファルスによるせき立てとは、生の欲動方向に向かわせる力である。分裂症者の「自己増殖する机」を制作するエネルギーは、生の欲動方向でもあれば、死の欲動方向でもある。精神病者の語らいは無方向である。
要するに、ファルスによるせき立てというエネルギーは、生の欲動方向に、ハイウェイや一般道を走るために限定された、制御されたエネルギーである、ということだ。であるならば、方向性を排した、ただそうであるだけの、本質的なエネルギーも存在するはずだ。それが器官なき身体が発するうめき声である。残酷演劇論における裏打ちである。
アルトーの思考の奔流は、うめき声である。松岡正剛などは、そこがわかっていない。彼のテクストは、器官なき身体という概念が劣化していく過程を端的に示している。ハイウェイを走るボンボンが、木々に引っかかれ獣に噛みつかれ血が滲んでいる分裂症者の獣道の彷徨を、親にスーパーカーを買ってもらった言い訳として利用している。松岡のテクストはそういうものである。
わたしのテクストは、糞便である。糞便に、ハイウェイも一般道も獣道も関係ない。獣道にはお似合いか。
いや、わたしは、ハイウェイだろうと一般道だろうと、糞便を垂れ流す。高速で走る正常人という車に激突し、ドライバーの血肉を散乱させる。
そういうものに、わたしはなりたい。
それがわたしにとって、ハイウェイを走るということだから。わたしにとって、正常人でいるということだから。
わたしは、うずくまらない。うずくまれない。
あるサービスエリアで、ドライバーへの啓蒙として、事故写真を展示しているコーナーがあった。こんな悲惨な目に遭いたくないなら交通ルールを守りなさい、ということだ。
事故は、交通ルールの裏打ちとして存在している。残酷演劇は、倫理の裏打ちとして存在している。アブジェ(アブジェクシオン論における棄却されるもの)は、サンボリックの裏打ちとして存在している。
事故が、残酷演劇がそこになければ、交通ルールや倫理はただの言葉遊びにすぎなくなるだろう。アブジェがそこになければ、ホルバインが描いたリアルなキリストの死骸はただのシニフィアンとして消費されていくだろう。
事故や残酷演劇やアブジェは、交通ルールや倫理や芸術の分身である。この分身という語用には本体などない。事故や残酷演劇やアブジェクシオンの分身が、交通ルールや倫理や芸術でもある。
わたしは、たまたま残酷演劇側に生まれ落ちただけである。事故を起こすために生まれてきた存在にすぎない。実際問題運転超下手だし。
車に感情移入しちゃった車フェチには理解できないだろうね。何故わざわざ車を傷つけるような走り方をするのか、みたいな。
自閉症者の多くが向かっている方向とは確かに逆だよなー。
だめだよみんなわたしの真似しちゃ。
うずくまるもあり、歩き続けるもあり。歩き続けること即ち事故を起こすってことだけど。ファルスに不具合のある人は。
わたしはうずくまらないってだけ。
わたしは正常人でいたい。
自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが生きる主観世界なんて生きたくない。
なのに、彼らが自分の主観世界を示したテクストや表現作品に引っかかる。爪で引っかかれるみたいに引っかかってくる。
わたしはハイウェイを走りたい。走っているつもりだ。なのに気がつけば獣道にいる。なのにハイウェイを走っているつもりなので、「スーパーカーで獣道を走っている」状態になる。スーパーカーはぼろぼろになる。辺りの草木も荒らされる。
獣道からハイウェイに戻ると、大概ハイウェイを走る他の車たちの流れと別方向を向いている。そりゃそうだ。ハイウェイを走り続けているから大体同じ方向同じ速度で走れるんであって、横道たる獣道からひょいと戻ってきたら他の車と衝突するに決まっている。
