あがり症(笑)
2008/12/10/Wed
今(18:21)TBSであがり症うんたらってのやってるんだが要は対人恐怖症だよな。
人の視線が怖いんだと。
つか
人の視線が怖いくせになんでテレビ出れるんだ?
モザイクかけてくれるって言ったから?
それなら想像的な身体転換だな。あなたはヒステリーです。
なんだ、神経症じゃん。今さら取り上げる話か?
あー……、まあポスト・フェストゥム的な、つまり本来のスキゾイド型じゃない自己愛型ひきこもり的な対人障害じゃなくて、ヒステリーっていうアンテ・フェストゥムっぽい対人障害だから目新しい感じがするのかな?
よーわからん。
他のところでは人の視線が怖いのに大丈夫な人の視線もある。症状が出る視線と出ない視線に明確な基準がある。
脳内で他人の視線を「よい視線か悪い視線か」って既に分別できている証拠だよな。
ハイウェイでもスピード違反はある。最高速度だけではなく、最低速度が定められている。
要するにそういうこったな。
「よい視線か悪い視線か」を分別(分析)しながら進むのとは違う。彼ら彼女らは、テレビ局の人間の視線が自分を恐怖させる視線なのかどうか迷っていたのだろうか。迷っていないなら、こいつらの快楽原則は正常だ。ファルスは正常に機能している。瞬時に分別できなくなれば、彼らの対人恐怖症は悪化するだろう。たとえば親しい人間の視線にさえ症状が出てしまうだろう。分裂症の症状に近づいていくだろう。
神経症の症状を悪化させるのがわたしの提唱する逆精神分析である。正統な精神分析治療が前過程として持っている一時的なデプレッションへの過程である。
一方分裂分析は、社会にしか適用しないことを提唱者のガタリ自身が宣言している。そんなもの分裂症のフリにしかならない。この構図からも、ガタリが分裂症者のささやかな領土を略奪するオイディプス王であることが確認できる。
最近患者が急増してるんだとよ。
そういえば自律神経失調症なんかも診断名が広まるにつれ患者が急増しましたよね(笑)。
お前らなんのコントやってんだよ。
神経症者って砂糖菓子に群がる蟻みたいだわ。
「性格じゃなくて病気だって言われた方が安心できます」
こうやって本当のキチガイが殺戮されていく。ノマドたちの一時的な定住地が略奪されていく。精神科医がゴッホを殺したように。ガタリがアルトーを殺したように。
ほれー、精神分析やってるみなさん、こういうのがお前らの餌だよ。ヒステリー者のディスクールがS2を生産してくれるんだぜ? 学問として豊かにしてくれるわけだ。
まー精神分析理論を学問とか社会とか国家とか象徴界的なものにしか適用できないバカが多い事実もあるのは知ってるけどねー。
神経症者同士だからお互いの傷に触れられないのだろうね。
あほらし。
追記。
あー大勢の人前に立つことで対人恐怖症が発症するってのは現代演劇にとっては道具として使える症例になるかもね。
昔はしらんが、少なくとも現代の演劇は観客が主人になっている事実。
観客という主人が喜んでくれるようなものを差し出すしかできない奴隷。
古代ギリシャ演劇とかとはちょっと違う構図があるように思うんだけどな。あれって祭儀っしょ。祭儀は司祭が主人だ。圧倒的なスケールで観客を圧倒する、表現者側が主人だ。
シェークスピアあたりから逆転が起こりつつあったんじゃね? となんとなく思う。思っただけ。
今の演劇のほとんどは、オーディションだ。表現者は観客という人事担当に面接を受けている。
いや、オペラなんかは今でも圧倒的だけどね。遠くの客席からだと映画と変わらないかもしれないけど。前衛も違う。要はエンタメ的な演劇。ジョビジョバとかシモキタの居酒屋で「俺たちは小劇場界のSMAPになる!」って喚いてたらしいからな。彼らにとって演劇とはオーディションだったのだ。
それが悪いとは言わないよ。ジョビジョバそれほど売れてねえし。ごろつきはごろつきなんだよ。どっかのパンフかなんかで「ジョビジョバはインテリヤクザだ」って書いてたけど、ヤクザはヤクザなんだよね。最終的に。
あ、ひさぶりにジャンプ亭行きたくなった。
クリステヴァ的に言うなら、キチガイが醸し出すプレコックス感のごとき、おぞましくも魅惑的なアブジェの「恐怖の権力」を乗り越えてしまったのが現代人、ってことかな。
キチガイという棄却されたものの権力と、正常人という棄却する権力の、闘争。
森の中で息をひそめる野犬たちと、森をどんどん開拓してくる農村の、闘争。
正常人が圧倒的優位に立っている、というわけだな。
前衛演劇は、ビル街の路地裏で道行く人間に襲いかかろうと機会を窺っている狂犬の一吠えだ。
おめでとー! 野良犬駆除まであと一歩です。
キチガイ撲滅は、文明の使命なのです。
正常であることの、業なのです。
神経症は、キチガイを殺すことでしか癒されないのです。
人の視線が怖いんだと。
つか
人の視線が怖いくせになんでテレビ出れるんだ?
