自閉症スペクトラム(笑)
2008/12/27/Sat
自閉症スペクトラムについて、一般的な解釈に誤解があるようだ。
自閉症スペクトラムとは、おおまかに言えば、自閉度(仮にこう呼ぶ)と知的障害度を別個のものとして捉え、それを縦軸と横軸に当てはめた、イメージ的な概念である。
その上で、知的障害は明らかにないが自閉度が高い症状をアスペルガー症候群と定義し、知的障害を伴いかつ自閉度が高い症状をカナー型自閉症と定義したのである。従って、このイメージ的な概念を仮に他の精神障害にも適用したならば、たとえば知的障害はあるけども自閉度は高くない症状もあることになる。それがこの記事で隠喩的に用いた言葉「聞き分けのよい知的障害」あるいは「聞き分けのよい学習障害」などに相当する。
つまり、自閉症研究の、少なくとも自閉症スペクトラムという概念を多用するある理屈体系においては、知的障害と自閉症という二つの症状は別個の症状である、という前提が存在するわけだ。
どうもここをよくわかっていない関係者が多い。
これらは発達心理学や認知心理学を主体にした学術的な社会での定義であるため、その社会にいない人間にとって理解が及ばないのは当然のことである。他の学問でも多々ある事象であるため、とやかく言うつもりはない。
余談までにわたしの考えを述べておくならば、それら二つの症状を別個のものとする考え方は全く否定しないし、むしろこの考えが疎かになっているのが自閉症に纏わる現場の傾向だと思っているため、この考えを主張する立場にわたしは回るだろう。今回の記事はそういうものである。
しかしながら、知的障害あるいは学習障害という脳のある機能の不具合と自閉症という脳のある機能の不具合に全く関連はない、という立場には立たない。脳にはさまざまな機能があり、それらさまざまな機能を統御する機能(中枢性統合)だってその一つとして存在するだろう。それが自閉症研究においては自閉症スペクトラムの自閉度という尺度として表現されている、ということである。従って、学習障害的な個々の脳の一機能の不具合と、自閉症的な中枢性統合機能の不具合に全く関連はない、という考え方はわたしは否定する。そもそも中枢性統合なる機能こそがそれ自体で他の機能と相関しているのだから。
これらのことから、知的障害と自閉症という二つの症状を別個のものとする考え方自体は、実体の臨床・分析のために非常に有効な道具であることは認めながら、確かに臨床実体としてそれらの相関性は低いかもしれないが、二つの症状の間になんらかの相関性を一切排除する立場は取らない、というわかりにくい考えをわたしはしている。
この「知的障害と自閉症という二つの症状は別個の症状である」という前提に基づいてアスペルガー症候群とカナー型自閉症という区分が作られたことを、当事者でも(もちろん当事者ならば知っておくべきなどとは思っていない)理解していない場合がある。森口奈緒美氏のテクストである。
彼女は山岸氏についてこう述べている。
=====
だが私はこう考える。彼はアスペではないかもしれないが、カナーではあるかもしれない、と。
=====
しかしわたしは、山岸氏のブログを読む限り、彼に知的障害があるとは思えない。では何故彼女は山岸氏をカナーかもしれないと思ったのか、その根拠となったであろう部分を引用する。
=====
これこそ自閉症の障害の負の部分だとは言えないだろうか。
=====
彼女は、山岸氏が他人のサイトにまで乗り込んで取った、周囲の人間が眉をひそめるような言動について、「自閉症の負の部分」だと認知している。それを根拠に理屈を展開するならば、山岸氏は自閉度が高いのであって、自閉症スペクトラムという概念を採用するならば、知的障害度とはなんの関係もない、となるはずである。
であるのに彼女は山岸氏を知的障害を伴った自閉症であるカナー型だと診断している。理屈が綻んでいる。この理屈の綻びは、彼女自身が自閉症スペクトラムという概念を理解できていないことが原因になっていると考えられる。むしろこの彼女の概念についての理解できなさこそが自閉症の症状だとも言えよう。似たようなことを述べている山岸氏の方が自閉症研究についての理解は高いと判断せざるを得ない。
