髪を洗う女の十二月
2008/12/26/Fri
こういう夜の街を歌っている歌が好きだ。
どっかの演出家が「むしろうらびれた飲み屋街のションベン臭い路地裏の方に心惹かれる」みたいなこと言っていたけどわたしもそのタイプらしい。
この記事のコメント欄から。
=====
知り合いのアスペルガー症候群者は、メンヘル板における「本物のメンヘル」の見分け方の根拠を、「長年お風呂に入ってない臭いみたいなもの」と表現していました。
=====
もう少し書くと、「たとえば三日だけ風呂に入ってない臭いと長年風呂に入ってない臭いって違うじゃん、そういう違い」みたいに言っていた。メンヘル板にいる多くの自称「病んでいる」名無したちは「三日だけ風呂に入っていない奴ら」らしい。
そんな彼に「じゃあわたしは?」と聞くと、「髪だけ毎日洗ってる感じ」と言われた。わたしから見れば「それはお前だろう」と思えたのは今だから言う。
自殺する若い女がこの月だけ急に増える
それぞれに男たち急に正気に返るシーズン
何万人の女たちが「わたしは違う」と思いながら
何万人の女たちと同じと気がついてしまう月
人の叫びも 百舌の叫びも
風の叫びも 笛の叫びも
みんな似ている みんな似ている
人恋しと泣け十二月
この歌の「何万人の女たちと同じと気がついてしまう」主人公は未去勢者だろうか。「何万人の女たち」が去勢済みな主体であり、そいつらと自分は鏡像的に同じだと気がついたのだろうか。それとも、主人公は去勢済みな主体で、「何万人の女たち」と物自体的に同じだと気がついたのだろうか。後者はドゥルージアンが「雨が降るように人が死ぬ」と言う時の顔と等しい精神構造だろう。
「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」物自体的に同じ音波だと言えるし、パラノイアックな視点で違うとも言える。たとえば百舌に何かしらの思い入れのある人間は百舌の叫びに感情移入して特別な音として聞くだろう。
「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」パラノイアックな視点で同じノイズだと言えるし、物自体的に音波の形状が違うと言える。
中島みゆきの作品群(特に九十年代以前のそれ)を考えれば、「みじめな女」即ちアンテ・フェストゥム的な主人公を歌っているものが多いため、主人公は未去勢者であり、去勢されようとしている歌である、という解釈が可能だろう。であれば歌い出しの「自殺」という言葉にも説得力が出る。去勢とはバンジージャンプなどと言ったイニシエーションで象徴されるように生死の境として認知されるからだ。この解釈は、(幾分関連は薄くなるが)当該曲が収録されたアルバムタイトル『グッバイガール』とも構造的に符号する。
しかし、去勢済みな主体が未去勢な主観世界に脱出することもありえる。言語ゲームからの跳躍である。統合失調症である。主人公が統合失調症だとは言わないが、(精神分析的に)同様の心的機制が生じている可能性も否定できない。この場合は、「何万人の女たちと」「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」物自体的に「似ている」ことに主人公は気がついた、という解釈になる。統合失調症ならば、たとえば周りの人間がゾンビやロボットに見える幻覚に相当するだろう。
このように、去勢周辺の主観世界では、未去勢と去勢の区別は曖昧になる。当然である。去勢とは未去勢と去勢済みの主観世界の断絶でもあるが、同時にそれらを繋ぐ領域でもあるからだ。
しかし、最後の一言でわたしの解釈は決定づけられる。主人公は、「何万人の女たち」と同じと気づくことで、「人恋しと泣け」るようになったのだ、とわたしは感じる。「泣け」という命令形からそう推測する。未去勢の、少女的な主観世界にまだ片足を突っ込んでいるから、「何万人の女たち」と同じと気がつくことができたお前(去勢済みな部分)は「人恋しと泣け」、と言っているのである。このセリフは、(未去勢的な)少女が(去勢されて)大人になった主人公に吐きつけた捨てゼリフならぬ捨てられゼリフである。
