隙だらけ
2008/12/19/Fri
なんでもないわ わたしは大丈夫
どこにも隙がない
なんでもないわ
わたしは大丈夫
なんでもないわ
わたしは傷つかない
わたしは傷つく。傷ついているから、あなたを傷つける。
それがわたしの鏡像関係。
正常人であるためには、わたしはあなたを傷つけなければならない。
それだけのこと。
確かに、中島みゆきのこの歌は、「傷つかない」と言うことで「傷ついている」という逆の意味を示しているのかもしれない。後に続く歌詞を考えればそれは明らかと言えるだろう。しかしここには初歩的な隠喩構造がある。「傷ついている」事実に対する稚拙な隠喩が、隠しきれていない隠蔽が、日常的な演技ではない舞台役者的な演技がある。この初歩的で稚拙な隠喩が、中島作品の未去勢的(去勢の不完全さと言ってもよい)な魅力となっている。
わたしの言葉は隠蔽していないだけ。隠喩を用いていないだけ。
単純な話。
隙を見せた方がわたしらしいと言われる。子供の演技が何故か一番評価される。
お前らってわけわかんないよな。
わたしがわけわかんないからか。
うん、わたしはわけわからないけど、お前らもわけわからなくある必要なくね?
正常であるお前たちがわけわからないのはダメでそ。
違う。
わたしは正常でありたい。
わけわかるような手紙を書きたい。
なのにわけわからないと言われる。
わたしもお前らがわけわからない。
隙だらけなのだ。わたしの文章は。論文っぽい文章とか、本人は隙を見せないように書いているつもりでも。
なーのにレベル低いつっこみしかこねえよなー。仕方ないか、わけわからないらしいから。お前らにとってわたしなるものは。
わたしの文章に対してされるつっこみってほとんど「わけわからない」で要約されるよな。気を遣って「難解」とか迂遠に言ってくれてるところもあるけど。
わけわからなくていいんだよ。わたしがお前らについてわけわかんないんだから。
難解でいいんだよ。難解だといわれたらもっと単純なことだ、って言うけどね。単純だといわれたらそんな単純なことじゃねえ、って言うだけ。
だってお前らわけわかんないんだもん。
知ってる? 舞台役者が演じている時、観客の存在ってわかるんだよ。それは、日常で見ているあなたという幻想にまみれたあなたじゃない。物自体的なあなたが、たくさん座っている。統合失調症者の周りの人間がゾンビやロボットに見える幻覚と似ていると思う。
怖いんだよ? もう死んでいいと思えるほど怖いんだよ?
舞台役者は針のむしろでのた打ち回っている。じっと座っとけばまだ痛くないだろうに、のた打ち回った方が物自体的なあなたが存在してくれるから、物自体的なあなたの視線という針が痛すぎるから、のた打ち回ってしまう。
少なくともわたしはそうだった。わたしにとって役者とは奴隷だった。マゾヒスティックな快楽だった。
この快楽のおかげで、正常人の「キチガイを癒してあげよう」という愛は、権力だと知った。
それだけの話。とっても単純でしょ?
わかりやすさの危険を説く精神分析なら、わたしのわたしが傷ついているからあなたを傷つけたいという反応を理解してくれるかも、と期待しているだけ。
だからわたしを分析して、と言っている。
でも、わたしが分析してほしいのは、わたしが傷ついているからあなたを傷つけたいという反応だから、もちろんいちいち反論するよ? 分析って要するに解剖じゃん、黙って切り刻まれたらわたしが分析してほしい本当のわたしじゃなくなるもの。
ほら、わたしを切り刻んで。わたしもあなたを切り刻むから。
メスは医者だけの道具じゃない。よく言うじゃない。「キチガイに刃物」って。
ほら、傷口いっぱいあるよ。いたるところから血や糞尿を垂れ流しているよ。
こんなに切り刻みやすい物体そうないでしょ?
何故あなたはためらうの? 何故わたしの傷口をふさごうとするの?
わたしのためなんかじゃないじゃん。
お前が不快だからだ。
お前がわたしを不快に思っているからだ。
たとえば汚言症。あなたたちは何故それを病気だと考えるの? そもそも何故汚い言葉を言っちゃいけないの?
お前が不快を棄却したがってるからだ。
汚言を吐く口を縫合することが、快楽。
解剖や分析とは全く逆なのが、癒し。
これが、あなたたちが言う、愛。あなたたちが洗脳されている、メインタスク。
正常人がキチガイを不快に思うことこそが、愛や権力の本性。
ははは。お前ら吉本新喜劇みたい。
舞台から見る観客たちの世界こそがコントであり、現実は表現者側にある。少なくともわたしにとっての演劇とはそういうものだ。
滑稽だね。正常であることって。
正常であることとは、舞台に初めて立った新人役者のぎこちない演技だ。正常である証しのこのぎこちなさを、神経症という言葉で定義しているのが精神分析だ。
自分の演技のへたさを棚に上げて、わたしは指摘する。
「お前らの演技くせーよ」
難解? 単純?
