2008/12/13/Sat
違うブログ記事を書いていて、すごくいやなことを思い出した。
いやなことではないけど、痛い(イタイ)思い出。
自分で自分をイタイと思う。
概要だけ。
議論というか、さまざまなことで語り合う(と言ってもぎすぎすした語り合いだが)のが好きだ。それがもっともひどかったのは大学生の頃だ。
そういう時、議論の参加者がグループに分かれる場合がある。つまり、わたしの論に味方する人間も出てくる。
そのわたしと同じ側にいる人間が、議論の流れ的にわたしの論敵になっているある相手に反論する。
わたしはそれは違う、と言う。
今の議題においてはわたしの論敵になっているが、今君が話しているような視点で言えば、論敵の言っていることの方が正しい、と言う。
議論の流れを維持したいわたしの味方は、それとこれとは違う、と言う。確かに今批判した内容に君の論も当てはまるかもしれないけれど、君の論と彼(論敵)の論は別物である、と。
どう違うのだ? とわたしは問う。
こうやって議論はぐだぐだになっていく。
うん、仲間割れを率先してやるタイプだったんだな。仲間割れをしたいのではなく、わたしにとっての真なるものを確かめたいだけなんだけど。
もちろん、わたしの味方になってくれた人が、わたしの論を擁護してくれていることには感謝している。なのに、確かめたいという衝動を抑えきれない。
味方になってくれた人が、いやな思いをしているだろうということはわたしでも推察できる。それどころか、議論に参加している人たち全員が、議論を混乱させたとしてわたしを疎んじている空気も理解できる。
なのに、確かめたいという体の中の虫がぞわぞわと蠢いてしまう。
どう違うのだ? と問うても、虫は死んでくれない。
ごくたまに、納得できる答えを得られることもある。その時は一時的に虫は死んだフリをしてくれる。
でも、死んだフリなのだ。
その直後であったりしばらくしてからであったりするが、虫は冬眠から覚め、わたしの皮膚の真下を這いずり回る。
そいつらの姿は見たことがない。だけど外骨格であるのはわかる。だからわたしは便宜的に虫と表現している。これは隠喩などではない。
痛い。痛くはない。くすぐったい。くすぐったくない。ぞわぞわしている、という表現が一番しっくりくる。
わたしの意見を肯定されると、芋づるでこの虫の感触が思い出される。思い出さない時もある。思い出すか思い出さないかはその時による。出現条件がどういうものかもわからない。小さい頃から勘のよさだけは褒められていたのに、こいつの出現条件だけは本当にわからない。
今でも、別にわたしはブログ記事を書いていただけで、議論で意見を肯定されたわけではないのに、議論でこういうことをしていたな、という思い出が芋づるとなって、あの感触が浮上してきた。
いや、むしろこの虫自体が芋づるであるような気がする。芋は議論でこういうことをしていたな、という思い出だ。
お前だ。
お前のせいだ。
お前がわたしを苦しめている。お前がそういうつもりがあるかないかなんて関係ない。わたしはこの原因がお前だと思っているから、そう言う。
お前のせいだ。
だから、死んで。
わたしが苦しいから。
せめて読まないで。
こんなブログ読まないで。
あなたが実際に読んでいるかどうかなんて関係ない。読んでいるとしたら、と思うだけでわたしは苦しいのだ。
わたしを見ないで。
存在しないで。
あなたは、欠如していなくてはならない。
私もどちらかと言えば、自分にとって何が真理なのかが気になる方です。
それが、どちら側に立つのか、自分の属するチームが気になる人には分かってもらえない。と言うか、永遠に相容れない、平行線なのだと感じます。
私を擁護しているようだけど、その意見は私のとは違う気がする。と思うと、つい口に出てしまうことがあります。感情みたいな危うく不確かで気まぐれなものよりかは、自分にとっての真理、理屈づけが欲しいから、理屈が通ってるどうかが、より気になってしまいます。
そんなだから、感情移入して自分サイドについてくれる人より、違う意見をぶつけてくる人に好感を抱いてしまうことがあるんです。
2008-12-13 土 16:18:11 /URL /ミリ /
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人間関係と真なるものとを天秤にかけた場合、「ほぼ必ず」人間関係を選択するのが正常という精神疾患です。
これは、神経症者(=正常人)にとって真理は常に隠蔽されている(シニフィアン連鎖の隙間に落ちている)、とするラカン論とも合致することです。
こういったことをしていると、ほぼ必ず「負けず嫌いだ」とか「身勝手だ」とか言われます。
こういった言動の根拠が、真なるものを確かめたいからであるという発想が、正常人にはまず浮かびません。