また、彼女の理屈の綻びは、文中の「S先生」が山岸氏を「偽アスペ」と(誌上)診断したことも原因になっていると考えられる。「S先生」とは杉山登志郎を指しているようだ。杉山の論に関しては、わたしはこの記事で反論を述べている。
彼は学習障害と広汎性発達障害をほぼ同じものと考えている。確かに過去に非言語性学習障害と診断された症状には、発達心理学で言うところの中枢性統合機能の不具合を見て取れる臨床例もあると思われる。現場の診断についての問題はわたしはとやかく言うつもりはない。それぞれの医師に気苦労は耐えないだろう。
しかし彼のこの考えは、敷衍したならば、自閉症スペクトラムという概念が隠喩的に指摘している「知的障害と自閉症という二つの症状は別個のものである」という臨床からの要件を無視することになる。
山岸氏に戻ろう。彼は、そのブログのテクストだけで判断するならば(シニフィアンを対象とした分析は精神分析のオハコである)、学習障害と思える症状を呈していない。少なくとも明らかに「読み」「書き」は健常者と同等にこなしているし、「計算」についても、彼の職業を考えればむしろ健常者の平均より能力がありやしないか、と推測可能である。要するに、テクストだけを見ても明らかに彼は学習障害を伴っていないことがわかる。杉山はこの要件から彼を「偽アスペ」と診断したのではないか、と穿ちたくなる。
杉山の自論を考慮に入れやや陰謀論的に理屈を敷衍すれば、山岸氏を「偽アスペ」と診断した彼の学術的根拠は、自閉症スペクトラムという概念が意味する「知的障害と自閉症という二つの症状は別個のものである」という要件を無視したものである、と考えられないだろうか。むしろそう考えれば全て辻褄が合う。ナンダッテー(2ちゃん語です)である。
断っておくならば、杉山のこの立場そのものを批判するわけではない。先に書いたように、学習障害的な脳のある機能の不具合と中枢性統合機能の不具合に一切関連がない、とはわたしは考えていない。この理屈に則るならば、学習障害と自閉症の相関性を強く見出す学派があってもおかしくない。前掲記事で取り上げた杉山の論についても、現場の混乱に対する対症療法としてそう述べているのであって、杉山が発達心理学的な中枢性統合という概念を一切排除して自論を述べているわけではない可能性も否定しない。
わたしは学派の対立や考え方の相違を排除するつもりはない。むしろ「全員が同じ意見を持たなければならない」あるいは「全員が合意できる考えを作り上げなければならない」という志向こそが中枢性統合機能の精神疾患的な「負の部分」なのだ。個々の健常者が持っている中枢性統合機能の過剰な発露が、たとえばパラノイアであり、(極端に言えば)ファシスムである。
確かに昨今の傾向として、認知心理学派の中でさえ、自閉症スペクトラムにおける自閉度の根拠である中枢性統合なる概念は時代遅れとする空気がある。脳科学とより親近している精神医学全般においてはなおさらのことだろう。そらパパ氏などはまだ自論にこの概念を取り入れているようで、ドードーとら氏というアスペルガー症候群当事者を発端とした彼との議論では、わたしは政治的に丸く収めようとうっすら思ったことを今自白する。これもわたしの中枢性統合機能の症状化と言えるだろう。
そこでわたしは、前掲の記事でもそのようなことをしているが、自閉症スペクトラムや中枢性統合という考え方に精神分析学の理屈を組み合わせることを提案したい。
要するに、中枢性統合なる機能など、目には見えないし一体なんなのかわからないし再現性もないし科学的に明確に存在するものとして認められないから、この考え方を棄却する傾向にあるのではないか、とわたしは思う。確かにその通りなのだ。バロン=コーエンの論など「思弁的だ」あるいは「主観的だ」として一蹴可能なのである。しかし、科学の教義に真っ向から歯向かうのが科学を自称する精神分析である。精神分析とは科学なる社会における鬼子なのだ。
森口氏のテクストに戻る。
このテクストの「山岸氏は自閉症の負の部分を強く示しているからカナー型である」という論旨は、そもそもの「アスペルガー型/カナー型」という学術的区分を構築する理屈から見て誤っている、ということである。
