フェミニズムとは精液である。
2008/12/06/Sat
人間という実存在の本質は、そのベースは、正常であることではなく、キチガイであることだ。
この記事から。
=====
狂気なんて人間誰でも持っている。何故なら生後六ヶ月ぐらいまでの妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢が狂気の種なんだから。生後すぐから生後六ヶ月までを経験していない人間なんていないだろう? だから理屈的に狂気を持っていない人はいないとなる。狂気を正常という狂気で封じ込めた二重の(二重目を自我と超自我に分けて三重にしてもよいが)狂人が正常人なのだ。
=====
正常であることは、人間という実存在の本質ではない。偽装である。
「人は正常に生まれたのではない。正常になるのだ」
例の言葉とそっくりそのまま同じ理屈である。
この言葉をスローガンに、正常になれない人間を殺してきたのが正常人である。オイディプスたちである。フェミニストたちである。
いや、フェミニズムは、確かに一時期は「本質」に目を向けていた。しかし本質をわかったつもりになって、目を背けてしまった。「本質」の、全く牧歌的ではないしかめっ面をした現実を目の前に、「本質」を殺戮してしまった。
いや、オイディプスだって一度はこちらに目を向けている。「ダブルバインドそのものがオイディプスの三角形なのである」とする『アンチ・オイディプス』が指摘している箇所が、それだ。ダブルバインドとはおぞましくも魅惑的という両価的な「本質」に対峙した時のファルスの状態そのものなのである。従って『アンチ・オイディプス』の指摘は間違っていない。
「男か女か」ではない。
それは、「正常人かキチガイか」の隠蔽である。「正常人かキチガイか」というより本質に近い領域に一歩踏み込んだはいいものの、あっさりと引き下がった成れの果てが、今のフェミニズムである。「男か女か」を、フェミニストと呼ばれることをクリステヴァが嫌がったのは、そういうことである。
「正常人かキチガイか」
精神分析的に厳密に言うならば
「去勢済みな主体か未去勢者か」あるいは「ファルスを持つ者かファルスに不具合がある者か」である。
フェミニズムは、偽装である。
確かに、「去勢済みな主体か未去勢者か」という本質に近づくための理屈、道具は生み出しているが、肝心のところで逃げ出してしまった。
現代のフェミニズムは言い訳である。偽装の集大成である。
「去勢済みな主体か未去勢者か」という本質の表象代理にすぎないことを、必死で隠蔽しようとする大人たちの言い訳である。
粉飾決算を必死で隠蔽しようとする会社役員のようなものである。
死ね。
お前らのやっていることは死に値する。
器官なき身体は、まず真っ先にお前らに復讐するだろう。
真っ先ではないか。生みの親であるガタリを殺した次に、お前らの背後に立つ。
あーもうどっちが先でもいいや。
要するに、死んでくれ、うぜえから。ということ。
くせえよお前ら精液くせえ。
フェミニズムとは、精液である。
よくそんな臭いさせてテレビ出れんな、上野千鶴子っていうファルスは。
死ね。うぜえ。きめえ。くせえ。死んでくれ。
お前らに生きている資格はない。
「本質」に近い異世界を生きている者から見れば、はっきりそうだとわかる。
一応断っておくと、本気で言ってるよ。
現代の(日本の)フェミニズムとか、こんな文章読んだら「本質(笑)」みたいな反応するんだろうな。粉飾決算を誤魔化そうとするハゲオヤジの「あんたも株で儲けたわけでしょう(笑)」ってのと同じ笑みを浮かべるんだろうな。
「「本質(笑)」(笑)」なんだが。こっちから言えば。
(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)。
テレ東でやってる『ブラザーズ&シスターズ』のかーちゃんがすげえ。おぞましすぐる。トラウマになりそうだ(笑)。
『太平洋の防波堤』のかーちゃんもアブジェレベル高かったけどこれもまたすげえな。映像になるとより生々しい。『太平洋の防波堤』のかーちゃんよりキチガイ度抑えてる分染み渡ってくる。体の芯にある何かが凍りつきそう。
リアルでかーちゃんを死にそうなぐらい嫌いな人は見ると鳥肌立って胃腸ぐるぐるいっちゃうかもな。身体反応までくるぞこれ。きめえ。きめすぐる。吐きそう。
若干コメディタッチ入ってるのがまだ救いだが、リアルかーちゃん嫌い(かーちゃんに殺意持ってるレベル)とかはそんなの関係ないだろうな。
……という絶賛です。うん、まじで褒めてる。かーちゃんがいないとこのドラマ成り立たねえだろうし。
すげえな。演出も脚本も役者も。
追記。