それは、彼らにとって、真なるものとは隠蔽されているもの、という前提があるからです。また、周りの人間も全てそういう前提でいる、という洗脳にかかっているわけです。
この洗脳あるいは精神疾患と呼ぶべき症状は、パラノイアの妄想と同じ構造をしています。ラカン論の「人格とはパラノイアである」というテーマを実体としてわたしは感じています。
従って、わたしの言動について、そういう風な解釈しかできないのではないか、とわたしは思います。
要するに、「負けず嫌い」で「身勝手」なのは、パラノイアックな妄想を押しつけてくるそいつら自身なわけです。
2008-12-13 土 18:17:21 /
URL /脂 /
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KYにも二種類ある。
本当に「負けず嫌い」なパラノイアの症状を根拠にしたものと、「身勝手」に真なるものを確かめたいという衝動を根拠にしたものと。
正常人が解釈すると、ほぼ前者でしか解釈できない。後者の可能性が全く見えていない。
精神疾患以外の何物でもないと思います。
そしてそういう人が大多数であることも。
ものすごい伝染病です。
2008-12-13 土 18:23:18 /
URL /脂 /
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こんにちはー、いつもブログ読んでますよー(^△^)
ところで、2冊目、発売しましたー。
売れるかなあー売れるといいなあー。
2008-12-13 土 18:23:44 /URL /飲茶 /
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>飲茶
空気嫁w
なんつーかすげえシリアスなドラマの仕事やってたら突然『どうでしょう』メンバーに乱入された大泉洋みたいな気分だ。
2008-12-13 土 18:25:17 /
URL /脂 /
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>空気嫁w
あ、そうでした、ごめんなさい。
URL忘れちゃいましたね(^^;
2008-12-13 土 18:34:43 /
URL /飲茶 /
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私はどうも、人間関係に固執する感覚がよく掴めません。。。
川の流れみたいに常に不安定で変化するものだと言うのに、なぜ必要以上にしがみつこうとするのか分からない。。。
そもそも、人間関係に固執することと、意見を合わせる、合わせないでグループ分かれすることにどんな関係があるのか、と言う時点で私は右往左往してしまうのですが。。。
うまく言えないけど、人間関係を核とするより、真理ありきの人間関係の方が私にとっては随分と分かりやすいような気がするんです。
ところで、こんなシリアスな場面の乱入??ですか?ちょっとおもしろかったです。笑いが漏れてしまいました。
2008-12-14 日 02:02:24 /URL /ミリ /
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余計な茶々が入ったので隠蔽がてら答えます。
グループ分けについては、わたしは道具として考えるならば、ありだと思うのです。
というのは、たとえば自分は今なんでいらいらしているんだろう? みたいな時、その原因を探ろうとしますよね。
それと同じ機制で、今この集団で問題となっているものの原因はなんだろう? と考える時、さまざまな意見対立をモデリングするという意味合いで、グループ化は有効です。
要するに、数学でいう定理みたいなもの。証明作業の短絡化ではあるけれど、利便化の道具として有効、という(飲茶の本の宣伝ではありません)。
こういった時、わたしの頭の中では、周りの人たちは、敵味方関わらず、チェスのコマのようなものになります。要するに議論に参加している人間を人間として見ていないところがあるのです。人間も機械の部品の一つである、という視点。
こういった視点が、たとえば会社の中では有効になります。問題点の整理なり、課題の解決へのアウトラインの構築なり、そのようなものを示すことができます。
問題点やそれに纏わる構造のモデリングという作業において、重要になっているのは、何が論争のテーマになっているか、何において意見の対立が生じているか、なわけで、論争や意見の対立がなければ、逆にモデルは構築できません。
とはいえ、こういったモデリングと、それによる人間の集団という機械の作動結果は、現実と合致しません。