どっちでもいいよ。難解で単純なんだから。
そう言われたら、わたしは違うって言うだけ。
むかついたんならヤっちゃえばいいのに。こんな隙だらけな人。
いきなり話変わるけど、自閉症にもいろいろいるよな。
いわゆるドナが言うような「自閉症と統合失調症はむしろ逆」っていう感じの自閉症者と、スキゾイド(分裂病質人格障害)というより、むしろサイコパスみたいな感じの、統合失調症に近い、だけど統合失調症とは言えない分裂病型人格障害を思わせる自閉症者と。山岸氏やドードーとら氏は前者で、わたしの個人的知り合いのこいつやこの記事のあるキチガイなんかは後者になる。まあ精神科の診断なんて水物だから別に「ふうん」ぐらいだけどさ。
診断名なんて肩書きと変わらないものなんだから、結局自分でなんとかするしかないのだよ。なんとかするって自分から病めってことじゃなく自分で学ぶしかないってこと。そうすると「精神分析理論そのものが自分を分析する分析家であるのが精神分析家である」っていう精神分析学に自然と行き着くと思うけどね。認知心理学とかって他人任せのものじゃなく(統計的手法即ち再現性という科学の教義は他人にも認知されるからという理由で教義となっている)。たとえばラカン派ではクライアントのことを分析者と呼ぶ。分析するのは分析家ではなくクライアント自身なのだ。普通の人は自分自身を分析的視点で見つめることに慣れていない。できているようでできていない。自分で気づかない自分(鏡像的他者含む)に対する感情移入が常に既に存在する。それをいじくり回すのが精神分析だ。分析家は自分を分析するという行為の手助けをするにすぎない。この辺他の医学と同じだよね。「病気を治療するのは患者自身であり、われわれはそれを手助けしているにすぎない」って奴。でも他の医学と決定的に違うのは、自分を感情移入しないで見るなんて自分自身を解剖するようなもので、要するに自傷的行為なのだ。従って、クライアントは分析の前過程でデプレッションを起こす、というわけ。つっかこの過程ってまさしく舞台役者の演技メソッドなんだがな。ヤプーズで言えば「自分を見つめる孤独な毎日」ってこと。「孤独な毎日」=感情移入を排したあるいは感情移入がうまく機能していない状況、ってわけだな。
精神医学に戻ると、診断基準がはっきりしていないんじゃなく、診断基準を明文化すればするほど、異常者の異常さが浮き彫りになる。要するに、正常な認知の異常さに対する捉えきれなさが、正常な認知の機能としての限界が際立ってくる、という構図にすぎないんだよね。
そういう意味ではDSMっていうテクスト自体が神経症なのだ。棄却されたものに囚われるほど棄却の力が強くなる。棄却する力が強いほど棄却されたものに囚われる。まさに残酷演劇論における「分身(double)」だ。神を否定する人間ほど神を篤く信仰している、って構造と同じ。神とかって大仰だけど、否認とか隠喩(即ち抑圧)とかのレベルじゃないって意味にすぎず、要は本質に近づけば近づくほど棄却や否定などといった示差は脱構築されていくってこと。
DSMは、示差を強調することでかえって本質を浮き彫りにさせている。だから神経症。そういえば精神分析派の精神科医がDSM批判で「DSMは一種の神経症である」みたいなこと言ってたな。まー現場の人なりのDSMに纏わる違和感を感じているんだろうね。
要するに精神医学とか精神分析とか心理学における言葉の定義構造そのものが正常人の主観世界に依拠して構築されたものだから、異常者の異常さは捉えきれるわけないよね、という話。だって「人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ」ってことで、異常者の異常さ(アブジェ)を棄却した(アブジェクシオン)のが正常人なんだから。つまりそもそも異常さについて見えなくなること自体が正常人になるってことなのだ。
鏡像段階に不具合がある自閉症者でも、鏡像的な他者(感情移入された自分含む)を手に入れられる場合がある。
しかし、彼らの鏡は歪んでいる。
いずれそれが自分の鏡像ではないことに気づくだろう。これを繰り返していけば、擬似的な鏡像関係により大人の着ぐるみを着ていられている自閉症者も、未去勢の本質たる妄想的(パラノイアック)で分裂的(スキゾフレニック)で抑鬱的(メランコリック)な、理想的なキチガイに、器官なき身体に近づいていく、のかな? 自分の子供とかはもっとも明確な鏡像だから、子供がいる自閉症者の方が正常人に近い主観世界を生きられる可能性が高い、と言えるだろうね。
しかし、ファルスに不具合がある事実は動かない。
正常人に近い主観世界を生きることとはいわゆる主体化なわけだから、ドナのテクストについて斎藤環が指摘した「主体化への恐れ」が生じるだろうと予測できる。
そういう意味では、「主体化への恐れ」と戦って主体化しようとしているのがドナとかのタイプの自閉症者たちで、むしろ「主体化への怖れ」をマゾヒスティックに保持し続けているのが後者の自閉症者たち、ってことになるか。「狂気に固執している」とラカンに見捨てられたアルトーに近いのが分裂病型人格障害チックな自閉症者たち、ってことかな。ドゥルージアン、ガタリアンたちはその教義に則るならどっち擁護すべきかバカでもわかるだろ。
どっちが自閉症であってどっちが自閉症じゃないってのは、ただの精神医学っていう社会での肩書きにすぎないわけで、当事者でもないわたしは正直どうでもいい。その代わり「ファルスに不具合がある人たち」「未去勢者」「アンテ・フェストゥム」などという(わたしにとっての)実体を示差できる便利な学術的概念を持っている(把握できている)から。まあ後者は分裂病型人格障害って肩書きがあるからそっちでもええんちゃうの? とかは思うけど、あれじゃん、肩書きなんて社会的権力闘争(たとえば多数決とか)でどうにでもなるもんでしょ? シニフィアンの恣意性って奴だな。言葉の定義の問題だから勝手にやってちょ、とわたしは思う。