ここに、正常人とキチガイのせめぎ合いたる残酷演劇的な緊張感がうっすら醸し出されているように、わたしには思える。
「人が恋しいだあ? 笑える。泣けよ、人恋しと泣けばいいじゃん」
泣き笑いのような、怯えているような(主人公の)少女(の部分)が、(主人公の)大人になった自分(という部分)に唾を吐く。
元結ほどけば崩れるように
髪の毛だけが泣くのです
だからわたしはこれらの曲が好きだ、という話でした。
今聞くとギャグかよ、ぐらいな歌詞だけどね。
んで。
精神分析やってる人たちさ、読んでるなら反応してくれないかね。動物園の檻の中に詰め込まれた気分でうっとおしい。わたしを臨床・分析してみやがれってんだ。
したくないならしないでいい。勝手に噛みついてるから。
そういうわけで、死ねよお前ら。わたしを殺せ。わたしはお前たちを殺したい。
もっと傷つけあいまっしょ♪
なんだっけこの歌と思ったらリンドバーグかなついなおい。
傷つくのも仕方ない、か。
そう言えばまだ見てんのな、まんこちゃん。
なんかどうでもよくなった。わたしは。どうでもよくなった視点から言わせてもらうと、
「わたしよくわかんな~い、てへっ」
みたいな
「女子供はバカな方がかわいい」
的な断頭コンプレックスをお前の(以前のものを含めた)テクストから感じたのが一番あれなんだな。わたし視点正常人だと判断する強い根拠になっている。もちろん事後的な分析だが。女ってな去勢されることが即ち未去勢っぽくなることだからな。ここら辺がややこしいところだ。
知りたいことがあれば学べばいい。現代は知るための道具がそこら辺に転がっている。道具をどう使うかはそいつ次第だ。いわゆる学者の社会はそんなただの道具に感情移入しちゃってる奴が多いのは事実だが。フェティシストは多いよ。今思うと、だけど。
お前は違うと言うだろうな。「バカはイヤだ」と。しかしお前の言う「バカ」の根拠は他人の言う「バカ」じゃないか? 他人にバカじゃないと認められたいから「バカはイヤだ」と言っているのではないか?
わたしの言う「バカ」は違う。他人の評価関係なしに、物事の認知を短絡化することを「バカ」と言っている。この短絡化は発達心理学で言う中枢性統合機能あるいは精神分析学で言うファルスあるいは平たく言うなら固定観念化でもあるから、中枢性統合機能あるいはファルスに不具合がない主体と定義されている正常人はみんな短絡化されたあるいは固定観念化された視点即ち「バカ」の視点を無意識的に取ってしまっている、ということになる。これが(少なくとも精神医学的にも発達心理学的にも精神分析学的にも)精神的に正常であるということである。
この視点で言うなら、お前の認知の仕方は「バカ」だとわたしには思える。さまざまな事象を短絡化して喋っている。
かと言って短絡化も道具としてなら有用なんだがね。数学の定理だ。そうではなく、無意識的に短絡化できる自分の主観世界に対する偏執が、わたしは気持ち悪い、という話だ。
それがお前には感じられた、ということ。確かに一般的なたとえば小倉優子レベルの「バカの方がかわいいんでしょ」ではないかもしれんが、無意識レベルで同じものをわたしは感じた。
だが、お前はそういう無意識的に短絡化して(統合して)物事を見ている自分の視点を気持ち悪いと思えている。少し前に本館の方で書いていた炎上したブログについてのわけのわからんうだうだした語り口はなかなかわたしの言うキチガイっぽさをうっすらとではあるが醸し出している。その事件に纏わるさまざまな事柄に疑念を持って、即ち分析的な視点で語れている。従って、お前は自分の中枢性統合機能に、ファルスに疑念を持ち始めている、とわたしは解釈する。まあそれが(わたしの広義的な語義での)「中二病」ってものなんだけどね。
そういう話にすぎんよ、ってこと。
だけど、そこで「わたしはキチガイの仲間だ」となるのは大間違いって話だ。