人間の集団という機械は、部品の一つ一つが、自分という部品の前後工程を、ひいては機械全体の作動を、検知しフィードバックする機能を持っている、みたいに考えるべきです。たとえば時計のごときただの歯車の総体と比較すると、多少の補正が必要となる、というわけです。当時はこれを「寄らば大樹の陰理論」などと勝手に呼んでいました。『アンチ・オイディプス』で言うところのモル的様態って奴ですね。要するに、ここのコメント欄で
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-216.html
最後に触れた「集団性なるもの」という奴です。
一方、機械設計をやっているとわかるのですが、実際の機械の部品一つ一つってほんと言うことを聞きません。
機械のご機嫌伺いが仕事である生産技術的な視点で言うと、むしろ、機械の部品一つ一つより、集団という機械の部品である人間の方が聞き分けがよいのです。
よく、社会に対し従順することを「社会の歯車になる」みたいな言い方をしますが、わたしから言えば、実際の歯車の方が機械全体というものに対し反抗的です。
他人から正常だと言われることが、既に、フィードバック機能を持った、高度な技術を施された、歯車なのです。
機械全体に反抗する原始的な歯車か、内部にフィードバック機能を有する高度な歯車か、ということです。
フィードバック機能に不具合のある(と思われる)あなたやわたしは、どちらかと言うと原始的な歯車だと言えるのではないでしょうか。
逆に、機械全体の作動を検知しフィードバックする機能が仇となって、機械全体の作動を阻害することもあります。フィードバック機能は立派に機能しているにも関わらず、どの箇所を検知するかによって情報は変化します。あるいは基準値(ヌルポイントみたいなもの)の設定により数値は変わります。フィードバックされた情報が混乱してしまうわけですね。
それがいわゆる去勢の否認、即ち中二病というものだと考えます。大人が中二病を嫌うのは、(たとえば社会などという)機械全体の作動の円滑化に必要なフィードバック情報が混乱するから、というわけです。
これは、フィードバックする機能に不具合がある故社会に反抗的になるのとは別物である、とわたしは思います。
わたしの方こそが(原始的という意味で)本当の歯車である、と言いたいくらいです。
>川の流れみたいに常に不安定で変化するものだと言うのに
極端に言うと、安定していて変化しないものなのです、いわゆる大人である彼らにしてみれば。むしろそれが真理となっている。
ここで言う人間関係は、ラカンの鏡像段階を根拠にしています。要するに他人を見て自分を省みる、という奴です。現象学的な言い方ならば、他我と自我の(ネットワーク的な)関係こそが、いわゆる「気遣い」こそが、正常人にとっての真理なのです。
鏡像段階で生成するのはファルスです。ファルスは神経症者にとっての真理(ラカン用語で言うならΦ(ファルス)=S1(真理みたいなもの)って奴)です。
人間関係とは「川の流れみたいに常に不安定で変化するもの」である、というのは、あなたの主観における認知であり、他の多くの人は違う、というだけの話です。世のドラマもそういうテーマが多くありませんか? 「愛は永遠だ」みたいなテーマ。
作動全体を見渡せるフィードバック機能を持っていない歯車から見れば、自分の回転が速い状態もあれば遅い状態もある、自分が潤滑に作動している状態もあれば軋んでいる状態もある、だから機械の作動は不安定で変化するものである、という認知になるわけです。
一方、フィードバック機能を持つ他の多くの人は、自分という部品の前後工程ひいては全体の作動を検知でき、それを真理と見做しているため、むしろ自分という歯車の状態が見えなくなっている、というわけです。彼らは自分が持っているフィードバック機能を自覚できないのです。それが神経症(ラカン論においては正常人という意味と等しい)という症状です。
要するに、他人を人間として見なければ、つまり人間関係なるものをフィードバック機能という機械的なものとして考えて世の中を見渡せば、(あなたの場合は)わかりやすくなるんじゃないか、という話です。
むしろあなたが苦しんでいるのは、周りの人間が無意識的にできているような、他人を人間として見ることが、うまくできないから生じているのではないでしょうか。
他人を人間として見ようという努力は(社会で生きていくのに)必要でしょうけれど、辛い時は他人をモノとして見ても別にいいんじゃない? 本当の、原始的な歯車ならば。という話です。
他人を人間として見ろ、という権力の強大さ(クリステヴァはこれを「想像的父即ちアガペーである」と表現しています)は、原始的な歯車であるわたしにとっては、どうしようもない事実です。この権力に従順し、原始的な歯車である自分を殺すことが、精神分析用語で言う去勢です。