森口氏は学徒とは言えないかもしれないが、自閉症スペクトラムについてのテクストを書いているからにはこのぐらいのことは理解しているだろうと勝手にわたしが思い、勝手に不思議に感じたから書いている記事である。
こういった学術的理屈体系と世間一般の概念理解が乖離することは先にも書いたように多々ある。「ニセ科学」などと一括される事象である。
「自閉度が高いからカナー型である」という「ニセ科学」的概念理解は、当の山岸氏のブログのコメント欄でも時々見て取れる。
とはいえ、「自閉度が高いことをカナー型と呼ぶ」という定義があってもおかしくないのだ。それは認知心理学を主に根拠にしたある理屈体系に基づいた社会において誤りだということにすぎない。その定義がさまざまな臨床や分析や実験や理屈構築をもってしてある程度の学術的な社会の住人に認められさえすればそういう学派が生じる、という話にすぎない。学習障害と自閉症を同一視する杉山が所属する学派(あるいは彼個人の理屈体系)から見て山岸氏は「偽アスペ」である、ということにすぎない。
要するに、「ニセ科学」とは科学という社会から見て「ニセ」であるということだ。
わたしは杉山論などの中枢性統合という概念を排除した理屈体系と対立する立場を、即ち自閉症スペクトラムという概念を保持する立場を取っている、というだけの話である。
ただ、「アスペルガー型/カナー型」という自閉症についての区分は、自閉症スペクトラムという概念に基づいてなされたものであるため、自閉症スペクトラムを無視した「自閉度が高い症状」を示す概念については別の言葉を当てはめるのが筋ではないか、とわたしは言いたい。それはなんでもいい。「うんだらべっちゃら症」でもいい。森口氏が主張する「グレーゾーン」の症状も、「げげんちょっちょ症候群」などと名付けてもよかろう。
――ここで最近の記事の流れから統合失調症の一症状たる新語創作を連想したあなたは脂マニア認定です。
水物の定義に振り回される必要はない。病名など肩書きにすぎない。自分で学ぶしかないのだよ。学べる者は。山岸氏みたいにね。他人に認められるためにではなく、自分のために、自分で納得するために学んでいる。理屈を構築している。
そう考えると、森口氏のこのテクストは「アスペルガー症候群」という病名に甘えたいだけのように見えてくる。
大文字の他者に甘えられるなら、おもねることができるなら、正常人だよ。まあ「甘えたい」と「甘えることができる」は別物だけどね。
それだけの話さ。
あ、タイトルの(笑)には意味なし。スルー推奨。じゃあ書くなよ。
追記。
どうでもいいけど「甘えたい」と「甘えることができる」の違いって要するに否定神学と普通の神学の違いじゃないかと思ったメモ。大文字の他者に甘えたいけど甘えられないってのが否定神学か。
『ゆるめいつ』OVA化らしいけど『せんせいのお時間』のがっかり感が思い出されて微妙に警戒中。
あれだよ、竹書房系のおもしろいところは「萌え」が一般的な「萌え」と微妙にずれているところであって、それがうんがーあんがーなって『せんせいのお時間』の失敗になったと思うんだがな。『あずまんが大王』みたいになんつーかこだわりっつーかそういうのがないと。普通の「萌え」にはしてやらねーぞ、みたいなあまのじゃく的なこだわり? いや『あずまんが』は一般的な「萌え」だよなうんそーだよね。
まあどうでもいいや。原作自体が一般的な「萌え」じゃねえし。「萌え」っつーか「ゆるさ」だなタイトルのごとく。
ゆるゆるに見れば森口の「山岸氏はカナーかもしれない」って論旨はそれこそ原作マンガのごときギャグになってないギャグと理解できるんだよな。本人がギャグと意識して言っているか(行為しているか)なんて関係なく。
つかわたしも「ひょっとしてそれはギャグで(ry」と思ってたし言われた当の山岸氏もなんか喜んでるみたいだしどうでもいーやーゆるゆるだったんだけどね。
とりあえず何か排泄しないと=書かないとだめな精神状態なだけですよ。わたしが。
ああ、一般的には「精神的に余裕がある」状態なのだろうな、ゆるゆるって。
はーへーふーん。
つまんね。
自閉症スペクトラムとは、おおまかに言えば、自閉度(仮にこう呼ぶ)と知的障害度を別個のものとして捉え、それを縦軸と横軸に当てはめた、イメージ的な概念である。