キチガイに仲間などいない。短絡的な物言いだが、そう思っておけば間違いない。お前は不用意にもキチガイに「わたしも同じ、孤独なの」と泣きついてきた。仲間を作れないのがキチガイなわけだから、お前の「仲間が欲しい」=「他人に認められたい」という気持ちは裏切られるに決まっておろう。もちろんキチガイ側もそうだ。お前に対するあるキチガイのがっかり感ってなそういうものだ。
キチガイにとってはキチガイ同士であってもお互いが理解不能なのだ。お互いがお互いキチガイなのだ。もちろん相手が正常人であってもね。
そんな哲学で言う独我論の究極地点こそが真の現実である、としたのがラカン派精神分析論だ。人間同士は現実レベルでは理解し合えない。理解し合えているのは幻想・妄想(象徴界あるいは想像界)の世界での話にすぎない、ってね。
お前は周りの人間全てがキチガイに思える主観世界を生きたいのかい?
統合失調症者の周りの人間全てがゾンビに思える幻覚を味わいたいのかい?
その覚悟はあるのかい?
キチガイを幻想的な世界を生きるためのダシにしようとしているだけじゃないかい?
正常人の幻想的な世界でいじめられたからって、より弱い者を食い物にしようとしているだけじゃないかい?
わたしはそう問うているのだ。
「お互いがお互いキチガイなのだ」ってな状態はお前みたいな正常人視点から言うと孤独に思えるだろう。でも孤独でもない。そもそも理解し合えるわけがないただの壁だって押せば反作用が返ってくる。物理的に何かと関連している。量子力学まで行けばむしろ他の物質と関連しない物質など存在しない、とさえなる。幻想の世界でそれは孤独と呼べるものだが、物自体的な世界ではそれは孤独でもなんでもない、ということだ。
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
何か作用があると反作用が生じるのが物自体的な人間即ち(宗教的な語義での)獣即ち(わたしの語義での)キチガイだ。
救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
獣は救われない。何故なら人ではないから。だからキチガイはむしろ人であろうとする。正常になろうとする。救われたがる。だけど救われない。それは、物体としての彼らの肉体がそうなっているからだ。自閉症は器質因と言われ、統合失調症は内因と言われている。
お前は救われない物体である覚悟が、こちら側から言えば自己分析ができているのかい?
お前がキチガイを欲望しているのは、ただの心因性によるものではないかい? であるならば、お前は救われるだろう。自然の摂理として。何故なら救われることを既に知っているのが(正常な)心なのだから。
わたしはお前をそう穿って見ている。
お前の放つ正常人の臭いに警戒している。
まあ要するに、自己分析が足りねえよ、悩め、悩め、気がふれるまで、ってところに結論づいちゃうんだけどね。短絡化すれば。悩めばいいってもんじゃないけどねえ。この中枢性統合機能あるいはファルスって無意識のものだから。だけどまあ今のお前に当てはまる中二病悪化のための処方箋はそういうものになるだろうな。
おお、(精神疾患の症状を悪化させるのを目的としたわたしオリジナル概念の)逆精神分析らしいじゃないか。
まあ、お好きになさい。わたしを反面教師にするもよし。
あれだな、正常人って即ち(精神分析学では)神経症ってことになるわけで、どっかで中二病は神経症の一種だ、みたいなこと書いたけど、要するにファルス(に不具合)があるかないかなんだよな。神経症は、ファルスが正常に機能しているのに心因あるいは環境因によりファルスが不安定になった症状、という表現で一括可能だ。
しかし、中二病については、思春期ということを考慮すれば、身体的な変動が鏡像段階っていう主観世界の大激動たるトラウマを惹起させるから起こる、と考えられる。そういう意味では神経症的ではあるが一般的に考えられる心因あるいは環境因とは微妙に差異がある、などと言えるかもしれない。実際、統合失調症についての論では、思春期の少年少女にしばしば見られる正常な症状を引き合いに出されることがある。中井久夫もそんなん書いてなかったか。『思春期病』はそういった論を読んだ上で作詞されたものじゃないか、とまで穿ちたくなる。