わたしはわたしの興味が向いた実体を見つめるだけ。
もうちょっと観察してよっと。
……とか書いてたら早速か。
簡単に群れられないことが端的に示されているこの事象が、むしろ彼らが本当の(自閉症とは言わないが)未去勢者であることを示していると言える。
かと言って群れちゃいけないって話じゃないんだよ。群れたいのに群れられない、という言い方が正しい。だからこそ彼らは傷つくのだから。傷つくことができるのだ。彼らの群れたがる意志を無視してはいけない。主体化即ちパラノイア化を怖れながら(嫌悪しながら)もパラノイアになろうとする努力を無視してはいけない。その苦痛を無視してはいけない。臨床的視点として、ね。
あーやっぱ観察だよ観察。解剖したらだめだよわたしは。
解剖すんのは正常人だけにしよう。
あー断頭されたまんこがなんか言ってる。
=====
趣味が合うは相手のどこかに好意を持てる人。
=====
その思考回路自体が正常人のそれだっつに。快楽原則が働いている証拠。まあ「自分のこれは好意なのか?」という自問自答が続いている分中二病悪化の可能性はないとは言えないがね。君が「好意」とか「尊敬」とか言って見つめようとしているのがお前自身の快楽原則だ。そういった哲学的思索が(中二病を含む)神経症を悪化させることは学問史的な臨床視点から見て事実だ。よってその部分はわたしは擁護できる。あっぱらぱーなだけのツレションメス犬どもよりかははるかにマシ。要するに、悩め、悩め、気がふれるまで、ということ。
好きも嫌いも同じ興味だ。わたしは自分の興味が好きか嫌いかわからない。わたしが不快に思って反応していることでも他人から見れば好意に見られることもあるし、わたしは好意でやっていると思ってても他人には悪意に見られることもある。わたしにとって好きか嫌いかなんて他人が決めることなのだ。
お前が自分で「好意」なり「尊敬」なりと思っているその感じこそが他人からの洗脳による分別機能のアウトプットにすぎないんだよ。正常というパラノイアックな権力の行使だ。
違う、この「好意」や「尊敬」という気持ちは洗脳とかじゃなくてわたしのものだ、と思えるなら君は立派に正常な主観世界を生きている。そこを超えれば君が涎垂れ流しながら欲望しているキチガイの世界が開けてくるよ、という話。
テクストのしょっぱなからションベン撒き散らかすなよ、くせえなあメス犬が。
ブスって大概こうだよな。精神的なところだけでもみんなに好かれたがる。いじめられっ子も大体そう。わたしも大概ハブられてたからいじめられっ子側に見られてたのかもしれんが、他のいじめられっ子から卑屈な笑みで「友だちになりましょ」みたいに言われた感じを思い出してぞっとした。普通の正常人よりタチが悪い。こういうの。表面的なところだけで被権力者の立場に立たされて、仲間を増やすことでそれに対抗しようとしている。
仲間を増やせられる機能を持っていること自体が権力者である証なのだよ。
「顔は枕で隠してていいからわたしとセックスしてください」と言ってるのと変わらんよ。わたしから見たら。まあわたしもテクとして使っていた時期はあるが。お前が欲望しているのが相手の(それこそ趣味とかっていうのを含めた統合的な)人格か、そいつの趣味だけという部分的なものか、によって変わるんだろうな。「尊敬」なんて言葉に連鎖しているところを見るとお前は前者を欲望していると分析可能だ。この辺りも(無意識的な)正常な思考回路がだだ漏れしていると言える。ちなみにわたしはその時の自分の身体反応を求めていた。自体愛だ。松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』の主人公なんか自体愛っぽい。ブスであることを逆手に取ってそんな卑屈な立場から一歩抜け出したのが笙野頼子だな。まあ最近の作品は昇華されちゃってるけどね。むしろ中二病の治療になりそうだ。
だから読んでみろとは言わない。わたしがお前など関係なく自分の思考の中連想されたものを書き連ねているだけ。ただの身勝手な例示だから読まなくてもいいよ、という話。
ああうん、ここで「聞き分けのよい学習障害者」とキチガイの一種たる自閉症は別物だ、と述べているが、(君みたいな)ブスっていうのは「聞き分けのよい容貌障害者」なんだよな。ブスとキチガイは別物だ。
めんどくせえな。ブスのションベンって。
あ、あと
=====
認めてもらいたい気持ちなんて意識したことないからな
=====
当たり前だ。その気持ちが無意識下に抑圧されているから真理となるんだ。それを意識化する作業が精神分析治療だ。
無意識的な真理になっているから、「あなたを認めてくれる誰かと仲良くやってればいいじゃん」なんてセリフで隠蔽されて出てくるんだよ。認めてくれさえすれば「いいじゃん」ということだろ? (無意識的な)本音がだだ漏れなんだよ、特にお前みたいなコンプレックスのカタマリは。
わたしにつっつかれる前にさんざんションベン撒き散らかしといて「(意識して)撒き散らかしてません」と言っているようなもんだ。そりゃそうだ。お前の無意識が撒き散らかしているんだから。わたしがお前の文章を前から読んでいるのは足跡でお前も知ってるよな。
ちなみに言うならコンプレックスとは自我の裏打ちである。コンプレックスのカタマリ=自我が強い、ということ。お前って自意識過剰だもんな。別館の前半とかすげえそんな感じがする。「わたしを認めてよ」っていう愚痴。
今は違う? うん。狂気が多少は伝染してるんだろうね。その時期と比べると中二病は多少は悪化しているだろう。よかったね。
「好意」だか「尊敬」だか知らんが、別に「生理的に嫌い」でもいい、興味を持った奴とレイプし合えよ。殺し合えよ。それがキチガイの作法だ。
お前どっかで書いてたな、「わたしを丸め込もうとしている」とかって。お前今自分がわたしを丸め込もうとしているのに気づいているか?