その上で、知的障害は明らかにないが自閉度が高い症状をアスペルガー症候群と定義し、知的障害を伴いかつ自閉度が高い症状をカナー型自閉症と定義したのである。従って、このイメージ的な概念を仮に他の精神障害にも適用したならば、たとえば知的障害はあるけども自閉度は高くない症状もあることになる。それがこの記事で隠喩的に用いた言葉「聞き分けのよい知的障害」あるいは「聞き分けのよい学習障害」などに相当する。
つまり、自閉症研究の、少なくとも自閉症スペクトラムという概念を多用するある理屈体系においては、知的障害と自閉症という二つの症状は別個の症状である、という前提が存在するわけだ。
どうもここをよくわかっていない関係者が多い。
これらは発達心理学や認知心理学を主体にした学術的な社会での定義であるため、その社会にいない人間にとって理解が及ばないのは当然のことである。他の学問でも多々ある事象であるため、とやかく言うつもりはない。
余談までにわたしの考えを述べておくならば、それら二つの症状を別個のものとする考え方は全く否定しないし、むしろこの考えが疎かになっているのが自閉症に纏わる現場の傾向だと思っているため、この考えを主張する立場にわたしは回るだろう。今回の記事はそういうものである。
しかしながら、知的障害あるいは学習障害という脳のある機能の不具合と自閉症という脳のある機能の不具合に全く関連はない、という立場には立たない。脳にはさまざまな機能があり、それらさまざまな機能を統御する機能(中枢性統合)だってその一つとして存在するだろう。それが自閉症研究においては自閉症スペクトラムの自閉度という尺度として表現されている、ということである。従って、学習障害的な個々の脳の一機能の不具合と、自閉症的な中枢性統合機能の不具合に全く関連はない、という考え方はわたしは否定する。そもそも中枢性統合なる機能こそがそれ自体で他の機能と相関しているのだから。
これらのことから、知的障害と自閉症という二つの症状を別個のものとする考え方自体は、実体の臨床・分析のために非常に有効な道具であることは認めながら、確かに臨床実体としてそれらの相関性は低いかもしれないが、二つの症状の間になんらかの相関性を一切排除する立場は取らない、というわかりにくい考えをわたしはしている。
この「知的障害と自閉症という二つの症状は別個の症状である」という前提に基づいてアスペルガー症候群とカナー型自閉症という区分が作られたことを、当事者でも(もちろん当事者ならば知っておくべきなどとは思っていない)理解していない場合がある。森口奈緒美氏のテクストである。
彼女は山岸氏についてこう述べている。
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だが私はこう考える。彼はアスペではないかもしれないが、カナーではあるかもしれない、と。
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しかしわたしは、山岸氏のブログを読む限り、彼に知的障害があるとは思えない。では何故彼女は山岸氏をカナーかもしれないと思ったのか、その根拠となったであろう部分を引用する。
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これこそ自閉症の障害の負の部分だとは言えないだろうか。
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彼女は、山岸氏が他人のサイトにまで乗り込んで取った、周囲の人間が眉をひそめるような言動について、「自閉症の負の部分」だと認知している。それを根拠に理屈を展開するならば、山岸氏は自閉度が高いのであって、自閉症スペクトラムという概念を採用するならば、知的障害度とはなんの関係もない、となるはずである。
であるのに彼女は山岸氏を知的障害を伴った自閉症であるカナー型だと診断している。理屈が綻んでいる。この理屈の綻びは、彼女自身が自閉症スペクトラムという概念を理解できていないことが原因になっていると考えられる。むしろこの彼女の概念についての理解できなさこそが自閉症の症状だとも言えよう。似たようなことを述べている山岸氏の方が自閉症研究についての理解は高いと判断せざるを得ない。