それはともかく、中二病(仮にそう言っておく)が統合失調症や自閉症と決定的に違うのは寛解後である、と言える。時期的なもので時間が経てば正常らしい正常さを取り戻せるのが中二病、ってことになるな。統合失調症や自閉症は寛解しない。とはいえ苦痛の取り除かれた状態がある程度継続するという意味での寛解の可能性はいくらわたしでも否定しない。寛解という概念とは一体何か、まで行っちゃうなここまで来ると。
だけど、中二病という概念から時期的なものであるというところをわざと排除して言うならば、中二病は神経症の一種というより中二病の一種がさまざまな神経症の症状である、とさえ言えないか。わたしの個人的定義では「中二病とはファルスが不安定になることである」ってものだから。
いや言えねえよ、さすがに「中二」っていう時期的なものを明確に示差しているんだからその理屈の敷衍は無理があるぜ、ならなんでこんなこと書いてんだろうシラネーヨ、という感じで読んでくださいねこの部分は。
あ、やっぱやめ。定義変更。「中二病とはファルスが「思春期において」不安定になることである」って定義にしたらえーでもそれじゃあ三十代のおっさんとかに「お前中二病じゃん(笑)」って言えなくなるじゃーん、この言い方を許容する定義だとやっぱ中二病の様々な症状が神経症の症状として定義されているものであるって言い方になるんだよなーあーうぜえどうでもいいや。
「三日だけ風呂に入ってない臭いと長年風呂に入ってない臭いの違い」って意外と重要かもね、病名というシニフィアンの示差性において。
って話でした。
どっかの演出家が「むしろうらびれた飲み屋街のションベン臭い路地裏の方に心惹かれる」みたいなこと言っていたけどわたしもそのタイプらしい。
この記事のコメント欄から。
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知り合いのアスペルガー症候群者は、メンヘル板における「本物のメンヘル」の見分け方の根拠を、「長年お風呂に入ってない臭いみたいなもの」と表現していました。
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もう少し書くと、「たとえば三日だけ風呂に入ってない臭いと長年風呂に入ってない臭いって違うじゃん、そういう違い」みたいに言っていた。メンヘル板にいる多くの自称「病んでいる」名無したちは「三日だけ風呂に入っていない奴ら」らしい。
そんな彼に「じゃあわたしは?」と聞くと、「髪だけ毎日洗ってる感じ」と言われた。わたしから見れば「それはお前だろう」と思えたのは今だから言う。
自殺する若い女がこの月だけ急に増える
それぞれに男たち急に正気に返るシーズン
何万人の女たちが「わたしは違う」と思いながら
何万人の女たちと同じと気がついてしまう月
人の叫びも 百舌の叫びも
風の叫びも 笛の叫びも
みんな似ている みんな似ている
人恋しと泣け十二月
この歌の「何万人の女たちと同じと気がついてしまう」主人公は未去勢者だろうか。「何万人の女たち」が去勢済みな主体であり、そいつらと自分は鏡像的に同じだと気がついたのだろうか。それとも、主人公は去勢済みな主体で、「何万人の女たち」と物自体的に同じだと気がついたのだろうか。後者はドゥルージアンが「雨が降るように人が死ぬ」と言う時の顔と等しい精神構造だろう。
「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」物自体的に同じ音波だと言えるし、パラノイアックな視点で違うとも言える。たとえば百舌に何かしらの思い入れのある人間は百舌の叫びに感情移入して特別な音として聞くだろう。