わたしは、他人をモルモットのように見ていることがあります。たとえばここで
http://kusawwwww.blog118.fc2.com/blog-entry-122.html
報告されている症例のように。カナエが報告者にシャンプー浣腸をするのは、理科の実験のような感覚だったろうと、なんとなく思います。
劇団で嫌われていた原因はここにあるのかな、と。しかしその視点が、会社という組織の中では逆に重宝される場合もあります。その場合でも、人間関係においては嫌われることが多いですが。
まあこんなえらそうなこと言っといて、わたしも苦しんじゃうんですけどね。
特にこのような形態のディスクールでは、あなたという相談者はわたしという解答者になんらかの人格を求めがちです。わたしは自分勝手なマゾヒスムであなたの苦痛を解釈し自分の苦痛に当てはめているだけなのですが、わたしを治療者のように見られるのは、ごめんこうむります。
2008-12-14 日 06:53:48 /
URL /脂 /
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それのどこが負けず嫌いで身勝手に見えるんだろ。
じゃあ、イメージ的なものだけど分析って面では同じような事をして人間関係より事実を優先させがちな私も負けず嫌いで身勝手って思われちゃうのかな。
要は、定型村の惨めな万年不景気のど田舎土人の青年団の珍妙な掟(笑)に従った陳腐な言葉と思考様式以外は全て負けず嫌いで身勝手なのかな。
あいにく私はそんな田舎者でも土人でもないから永遠に負けず嫌いで身勝手で結構ですね。
あの習癖を濃縮すれば100年前の朝鮮みたいになっちゃうもん。
2008-12-14 日 16:33:29 /URL /きつねミク /
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「身勝手」という言葉をどう捉えるかによりますが、集団性とは即ち社会性であり、それの不全であることは事実なので、「身勝手」と言われる筋合いは個人的にあると思いますよ。
「負けず嫌い」はともかく。
2008-12-14 日 23:17:19 /
URL /脂 /
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脂氏のいう「負けず嫌い」/「身勝手」は、
世間に対する態度を周囲の人間が勝手に解釈しているだけであって。
「負けず嫌い」という性質を持つ者の行動と、
脂氏の行動が一見良く似ているというだけのことで。
例えば「告白」の主人公熊太郎は
農村に住んでおりながら思弁的な性格で村で浮いているおり、
めんどくさいから浮いている理由を説明しないのだけれども、
「身勝手」な「あほぼけかす」と評価されている。
この「身勝手さ」と脂氏が言う「身勝手さ」とは似ているんじゃないかと思う。
どー考えているかは別として、
他人様は表面的な行動でしか評価しない(できない)から
しょうがねーと思って黙っているんだけれども。
黙ってると「すごいおとなしい人」って思われてるんだなぁ。
それで狂ったように部屋を掃除していると
「何するかわかんない」とか思われる。
めんどくさいなぁと思う。
2008-12-17 水 12:49:14 /URL /● /
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人が表面的なものしか認知できないのは絶対的にどうにもならないことだと思います。オカルト的神秘的思考に走らない限り。
でも、オカルト的神秘的思考に片足突っ込んでるのかもしれないけれど、代わりに芸術関連の思想を拝借して、表面的には同じものとして認知されるものでもどこか違う、となる根拠について、わたしは思考しています。
同じ表面的なものでも、「それとこれとは別だ」という感じの原因になる、「裏打ち」とも呼べるような存在について、わたしは考えたい。
知り合いのアスペルガー症候群者は、メンヘル板における「本物のメンヘル」の見分け方の根拠を、「長年お風呂に入ってない臭いみたいなもの」と表現していました。
この「裏打ち」や「臭い」を否定してしまうならば、表面的なものの認知だけになってしまい、この例ならば多数決的にわたしは「負けず嫌い」で「身勝手」だということになるでしょう。
まあ、「しょうがねー」ことなんですけどね……。
2008-12-17 水 18:25:43 /
URL /脂 /
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本物かどうかっていうのでなんとなく分かった!
