「差異化」と「同一化」
2006/12/21/Thu
「差異化」と「同一化」。
基本は同一化である。幼児は胎内へ戻ることを憧憬する。しかしそこには「母親の中にある父親のペニス」(メラニー・クラインによる)があり、幼児はそれを恐れる。同一化に対し、憧憬と恐れという矛盾した感情を持つ。
同一化の名残は母親の乳房だ。同一だった、胎内の頃のように「求めるだけ与えられる」ことを象徴する唯一のチャンネルだ。
また幼児は思い通りに動く自分の体を鏡や他者の反応を通じて認知する。幼児にとって全能感を満たす容器だ。同時に母親との同一化が永遠に果たせないことを知る。乳房が永遠でないことを悟った幼児はそれを破壊しようとする。「乳房に糞便をかける」のだ。同一化のシンボルである乳房を破壊することで、差異化への希求の根源が完成される。
これら矛盾が多い複雑な感情を、赤ん坊は持っている。それを自分のものにするため、生後初めての「自我の統一」と言ってもよいだろうが、幼児は自分の内面を象徴化する。比喩的にいうなら「プラス」と「マイナス」だ。二項対立だ。この二項(感情の表出としては「快」と「不快」となる)が象徴界の根源であり、幼児はここでそれを手に入れる。
ラカンの「対象a」は、代表的に「乳房」「糞便」「声」「まなざし」という四つの形式として表れるそうだ。
「乳房」と「糞便」は、先に述べたことを考えれば、「同一化」と「差異化」のシンボルといえるのではないだろうか。余談になるが「声」は言葉と関係が深い。よって「声」は象徴界、「まなざし」は想像界のシンボルといえるのではないか。
「糞便」については、神話学では自分の死の代理的象徴にもなるそうだ。自分の体の一部が、腐敗して自然に帰る糞の姿からそうなったのだろう。そう考えると、フロイトが幼児の遊びから「死への欲動」を見出したことにも繋がる。人は幼児の頃すでに「死物化した自己」を象徴的に知っているのだ。
うーん。「母親の中にある父親のペニス」という比喩がしっくりこないぞ……。同一化への恐れ。根源があるのだろうか。家庭における想像的父親の不在で説明しちゃいけないのだろうか。
「同一化」と「差異化」は社会の中でコミュニティを作る時に傾向として顕著になる。
例えばオウム真理教を思い出そう。教団内部の統一感、一体感。これはまさに同一化への希求がなせる業だ。しかしコミュニティの定めとして、内部の一体感が進めば進むほどその外部との「差異」が明確になってくる。先に述べたように「同一化」と「差異化」への希求は表裏一体だ。「差異化」への希求が、外部との「差異」に集中する。内部での「同一化」への圧力が強ければ強いほど、個人の中では「差異化」への希求が強くなる。これが外壁にある「差異」に集中するのだろう。
程度の差はあれ、2ちゃんねるにもオタク文化にもこの傾向が感じられる。2ちゃんならその攻撃性、オタク文化なら芸術文化論的な「権威」や「知」へのアレルギー的拒否。ただ一方、ガンダムやエヴァンゲリオンのように、外部への拡散志向的な、サブカルチャーの本能と言ってもよいメジャーカルチャーへの挑戦という意識はまだ残っているとは思う。
外部文化へのあくなき挑戦意欲。これがサブカルチャーの存在意義だったように思う。いつごろからかそれが「かっこ悪い」ものになってしまっていた。
最近のオタク文化は内的志向が強いように思える。90年代中ごろ以降「オタク」が一般化したことで、サブカルチャーの本義である外的志向が必要なくなったから、とも言えるだろう。
コミュニティの内部で「同一化」の希求を満たし、外壁で「差異化」の希求を満たす。理想的なコミュニティのあり方だとも言える。しかしこれを理想的というならば、オウムや前世を信じる少女たちのコミュニティも理想的ということになる。
短絡的なバイオスフィアならぬコミュニティスフィアが問題なのか。それなら簡単だ。コミュニティに所属する人間の数で「よいコミュニティ」「悪いコミュニティ」を判断すればよいのだから。しかし、問題はそう単純化できるものなのだろうか。
私はこれに対する概念として、仏教の「空観」における、「縁起」(他者との関係性)だけが自己を決定するという論理に解決策があるように思えるのだが、仏教はなかなか言葉にするのが難しい。うーん。わからないや……。