ナイフなら大歓迎だが、精液をわたしにぶっかけないでくれるか?
お前の正常人度は高い。まずそのことを自覚したまえ。そこをきちんと自覚すれば、お前がキチガイに対して涎を垂れ流すのは、ペドフィリアやロリコンと同じ精神構造をしていると気づけるだろう。
お前は自分より弱い者を、己のアイデンティティのために、ファルスの防衛のために、食い物にしようとしているだけなんだよ。わたしにはそうにしか見えない。
お前はわたしを丸め込もうとしている。
=====
私はまんこなわけだから、記事の中で触れられると喜んでしまいますよ
=====
これこれ。
お前が下品に「わたしを認めてくれるかも」と思っていたキチガイの言葉が当てはまろう。
=====
ああ、あの人も日記や何かでwをつけたりして
気丈そうに振舞う事で自分を保っているんだ
そうでもしないと恐怖で自分が壊れてしまうんだ
=====
いや多分お前じゃない人間について言ったセリフだろうがな。このセリフがちょうどお前の上のセリフに当てはまると「わたしが」思ったから引用しておく。
こういう対応が無意識的にできるお前は、傷つかない。表面的なところでしか傷つかない。体の芯まで傷つかないから、傷つきたがっている。たとえばリスカする。
お前の皮膚には鏡の鎧が癒着している。
ああきめえ。こっちにくんなよ。クリトリス丸出しで。
お前がキチガイを欲望しているのはあれだな、陰核手淫の回帰ってことになるんだろうな。なるほど。微妙だけど。
傷ついてしまうキチガイは正常になろうとしている。獣道から抜け出そうとしている。
傷つきたいガタリやこのまんこちゃんみたいな正常人はキチガイになろうとしている。獣道を歩きたがる。能天気な顔で。
彼らは確かにすれ違う可能性は高いだろう。
しかし、だからと言って「わたしも同じ、わたしもそう、わたしはあなたの痛みがわかる」となるのとは違う。同じでは全くない。進んでいる方向が逆だ。
それを無視して「わたしも同じ」となるのが正常人のパラノイアックな権力行使なのだ。
キチガイを殺すのは、キチガイを正常化させるのは、えてしてこういう正常人たちなのだ。
キチガイを殺した正常人たちは癒される。対象aを垣間見る。
違うって? わたしをそんな風に決めつけるなって? なかなか中二病らしいリアクションじゃないか。
ならば傷ついてみろよ。
本当に体の芯まで傷ついているならそんな能天気な余裕かました文章を書けるわけがない。
傷ついているからこそ能天気なフリをしている、余裕かまそうとしている、だって? ほれ、それが自我の防衛ってことだよ。自我が弱い故に傷ついている反応ではない。
お前の言う表面的ではないところ即ち内面即ち無意識など「言語のように構造化されている」無意識即ち超自我だ。
超自我が形成されているお前は立派な正常人だ。
キチガイの言う表面的ではないところとは現実界だ。
人の表面的ではないところと獣の表面的ではないところは別だ。お前らツレション星人にとって表面的ではないところこそが、獣にとっては表面的な「安っぽい賛同」なのだ。
獣は体を動かすだけで体の芯まで傷ついてしまう。鎧に不具合があるからだ。だからむしろ獣は決めつけられたがる。マゾヒスティックに束縛されたがる。とはいえ誰でもいいってわけじゃないが。もちろん反撃もする。物体の作用に対する反作用だ。そこに能天気さや余裕などない。
「必死だなwww」と揶揄される状態の方がまだ獣に親近している。お前が精液ぶっかけたがってるあるキチガイなんか必死すぎるだろ? 体の芯まで傷ついているから必死になるんだよ。
現実界はしかめっ面をしているのだ。
あ、なんかきれいに一つの記事としてまとまった。おお。
どこにも隙がない
なんでもないわ
わたしは大丈夫
なんでもないわ
わたしは傷つかない
わたしは傷つく。傷ついているから、あなたを傷つける。
それがわたしの鏡像関係。
正常人であるためには、わたしはあなたを傷つけなければならない。
それだけのこと。
確かに、中島みゆきのこの歌は、「傷つかない」と言うことで「傷ついている」という逆の意味を示しているのかもしれない。後に続く歌詞を考えればそれは明らかと言えるだろう。しかしここには初歩的な隠喩構造がある。「傷ついている」事実に対する稚拙な隠喩が、隠しきれていない隠蔽が、日常的な演技ではない舞台役者的な演技がある。この初歩的で稚拙な隠喩が、中島作品の未去勢的(去勢の不完全さと言ってもよい)な魅力となっている。
わたしの言葉は隠蔽していないだけ。隠喩を用いていないだけ。
単純な話。
隙を見せた方がわたしらしいと言われる。子供の演技が何故か一番評価される。
お前らってわけわかんないよな。
わたしがわけわかんないからか。
うん、わたしはわけわからないけど、お前らもわけわからなくある必要なくね?