「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」パラノイアックな視点で同じノイズだと言えるし、物自体的に音波の形状が違うと言える。
中島みゆきの作品群(特に九十年代以前のそれ)を考えれば、「みじめな女」即ちアンテ・フェストゥム的な主人公を歌っているものが多いため、主人公は未去勢者であり、去勢されようとしている歌である、という解釈が可能だろう。であれば歌い出しの「自殺」という言葉にも説得力が出る。去勢とはバンジージャンプなどと言ったイニシエーションで象徴されるように生死の境として認知されるからだ。この解釈は、(幾分関連は薄くなるが)当該曲が収録されたアルバムタイトル『グッバイガール』とも構造的に符号する。
しかし、去勢済みな主体が未去勢な主観世界に脱出することもありえる。言語ゲームからの跳躍である。統合失調症である。主人公が統合失調症だとは言わないが、(精神分析的に)同様の心的機制が生じている可能性も否定できない。この場合は、「何万人の女たちと」「人の叫びも百舌の叫びも風の叫びも笛の叫びも」物自体的に「似ている」ことに主人公は気がついた、という解釈になる。統合失調症ならば、たとえば周りの人間がゾンビやロボットに見える幻覚に相当するだろう。
このように、去勢周辺の主観世界では、未去勢と去勢の区別は曖昧になる。当然である。去勢とは未去勢と去勢済みの主観世界の断絶でもあるが、同時にそれらを繋ぐ領域でもあるからだ。
しかし、最後の一言でわたしの解釈は決定づけられる。主人公は、「何万人の女たち」と同じと気づくことで、「人恋しと泣け」るようになったのだ、とわたしは感じる。「泣け」という命令形からそう推測する。未去勢の、少女的な主観世界にまだ片足を突っ込んでいるから、「何万人の女たち」と同じと気がつくことができたお前(去勢済みな部分)は「人恋しと泣け」、と言っているのである。このセリフは、(未去勢的な)少女が(去勢されて)大人になった主人公に吐きつけた捨てゼリフならぬ捨てられゼリフである。
ここに、正常人とキチガイのせめぎ合いたる残酷演劇的な緊張感がうっすら醸し出されているように、わたしには思える。
「人が恋しいだあ? 笑える。泣けよ、人恋しと泣けばいいじゃん」
泣き笑いのような、怯えているような(主人公の)少女(の部分)が、(主人公の)大人になった自分(という部分)に唾を吐く。
元結ほどけば崩れるように
髪の毛だけが泣くのです
だからわたしはこれらの曲が好きだ、という話でした。
今聞くとギャグかよ、ぐらいな歌詞だけどね。
んで。
精神分析やってる人たちさ、読んでるなら反応してくれないかね。動物園の檻の中に詰め込まれた気分でうっとおしい。わたしを臨床・分析してみやがれってんだ。
したくないならしないでいい。勝手に噛みついてるから。
そういうわけで、死ねよお前ら。わたしを殺せ。わたしはお前たちを殺したい。
もっと傷つけあいまっしょ♪
なんだっけこの歌と思ったらリンドバーグかなついなおい。
傷つくのも仕方ない、か。
そう言えばまだ見てんのな、まんこちゃん。
なんかどうでもよくなった。わたしは。どうでもよくなった視点から言わせてもらうと、
「わたしよくわかんな~い、てへっ」
みたいな
「女子供はバカな方がかわいい」
的な断頭コンプレックスをお前の(以前のものを含めた)テクストから感じたのが一番あれなんだな。わたし視点正常人だと判断する強い根拠になっている。もちろん事後的な分析だが。女ってな去勢されることが即ち未去勢っぽくなることだからな。ここら辺がややこしいところだ。
知りたいことがあれば学べばいい。現代は知るための道具がそこら辺に転がっている。道具をどう使うかはそいつ次第だ。いわゆる学者の社会はそんなただの道具に感情移入しちゃってる奴が多いのは事実だが。フェティシストは多いよ。今思うと、だけど。
お前は違うと言うだろうな。「バカはイヤだ」と。しかしお前の言う「バカ」の根拠は他人の言う「バカ」じゃないか? 他人にバカじゃないと認められたいから「バカはイヤだ」と言っているのではないか?