統合失調症者は、発症する以前はハイウェイを走れている。他の正常人たちと、他の多くの車たちと大体同じ方向同じ速度で走っている。しかしなんらかの原因で獣道に入る。いや、獣道すらない森の中に入ることもあろう。結果、森の中をありえないスピードで走ることになる。自分自身のファルスたる車も傷つくし、森自体も傷つく。ある統合失調症者は、森の中でうずくまったりする。このうずくまる過程を、たとえば小説でリアルに表現したのが古井由吉の『杳子』である(一方、村上春樹の統合失調症(と思われる症状)の描写はライトノベルレベルである。ライトノベルはライトノベルでおもしろいが。だからわたしも彼の小説をおもしろいと言うこともある)。
統合失調症者の語らいは、破壊そのものであり、何も生産しない。本人もそれがわかっている故、森の中に、症状の中にうずくまる。
確かにガタリの言うように、破壊という現実を生産しているのかもしれないが、そんなのレトリックにすぎない。言葉は単なる言葉である。従って、破壊は破壊である。
アスペルガー症候群者は、ハイウェイを走ることもあるが、いつもは一般道を走っている。ハイウェイばかり走っていたのに、なんらかの原因で一般道を走ることになったのが、さまざまな神経症の症状であるとしたら、確かにアスペルガー症候群の症状は神経症のそれと表面上は似ているものとなろう。正常人が罹患可能な対人恐怖症やひきこもりやBPDや学習障害と混同されてしまう。ここが実務としての診断の難しいところとなる。
しかし、いつもはどこを走っているか、が問題になるのだ。
アスペルガー症候群者は、われわれの目には一般道を走っているように見える。つまり、心的外傷により一般道しか走れなくなった正常人と同じ症状を示している。
しかし、ここのコメント欄を参照して欲しい。その実体は(少なくともこのコメント者は)、獣道のエキスパートであることがわかるだろう。彼らはいつもは獣道を走っている。それ故実体がわかりにくいだけで、たまたまわれわれの視界に入る一般道における走行、即ち神経症的な症状として表出する、という構造である。
獣道になく一般道にはある利便性は、ハイウェイとの合流に、なんらかの工夫が既に施されている点である。
ハイウェイとは、たとえば、感情論を含めた日常的な会話が代表となるコミュニケーションである。一般道とは、たとえば、パトスを排除するなどという作法により開拓された学問的なコミュニケーションである。
一般道ばかり走っていると、もろもろの日常的な感覚、即ちハイウェイの走行方向、走行速度からずれてしまうこともあろう。インターチェンジを見失うこともあろう。一時期の哲学がそのような症状に陥っていたのは明らかだ。哲学という一般道路網はキルケゴールなどといった神経症者を多数生み出している。そんな閉鎖的なディスクールを日常の感覚に戻そうと、インターチェンジを新たに構築しようとしているのが、たとえば永井均の哲学である。
ところが、獣道で育ったアスペルガー症候群者は、たとえインターチェンジが設置されていようと、ハイウェイの規定を満たす速度で走れない。彼らの車とは呼べない車は獣道を走る目的で作られている。この車とは呼べない獣道専用車が、山岸氏が提唱する「擬似的なSAM」である。
従って、彼らはハイウェイで事故を起こす。それならまだ学問的な一般道を走った方がマシなのだ。とはいえ一般道においても獣道専用車は速度が遅いため、兎から見た亀のように、そこを走る姿は非常にとろくさいものに見えるだろう。獣道専用車は、周辺を分析しながら進むものであり、移動だけを目的とした正常人の車とは走行性能に大きな差がある。
ほとんどの正常人は、ハイウェイから降りることなく日常を生きていける。時々一般道に降りることもあろう。ハイウェイと一般道しかない主観世界を生きることが、神経症という症状であり、正常という精神疾患の固定観念的な症状なのである。
ハイウェイでエンストしている車もちらほらある。知的障害はあるがファルスに大きな不具合がない「聞き分けのよい学習障害者」あるいは「聞き分けのよい知的障害者」たちである。彼らはそこがハイウェイだとわかっているので、道端に停車する。彼らは獣道に降りることなく、一生をすごす。
また、エンストしていたとしても、なんらかのきっかけで再び他の正常人の車と同じ方向同じ速度で走り出す場合もある。『自閉症の謎を解き明かす』で「自閉症ではない野生児」として論じられているカスパー症例である。
