『ブラザーズ&シスターズ』――「家族主義……? ああ、ゴキブリホイホイね」
2008/12/16/Tue
『ブラザーズ&シスターズ』を見ている。
多分、数年前のわたしなら「うっわ母親きめえ、だがそれがいい」って感じで後は惰性で見る程度だったんだろうな。
何がひっかかっているかというと、『アンチ・オイディプス』関連で。
この記事でも書いたが、家族をテーマにした物語である。しかし、家族で同族会社を経営していたり、次男がゲイだったり、主人公が保守派の論客であり母親がリベラルで常に意見が対立していたり、と家族と政治や社会が絡み合って話が進む。
んで、いまいちピンとこないのが、主人公がする政治談議で、保守主義と家族主義が同じものとして語られているところなんだな。
先の記事でも書いたことだが、家族的なるものも機械であり、社会的な機械や欲望機械と同じ機械だとわたしは思う。つまり、家族なるものと社会なるものってそんなにはっきりと区別して認知していないんだな、わたしは。
恐らくこの感覚の差異は、西洋文化と日本文化の違いが大きな原因としてあるように思う。日本文化においては家族的な機械と社会的な機械の区別は曖昧なんじゃなかろうか。
あ、いや、まあ西洋の家族中心主義っていう実体がよくわかんねーから『アンチ・オイディプス』の論旨って中二病くせーなー、つってるだけなんだよねー、という自虐めいた話さ。
わたしが西洋で育ってたら、その文化において保守的なものとなった家族中心主義にうんざりして『アンチ・オイディプス』論に「うんうん、そーだよ、そーなんだよ」って同意しちゃうかもしんないよなー、ってこと。
まーなってみないとわからんけど、もうなれないからどうでもいいや。
つかそう考えると『アンチ・オイディプス』って日本人にはピンとこねえ書物だってことになるんだけど、そこそこウケてるのは中二病魂が揺さぶられるから、とかなんだろうか。よくわかんね。
仮に、日本文化は伝統的に家族的な機械と社会的な機械の区別が曖昧である、という要件を採用したなら、日本文化において保守的であることが西洋文化においては革新(リベラル?)になるってことでわーおもしろーいってそんなにおもしろくないな、当たり前のことやん。
まーいーや。
「わたしが西洋で育ってたら」ってとこで友近の通販コントが連想されて自分の発想の貧困さが愛おしくなった。
ドラマとしての評価は高い。高いけどシーズン2まで見る気は起きないなあ、今んとこ。母親のおぞましさがだんだんコメディ化されてってるのがなんかなあ。第7話時点で既に。リンクしたAXNのサイトのキャラクター説明でも「チャーミングな母親」とか書かれてるしな。そういう方向に進むんだろう。
『太平洋の防波堤』みたいなのはさすがに大衆ドラマじゃ無理か。批判じゃなくてそういうもんかってだけ。
前記事のコメントでふと気づいた。
赤ん坊を冷凍保存したり解剖したりするのが許される世界だったら、わたしも子供を産むのはやぶさかでもなかったろうな、と。
子供たちは現実界に近い世界を生きている。それがわたしにとって不快で魅惑的だ。あるキチガイの言動が不快で魅惑的なのと同じように。
わたしは子供が怖い。子供が気持ち悪い。だから強い興味を覚える。だから冷凍保存したり解剖したくなる。わたしにとって子供とは「悪い乳房」のようなものである。
この冷凍保存や解剖したいという気持ちは、世の母親、少なくともこのドラマの母親も持っているだろう。しかし彼女らの場合、現実界的な「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは、(想像的かつ象徴的という意味で)幻想的なたとえば「いつまでも子供でいて欲しい。子供のことはなんでもわかっていたい」という気持ちになっている。つまり、隠蔽劣化されている。本質的な「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは抑圧されている。