モザイクかけてくれるって言ったから?
それなら想像的な身体転換だな。あなたはヒステリーです。
なんだ、神経症じゃん。今さら取り上げる話か?
あー……、まあポスト・フェストゥム的な、つまり本来のスキゾイド型じゃない自己愛型ひきこもり的な対人障害じゃなくて、ヒステリーっていうアンテ・フェストゥムっぽい対人障害だから目新しい感じがするのかな?
よーわからん。
他のところでは人の視線が怖いのに大丈夫な人の視線もある。症状が出る視線と出ない視線に明確な基準がある。
脳内で他人の視線を「よい視線か悪い視線か」って既に分別できている証拠だよな。
ハイウェイでもスピード違反はある。最高速度だけではなく、最低速度が定められている。
要するにそういうこったな。
「よい視線か悪い視線か」を分別(分析)しながら進むのとは違う。彼ら彼女らは、テレビ局の人間の視線が自分を恐怖させる視線なのかどうか迷っていたのだろうか。迷っていないなら、こいつらの快楽原則は正常だ。ファルスは正常に機能している。瞬時に分別できなくなれば、彼らの対人恐怖症は悪化するだろう。たとえば親しい人間の視線にさえ症状が出てしまうだろう。分裂症の症状に近づいていくだろう。
神経症の症状を悪化させるのがわたしの提唱する逆精神分析である。正統な精神分析治療が前過程として持っている一時的なデプレッションへの過程である。
一方分裂分析は、社会にしか適用しないことを提唱者のガタリ自身が宣言している。そんなもの分裂症のフリにしかならない。この構図からも、ガタリが分裂症者のささやかな領土を略奪するオイディプス王であることが確認できる。
最近患者が急増してるんだとよ。
そういえば自律神経失調症なんかも診断名が広まるにつれ患者が急増しましたよね(笑)。
お前らなんのコントやってんだよ。
神経症者って砂糖菓子に群がる蟻みたいだわ。
「性格じゃなくて病気だって言われた方が安心できます」
こうやって本当のキチガイが殺戮されていく。ノマドたちの一時的な定住地が略奪されていく。精神科医がゴッホを殺したように。ガタリがアルトーを殺したように。
ほれー、精神分析やってるみなさん、こういうのがお前らの餌だよ。ヒステリー者のディスクールがS2を生産してくれるんだぜ? 学問として豊かにしてくれるわけだ。
まー精神分析理論を学問とか社会とか国家とか象徴界的なものにしか適用できないバカが多い事実もあるのは知ってるけどねー。
神経症者同士だからお互いの傷に触れられないのだろうね。
あほらし。
追記。
あー大勢の人前に立つことで対人恐怖症が発症するってのは現代演劇にとっては道具として使える症例になるかもね。
昔はしらんが、少なくとも現代の演劇は観客が主人になっている事実。
観客という主人が喜んでくれるようなものを差し出すしかできない奴隷。
古代ギリシャ演劇とかとはちょっと違う構図があるように思うんだけどな。あれって祭儀っしょ。祭儀は司祭が主人だ。圧倒的なスケールで観客を圧倒する、表現者側が主人だ。
シェークスピアあたりから逆転が起こりつつあったんじゃね? となんとなく思う。思っただけ。
今の演劇のほとんどは、オーディションだ。表現者は観客という人事担当に面接を受けている。
いや、オペラなんかは今でも圧倒的だけどね。遠くの客席からだと映画と変わらないかもしれないけど。前衛も違う。要はエンタメ的な演劇。ジョビジョバとかシモキタの居酒屋で「俺たちは小劇場界のSMAPになる!」って喚いてたらしいからな。彼らにとって演劇とはオーディションだったのだ。
それが悪いとは言わないよ。ジョビジョバそれほど売れてねえし。ごろつきはごろつきなんだよ。どっかのパンフかなんかで「ジョビジョバはインテリヤクザだ」って書いてたけど、ヤクザはヤクザなんだよね。最終的に。
あ、ひさぶりにジャンプ亭行きたくなった。
クリステヴァ的に言うなら、キチガイが醸し出すプレコックス感のごとき、おぞましくも魅惑的なアブジェの「恐怖の権力」を乗り越えてしまったのが現代人、ってことかな。
キチガイという棄却されたものの権力と、正常人という棄却する権力の、闘争。
森の中で息をひそめる野犬たちと、森をどんどん開拓してくる農村の、闘争。
正常人が圧倒的優位に立っている、というわけだな。
前衛演劇は、ビル街の路地裏で道行く人間に襲いかかろうと機会を窺っている狂犬の一吠えだ。
おめでとー! 野良犬駆除まであと一歩です。
キチガイ撲滅は、文明の使命なのです。
正常であることの、業なのです。
神経症は、キチガイを殺すことでしか癒されないのです。