さみしいからじゃない。
2008/12/23/Tue
欲情しているからだ。
獣の欲情。
あなたも獣みたいに欲情するといい。
獣の欲情を無意識的に棄却できるのが正常人だ。
それを抑えきれないのがキチガイだ。
獣の欲情は学者の欲情でもある。
真なるものを希求する欲動である。
棄却と抑圧は違う。
抑圧されたものは超自我の裏打ちとして働く。抑圧されたものはその主体のアイデンティティ強化に利用される。
棄却されたものは超自我を破壊する。棄却されたものはアイデンティティ構築を阻害する。
だから主体は棄却されたものに恐怖する。
恐怖の権力である。
「なぜ? なぜしちゃいけないの?」
「私が不快だからだ」
子供の教育現場の本性はこういうものである。こうであることを批判しているわけではない。こうであれと言っているのだ。
「他の人が迷惑がってるでしょ」
「あなたのために言っているのよ」
無意識的に嘘をつける正常人はこう言う。
違う。
何故主語にお前自身が存在しないのだ?
お前自身が不快だからだろう?
棄却する力を見せつけるべきだ。
恐怖の権力に対抗する棄却する力。
キチガイを一人残らず殺戮する力。
魔女たちを焼き殺した聖なる力。
正常人の力とはそういうものだ。
正常人はこの力を取り返さなければならない。
わたしを焼き殺しなさい。正常人らしい正常人であるために。
もちろんわたしは抵抗する。焼き殺される摂理を理解しているからと言って黙って焼き殺されるいわれはない。
これは戦いだ。
この戦いが意味を生む。倫理の裏打ちとなる。
この戦いを主題に据えようとしたのが残酷演劇だ。
従って、残酷演劇は、ケガレと聖なるものと双方の本質を表現することを目的とした演劇論であることがわかる。
わたしは正常人に抵抗する。
ラカンに「狂気に固執している」と言われ棄却されたアルトーのごとく。
最近みゆきづいてるな。今日のBGM。この時期にはぴったりだ。
ああっ、そうか。
『まんがくらぶ』1月号の『かよちゃんの荷物』がすごくぐっときたのだがこういうことだ。
「やっぱさみしいんじゃん(笑)」
とか言われても仕方ないよなこれじゃ。
違うんだよー。
「蕎麦喰わねえ?」も「じゃあ仙台で(牛タン喰おう)」も、言ってくる方になんの裏も感じない。食欲っていう誰にでもわかりやすい気持ちを根拠にしている。獣の欲情とか言うと大仰だけど、うっすらそんな感じがする。
突然ってことも大事。欲動は予測できない。予測できた気持ちは既に欲望に劣化されている。こちらの問題として。
蕎麦の子もかよちゃんも裏がない。そのままだ。みゆき(歌の主人公)も東北の友人も受身だ。
ここになんらかのシニフィアンスがある。
正常人の「裏がない」は、わたしから見ると裏がある。本人は裏などないと思っているだろう。裏などなしに
「他の人が迷惑がってるでしょ」
「あなたのために言っているのよ」
などと言っているのだろう。
うん。超自我って無意識だからね。裏がないと思い込めているんだ。
「無意識は言語のように構造化されている」
こんな簡単なことなのになんでわからないんだろう?
正常人の真理は常に既に隠蔽されている。それを理屈で見事に表現したのがラカン論だ。
わたしは求めているのは超自我などではない。
こんな簡単なことなのになんでわかってくれないんだろう?