また、彼女の理屈の綻びは、文中の「S先生」が山岸氏を「偽アスペ」と(誌上)診断したことも原因になっていると考えられる。「S先生」とは杉山登志郎を指しているようだ。杉山の論に関しては、わたしはこの記事で反論を述べている。
彼は学習障害と広汎性発達障害をほぼ同じものと考えている。確かに過去に非言語性学習障害と診断された症状には、発達心理学で言うところの中枢性統合機能の不具合を見て取れる臨床例もあると思われる。現場の診断についての問題はわたしはとやかく言うつもりはない。それぞれの医師に気苦労は耐えないだろう。
しかし彼のこの考えは、敷衍したならば、自閉症スペクトラムという概念が隠喩的に指摘している「知的障害と自閉症という二つの症状は別個のものである」という臨床からの要件を無視することになる。
山岸氏に戻ろう。彼は、そのブログのテクストだけで判断するならば(シニフィアンを対象とした分析は精神分析のオハコである)、学習障害と思える症状を呈していない。少なくとも明らかに「読み」「書き」は健常者と同等にこなしているし、「計算」についても、彼の職業を考えればむしろ健常者の平均より能力がありやしないか、と推測可能である。要するに、テクストだけを見ても明らかに彼は学習障害を伴っていないことがわかる。杉山はこの要件から彼を「偽アスペ」と診断したのではないか、と穿ちたくなる。
杉山の自論を考慮に入れやや陰謀論的に理屈を敷衍すれば、山岸氏を「偽アスペ」と診断した彼の学術的根拠は、自閉症スペクトラムという概念が意味する「知的障害と自閉症という二つの症状は別個のものである」という要件を無視したものである、と考えられないだろうか。むしろそう考えれば全て辻褄が合う。ナンダッテー(2ちゃん語です)である。
断っておくならば、杉山のこの立場そのものを批判するわけではない。先に書いたように、学習障害的な脳のある機能の不具合と中枢性統合機能の不具合に一切関連がない、とはわたしは考えていない。この理屈に則るならば、学習障害と自閉症の相関性を強く見出す学派があってもおかしくない。前掲記事で取り上げた杉山の論についても、現場の混乱に対する対症療法としてそう述べているのであって、杉山が発達心理学的な中枢性統合という概念を一切排除して自論を述べているわけではない可能性も否定しない。
わたしは学派の対立や考え方の相違を排除するつもりはない。むしろ「全員が同じ意見を持たなければならない」あるいは「全員が合意できる考えを作り上げなければならない」という志向こそが中枢性統合機能の精神疾患的な「負の部分」なのだ。個々の健常者が持っている中枢性統合機能の過剰な発露が、たとえばパラノイアであり、(極端に言えば)ファシスムである。
確かに昨今の傾向として、認知心理学派の中でさえ、自閉症スペクトラムにおける自閉度の根拠である中枢性統合なる概念は時代遅れとする空気がある。脳科学とより親近している精神医学全般においてはなおさらのことだろう。そらパパ氏などはまだ自論にこの概念を取り入れているようで、ドードーとら氏というアスペルガー症候群当事者を発端とした彼との議論では、わたしは政治的に丸く収めようとうっすら思ったことを今自白する。これもわたしの中枢性統合機能の症状化と言えるだろう。
そこでわたしは、前掲の記事でもそのようなことをしているが、自閉症スペクトラムや中枢性統合という考え方に精神分析学の理屈を組み合わせることを提案したい。
要するに、中枢性統合なる機能など、目には見えないし一体なんなのかわからないし再現性もないし科学的に明確に存在するものとして認められないから、この考え方を棄却する傾向にあるのではないか、とわたしは思う。確かにその通りなのだ。バロン=コーエンの論など「思弁的だ」あるいは「主観的だ」として一蹴可能なのである。しかし、科学の教義に真っ向から歯向かうのが科学を自称する精神分析である。精神分析とは科学なる社会における鬼子なのだ。
森口氏のテクストに戻る。
このテクストの「山岸氏は自閉症の負の部分を強く示しているからカナー型である」という論旨は、そもそもの「アスペルガー型/カナー型」という学術的区分を構築する理屈から見て誤っている、ということである。