正常であるお前たちがわけわからないのはダメでそ。
違う。
わたしは正常でありたい。
わけわかるような手紙を書きたい。
なのにわけわからないと言われる。
わたしもお前らがわけわからない。
隙だらけなのだ。わたしの文章は。論文っぽい文章とか、本人は隙を見せないように書いているつもりでも。
なーのにレベル低いつっこみしかこねえよなー。仕方ないか、わけわからないらしいから。お前らにとってわたしなるものは。
わたしの文章に対してされるつっこみってほとんど「わけわからない」で要約されるよな。気を遣って「難解」とか迂遠に言ってくれてるところもあるけど。
わけわからなくていいんだよ。わたしがお前らについてわけわかんないんだから。
難解でいいんだよ。難解だといわれたらもっと単純なことだ、って言うけどね。単純だといわれたらそんな単純なことじゃねえ、って言うだけ。
だってお前らわけわかんないんだもん。
知ってる? 舞台役者が演じている時、観客の存在ってわかるんだよ。それは、日常で見ているあなたという幻想にまみれたあなたじゃない。物自体的なあなたが、たくさん座っている。統合失調症者の周りの人間がゾンビやロボットに見える幻覚と似ていると思う。
怖いんだよ? もう死んでいいと思えるほど怖いんだよ?
舞台役者は針のむしろでのた打ち回っている。じっと座っとけばまだ痛くないだろうに、のた打ち回った方が物自体的なあなたが存在してくれるから、物自体的なあなたの視線という針が痛すぎるから、のた打ち回ってしまう。
少なくともわたしはそうだった。わたしにとって役者とは奴隷だった。マゾヒスティックな快楽だった。
この快楽のおかげで、正常人の「キチガイを癒してあげよう」という愛は、権力だと知った。
それだけの話。とっても単純でしょ?
わかりやすさの危険を説く精神分析なら、わたしのわたしが傷ついているからあなたを傷つけたいという反応を理解してくれるかも、と期待しているだけ。
だからわたしを分析して、と言っている。
でも、わたしが分析してほしいのは、わたしが傷ついているからあなたを傷つけたいという反応だから、もちろんいちいち反論するよ? 分析って要するに解剖じゃん、黙って切り刻まれたらわたしが分析してほしい本当のわたしじゃなくなるもの。
ほら、わたしを切り刻んで。わたしもあなたを切り刻むから。
メスは医者だけの道具じゃない。よく言うじゃない。「キチガイに刃物」って。
ほら、傷口いっぱいあるよ。いたるところから血や糞尿を垂れ流しているよ。
こんなに切り刻みやすい物体そうないでしょ?
何故あなたはためらうの? 何故わたしの傷口をふさごうとするの?
わたしのためなんかじゃないじゃん。
お前が不快だからだ。
お前がわたしを不快に思っているからだ。
たとえば汚言症。あなたたちは何故それを病気だと考えるの? そもそも何故汚い言葉を言っちゃいけないの?
お前が不快を棄却したがってるからだ。
汚言を吐く口を縫合することが、快楽。
解剖や分析とは全く逆なのが、癒し。
これが、あなたたちが言う、愛。あなたたちが洗脳されている、メインタスク。
正常人がキチガイを不快に思うことこそが、愛や権力の本性。
ははは。お前ら吉本新喜劇みたい。
舞台から見る観客たちの世界こそがコントであり、現実は表現者側にある。少なくともわたしにとっての演劇とはそういうものだ。
滑稽だね。正常であることって。
正常であることとは、舞台に初めて立った新人役者のぎこちない演技だ。正常である証しのこのぎこちなさを、神経症という言葉で定義しているのが精神分析だ。
自分の演技のへたさを棚に上げて、わたしは指摘する。
「お前らの演技くせーよ」
難解? 単純?