わたしの「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは、印象的にSMチックでグロテスクで倒錯的なものだ。このようなイメージが、正常な世界で容認されるのは大体性的な場に限られる。
従って、精神分析が「母子関係は非常に性的なものである」とするのは間違っていない。そうであることを、その実体を、わたしは今気づいた。精神分析のその言葉は実体を完全に表しておらず(そもそも現実界はシンボルやイメージで完全に表されるものではない)、多少の語弊が生じるだろうし、実際巷で垂れ流されている講釈は誤解に塗れたものが多いが、わたしの(一般的な正常人たちより)現実界に近い主観世界において、実体を確認できた。これをフロイトはそう表現したのだな、という感覚。
……という子供を持ったことのない人間の戯言である。
しかし、今回のケースでは、わたしはあるキチガイについて多少の感情移入が生じている。転移している。従って、解剖したとしても、最後まで耐えられるかわからない。わたしは射精してしまうかもしれない。現実界的な欲動そのものになった自分と、解剖された彼の肉体を、精液でパステルカラー化させてしまうかもしれない。つまり、リアルなその状況の中で、世の母親と等しい隠蔽劣化した気持ちを持ってしまうかもしれない。生々しい気持ちを幻想化された気持ちに変換させてしまうかもしれない。
幻想の世界において、こういった気持ちは権力的なものとなる。耐えられないほどグロテスクな、死的な裏打ちを持って構築された幻想は、本人や他人がどう意識しているか関係なく、それだけで権力を持つ。ホッブズの哲学である。『恐怖の権力』である。
このドラマの母親ノラの子供に対する気持ちもそういうものだ。彼女は子供たちへ向ける愛情が強い。強い故、愛情の本性である権力的な臭いが強く醸し出されてしまう。わたしの「子供を冷凍保存や解剖したい」というグロテスクな気持ちに多少近づいた臭いを放つ。幻想的な正常の世界では、これは現実に裏打ちされたものであり、一種の自然の摂理である、と言ってもいいだろう。
ノラが子供たちに向けてぶっかけている精液は、とても粘着力が強い。子供たちは家族という束縛から抜け出したがっているのに抜け出せない。ゴキブリホイホイのごとき粘着力。
恐らくこの権力的な粘着力が、キチガイたちが、器官なき身体がもっとも嫌悪する一番身近な幻想であろう。
わたしのあるキチガイに対する強い興味は、わたしにとって得体の知れないものだ。得体が知れないから、実際に解剖したとして、わたしがどうなってしまうかわからない。ただ、彼を解剖するなら、幻想で隠蔽劣化された欲望ではなく、なるべく現実界に親近する欲動的な興味を保持したい。キチガイに対してはキチガイでいたい。
それができるかどうかわからない。わからないから、解剖ではなく観察する。わたしにとってのモルモットを。
要するに、彼というキチガイを踏み台にして、わたしは癒され(射精し)正常人になって(パステルカラーの世界へ参入して)しまうかもしれない。それをわたしは怖れている。
毎日観察してるモルモットに「解剖していいよ」とか言われると解剖できなくなるなるだろ。感情移入してしまう。不意に射精してしまう。わたしだって解剖されたいのだから、素朴な鏡像関係が成り立ってしまう。
彼がこう答えてくるだろうことは、可能性の一つとして予測はしていたが、いざされると射精しそうになっている自分にワラタ、という話である。ワラタとか言いつつ動揺しているのかわからないが言い訳をまくし立ててしまった、というまさに「釣られた」テクストである。
認知心理学とかは研究対象のたとえば知的障害児とかをモルモットとして扱っているわけだけど、その事実を指摘したげた方がよさそうだ。
お前たちは、自分が自覚できないところで彼らに感情移入していないか? 色眼鏡がかかっていないか? 器官なき身体を窒息死させる精液を振りまいていないか?
お前たちは、本当に科学者としてモルモットである人間を扱えているのか?
無垢な笑みを投げかけるその知的障害児を冷静に解剖できるのか?