さみしいんじゃない。
「さみしい」なんて言うと、裏がありまくりの劣化された優しさを享受しなければならなくなる。
わたしは欲情しているのだ。
突然で裏のない働きかけを。
あのね、わかんない奴もいるさって
あのね、わかんない奴もいるさって
あんまり突然言うから、泣きたくなるんだ
救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
獣は救われないのだ。
獣に天国など存在しないのだ。
背中に隠したナイフの意味を
問わないことが友情だろうか
ナイフを無意識に抑圧したのが正常人だ。
背中のナイフに自分で気づけないのが正常人だ。
獣の欲情。
あなたも獣みたいに欲情するといい。
獣の欲情を無意識的に棄却できるのが正常人だ。
それを抑えきれないのがキチガイだ。
獣の欲情は学者の欲情でもある。
真なるものを希求する欲動である。
棄却と抑圧は違う。
抑圧されたものは超自我の裏打ちとして働く。抑圧されたものはその主体のアイデンティティ強化に利用される。
棄却されたものは超自我を破壊する。棄却されたものはアイデンティティ構築を阻害する。
だから主体は棄却されたものに恐怖する。
恐怖の権力である。
「なぜ? なぜしちゃいけないの?」
「私が不快だからだ」
子供の教育現場の本性はこういうものである。こうであることを批判しているわけではない。こうであれと言っているのだ。
「他の人が迷惑がってるでしょ」
「あなたのために言っているのよ」
無意識的に嘘をつける正常人はこう言う。
違う。
何故主語にお前自身が存在しないのだ?
お前自身が不快だからだろう?
棄却する力を見せつけるべきだ。
恐怖の権力に対抗する棄却する力。
キチガイを一人残らず殺戮する力。
魔女たちを焼き殺した聖なる力。
正常人の力とはそういうものだ。
正常人はこの力を取り返さなければならない。
わたしを焼き殺しなさい。正常人らしい正常人であるために。
もちろんわたしは抵抗する。焼き殺される摂理を理解しているからと言って黙って焼き殺されるいわれはない。
これは戦いだ。
この戦いが意味を生む。倫理の裏打ちとなる。
この戦いを主題に据えようとしたのが残酷演劇だ。
従って、残酷演劇は、ケガレと聖なるものと双方の本質を表現することを目的とした演劇論であることがわかる。
わたしは正常人に抵抗する。
ラカンに「狂気に固執している」と言われ棄却されたアルトーのごとく。
最近みゆきづいてるな。今日のBGM。この時期にはぴったりだ。
ああっ、そうか。
『まんがくらぶ』1月号の『かよちゃんの荷物』がすごくぐっときたのだがこういうことだ。
「やっぱさみしいんじゃん(笑)」
とか言われても仕方ないよなこれじゃ。
違うんだよー。
「蕎麦喰わねえ?」も「じゃあ仙台で(牛タン喰おう)」も、言ってくる方になんの裏も感じない。食欲っていう誰にでもわかりやすい気持ちを根拠にしている。獣の欲情とか言うと大仰だけど、うっすらそんな感じがする。
突然ってことも大事。欲動は予測できない。予測できた気持ちは既に欲望に劣化されている。こちらの問題として。
蕎麦の子もかよちゃんも裏がない。そのままだ。みゆき(歌の主人公)も東北の友人も受身だ。
ここになんらかのシニフィアンスがある。
正常人の「裏がない」は、わたしから見ると裏がある。本人は裏などないと思っているだろう。裏などなしに
「他の人が迷惑がってるでしょ」
「あなたのために言っているのよ」
などと言っているのだろう。
うん。超自我って無意識だからね。裏がないと思い込めているんだ。
「無意識は言語のように構造化されている」
こんな簡単なことなのになんでわからないんだろう?
正常人の真理は常に既に隠蔽されている。それを理屈で見事に表現したのがラカン論だ。
わたしは求めているのは超自我などではない。
こんな簡単なことなのになんでわかってくれないんだろう?
さみしいんじゃない。
「さみしい」なんて言うと、裏がありまくりの劣化された優しさを享受しなければならなくなる。
わたしは欲情しているのだ。
突然で裏のない働きかけを。
あのね、わかんない奴もいるさって
あのね、わかんない奴もいるさって
あんまり突然言うから、泣きたくなるんだ
救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
獣は救われないのだ。
獣に天国など存在しないのだ。
背中に隠したナイフの意味を
問わないことが友情だろうか
ナイフを無意識に抑圧したのが正常人だ。
背中のナイフに自分で気づけないのが正常人だ。