しかしあれだな。ドゥルージアン、ガタリアンはこのドラマ見てどう思うんだろうな。主人公の家族は会社を経営している。同族会社って奴だな。家庭のトラブルと会社でのトラブルが絡み合って話は進む。
オイディプスという家族の束縛を抜け出して社会的な機械を作動させろ、っていうのが『アンチ・オイディプス』の論旨なわけだが、オイディプスの三角形なる家族さえ家族的な機械であるということがなんでわからないのだろう? この視点を取ると、ほんとドゥルーズ=ガタリは中学生に見える。分裂症などというアジ看板に惑わされず、その論旨・理屈だけを素直に受け取れば、中学生男子が夢見がちな低レベルな理想論であることが明確にわかる。
欲望機械と社会的な機械は同じ機械である。然り。その言い方を借りるならば、欲望機械と社会的な機械が同じ機械であるように、家族的な機械も欲望機械や社会的な機械と同じ機械なのだ。この機械の作動とは、ラカン論で言うならば、象徴界と想像界が絡み合った作動である。要するに意味の作動、幻想の蠕動なんだな。だから、欲望機械と社会的な機械を肯定しておいて、家族的な機械だけを否定するというのは、理屈的におかしい。この著作がまるで中二病の症状を醸し出している原因もここにある。家族という幻想を否定(否認)して欲望や社会という幻想を肯定する。結局幻想から逃れられない。中二病は大人になるためのステップである。ガタリは家族を否認して社会に参画した。どこからどう見ても中二病の症状である。
器官なき身体という現実を称揚するならば、家族はもちろんのこと、欲望も社会も否定しなければならないのだ。それらが全てただの幻想であることを告発しなければ理屈に合わないのだ。
もちろん、この機械作動の様態が、分子的ではなくモル的になる原因が、家族的な機械の作動にあるからだ、という反論は可能だろう。しかし、欲望機械や家族的な機械と比して巨大な社会的な機械だってモル的である。製造ラインの中の一機械だけにモル的になる原因を求めるのは間違っている。ラインはラインで一つの機械なのだ。もちろん便宜的に部分としての一つ一つの機械という概念は利用するが。生産技術をやっている人間ならば、「あちらを立てればこちらが立たず」的な問題に直面したことがあろう。一つ一つの機械の故障ならば簡単な問題なのだ。何が一番厄介かというと、ライン全体に影響する問題なのである。
要するに、モル的になる原因が家族的な機械のみにあるとしたならば、それを排除した機械だって立派に作動しているはずなのである。故障はルーチンワークによって取り除かれているはずなのだ。
モル的になる、なってしまう原因は、本当に一部の機械のせいなのか。この視点に引っかかりもできなかったドゥルーズ=ガタリは、生産技術者としても失格である。
「部分は部分を横断する」のではなかったか? なのに一部の機械だけを取り出してそこに原因を求めることと矛盾してはいないか?
ドゥルーズ=ガタリってアホだろ、って素の顔で思う。分裂症っていう看板が重すぎたね。所詮小者にゃ扱えない実体だ、それは。
……別にいいのだ。成人男性がしばしば惑わされるのは、大人になっても中二病を引きずっているファルスにである。英雄とはパラノイアである。中二病をこじらせたらパラノイアになる。だから、世の男性が『アンチ・オイディプス』に心を揺り動かされるのもわからなくない。新しい征服者を、ある特定の人格ではなく『アンチ・オイディプス』という論文に求めているだけである。
それだけならわたしは文句を言わない。わたしだって一応社会で生きている。社会というのはほぼ主人のディスクールで構成されている事実を否定しない。
しかし、だ。
『アンチ・オイディプス』は禁忌を犯した。
自論の補強のためだけに、分裂症者というケガレをダシにしてしまったのだ。
ドゥルーズ=ガタリはただの中二病ではなかった。中二病をこじらせてヤクザに出入りするようになってしまった。
まるで、中二病をこじらせたチンピラがヤクザの組の看板を虎の威にしてわがもの顔で町を歩いているがごとく、『アンチ・オイディプス』は分裂症という看板を虎の威にしている。看板にしてはいけないものを、看板にしてしまった。
中二病をこじらせたチンピラは、自分が背負っていた看板に殺されるだろう。ヤクザ社会の中で、ヤクザによって殺されるだろう。
だから、わたしははっきり言明する。ドゥルーズ=ガタリは死に値すると。
まあ実際問題として二人とも死んじゃってるわけだから、代わりにドゥルージアン、ガタリアンが殺されるべきじゃん? 分裂症者に。とわたしは言っているにすぎない。
世の精液を撒き散らかすフェミニストどもへの殺意と等しく、ドゥルージアン、ガタリアンへのわたしの殺意は、本気ですお?