身体なき器官って厄介ね、という話にすりかえておく。
……気がつけばわたしは百葉箱になろうとしている。
わたしが壊したのは原父じゃなく、百葉箱だった、という話か。
「分析家は自身の欲望を認めつつ、(クライアントを)欲望してはいけない」
無理だろ、バーカバーカ。ラカンも単なる理想主義者かよksg。
少なくとも日本で「転移は分析過程において必要不可欠なものであるが、分析を妨害するものでもある」って矛盾を実体としてわかって精神分析やってる人って何人いるんだろうか。ここの矛盾をリアリティを伴って述べているテクストって未だに見たことないんだけど。実際臨床やってる藤田さんとか斎藤たまきんとかでさえピンとこねえ。
転移をマンガの登場人物に感情移入するレベルのものだと考えて「ん? 結構簡単なことじゃね?」ってことになるんだろうか。転移の本質的なところにある欲動レベルの鏡像的反射みたいなことを含めるとそんな簡単な話じゃねえと思うんだがなあ。フリスも言ってるだろ、「(共感できないと考えられている)自閉症者であっても共感していると思われる状況がある」と。でもこの共感はテレビで飢えている子供を見て空腹という不快感を惹起するものだ。感情移入の原始的なものだ。幼稚で稚拙な共感。幼稚園児によく見られる「大泣きの伝染」。そこに想像的あるいは象徴的な複雑な連鎖網はない。何重にも折り重ねられた意味などない。ピンポイントで響く共感。
精神分析も、このドラマの母親がコメディ化されるのと似たような構図で劣化されてるってことかねえ……。
精神分析は役に立たねえ、って言われてへらへら笑っている奴らばっかだから仕方ねっか。そのメスで相手を切り刻めばいいのに。相手の不快を増幅させればいいのに。神経症の症状を悪化させればいいのに。実際治療過程でそういう過程を持っているんだから。
ま、そうやって人に嫌われていくわけだけどね。そうあるべきだと思うぜ。精神分析は。なんせ「ペスト」なわけだし。
フロイトってビートきよしのクセに時折詩人めいたこと言うよな。
正常人はキチガイを追い詰めるべきなのだ。
追い詰められたキチガイが放つ窮鼠の一噛みが、お前たちの倫理を裏打ちする。
窮鼠の一噛みが、さらに正常人のキチガイに対する嫌悪を増幅する。
憎しみの連鎖ではあるが、これは現実界に離接している。むしろ憎しみの連鎖が現実界と離接するための一つの手段なのである。
思春期のファルスが不安定になった主体たちは、自分の中のキチガイと対峙している。自分の中のキチガイを追い詰めている。彼らは常に窮鼠にちまちま噛まれ続けている。この経験が彼らを倫理を持った大人に成長させる。
キチガイは、この過程の慰み者として便利な代理表象なのである。
キチガイ側からの観客席(舞台裏か)から見ると、そんな中二病者たちに向かって
「落ちちゃえよ」
って言いたくもなるさ。
「落ちちゃうー落ちちゃうー」ってAV女優のイク演技みたいなことして誰の同情買おうとしてんの?
落ちちゃえよ。
殺しちゃえよ。
お前はお前の嫌っている大人たちに救われたがっている。お前はエヴァのシンジと同じ精神構造をしている。
違うと言うなら、落ちちゃえよ。
簡単な話じゃん。
お前がくせえんだよ。
落ちちゃっていいじゃん。わたしにとっては他人事だ。
奈落はお前の足元にある。
どうでもいいけどあるキチガイが最近よく口にする「痛みがわかる」って言葉、フェミニストたちが好んで使うよな、と思った。
ここにも、正常人が「結構簡単に排除できる」と思い込んでいる感情移入と、欲動レベルの幼稚で稚拙なピンポイントの鏡像的反射としての共感、という差異を置いておきたい。
精神分析における転移という概念は、前者の日常的な感情移入と、後者のプレコックス感のごとき「狂気の伝染」両方を含めたものとわたしは解釈する(そうでなければやってられん)。
意味連鎖網は確かにある痛みを感知するためのレーダーとして利用できるが、レーダーっていうのはそれ自体で実体を隠蔽劣化するものじゃんか、という事実を指摘しておく。
意味連鎖網において、痛みや不快という形で表出しがちな、欲動レベルでの鏡像的反射たるピンポイントがそこら中にあるのがキチガイだ。要するにどんな作品でもどんな状況でもぼろぼろと痛みを感じてしまうのだ。それは幼稚で稚拙な痛みである。幼稚園児の「大泣きの伝染」と似た事象である。アルトーなんかそうでしょ。だから彼は痛みを執拗に隠蔽してくるルイス・キャロルのテクストを嫌悪する。「くせえ」と。
