宛先がないから届く(と思い込める)。
2008/12/09/Tue
「全てのエクリチュールは汚らしい」
キチガイのエクリチュールは、象徴界でもあるが想像界でもあり、象徴界でもなければ想像界でもない。
当然そんなものエクリチュールとしての機能を果たさない。
いや果たしている。
「文字は神と交信するために発明された」とする脳内お花畑学者の言う通りである。彼らのお花畑理論を採用するならば、エクリチュールの本質的な機能を果たしていると言える。いや、正常人が忘れてしまったエクリチュールの本質的な機能を取り戻そうとしている、とさえ言える。
キチガイのエクリチュールは、
……イヤだ。
キチガイじゃないお花畑学者を妄信してしまったら、わたしは真性キチガイになるだろう。汚らしくておぞましくて象徴的でも想像的でもなく象徴的でも想像的でもあり意味が濃縮されていて意味など皆無なエクリチュール。ただそうであるだけのエクリチュールを、身体という機械が糞便を生産するのと同じように垂れ流し続けるだろう。
もちろん垂れ流さない時もある。人間常時排便しているわけではないのと同じように。
それは糞便であり部分対象であり、既にエクリチュールではない。溶けた対象aだ。乾いた糞便をわざわざ小便で湿らせたものだ。
……違う。
文字は人間と交信するためのものだ。
そう思わなければ、わたしは正気を保てない。
わたしのエクリチュールを神になんて渡してやるものか。
父の名に取り上げられてなるものか。
エクリチュールの再生と、それの妨害。
妨害するためのエクリチュールが、正常人のエクリチュールだ。
シニフィアンス。
それは神でも父の名でもない。
むしろ積み木に近い。
赤ん坊が生まれて初めて弄ぶ玩具。
積み木じゃなくていい。生まれたばかりのハムスターでもいい。
赤ん坊が生まれて初めて殺した玩具。
フロイトは、赤ん坊の頃殺した生まれたばかりのハムスターを怖れていた。常に、既に。その恐怖が原父殺害神話を彼に語らせた。
父親と一緒に海釣りに出かけた。子供のわたしは小さな釣竿で小さな熱帯魚を釣り上げた。
うれしかった。
ぞくぞくした。
保存したかった。
冷凍庫で凍らせた。
数年後、中学生になったわたしは、冷凍庫の奥でそれを発見する。
食べられないと言われたから冷凍保存したのに。
赤と黄色と黒のまだら模様で、なんだかエロいな、と中学生のわたしは思った。
そのままビニールでくるんで(溶けて臭わないように)、ゴミ箱に捨てた。
わたしが捨てたのは、フロイトにとっての原父だ。
正常人にとって、原父は殺害されている。原父の殺害そのものを失っているのが、キチガイだ。
キチガイは、未だかつて誰も殺していないのだ。
当然ここでの「殺す」とは正常人の幻想としての「殺す」である。現実的に誰かを殺しても、正常人が言うような意味での「殺す」ではない。だからあるキチガイは、殺すことを「壊す」と表現する。
わたしは熱帯魚を冷凍保存したのであって、「殺し」ていない。
わたしはおたまじゃくしを解剖したのであって、「殺し」ていない。
正常人だってそうじゃないか。
何故お前たちは「殺す」という幻想から抜け出せないのだ?
原父殺害を殺害してしまったキチガイが排泄するエクリチュールは、宛先のない手紙だ。
誰かと交信するためのエクリチュールではない。誰かと交信するためというルールから漏れたエクリチュールだ。
違うったら!