基本は同一化である。幼児は胎内へ戻ることを憧憬する。しかしそこには「母親の中にある父親のペニス」(メラニー・クラインによる)があり、幼児はそれを恐れる。同一化に対し、憧憬と恐れという矛盾した感情を持つ。
同一化の名残は母親の乳房だ。同一だった、胎内の頃のように「求めるだけ与えられる」ことを象徴する唯一のチャンネルだ。
また幼児は思い通りに動く自分の体を鏡や他者の反応を通じて認知する。幼児にとって全能感を満たす容器だ。同時に母親との同一化が永遠に果たせないことを知る。乳房が永遠でないことを悟った幼児はそれを破壊しようとする。「乳房に糞便をかける」のだ。同一化のシンボルである乳房を破壊することで、差異化への希求の根源が完成される。
これら矛盾が多い複雑な感情を、赤ん坊は持っている。それを自分のものにするため、生後初めての「自我の統一」と言ってもよいだろうが、幼児は自分の内面を象徴化する。比喩的にいうなら「プラス」と「マイナス」だ。二項対立だ。この二項(感情の表出としては「快」と「不快」となる)が象徴界の根源であり、幼児はここでそれを手に入れる。
ラカンの「対象a」は、代表的に「乳房」「糞便」「声」「まなざし」という四つの形式として表れるそうだ。
「乳房」と「糞便」は、先に述べたことを考えれば、「同一化」と「差異化」のシンボルといえるのではないだろうか。余談になるが「声」は言葉と関係が深い。よって「声」は象徴界、「まなざし」は想像界のシンボルといえるのではないか。
「糞便」については、神話学では自分の死の代理的象徴にもなるそうだ。自分の体の一部が、腐敗して自然に帰る糞の姿からそうなったのだろう。そう考えると、フロイトが幼児の遊びから「死への欲動」を見出したことにも繋がる。人は幼児の頃すでに「死物化した自己」を象徴的に知っているのだ。
うーん。「母親の中にある父親のペニス」という比喩がしっくりこないぞ……。同一化への恐れ。根源があるのだろうか。家庭における想像的父親の不在で説明しちゃいけないのだろうか。
「同一化」と「差異化」は社会の中でコミュニティを作る時に傾向として顕著になる。
例えばオウム真理教を思い出そう。教団内部の統一感、一体感。これはまさに同一化への希求がなせる業だ。しかしコミュニティの定めとして、内部の一体感が進めば進むほどその外部との「差異」が明確になってくる。先に述べたように「同一化」と「差異化」への希求は表裏一体だ。「差異化」への希求が、外部との「差異」に集中する。内部での「同一化」への圧力が強ければ強いほど、個人の中では「差異化」への希求が強くなる。これが外壁にある「差異」に集中するのだろう。
程度の差はあれ、2ちゃんねるにもオタク文化にもこの傾向が感じられる。2ちゃんならその攻撃性、オタク文化なら芸術文化論的な「権威」や「知」へのアレルギー的拒否。ただ一方、ガンダムやエヴァンゲリオンのように、外部への拡散志向的な、サブカルチャーの本能と言ってもよいメジャーカルチャーへの挑戦という意識はまだ残っているとは思う。
外部文化へのあくなき挑戦意欲。これがサブカルチャーの存在意義だったように思う。いつごろからかそれが「かっこ悪い」ものになってしまっていた。
最近のオタク文化は内的志向が強いように思える。90年代中ごろ以降「オタク」が一般化したことで、サブカルチャーの本義である外的志向が必要なくなったから、とも言えるだろう。
コミュニティの内部で「同一化」の希求を満たし、外壁で「差異化」の希求を満たす。理想的なコミュニティのあり方だとも言える。しかしこれを理想的というならば、オウムや前世を信じる少女たちのコミュニティも理想的ということになる。
短絡的なバイオスフィアならぬコミュニティスフィアが問題なのか。それなら簡単だ。コミュニティに所属する人間の数で「よいコミュニティ」「悪いコミュニティ」を判断すればよいのだから。しかし、問題はそう単純化できるものなのだろうか。
私はこれに対する概念として、仏教の「空観」における、「縁起」(他者との関係性)だけが自己を決定するという論理に解決策があるように思えるのだが、仏教はなかなか言葉にするのが難しい。うーん。わからないや……。