さてここで、アルトーのテクストをダシにして書かれた『アンチ・オイディプス』の一論旨、「(現実界としての)無意識とは牧歌的なものである。それがノマド(笑)である」っていうのを考えてごらん。アルトーはどう思うだろうねえ? 少なくともわたしはルイス・キャロルと同じことをしているようにしか見えない。
分裂症の話になっちゃったけど、もちろん、そこら中にピンポイントがあるからこそうずくまりたがる(『アンチ・オイディプス』用語なら「折り畳みたがる」)自閉症者の傾向は批判しない。
わたしはうずくまらないだけ。だから時々ヤジを飛ばす。
……嘘でした。
わたしもうずくまりたいのでした。
死ぬ気になればなんでもできる。
その通り。
死ぬ気になれば死ぬこともできる。
多分、数年前のわたしなら「うっわ母親きめえ、だがそれがいい」って感じで後は惰性で見る程度だったんだろうな。
何がひっかかっているかというと、『アンチ・オイディプス』関連で。
この記事でも書いたが、家族をテーマにした物語である。しかし、家族で同族会社を経営していたり、次男がゲイだったり、主人公が保守派の論客であり母親がリベラルで常に意見が対立していたり、と家族と政治や社会が絡み合って話が進む。
んで、いまいちピンとこないのが、主人公がする政治談議で、保守主義と家族主義が同じものとして語られているところなんだな。
先の記事でも書いたことだが、家族的なるものも機械であり、社会的な機械や欲望機械と同じ機械だとわたしは思う。つまり、家族なるものと社会なるものってそんなにはっきりと区別して認知していないんだな、わたしは。
恐らくこの感覚の差異は、西洋文化と日本文化の違いが大きな原因としてあるように思う。日本文化においては家族的な機械と社会的な機械の区別は曖昧なんじゃなかろうか。
あ、いや、まあ西洋の家族中心主義っていう実体がよくわかんねーから『アンチ・オイディプス』の論旨って中二病くせーなー、つってるだけなんだよねー、という自虐めいた話さ。
わたしが西洋で育ってたら、その文化において保守的なものとなった家族中心主義にうんざりして『アンチ・オイディプス』論に「うんうん、そーだよ、そーなんだよ」って同意しちゃうかもしんないよなー、ってこと。
まーなってみないとわからんけど、もうなれないからどうでもいいや。
つかそう考えると『アンチ・オイディプス』って日本人にはピンとこねえ書物だってことになるんだけど、そこそこウケてるのは中二病魂が揺さぶられるから、とかなんだろうか。よくわかんね。
仮に、日本文化は伝統的に家族的な機械と社会的な機械の区別が曖昧である、という要件を採用したなら、日本文化において保守的であることが西洋文化においては革新(リベラル?)になるってことでわーおもしろーいってそんなにおもしろくないな、当たり前のことやん。
まーいーや。
「わたしが西洋で育ってたら」ってとこで友近の通販コントが連想されて自分の発想の貧困さが愛おしくなった。
ドラマとしての評価は高い。高いけどシーズン2まで見る気は起きないなあ、今んとこ。母親のおぞましさがだんだんコメディ化されてってるのがなんかなあ。第7話時点で既に。リンクしたAXNのサイトのキャラクター説明でも「チャーミングな母親」とか書かれてるしな。そういう方向に進むんだろう。
『太平洋の防波堤』みたいなのはさすがに大衆ドラマじゃ無理か。批判じゃなくてそういうもんかってだけ。
前記事のコメントでふと気づいた。
赤ん坊を冷凍保存したり解剖したりするのが許される世界だったら、わたしも子供を産むのはやぶさかでもなかったろうな、と。
子供たちは現実界に近い世界を生きている。それがわたしにとって不快で魅惑的だ。あるキチガイの言動が不快で魅惑的なのと同じように。
わたしは子供が怖い。子供が気持ち悪い。だから強い興味を覚える。だから冷凍保存したり解剖したくなる。わたしにとって子供とは「悪い乳房」のようなものである。
この冷凍保存や解剖したいという気持ちは、世の母親、少なくともこのドラマの母親も持っているだろう。しかし彼女らの場合、現実界的な「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは、(想像的かつ象徴的という意味で)幻想的なたとえば「いつまでも子供でいて欲しい。子供のことはなんでもわかっていたい」という気持ちになっている。つまり、隠蔽劣化されている。本質的な「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは抑圧されている。