わたしのエクリチュールには確かに宛先がないかもしれない。でも誰にも届かなくていいってわけじゃない。
わたしはそれを祈りと呼んでいる。
わたしのエクリチュールは祈りだ。
わたしという異世界は、誰の異世界とも一致しない。
異文化コミュニケーションなど成立しない。成立したという思い込みがあるだけだ。わたしはそう思い込めないだけだ。
だから、むしろ宛先がない方が、誰かに届くと思える。
手紙に宛先などないからこそ、届くと思い込める。
わたしが正常であるために、海に手紙の詰まった瓶を投棄し続ける。
もしかしたら、凍死した熱帯魚が読むかもしれないから。
わたしの手紙を読みたければ、死にたまえ。
わたしの手紙を読むために、死んでください。
キチガイのエクリチュールは、象徴界でもあるが想像界でもあり、象徴界でもなければ想像界でもない。
当然そんなものエクリチュールとしての機能を果たさない。
いや果たしている。
「文字は神と交信するために発明された」とする脳内お花畑学者の言う通りである。彼らのお花畑理論を採用するならば、エクリチュールの本質的な機能を果たしていると言える。いや、正常人が忘れてしまったエクリチュールの本質的な機能を取り戻そうとしている、とさえ言える。
キチガイのエクリチュールは、
……イヤだ。
キチガイじゃないお花畑学者を妄信してしまったら、わたしは真性キチガイになるだろう。汚らしくておぞましくて象徴的でも想像的でもなく象徴的でも想像的でもあり意味が濃縮されていて意味など皆無なエクリチュール。ただそうであるだけのエクリチュールを、身体という機械が糞便を生産するのと同じように垂れ流し続けるだろう。
もちろん垂れ流さない時もある。人間常時排便しているわけではないのと同じように。
それは糞便であり部分対象であり、既にエクリチュールではない。溶けた対象aだ。乾いた糞便をわざわざ小便で湿らせたものだ。
……違う。
文字は人間と交信するためのものだ。
そう思わなければ、わたしは正気を保てない。
わたしのエクリチュールを神になんて渡してやるものか。
父の名に取り上げられてなるものか。
エクリチュールの再生と、それの妨害。
妨害するためのエクリチュールが、正常人のエクリチュールだ。
シニフィアンス。
それは神でも父の名でもない。
むしろ積み木に近い。
赤ん坊が生まれて初めて弄ぶ玩具。
積み木じゃなくていい。生まれたばかりのハムスターでもいい。
赤ん坊が生まれて初めて殺した玩具。
フロイトは、赤ん坊の頃殺した生まれたばかりのハムスターを怖れていた。常に、既に。その恐怖が原父殺害神話を彼に語らせた。
父親と一緒に海釣りに出かけた。子供のわたしは小さな釣竿で小さな熱帯魚を釣り上げた。
うれしかった。
ぞくぞくした。
保存したかった。
冷凍庫で凍らせた。
数年後、中学生になったわたしは、冷凍庫の奥でそれを発見する。
食べられないと言われたから冷凍保存したのに。
赤と黄色と黒のまだら模様で、なんだかエロいな、と中学生のわたしは思った。
そのままビニールでくるんで(溶けて臭わないように)、ゴミ箱に捨てた。
わたしが捨てたのは、フロイトにとっての原父だ。
正常人にとって、原父は殺害されている。原父の殺害そのものを失っているのが、キチガイだ。
キチガイは、未だかつて誰も殺していないのだ。
当然ここでの「殺す」とは正常人の幻想としての「殺す」である。現実的に誰かを殺しても、正常人が言うような意味での「殺す」ではない。だからあるキチガイは、殺すことを「壊す」と表現する。
わたしは熱帯魚を冷凍保存したのであって、「殺し」ていない。
わたしはおたまじゃくしを解剖したのであって、「殺し」ていない。
正常人だってそうじゃないか。
何故お前たちは「殺す」という幻想から抜け出せないのだ?
原父殺害を殺害してしまったキチガイが排泄するエクリチュールは、宛先のない手紙だ。
誰かと交信するためのエクリチュールではない。誰かと交信するためというルールから漏れたエクリチュールだ。
違うったら!
わたしのエクリチュールには確かに宛先がないかもしれない。でも誰にも届かなくていいってわけじゃない。
わたしはそれを祈りと呼んでいる。
わたしのエクリチュールは祈りだ。
わたしという異世界は、誰の異世界とも一致しない。
異文化コミュニケーションなど成立しない。成立したという思い込みがあるだけだ。わたしはそう思い込めないだけだ。
だから、むしろ宛先がない方が、誰かに届くと思える。
手紙に宛先などないからこそ、届くと思い込める。
わたしが正常であるために、海に手紙の詰まった瓶を投棄し続ける。
もしかしたら、凍死した熱帯魚が読むかもしれないから。
わたしの手紙を読みたければ、死にたまえ。
わたしの手紙を読むために、死んでください。