わたしの言う「バカ」は違う。他人の評価関係なしに、物事の認知を短絡化することを「バカ」と言っている。この短絡化は発達心理学で言う中枢性統合機能あるいは精神分析学で言うファルスあるいは平たく言うなら固定観念化でもあるから、中枢性統合機能あるいはファルスに不具合がない主体と定義されている正常人はみんな短絡化されたあるいは固定観念化された視点即ち「バカ」の視点を無意識的に取ってしまっている、ということになる。これが(少なくとも精神医学的にも発達心理学的にも精神分析学的にも)精神的に正常であるということである。
この視点で言うなら、お前の認知の仕方は「バカ」だとわたしには思える。さまざまな事象を短絡化して喋っている。
かと言って短絡化も道具としてなら有用なんだがね。数学の定理だ。そうではなく、無意識的に短絡化できる自分の主観世界に対する偏執が、わたしは気持ち悪い、という話だ。
それがお前には感じられた、ということ。確かに一般的なたとえば小倉優子レベルの「バカの方がかわいいんでしょ」ではないかもしれんが、無意識レベルで同じものをわたしは感じた。
だが、お前はそういう無意識的に短絡化して(統合して)物事を見ている自分の視点を気持ち悪いと思えている。少し前に本館の方で書いていた炎上したブログについてのわけのわからんうだうだした語り口はなかなかわたしの言うキチガイっぽさをうっすらとではあるが醸し出している。その事件に纏わるさまざまな事柄に疑念を持って、即ち分析的な視点で語れている。従って、お前は自分の中枢性統合機能に、ファルスに疑念を持ち始めている、とわたしは解釈する。まあそれが(わたしの広義的な語義での)「中二病」ってものなんだけどね。
そういう話にすぎんよ、ってこと。
だけど、そこで「わたしはキチガイの仲間だ」となるのは大間違いって話だ。
キチガイに仲間などいない。短絡的な物言いだが、そう思っておけば間違いない。お前は不用意にもキチガイに「わたしも同じ、孤独なの」と泣きついてきた。仲間を作れないのがキチガイなわけだから、お前の「仲間が欲しい」=「他人に認められたい」という気持ちは裏切られるに決まっておろう。もちろんキチガイ側もそうだ。お前に対するあるキチガイのがっかり感ってなそういうものだ。
キチガイにとってはキチガイ同士であってもお互いが理解不能なのだ。お互いがお互いキチガイなのだ。もちろん相手が正常人であってもね。
そんな哲学で言う独我論の究極地点こそが真の現実である、としたのがラカン派精神分析論だ。人間同士は現実レベルでは理解し合えない。理解し合えているのは幻想・妄想(象徴界あるいは想像界)の世界での話にすぎない、ってね。
お前は周りの人間全てがキチガイに思える主観世界を生きたいのかい?
統合失調症者の周りの人間全てがゾンビに思える幻覚を味わいたいのかい?
その覚悟はあるのかい?
キチガイを幻想的な世界を生きるためのダシにしようとしているだけじゃないかい?
正常人の幻想的な世界でいじめられたからって、より弱い者を食い物にしようとしているだけじゃないかい?