わたしの「子供を冷凍保存や解剖したい」という気持ちは、印象的にSMチックでグロテスクで倒錯的なものだ。このようなイメージが、正常な世界で容認されるのは大体性的な場に限られる。
従って、精神分析が「母子関係は非常に性的なものである」とするのは間違っていない。そうであることを、その実体を、わたしは今気づいた。精神分析のその言葉は実体を完全に表しておらず(そもそも現実界はシンボルやイメージで完全に表されるものではない)、多少の語弊が生じるだろうし、実際巷で垂れ流されている講釈は誤解に塗れたものが多いが、わたしの(一般的な正常人たちより)現実界に近い主観世界において、実体を確認できた。これをフロイトはそう表現したのだな、という感覚。
……という子供を持ったことのない人間の戯言である。
しかし、今回のケースでは、わたしはあるキチガイについて多少の感情移入が生じている。転移している。従って、解剖したとしても、最後まで耐えられるかわからない。わたしは射精してしまうかもしれない。現実界的な欲動そのものになった自分と、解剖された彼の肉体を、精液でパステルカラー化させてしまうかもしれない。つまり、リアルなその状況の中で、世の母親と等しい隠蔽劣化した気持ちを持ってしまうかもしれない。生々しい気持ちを幻想化された気持ちに変換させてしまうかもしれない。
幻想の世界において、こういった気持ちは権力的なものとなる。耐えられないほどグロテスクな、死的な裏打ちを持って構築された幻想は、本人や他人がどう意識しているか関係なく、それだけで権力を持つ。ホッブズの哲学である。『恐怖の権力』である。
このドラマの母親ノラの子供に対する気持ちもそういうものだ。彼女は子供たちへ向ける愛情が強い。強い故、愛情の本性である権力的な臭いが強く醸し出されてしまう。わたしの「子供を冷凍保存や解剖したい」というグロテスクな気持ちに多少近づいた臭いを放つ。幻想的な正常の世界では、これは現実に裏打ちされたものであり、一種の自然の摂理である、と言ってもいいだろう。
ノラが子供たちに向けてぶっかけている精液は、とても粘着力が強い。子供たちは家族という束縛から抜け出したがっているのに抜け出せない。ゴキブリホイホイのごとき粘着力。
恐らくこの権力的な粘着力が、キチガイたちが、器官なき身体がもっとも嫌悪する一番身近な幻想であろう。
わたしのあるキチガイに対する強い興味は、わたしにとって得体の知れないものだ。得体が知れないから、実際に解剖したとして、わたしがどうなってしまうかわからない。ただ、彼を解剖するなら、幻想で隠蔽劣化された欲望ではなく、なるべく現実界に親近する欲動的な興味を保持したい。キチガイに対してはキチガイでいたい。
それができるかどうかわからない。わからないから、解剖ではなく観察する。わたしにとってのモルモットを。
要するに、彼というキチガイを踏み台にして、わたしは癒され(射精し)正常人になって(パステルカラーの世界へ参入して)しまうかもしれない。それをわたしは怖れている。
毎日観察してるモルモットに「解剖していいよ」とか言われると解剖できなくなるなるだろ。感情移入してしまう。不意に射精してしまう。わたしだって解剖されたいのだから、素朴な鏡像関係が成り立ってしまう。
彼がこう答えてくるだろうことは、可能性の一つとして予測はしていたが、いざされると射精しそうになっている自分にワラタ、という話である。ワラタとか言いつつ動揺しているのかわからないが言い訳をまくし立ててしまった、というまさに「釣られた」テクストである。
認知心理学とかは研究対象のたとえば知的障害児とかをモルモットとして扱っているわけだけど、その事実を指摘したげた方がよさそうだ。
お前たちは、自分が自覚できないところで彼らに感情移入していないか? 色眼鏡がかかっていないか? 器官なき身体を窒息死させる精液を振りまいていないか?
お前たちは、本当に科学者としてモルモットである人間を扱えているのか?
無垢な笑みを投げかけるその知的障害児を冷静に解剖できるのか?