森口氏は学徒とは言えないかもしれないが、自閉症スペクトラムについてのテクストを書いているからにはこのぐらいのことは理解しているだろうと勝手にわたしが思い、勝手に不思議に感じたから書いている記事である。
こういった学術的理屈体系と世間一般の概念理解が乖離することは先にも書いたように多々ある。「ニセ科学」などと一括される事象である。
「自閉度が高いからカナー型である」という「ニセ科学」的概念理解は、当の山岸氏のブログのコメント欄でも時々見て取れる。
とはいえ、「自閉度が高いことをカナー型と呼ぶ」という定義があってもおかしくないのだ。それは認知心理学を主に根拠にしたある理屈体系に基づいた社会において誤りだということにすぎない。その定義がさまざまな臨床や分析や実験や理屈構築をもってしてある程度の学術的な社会の住人に認められさえすればそういう学派が生じる、という話にすぎない。学習障害と自閉症を同一視する杉山が所属する学派(あるいは彼個人の理屈体系)から見て山岸氏は「偽アスペ」である、ということにすぎない。
要するに、「ニセ科学」とは科学という社会から見て「ニセ」であるということだ。
わたしは杉山論などの中枢性統合という概念を排除した理屈体系と対立する立場を、即ち自閉症スペクトラムという概念を保持する立場を取っている、というだけの話である。
ただ、「アスペルガー型/カナー型」という自閉症についての区分は、自閉症スペクトラムという概念に基づいてなされたものであるため、自閉症スペクトラムを無視した「自閉度が高い症状」を示す概念については別の言葉を当てはめるのが筋ではないか、とわたしは言いたい。それはなんでもいい。「うんだらべっちゃら症」でもいい。森口氏が主張する「グレーゾーン」の症状も、「げげんちょっちょ症候群」などと名付けてもよかろう。
――ここで最近の記事の流れから統合失調症の一症状たる新語創作を連想したあなたは脂マニア認定です。
水物の定義に振り回される必要はない。病名など肩書きにすぎない。自分で学ぶしかないのだよ。学べる者は。山岸氏みたいにね。他人に認められるためにではなく、自分のために、自分で納得するために学んでいる。理屈を構築している。
そう考えると、森口氏のこのテクストは「アスペルガー症候群」という病名に甘えたいだけのように見えてくる。
大文字の他者に甘えられるなら、おもねることができるなら、正常人だよ。まあ「甘えたい」と「甘えることができる」は別物だけどね。
それだけの話さ。
あ、タイトルの(笑)には意味なし。スルー推奨。じゃあ書くなよ。
追記。
どうでもいいけど「甘えたい」と「甘えることができる」の違いって要するに否定神学と普通の神学の違いじゃないかと思ったメモ。大文字の他者に甘えたいけど甘えられないってのが否定神学か。
『ゆるめいつ』OVA化らしいけど『せんせいのお時間』のがっかり感が思い出されて微妙に警戒中。
あれだよ、竹書房系のおもしろいところは「萌え」が一般的な「萌え」と微妙にずれているところであって、それがうんがーあんがーなって『せんせいのお時間』の失敗になったと思うんだがな。『あずまんが大王』みたいになんつーかこだわりっつーかそういうのがないと。普通の「萌え」にはしてやらねーぞ、みたいなあまのじゃく的なこだわり? いや『あずまんが』は一般的な「萌え」だよなうんそーだよね。
まあどうでもいいや。原作自体が一般的な「萌え」じゃねえし。「萌え」っつーか「ゆるさ」だなタイトルのごとく。
ゆるゆるに見れば森口の「山岸氏はカナーかもしれない」って論旨はそれこそ原作マンガのごときギャグになってないギャグと理解できるんだよな。本人がギャグと意識して言っているか(行為しているか)なんて関係なく。
つかわたしも「ひょっとしてそれはギャグで(ry」と思ってたし言われた当の山岸氏もなんか喜んでるみたいだしどうでもいーやーゆるゆるだったんだけどね。
とりあえず何か排泄しないと=書かないとだめな精神状態なだけですよ。わたしが。
ああ、一般的には「精神的に余裕がある」状態なのだろうな、ゆるゆるって。
はーへーふーん。
つまんね。