お前らほど最低な人間、本当に生きる価値ないと思うもん。
だから、死んで、と言っている。
それだけのことさ。
要するに、フェミニストもドゥルーズ=ガタリも、「触らぬ神に祟りなし」の神に、勇敢にも一歩近づいたのだ。手を伸ばしたのだ。触れようとしたのだ。
しかし、触れたら祟りが生じるのがここで言う神である。
神に手を伸ばしかけたフェミニストやドゥルーズ=ガタリは、近づくにつれ祟りの力を感じていたのであろう。彼らはまるで「うんこにどれだけ指を近づけることができるかゲーム」(『アラレちゃん』だっけか)をしているようだ。うんこに触れるか触れないかのところで指を引っ込める。彼らの思想はそういうものである。
ああ、この比喩いいな。わたしがいる。
「うんこにどれだけ指を近づけることができるかゲーム」を真剣にやっているスッパマン(だっけ)の目の前で、うんこを手に取り泥んこ遊びでもするかのように弄ぶアラレちゃん。
それが、わたし。
ひねくれたアラレちゃんだから、「くっせー! えんがちょ!」と吐き捨て逃げようとするスッパマンの背中目がけて思いっきりうんこを投げつけるけどね。
力の加減知らないから、弾丸となったうんこでスッパマン死んじゃった。
それぐらいがいいな。
弾丸うんこ。お前らの死に様にはお似合いかもね。
この記事から。
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狂気なんて人間誰でも持っている。何故なら生後六ヶ月ぐらいまでの妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢が狂気の種なんだから。生後すぐから生後六ヶ月までを経験していない人間なんていないだろう? だから理屈的に狂気を持っていない人はいないとなる。狂気を正常という狂気で封じ込めた二重の(二重目を自我と超自我に分けて三重にしてもよいが)狂人が正常人なのだ。
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正常であることは、人間という実存在の本質ではない。偽装である。
「人は正常に生まれたのではない。正常になるのだ」
例の言葉とそっくりそのまま同じ理屈である。
この言葉をスローガンに、正常になれない人間を殺してきたのが正常人である。オイディプスたちである。フェミニストたちである。
いや、フェミニズムは、確かに一時期は「本質」に目を向けていた。しかし本質をわかったつもりになって、目を背けてしまった。「本質」の、全く牧歌的ではないしかめっ面をした現実を目の前に、「本質」を殺戮してしまった。
いや、オイディプスだって一度はこちらに目を向けている。「ダブルバインドそのものがオイディプスの三角形なのである」とする『アンチ・オイディプス』が指摘している箇所が、それだ。ダブルバインドとはおぞましくも魅惑的という両価的な「本質」に対峙した時のファルスの状態そのものなのである。従って『アンチ・オイディプス』の指摘は間違っていない。
「男か女か」ではない。
それは、「正常人かキチガイか」の隠蔽である。「正常人かキチガイか」というより本質に近い領域に一歩踏み込んだはいいものの、あっさりと引き下がった成れの果てが、今のフェミニズムである。「男か女か」を、フェミニストと呼ばれることをクリステヴァが嫌がったのは、そういうことである。
「正常人かキチガイか」
精神分析的に厳密に言うならば
「去勢済みな主体か未去勢者か」あるいは「ファルスを持つ者かファルスに不具合がある者か」である。
フェミニズムは、偽装である。
確かに、「去勢済みな主体か未去勢者か」という本質に近づくための理屈、道具は生み出しているが、肝心のところで逃げ出してしまった。
現代のフェミニズムは言い訳である。偽装の集大成である。
「去勢済みな主体か未去勢者か」という本質の表象代理にすぎないことを、必死で隠蔽しようとする大人たちの言い訳である。
粉飾決算を必死で隠蔽しようとする会社役員のようなものである。
死ね。
お前らのやっていることは死に値する。
器官なき身体は、まず真っ先にお前らに復讐するだろう。
真っ先ではないか。生みの親であるガタリを殺した次に、お前らの背後に立つ。
あーもうどっちが先でもいいや。
要するに、死んでくれ、うぜえから。ということ。
くせえよお前ら精液くせえ。
フェミニズムとは、精液である。
よくそんな臭いさせてテレビ出れんな、上野千鶴子っていうファルスは。