あくまでなんとなくですが。
ギーガーとベクシンスキーの違いみたいなものなんかなぁと思いました。
http://www.hrgigermuseum.com/
http://www.gnosis.art.pl/iluminatornia/sztuka_o_inspiracji/zdzislaw_beksinski/zdzislaw_beksinski.htm
ギーガーの絵は、幼虫、胎児、多足類、内臓、ぎとぎと、ぬらぬら、等の一般的に人が「気持ち悪い」と感じるモチーフを記号としてちりばめてあって、
恣意的だなあ、ポップだなぁと感じてしまうのですが。
ベクシンスキーの絵のモチーフはごくごく当たり前のもの、木、地平線、椅子などが、ちゃんと椅子に見えるのに気持ち悪いのはなんでだよ。
よく見ると埃っぽいところにいろいろモチーフ使ってるみたいでよくわかんないんですけれどもね。
少なくともポップではないと思う。
境界例っぽい人のブログを読み漁っていたことが一時期あったのですが、
結局、リスカして、身体改造して、親兄弟を罵って、会社(あるいは学校)と馬が合わない、というようなことを、時折自分を責めながら記述している。
(表出と言うべきか)
大体その組み合わせかバリエーションだなぁと思ったのを思い出しました。
臭いたつ系も慣れると似たような臭いを感じるかもしれないです。
書いていて思ったのですが、
前者は臭いという概念が存在していないのでは。
澁澤龍彦が愛読書の女子高生が「血のにおい」「薔薇のにおい」って書くと、
たちまち臭いが消えうせるような感じ。
後者は臭いに対して無自覚。
雨の中散歩して帰ってきた飼い犬にべろべろなめられる感じ。
どっちにしろうぜぇ
けど全然違いましたね。糞ッ
2008-12-18 木 14:05:39 /URL /● /
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誰の絵かは忘れたのですが、精神病を患ってる画家の作品で、ぱっと見普通の集落の絵なのですが、(キチガイの絵だと)言われてみるとなんか居心地の悪さを感じる絵、というのを紹介されたことがあります。
その時わたしが指摘したことを述べてみます。
(普通に考えて)絵の主題となる集落の人たちが普通に描かれていて、手前に雑草が画面を横切るような形で描かれていました。
この場合、手前の雑草は描かないか描いてもピントがぼやけたように描くかあるいは簡略化させるか、と普通はなる(そう認知してしまう)と思います。しかしその絵は、手前の雑草も後ろの集落も同じピントで描かれている。手前の雑草も後ろの集落も同じ存在感を醸し出している。そこが居心地の悪さになっているんじゃないか。
いわば、キャンバスに対象を閉じ込める能力、まさしく統合性が失調されていることが端的に示されている、とわたしは感じました。
有名どころではルイス・ウェインの猫の絵も挙げられますね。
http://www.schizophrenia.org/artist.html
後半の過度に幾何学模様化された猫の絵などは、猫の毛先などといった、正常人はその認知における統合能力により無意識的に棄却してしまうミクロな部分に意識が囚われてしまっているから、などという評論めいた表現も可能ではないでしょうか。
確かに、正常人は傾向的に似たようなイメージを不快に思います。即ち快楽原則です。何故それが不快になるかというと、自らの統合性により棄却されたものを連想させるからです。即ちケガレだからです。
大体多くの正常人が傾向的に棄却するところをギーガーは描いている、と言えるでしょう。
しかしこれは逆に言えば、他の人間たちが傾向的に棄却するものを認知できているという意味で、彼の統合性が如実に発揮されている点だと言えます。つまり、ギーガーの作品群は逆説的に正常人らしさの根拠となる統合性をアッピールできている、と。
ベクシンスキーの場合は……ちょっとわからないですね。少なくともアウトサイダーアートとは言えないと思います。アートとして評価されるべきものです。
かと言って、正常な統合性をアッピールしているわけでもない。
大雑把な言い方なら境界例っぽい、という感じでしょうか。
動物などは、人間よりこの統合性は、ないとは言えませんが、弱いと言えるでしょう。仏教では「動物にも仏性はある。しかし動物はそれを自ら認知できない」などと言われていることにも関連してくるかもしれません。
統合性から棄却されたもの、はみ出したもの、それをわたしは「裏打ち」や「臭い」と言っているのかもしれません。
2008-12-18 木 17:58:16 /
URL /脂 /
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あ、チャットでぽろっと言った言葉の方が当てはまりそうです。
「固いマゾヒスム/柔らかいマゾヒスム」
モチーフはギーガーもぐちょぐちょしたものを描いてるから柔らかいって言えるかもしれないけど、他人事なんだ、それが。ぐちょぐちょを描いてもマゾヒスムになっていない。
自分が柔らかくぐちょぐちょになるのが柔らかいマゾヒスム。
ベクシンスキーの方が描いてる本人がぐちょぐちょになってそう。
そういうことかなー?