わたしは、自分が今どこを走っているかわからない。ブログのテクストの、表面だけを見れば、一般道を走っているように見られるかもしれない。しかしわたしにとって、そこがハイウェイだろうが一般道だろうが獣道だろうが関係ない。
道路を走るエネルギーは、ファルスによるせき立てである、と(ラカン論ならば)なる。ファルスから放たれる力が道路上の車を走らせている。ここでのテクストなら、ファルスとは車である。車だから走る、というわけだ。確かに走らない車など車ではない。車を持っているからドライブしたくなる。免許を取ったから遠出したくなる。いかにもラカン論的な理屈である。しかし、ここには一つの隠蔽構造がある。車関係なしに存在する、どこかへ行きたい、という気持ち。止まっていたくない、止まっていられない、というエネルギー。車を持っているから、ではなく、肉体という機械そのものの作動。
アルトーによる思考の奔流は、分裂症者による「自己増殖する机」の制作は、ファルスのせき立てによるものだろうか。ファルスによるせき立てという定義には収まらない、流動的で粘着的で浸透的でなおかつ粒子的で衝突的で孤立的な、エネルギーが存在してはいないか。
いや、定義的には簡単な問題だった。
ファルスによるせき立てとは、生の欲動方向に向かわせる力である。分裂症者の「自己増殖する机」を制作するエネルギーは、生の欲動方向でもあれば、死の欲動方向でもある。精神病者の語らいは無方向である。
要するに、ファルスによるせき立てというエネルギーは、生の欲動方向に、ハイウェイや一般道を走るために限定された、制御されたエネルギーである、ということだ。であるならば、方向性を排した、ただそうであるだけの、本質的なエネルギーも存在するはずだ。それが器官なき身体が発するうめき声である。残酷演劇論における裏打ちである。
アルトーの思考の奔流は、うめき声である。松岡正剛などは、そこがわかっていない。彼のテクストは、器官なき身体という概念が劣化していく過程を端的に示している。ハイウェイを走るボンボンが、木々に引っかかれ獣に噛みつかれ血が滲んでいる分裂症者の獣道の彷徨を、親にスーパーカーを買ってもらった言い訳として利用している。松岡のテクストはそういうものである。
わたしのテクストは、糞便である。糞便に、ハイウェイも一般道も獣道も関係ない。獣道にはお似合いか。
いや、わたしは、ハイウェイだろうと一般道だろうと、糞便を垂れ流す。高速で走る正常人という車に激突し、ドライバーの血肉を散乱させる。
そういうものに、わたしはなりたい。
それがわたしにとって、ハイウェイを走るということだから。わたしにとって、正常人でいるということだから。
わたしは、うずくまらない。うずくまれない。
あるサービスエリアで、ドライバーへの啓蒙として、事故写真を展示しているコーナーがあった。こんな悲惨な目に遭いたくないなら交通ルールを守りなさい、ということだ。
事故は、交通ルールの裏打ちとして存在している。残酷演劇は、倫理の裏打ちとして存在している。アブジェ(アブジェクシオン論における棄却されるもの)は、サンボリックの裏打ちとして存在している。
事故が、残酷演劇がそこになければ、交通ルールや倫理はただの言葉遊びにすぎなくなるだろう。アブジェがそこになければ、ホルバインが描いたリアルなキリストの死骸はただのシニフィアンとして消費されていくだろう。
事故や残酷演劇やアブジェは、交通ルールや倫理や芸術の分身である。この分身という語用には本体などない。事故や残酷演劇やアブジェクシオンの分身が、交通ルールや倫理や芸術でもある。
わたしは、たまたま残酷演劇側に生まれ落ちただけである。事故を起こすために生まれてきた存在にすぎない。実際問題運転超下手だし。
車に感情移入しちゃった車フェチには理解できないだろうね。何故わざわざ車を傷つけるような走り方をするのか、みたいな。
自閉症者の多くが向かっている方向とは確かに逆だよなー。
だめだよみんなわたしの真似しちゃ。
うずくまるもあり、歩き続けるもあり。歩き続けること即ち事故を起こすってことだけど。ファルスに不具合のある人は。
わたしはうずくまらないってだけ。