どっちでもいいよ。難解で単純なんだから。
そう言われたら、わたしは違うって言うだけ。
むかついたんならヤっちゃえばいいのに。こんな隙だらけな人。
いきなり話変わるけど、自閉症にもいろいろいるよな。
いわゆるドナが言うような「自閉症と統合失調症はむしろ逆」っていう感じの自閉症者と、スキゾイド(分裂病質人格障害)というより、むしろサイコパスみたいな感じの、統合失調症に近い、だけど統合失調症とは言えない分裂病型人格障害を思わせる自閉症者と。山岸氏やドードーとら氏は前者で、わたしの個人的知り合いのこいつやこの記事のあるキチガイなんかは後者になる。まあ精神科の診断なんて水物だから別に「ふうん」ぐらいだけどさ。
診断名なんて肩書きと変わらないものなんだから、結局自分でなんとかするしかないのだよ。なんとかするって自分から病めってことじゃなく自分で学ぶしかないってこと。そうすると「精神分析理論そのものが自分を分析する分析家であるのが精神分析家である」っていう精神分析学に自然と行き着くと思うけどね。認知心理学とかって他人任せのものじゃなく(統計的手法即ち再現性という科学の教義は他人にも認知されるからという理由で教義となっている)。たとえばラカン派ではクライアントのことを分析者と呼ぶ。分析するのは分析家ではなくクライアント自身なのだ。普通の人は自分自身を分析的視点で見つめることに慣れていない。できているようでできていない。自分で気づかない自分(鏡像的他者含む)に対する感情移入が常に既に存在する。それをいじくり回すのが精神分析だ。分析家は自分を分析するという行為の手助けをするにすぎない。この辺他の医学と同じだよね。「病気を治療するのは患者自身であり、われわれはそれを手助けしているにすぎない」って奴。でも他の医学と決定的に違うのは、自分を感情移入しないで見るなんて自分自身を解剖するようなもので、要するに自傷的行為なのだ。従って、クライアントは分析の前過程でデプレッションを起こす、というわけ。つっかこの過程ってまさしく舞台役者の演技メソッドなんだがな。ヤプーズで言えば「自分を見つめる孤独な毎日」ってこと。「孤独な毎日」=感情移入を排したあるいは感情移入がうまく機能していない状況、ってわけだな。
精神医学に戻ると、診断基準がはっきりしていないんじゃなく、診断基準を明文化すればするほど、異常者の異常さが浮き彫りになる。要するに、正常な認知の異常さに対する捉えきれなさが、正常な認知の機能としての限界が際立ってくる、という構図にすぎないんだよね。
そういう意味ではDSMっていうテクスト自体が神経症なのだ。棄却されたものに囚われるほど棄却の力が強くなる。棄却する力が強いほど棄却されたものに囚われる。まさに残酷演劇論における「分身(double)」だ。神を否定する人間ほど神を篤く信仰している、って構造と同じ。神とかって大仰だけど、否認とか隠喩(即ち抑圧)とかのレベルじゃないって意味にすぎず、要は本質に近づけば近づくほど棄却や否定などといった示差は脱構築されていくってこと。
DSMは、示差を強調することでかえって本質を浮き彫りにさせている。だから神経症。そういえば精神分析派の精神科医がDSM批判で「DSMは一種の神経症である」みたいなこと言ってたな。まー現場の人なりのDSMに纏わる違和感を感じているんだろうね。
要するに精神医学とか精神分析とか心理学における言葉の定義構造そのものが正常人の主観世界に依拠して構築されたものだから、異常者の異常さは捉えきれるわけないよね、という話。だって「人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ」ってことで、異常者の異常さ(アブジェ)を棄却した(アブジェクシオン)のが正常人なんだから。つまりそもそも異常さについて見えなくなること自体が正常人になるってことなのだ。
鏡像段階に不具合がある自閉症者でも、鏡像的な他者(感情移入された自分含む)を手に入れられる場合がある。
しかし、彼らの鏡は歪んでいる。
いずれそれが自分の鏡像ではないことに気づくだろう。これを繰り返していけば、擬似的な鏡像関係により大人の着ぐるみを着ていられている自閉症者も、未去勢の本質たる妄想的(パラノイアック)で分裂的(スキゾフレニック)で抑鬱的(メランコリック)な、理想的なキチガイに、器官なき身体に近づいていく、のかな? 自分の子供とかはもっとも明確な鏡像だから、子供がいる自閉症者の方が正常人に近い主観世界を生きられる可能性が高い、と言えるだろうね。
しかし、ファルスに不具合がある事実は動かない。
正常人に近い主観世界を生きることとはいわゆる主体化なわけだから、ドナのテクストについて斎藤環が指摘した「主体化への恐れ」が生じるだろうと予測できる。
そういう意味では、「主体化への恐れ」と戦って主体化しようとしているのがドナとかのタイプの自閉症者たちで、むしろ「主体化への怖れ」をマゾヒスティックに保持し続けているのが後者の自閉症者たち、ってことになるか。「狂気に固執している」とラカンに見捨てられたアルトーに近いのが分裂病型人格障害チックな自閉症者たち、ってことかな。ドゥルージアン、ガタリアンたちはその教義に則るならどっち擁護すべきかバカでもわかるだろ。
どっちが自閉症であってどっちが自閉症じゃないってのは、ただの精神医学っていう社会での肩書きにすぎないわけで、当事者でもないわたしは正直どうでもいい。その代わり「ファルスに不具合がある人たち」「未去勢者」「アンテ・フェストゥム」などという(わたしにとっての)実体を示差できる便利な学術的概念を持っている(把握できている)から。まあ後者は分裂病型人格障害って肩書きがあるからそっちでもええんちゃうの? とかは思うけど、あれじゃん、肩書きなんて社会的権力闘争(たとえば多数決とか)でどうにでもなるもんでしょ? シニフィアンの恣意性って奴だな。言葉の定義の問題だから勝手にやってちょ、とわたしは思う。