2008-12-18 木 18:47:07 /
URL /脂 /
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>(普通に考えて)絵の主題となる集落の人たちが普通に描かれていて、手前に雑草が画面を横切るような形で描かれていました。
この場合、手前の雑草は描かないか描いてもピントがぼやけたように描くかあるいは簡略化させるか、と普通はなる(そう認知してしまう)と思います。しかしその絵は、手前の雑草も後ろの集落も同じピントで描かれている。手前の雑草も後ろの集落も同じ存在感を醸し出している。そこが居心地の悪さになっているんじゃないか。
いわば、キャンバスに対象を閉じ込める能力、まさしく統合性が失調されていることが端的に示されている、とわたしは感じました。
私は何年かモノクロプリントをやっていたのですが、そのときもらったプリントのコメントを思い出しました。
「距離感が普通の人より極端に近いか極端に遠いかのどちらかしかない(物理的な距離感ではありません)。
なぜなら普通なら切り取って修正してぼかす部分まであなたは焼きこむからだ。
それは見ているものになんともいえない落ち着きのなさを感じさせると同時にそのことが色々な感情を思い起こさせる」
上記のコメントを読んで、なぜそのようなコメントをもらったのか納得しました。
2008-12-19 金 00:00:25 /URL /さかい /
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ぐちょぐちょ。
ってことは、泥?
粒子が細かいんじゃないかと。
ギーガーはビー球くらい。
幼虫というひとまとまりで捉えている?
似たような色のビー玉を集めて、バーナーで溶かしてくっつけてる感じ。
ベクシンスキーとかルイスの絵は、
細かいところに捕らわれているって表現されるように、
砂絵みたいに粒子が細かい感じがする。
全然違う色の砂が入っていてもちょっとくらいならわかんないし。
違う色の砂の量が多いとなんか統合性がいまいちになってくるということかしら。
粒子がビー球くらいだと。
例えば、
ぬらぬらの質感でほっぺただけがロココ調という絵は描けない気がします。
でもそういう絵を描く人もいるのかしら。
パロディーみたいな感じになるのかしら。
おっぱいだけがロココ調なら見たことある気がするけれども。
あっ。
なんか違う。
それだとピントの件はよく分からないや。
しつこくてすみません。
しかも表題から内容ずれてしまっているし。
2008-12-19 金 02:29:34 /URL /● /
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>さかいさん
そのコメント者は(アウトサイダーアートとは言わない)アール・ブリュについてのセンスがあると推測できます。
>●さん
細かい粒子の集合体ほど摩擦即ち粘度が生じます。粘土とは砂より細かい粒子の集合体です。
空気にも粘度はあるのですが、まあわかりやすく湿気のあるなしと考えてみましょう。湿気がなければ(乾燥したものを砕けば)粘土もただの細かい粒子となる、と。
あなたの「泥」と「砂」の違い、という表現を敷衍するならば、ベクシンスキーには湿気が足りない、となりますね。理屈的に。
ベクシンスキーの絵について、わたしは抑鬱的な印象を持っています。正確に言えば、彼の作品はわたしの抑鬱的な部分を刺激する、と。
あなたが言おうとしている湿気のない「砂」という感じは、わたしの抑鬱的な印象に関連しているのかもしれませんね。
わたしは抑鬱症者がどうしても生理的にだめなせいか、ベクシンスキーの絵も、嫌いじゃないのですが、妙に食指が動きません。
静的すぎる、というか。本来動的なものを描きたがっているのに静的になってしまっているような。
松井冬子の絵もそうですね。彼女の描く血は静的で、氏賀Y太や田亀源五郎の描く動的な血とは明らかに違う、とここで書きました。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-190.html
「静的なグロ/動的なグロ」という二項対立を恣意的に適用するならば、松井冬子とベクシンスキーは前者に当てはまると思います。
ああうん、抑鬱と湿気のなさ、なんか自分勝手にピンときますね。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-304.html
……ああ、これは独り言みたいなものです。
2008-12-19 金 07:37:50 /
URL /脂 /
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あと、わたしは絵画というジャンルそのものに食指が動かないというか、コンプレックスみたいなものかもしれませんが、要するに疎いので、そのような人の話だと思ってください。
2008-12-19 金 07:55:26 /
URL /脂 /
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はっはーん。
わかったかも?かも?
もしかしてダリも抑圧症的じゃないですか。
砂っぽいというか、かっぴかぴのパンとか。
やっぱわかんないかも?
そうそう。わたし昔、土木やってたやってた。
摩擦係数とか。コンシステンシー限界とか。
不真面目だったからあんま覚えてないけど。
ちょっと笑った。
長々ありがとーございました。
2008-12-19 金 12:38:56 /URL /● /
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