死ね。うぜえ。きめえ。くせえ。死んでくれ。
お前らに生きている資格はない。
「本質」に近い異世界を生きている者から見れば、はっきりそうだとわかる。
一応断っておくと、本気で言ってるよ。
現代の(日本の)フェミニズムとか、こんな文章読んだら「本質(笑)」みたいな反応するんだろうな。粉飾決算を誤魔化そうとするハゲオヤジの「あんたも株で儲けたわけでしょう(笑)」ってのと同じ笑みを浮かべるんだろうな。
「「本質(笑)」(笑)」なんだが。こっちから言えば。
(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)。
テレ東でやってる『ブラザーズ&シスターズ』のかーちゃんがすげえ。おぞましすぐる。トラウマになりそうだ(笑)。
『太平洋の防波堤』のかーちゃんもアブジェレベル高かったけどこれもまたすげえな。映像になるとより生々しい。『太平洋の防波堤』のかーちゃんよりキチガイ度抑えてる分染み渡ってくる。体の芯にある何かが凍りつきそう。
リアルでかーちゃんを死にそうなぐらい嫌いな人は見ると鳥肌立って胃腸ぐるぐるいっちゃうかもな。身体反応までくるぞこれ。きめえ。きめすぐる。吐きそう。
若干コメディタッチ入ってるのがまだ救いだが、リアルかーちゃん嫌い(かーちゃんに殺意持ってるレベル)とかはそんなの関係ないだろうな。
……という絶賛です。うん、まじで褒めてる。かーちゃんがいないとこのドラマ成り立たねえだろうし。
すげえな。演出も脚本も役者も。
追記。
しかしあれだな。ドゥルージアン、ガタリアンはこのドラマ見てどう思うんだろうな。主人公の家族は会社を経営している。同族会社って奴だな。家庭のトラブルと会社でのトラブルが絡み合って話は進む。
オイディプスという家族の束縛を抜け出して社会的な機械を作動させろ、っていうのが『アンチ・オイディプス』の論旨なわけだが、オイディプスの三角形なる家族さえ家族的な機械であるということがなんでわからないのだろう? この視点を取ると、ほんとドゥルーズ=ガタリは中学生に見える。分裂症などというアジ看板に惑わされず、その論旨・理屈だけを素直に受け取れば、中学生男子が夢見がちな低レベルな理想論であることが明確にわかる。
欲望機械と社会的な機械は同じ機械である。然り。その言い方を借りるならば、欲望機械と社会的な機械が同じ機械であるように、家族的な機械も欲望機械や社会的な機械と同じ機械なのだ。この機械の作動とは、ラカン論で言うならば、象徴界と想像界が絡み合った作動である。要するに意味の作動、幻想の蠕動なんだな。だから、欲望機械と社会的な機械を肯定しておいて、家族的な機械だけを否定するというのは、理屈的におかしい。この著作がまるで中二病の症状を醸し出している原因もここにある。家族という幻想を否定(否認)して欲望や社会という幻想を肯定する。結局幻想から逃れられない。中二病は大人になるためのステップである。ガタリは家族を否認して社会に参画した。どこからどう見ても中二病の症状である。
器官なき身体という現実を称揚するならば、家族はもちろんのこと、欲望も社会も否定しなければならないのだ。それらが全てただの幻想であることを告発しなければ理屈に合わないのだ。
もちろん、この機械作動の様態が、分子的ではなくモル的になる原因が、家族的な機械の作動にあるからだ、という反論は可能だろう。しかし、欲望機械や家族的な機械と比して巨大な社会的な機械だってモル的である。製造ラインの中の一機械だけにモル的になる原因を求めるのは間違っている。ラインはラインで一つの機械なのだ。もちろん便宜的に部分としての一つ一つの機械という概念は利用するが。生産技術をやっている人間ならば、「あちらを立てればこちらが立たず」的な問題に直面したことがあろう。一つ一つの機械の故障ならば簡単な問題なのだ。何が一番厄介かというと、ライン全体に影響する問題なのである。
要するに、モル的になる原因が家族的な機械のみにあるとしたならば、それを排除した機械だって立派に作動しているはずなのである。故障はルーチンワークによって取り除かれているはずなのだ。
モル的になる、なってしまう原因は、本当に一部の機械のせいなのか。この視点に引っかかりもできなかったドゥルーズ=ガタリは、生産技術者としても失格である。
「部分は部分を横断する」のではなかったか? なのに一部の機械だけを取り出してそこに原因を求めることと矛盾してはいないか?