わたしはわたしの興味が向いた実体を見つめるだけ。
もうちょっと観察してよっと。
……とか書いてたら早速か。
簡単に群れられないことが端的に示されているこの事象が、むしろ彼らが本当の(自閉症とは言わないが)未去勢者であることを示していると言える。
かと言って群れちゃいけないって話じゃないんだよ。群れたいのに群れられない、という言い方が正しい。だからこそ彼らは傷つくのだから。傷つくことができるのだ。彼らの群れたがる意志を無視してはいけない。主体化即ちパラノイア化を怖れながら(嫌悪しながら)もパラノイアになろうとする努力を無視してはいけない。その苦痛を無視してはいけない。臨床的視点として、ね。
あーやっぱ観察だよ観察。解剖したらだめだよわたしは。
解剖すんのは正常人だけにしよう。
あー断頭されたまんこがなんか言ってる。
=====
趣味が合うは相手のどこかに好意を持てる人。
=====
その思考回路自体が正常人のそれだっつに。快楽原則が働いている証拠。まあ「自分のこれは好意なのか?」という自問自答が続いている分中二病悪化の可能性はないとは言えないがね。君が「好意」とか「尊敬」とか言って見つめようとしているのがお前自身の快楽原則だ。そういった哲学的思索が(中二病を含む)神経症を悪化させることは学問史的な臨床視点から見て事実だ。よってその部分はわたしは擁護できる。あっぱらぱーなだけのツレションメス犬どもよりかははるかにマシ。要するに、悩め、悩め、気がふれるまで、ということ。
好きも嫌いも同じ興味だ。わたしは自分の興味が好きか嫌いかわからない。わたしが不快に思って反応していることでも他人から見れば好意に見られることもあるし、わたしは好意でやっていると思ってても他人には悪意に見られることもある。わたしにとって好きか嫌いかなんて他人が決めることなのだ。
お前が自分で「好意」なり「尊敬」なりと思っているその感じこそが他人からの洗脳による分別機能のアウトプットにすぎないんだよ。正常というパラノイアックな権力の行使だ。
違う、この「好意」や「尊敬」という気持ちは洗脳とかじゃなくてわたしのものだ、と思えるなら君は立派に正常な主観世界を生きている。そこを超えれば君が涎垂れ流しながら欲望しているキチガイの世界が開けてくるよ、という話。
テクストのしょっぱなからションベン撒き散らかすなよ、くせえなあメス犬が。
ブスって大概こうだよな。精神的なところだけでもみんなに好かれたがる。いじめられっ子も大体そう。わたしも大概ハブられてたからいじめられっ子側に見られてたのかもしれんが、他のいじめられっ子から卑屈な笑みで「友だちになりましょ」みたいに言われた感じを思い出してぞっとした。普通の正常人よりタチが悪い。こういうの。表面的なところだけで被権力者の立場に立たされて、仲間を増やすことでそれに対抗しようとしている。
仲間を増やせられる機能を持っていること自体が権力者である証なのだよ。
「顔は枕で隠してていいからわたしとセックスしてください」と言ってるのと変わらんよ。わたしから見たら。まあわたしもテクとして使っていた時期はあるが。お前が欲望しているのが相手の(それこそ趣味とかっていうのを含めた統合的な)人格か、そいつの趣味だけという部分的なものか、によって変わるんだろうな。「尊敬」なんて言葉に連鎖しているところを見るとお前は前者を欲望していると分析可能だ。この辺りも(無意識的な)正常な思考回路がだだ漏れしていると言える。ちなみにわたしはその時の自分の身体反応を求めていた。自体愛だ。松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』の主人公なんか自体愛っぽい。ブスであることを逆手に取ってそんな卑屈な立場から一歩抜け出したのが笙野頼子だな。まあ最近の作品は昇華されちゃってるけどね。むしろ中二病の治療になりそうだ。
だから読んでみろとは言わない。わたしがお前など関係なく自分の思考の中連想されたものを書き連ねているだけ。ただの身勝手な例示だから読まなくてもいいよ、という話。
ああうん、ここで「聞き分けのよい学習障害者」とキチガイの一種たる自閉症は別物だ、と述べているが、(君みたいな)ブスっていうのは「聞き分けのよい容貌障害者」なんだよな。ブスとキチガイは別物だ。
めんどくせえな。ブスのションベンって。
あ、あと
=====
認めてもらいたい気持ちなんて意識したことないからな
=====
当たり前だ。その気持ちが無意識下に抑圧されているから真理となるんだ。それを意識化する作業が精神分析治療だ。
無意識的な真理になっているから、「あなたを認めてくれる誰かと仲良くやってればいいじゃん」なんてセリフで隠蔽されて出てくるんだよ。認めてくれさえすれば「いいじゃん」ということだろ? (無意識的な)本音がだだ漏れなんだよ、特にお前みたいなコンプレックスのカタマリは。
わたしにつっつかれる前にさんざんションベン撒き散らかしといて「(意識して)撒き散らかしてません」と言っているようなもんだ。そりゃそうだ。お前の無意識が撒き散らかしているんだから。わたしがお前の文章を前から読んでいるのは足跡でお前も知ってるよな。
ちなみに言うならコンプレックスとは自我の裏打ちである。コンプレックスのカタマリ=自我が強い、ということ。お前って自意識過剰だもんな。別館の前半とかすげえそんな感じがする。「わたしを認めてよ」っていう愚痴。
今は違う? うん。狂気が多少は伝染してるんだろうね。その時期と比べると中二病は多少は悪化しているだろう。よかったね。
「好意」だか「尊敬」だか知らんが、別に「生理的に嫌い」でもいい、興味を持った奴とレイプし合えよ。殺し合えよ。それがキチガイの作法だ。
お前どっかで書いてたな、「わたしを丸め込もうとしている」とかって。お前今自分がわたしを丸め込もうとしているのに気づいているか?