身体なき器官って厄介ね、という話にすりかえておく。
……気がつけばわたしは百葉箱になろうとしている。
わたしが壊したのは原父じゃなく、百葉箱だった、という話か。
「分析家は自身の欲望を認めつつ、(クライアントを)欲望してはいけない」
無理だろ、バーカバーカ。ラカンも単なる理想主義者かよksg。
少なくとも日本で「転移は分析過程において必要不可欠なものであるが、分析を妨害するものでもある」って矛盾を実体としてわかって精神分析やってる人って何人いるんだろうか。ここの矛盾をリアリティを伴って述べているテクストって未だに見たことないんだけど。実際臨床やってる藤田さんとか斎藤たまきんとかでさえピンとこねえ。
転移をマンガの登場人物に感情移入するレベルのものだと考えて「ん? 結構簡単なことじゃね?」ってことになるんだろうか。転移の本質的なところにある欲動レベルの鏡像的反射みたいなことを含めるとそんな簡単な話じゃねえと思うんだがなあ。フリスも言ってるだろ、「(共感できないと考えられている)自閉症者であっても共感していると思われる状況がある」と。でもこの共感はテレビで飢えている子供を見て空腹という不快感を惹起するものだ。感情移入の原始的なものだ。幼稚で稚拙な共感。幼稚園児によく見られる「大泣きの伝染」。そこに想像的あるいは象徴的な複雑な連鎖網はない。何重にも折り重ねられた意味などない。ピンポイントで響く共感。
精神分析も、このドラマの母親がコメディ化されるのと似たような構図で劣化されてるってことかねえ……。
精神分析は役に立たねえ、って言われてへらへら笑っている奴らばっかだから仕方ねっか。そのメスで相手を切り刻めばいいのに。相手の不快を増幅させればいいのに。神経症の症状を悪化させればいいのに。実際治療過程でそういう過程を持っているんだから。
ま、そうやって人に嫌われていくわけだけどね。そうあるべきだと思うぜ。精神分析は。なんせ「ペスト」なわけだし。
フロイトってビートきよしのクセに時折詩人めいたこと言うよな。
正常人はキチガイを追い詰めるべきなのだ。
追い詰められたキチガイが放つ窮鼠の一噛みが、お前たちの倫理を裏打ちする。
窮鼠の一噛みが、さらに正常人のキチガイに対する嫌悪を増幅する。
憎しみの連鎖ではあるが、これは現実界に離接している。むしろ憎しみの連鎖が現実界と離接するための一つの手段なのである。
思春期のファルスが不安定になった主体たちは、自分の中のキチガイと対峙している。自分の中のキチガイを追い詰めている。彼らは常に窮鼠にちまちま噛まれ続けている。この経験が彼らを倫理を持った大人に成長させる。
キチガイは、この過程の慰み者として便利な代理表象なのである。
キチガイ側からの観客席(舞台裏か)から見ると、そんな中二病者たちに向かって
「落ちちゃえよ」
って言いたくもなるさ。
「落ちちゃうー落ちちゃうー」ってAV女優のイク演技みたいなことして誰の同情買おうとしてんの?
落ちちゃえよ。
殺しちゃえよ。
お前はお前の嫌っている大人たちに救われたがっている。お前はエヴァのシンジと同じ精神構造をしている。
違うと言うなら、落ちちゃえよ。
簡単な話じゃん。
お前がくせえんだよ。
落ちちゃっていいじゃん。わたしにとっては他人事だ。
奈落はお前の足元にある。
どうでもいいけどあるキチガイが最近よく口にする「痛みがわかる」って言葉、フェミニストたちが好んで使うよな、と思った。
ここにも、正常人が「結構簡単に排除できる」と思い込んでいる感情移入と、欲動レベルの幼稚で稚拙なピンポイントの鏡像的反射としての共感、という差異を置いておきたい。
精神分析における転移という概念は、前者の日常的な感情移入と、後者のプレコックス感のごとき「狂気の伝染」両方を含めたものとわたしは解釈する(そうでなければやってられん)。
意味連鎖網は確かにある痛みを感知するためのレーダーとして利用できるが、レーダーっていうのはそれ自体で実体を隠蔽劣化するものじゃんか、という事実を指摘しておく。
意味連鎖網において、痛みや不快という形で表出しがちな、欲動レベルでの鏡像的反射たるピンポイントがそこら中にあるのがキチガイだ。要するにどんな作品でもどんな状況でもぼろぼろと痛みを感じてしまうのだ。それは幼稚で稚拙な痛みである。幼稚園児の「大泣きの伝染」と似た事象である。アルトーなんかそうでしょ。だから彼は痛みを執拗に隠蔽してくるルイス・キャロルのテクストを嫌悪する。「くせえ」と。
さてここで、アルトーのテクストをダシにして書かれた『アンチ・オイディプス』の一論旨、「(現実界としての)無意識とは牧歌的なものである。それがノマド(笑)である」っていうのを考えてごらん。アルトーはどう思うだろうねえ? 少なくともわたしはルイス・キャロルと同じことをしているようにしか見えない。
分裂症の話になっちゃったけど、もちろん、そこら中にピンポイントがあるからこそうずくまりたがる(『アンチ・オイディプス』用語なら「折り畳みたがる」)自閉症者の傾向は批判しない。
わたしはうずくまらないだけ。だから時々ヤジを飛ばす。
……嘘でした。
わたしもうずくまりたいのでした。
死ぬ気になればなんでもできる。
その通り。
死ぬ気になれば死ぬこともできる。