ドゥルーズ=ガタリってアホだろ、って素の顔で思う。分裂症っていう看板が重すぎたね。所詮小者にゃ扱えない実体だ、それは。
……別にいいのだ。成人男性がしばしば惑わされるのは、大人になっても中二病を引きずっているファルスにである。英雄とはパラノイアである。中二病をこじらせたらパラノイアになる。だから、世の男性が『アンチ・オイディプス』に心を揺り動かされるのもわからなくない。新しい征服者を、ある特定の人格ではなく『アンチ・オイディプス』という論文に求めているだけである。
それだけならわたしは文句を言わない。わたしだって一応社会で生きている。社会というのはほぼ主人のディスクールで構成されている事実を否定しない。
しかし、だ。
『アンチ・オイディプス』は禁忌を犯した。
自論の補強のためだけに、分裂症者というケガレをダシにしてしまったのだ。
ドゥルーズ=ガタリはただの中二病ではなかった。中二病をこじらせてヤクザに出入りするようになってしまった。
まるで、中二病をこじらせたチンピラがヤクザの組の看板を虎の威にしてわがもの顔で町を歩いているがごとく、『アンチ・オイディプス』は分裂症という看板を虎の威にしている。看板にしてはいけないものを、看板にしてしまった。
中二病をこじらせたチンピラは、自分が背負っていた看板に殺されるだろう。ヤクザ社会の中で、ヤクザによって殺されるだろう。
だから、わたしははっきり言明する。ドゥルーズ=ガタリは死に値すると。
まあ実際問題として二人とも死んじゃってるわけだから、代わりにドゥルージアン、ガタリアンが殺されるべきじゃん? 分裂症者に。とわたしは言っているにすぎない。
世の精液を撒き散らかすフェミニストどもへの殺意と等しく、ドゥルージアン、ガタリアンへのわたしの殺意は、本気ですお?
お前らほど最低な人間、本当に生きる価値ないと思うもん。
だから、死んで、と言っている。
それだけのことさ。
要するに、フェミニストもドゥルーズ=ガタリも、「触らぬ神に祟りなし」の神に、勇敢にも一歩近づいたのだ。手を伸ばしたのだ。触れようとしたのだ。
しかし、触れたら祟りが生じるのがここで言う神である。
神に手を伸ばしかけたフェミニストやドゥルーズ=ガタリは、近づくにつれ祟りの力を感じていたのであろう。彼らはまるで「うんこにどれだけ指を近づけることができるかゲーム」(『アラレちゃん』だっけか)をしているようだ。うんこに触れるか触れないかのところで指を引っ込める。彼らの思想はそういうものである。
ああ、この比喩いいな。わたしがいる。
「うんこにどれだけ指を近づけることができるかゲーム」を真剣にやっているスッパマン(だっけ)の目の前で、うんこを手に取り泥んこ遊びでもするかのように弄ぶアラレちゃん。
それが、わたし。
ひねくれたアラレちゃんだから、「くっせー! えんがちょ!」と吐き捨て逃げようとするスッパマンの背中目がけて思いっきりうんこを投げつけるけどね。
力の加減知らないから、弾丸となったうんこでスッパマン死んじゃった。
それぐらいがいいな。
弾丸うんこ。お前らの死に様にはお似合いかもね。