わたしはそう問うているのだ。
「お互いがお互いキチガイなのだ」ってな状態はお前みたいな正常人視点から言うと孤独に思えるだろう。でも孤独でもない。そもそも理解し合えるわけがないただの壁だって押せば反作用が返ってくる。物理的に何かと関連している。量子力学まで行けばむしろ他の物質と関連しない物質など存在しない、とさえなる。幻想の世界でそれは孤独と呼べるものだが、物自体的な世界ではそれは孤独でもなんでもない、ということだ。
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
何か作用があると反作用が生じるのが物自体的な人間即ち(宗教的な語義での)獣即ち(わたしの語義での)キチガイだ。
救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
獣は救われない。何故なら人ではないから。だからキチガイはむしろ人であろうとする。正常になろうとする。救われたがる。だけど救われない。それは、物体としての彼らの肉体がそうなっているからだ。自閉症は器質因と言われ、統合失調症は内因と言われている。
お前は救われない物体である覚悟が、こちら側から言えば自己分析ができているのかい?
お前がキチガイを欲望しているのは、ただの心因性によるものではないかい? であるならば、お前は救われるだろう。自然の摂理として。何故なら救われることを既に知っているのが(正常な)心なのだから。
わたしはお前をそう穿って見ている。
お前の放つ正常人の臭いに警戒している。
まあ要するに、自己分析が足りねえよ、悩め、悩め、気がふれるまで、ってところに結論づいちゃうんだけどね。短絡化すれば。悩めばいいってもんじゃないけどねえ。この中枢性統合機能あるいはファルスって無意識のものだから。だけどまあ今のお前に当てはまる中二病悪化のための処方箋はそういうものになるだろうな。
おお、(精神疾患の症状を悪化させるのを目的としたわたしオリジナル概念の)逆精神分析らしいじゃないか。
まあ、お好きになさい。わたしを反面教師にするもよし。
あれだな、正常人って即ち(精神分析学では)神経症ってことになるわけで、どっかで中二病は神経症の一種だ、みたいなこと書いたけど、要するにファルス(に不具合)があるかないかなんだよな。神経症は、ファルスが正常に機能しているのに心因あるいは環境因によりファルスが不安定になった症状、という表現で一括可能だ。
しかし、中二病については、思春期ということを考慮すれば、身体的な変動が鏡像段階っていう主観世界の大激動たるトラウマを惹起させるから起こる、と考えられる。そういう意味では神経症的ではあるが一般的に考えられる心因あるいは環境因とは微妙に差異がある、などと言えるかもしれない。実際、統合失調症についての論では、思春期の少年少女にしばしば見られる正常な症状を引き合いに出されることがある。中井久夫もそんなん書いてなかったか。『思春期病』はそういった論を読んだ上で作詞されたものじゃないか、とまで穿ちたくなる。
それはともかく、中二病(仮にそう言っておく)が統合失調症や自閉症と決定的に違うのは寛解後である、と言える。時期的なもので時間が経てば正常らしい正常さを取り戻せるのが中二病、ってことになるな。統合失調症や自閉症は寛解しない。とはいえ苦痛の取り除かれた状態がある程度継続するという意味での寛解の可能性はいくらわたしでも否定しない。寛解という概念とは一体何か、まで行っちゃうなここまで来ると。
だけど、中二病という概念から時期的なものであるというところをわざと排除して言うならば、中二病は神経症の一種というより中二病の一種がさまざまな神経症の症状である、とさえ言えないか。わたしの個人的定義では「中二病とはファルスが不安定になることである」ってものだから。
いや言えねえよ、さすがに「中二」っていう時期的なものを明確に示差しているんだからその理屈の敷衍は無理があるぜ、ならなんでこんなこと書いてんだろうシラネーヨ、という感じで読んでくださいねこの部分は。
あ、やっぱやめ。定義変更。「中二病とはファルスが「思春期において」不安定になることである」って定義にしたらえーでもそれじゃあ三十代のおっさんとかに「お前中二病じゃん(笑)」って言えなくなるじゃーん、この言い方を許容する定義だとやっぱ中二病の様々な症状が神経症の症状として定義されているものであるって言い方になるんだよなーあーうぜえどうでもいいや。
「三日だけ風呂に入ってない臭いと長年風呂に入ってない臭いの違い」って意外と重要かもね、病名というシニフィアンの示差性において。
って話でした。