ナイフなら大歓迎だが、精液をわたしにぶっかけないでくれるか?
お前の正常人度は高い。まずそのことを自覚したまえ。そこをきちんと自覚すれば、お前がキチガイに対して涎を垂れ流すのは、ペドフィリアやロリコンと同じ精神構造をしていると気づけるだろう。
お前は自分より弱い者を、己のアイデンティティのために、ファルスの防衛のために、食い物にしようとしているだけなんだよ。わたしにはそうにしか見えない。
お前はわたしを丸め込もうとしている。
=====
私はまんこなわけだから、記事の中で触れられると喜んでしまいますよ
=====
これこれ。
お前が下品に「わたしを認めてくれるかも」と思っていたキチガイの言葉が当てはまろう。
=====
ああ、あの人も日記や何かでwをつけたりして
気丈そうに振舞う事で自分を保っているんだ
そうでもしないと恐怖で自分が壊れてしまうんだ
=====
いや多分お前じゃない人間について言ったセリフだろうがな。このセリフがちょうどお前の上のセリフに当てはまると「わたしが」思ったから引用しておく。
こういう対応が無意識的にできるお前は、傷つかない。表面的なところでしか傷つかない。体の芯まで傷つかないから、傷つきたがっている。たとえばリスカする。
お前の皮膚には鏡の鎧が癒着している。
ああきめえ。こっちにくんなよ。クリトリス丸出しで。
お前がキチガイを欲望しているのはあれだな、陰核手淫の回帰ってことになるんだろうな。なるほど。微妙だけど。
傷ついてしまうキチガイは正常になろうとしている。獣道から抜け出そうとしている。
傷つきたいガタリやこのまんこちゃんみたいな正常人はキチガイになろうとしている。獣道を歩きたがる。能天気な顔で。
彼らは確かにすれ違う可能性は高いだろう。
しかし、だからと言って「わたしも同じ、わたしもそう、わたしはあなたの痛みがわかる」となるのとは違う。同じでは全くない。進んでいる方向が逆だ。
それを無視して「わたしも同じ」となるのが正常人のパラノイアックな権力行使なのだ。
キチガイを殺すのは、キチガイを正常化させるのは、えてしてこういう正常人たちなのだ。
キチガイを殺した正常人たちは癒される。対象aを垣間見る。
違うって? わたしをそんな風に決めつけるなって? なかなか中二病らしいリアクションじゃないか。
ならば傷ついてみろよ。
本当に体の芯まで傷ついているならそんな能天気な余裕かました文章を書けるわけがない。
傷ついているからこそ能天気なフリをしている、余裕かまそうとしている、だって? ほれ、それが自我の防衛ってことだよ。自我が弱い故に傷ついている反応ではない。
お前の言う表面的ではないところ即ち内面即ち無意識など「言語のように構造化されている」無意識即ち超自我だ。
超自我が形成されているお前は立派な正常人だ。
キチガイの言う表面的ではないところとは現実界だ。
人の表面的ではないところと獣の表面的ではないところは別だ。お前らツレション星人にとって表面的ではないところこそが、獣にとっては表面的な「安っぽい賛同」なのだ。
獣は体を動かすだけで体の芯まで傷ついてしまう。鎧に不具合があるからだ。だからむしろ獣は決めつけられたがる。マゾヒスティックに束縛されたがる。とはいえ誰でもいいってわけじゃないが。もちろん反撃もする。物体の作用に対する反作用だ。そこに能天気さや余裕などない。
「必死だなwww」と揶揄される状態の方がまだ獣に親近している。お前が精液ぶっかけたがってるあるキチガイなんか必死すぎるだろ? 体の芯まで傷ついているから必死になるんだよ。
現実界はしかめっ面をしているのだ。
あ、なんかきれいに一つの記事としてまとまった。おお。