空観とは悪意の総体論である。
2008/12/31/Wed
個人的なまとめ。
快楽原則とは、自己が感受した刺激を「快/不快」に分別する(たとえばJISのような)規格である。
刺激を認知して、「快/不快」と分別することも含まれるが、人体という物質的システムにより、(正常な)システムに好ましくない刺激を認知しない、という機能も含まれる。前者は(快楽原則の)意識的な部分であり、後者は無意識的な部分である。
後者の、快楽原則の無意識的な部分を、クリステヴァは棄却(アブジェクシオン)と呼んだ。これは精神分析学における「抑圧(否認)と排除は別物である」という定理によるところの「排除」に相当する。ちなみに抑圧(否認)は現実原則による分別である。
これらを総括すると、不快なる刺激とは、快楽原則の無意識的な部分により棄却(排除)された対象(アブジェ)を連想させるものであったり、本来棄却すべき刺激ではあるが快楽原則をすり抜けて認知してしまった刺激である、と定義される。むしろ快楽原則により快い刺激と不快な刺激は生ずる、というわけだ。
快楽原則や現実原則(という規格)はファルスを軸として成立する。わたしの自論では発達心理学における中枢性統合なる機能とファルスは同一の実体を指しているとしている。従って、自閉症とはファルスに不具合がある故生じる症状である、となる。これらを組み合わせると、自閉症者たちの快楽原則は壊れていると考えられる。これは、ある自閉症当事者が「物事に対して好きか嫌いかがよくわからない」と述べていることと符号する。
ここでは、「快/不快」という分別がなされる以前の作用を一括して刺激と述べているが、一般に「刺激」と述べても、快楽原則により無意識的に棄却された刺激を含まない作用しか想像されない。快楽原則が正常に機能している人間がほとんどだからだ。従って、わたしは「快/不快」という分別がなされる以前の作用である刺激を一括して「悪意」と呼ぶことがある。そう述べなければ逆説的に「刺激」の本質が伝わらないのだ。また、快楽原則と現実原則(超自我)は一体のものであるため、快楽原則という規格が存在する限り、それを持つものにとっての「刺激」は常に既に幻想的なものとなるためである。
仮に世の人間の大多数がファルスに不具合のある自閉症者や統合失調症者やスキゾイドばかりだったならば、わたしはそれを悪意と呼ばずに刺激と呼ぶだろう。しかしそうはいかない。自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどといったファルスに不具合がある人間は、総人口を母集団とすれば、少数派であるのは確固たる事実である。わたしの「悪意」という語用はこの事実を含意していると思っていただきたい。
従って、「刺激」を「悪意」と換言すること自体に快楽原則が働いているではないか、という反論は意味をなさない。あなたという実体において既に快楽原則が働いているせいでわたしはそう述べているのだから。そういう反論を述べたければ、あなたという実体は自閉症あるいは統合失調症あるいはスキゾイドであるべきである。己のファルスを破壊すべきである。己の正常人の部分を殺害すべきなのである。
あなたはキチガイなのですか?
あなたは本当の刺激を感受できているのですか? あなたが認知している「刺激」とは自我や超自我によって加工されたものではありませんか?
そういう問いかけが、わたしの「悪意」という言葉には含意されている。
あなたが正常人だから、わたしはそれを「悪意」と呼ぶのである。あなたとディスクールするために。
さまざまな手法によって自我や超自我に不具合を起こさせ、「快/不快」という分別がなされる以前の作用即ち本当の刺激を認知できるようになるケースも、わたしは否定しない。仏教の修行における無我を目指す過程などは、自我や超自我に不具合を起こさせる過程だとわたしは考えている。
従って、無我という過程を極限まで推し進めた(と言われている)龍樹の空観などは、本当の刺激の総体論だと考えることができる。しかし、わたしの臨床においてファルスが認められる一般の坊主が、知ったかぶりな顔で空観を述べたとしても、わたしは理解できない。たとえば玄侑宗久などは、その作品をクリステヴァ的記号分析視点で読めば、「語る主体」にファルスの隠喩的影響の強さが見て取れる。従って、ここでは「語る主体」=筆者そのものと短絡して述べるが、彼が空観を述べてもわたしは理解できないだろう。要するにこの坊主は無我方向の修行が全く足りないのではないか、とわたしは感じているわけだ。
もちろんこれらはわたしの主観である。わたしは自我や超自我に不具合のある自閉症者を多く観察している故、そういう風に見えてしまうのだろう。少なくとも玄侑宗久はわたしが観察してきた自閉症者たちと比較してはるかに無我ではない、我が強い、という話にすぎない。わたしは精神分析的に自閉症者と接しているため、同じシニフィアンという分析材料を基に判断していることになる(精神分析論とはシニフィアンを分析材料とした分析論である)。従ってこの比較はそうそう的外れなものではないと思われる。
龍樹については、この記事である一つのエピソードを基にわたしはキチガイ(わたしの語用におけるキチガイとはファルスに不具合のある人間を意味する)だと診断しているが、本人についての伝記はかなり脚色されたものと推測できるため明らかではない。従って「龍樹はキチガイである」という要件は仮説となるが、この仮説を採用するならば、玄侑宗久は、わたしの判断基準において、空観を語る資格はない、となる。
わざわざ断る必要もないことで断るのもバカらしいが一応断っておくならば、小説の「語る主体」(即ち読者の想像による筆者)に我が強いからといってその小説がおもしろくないというわけではない。正直わたしは玄侑の小説をおもしろいとは思わなかったが。痛みも糞もないこんなテクストが評価されるのは坊主っていう肩書きのせいじゃね? などと穿っているのは認める。
また、わたしは通常は「我を持て」という立場を取っている。これは厳密に言うならば「お前ら(去勢済みな主体たち即ち圧倒的に多数派である正常人たち)は生得的に(厳密には違うが)我を持っているんだから、我がないフリなんかすんなアホウ」ということである。この記事の「本来のスキゾイド型ひきこもりじゃない自己愛型ひきこもりが現代の多くのひきこもりたちである」という論もそれに拠っている。
ここの読者も、自閉症者が多く読んでいるようではあるが、正常人も多いだろう。従ってわたしはこう換言する。
空観とは悪意の総体論である、と。
まず己の(精神医学的なあるいは精神分析的なあるいは発達心理学的な)正常人である部分を破壊しない限り、空観の本質は理解できない。わたしが精神分析という学派に所属していることは自認するため、精神分析的な語用において(たとえばフロイトの「憎しみは愛に先んずる」やクラインの「悪い乳房」などと連鎖可能な意味で)、そう表現する。クライン論に準拠するならば、生まれたばかり(生後六ヶ月ぐらいまで)の妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢の乳幼児こそ空観の世界を生きている、ということである。この時期の赤ん坊には快楽原則が定立されていない。クラインは臨床によってその事実を発見し、部分対象という概念で論じようとしたのではないか。そう考えれば、わたしのこの記事の理屈は全て整合する。
むしろ、空観的に悪意がその身に降りかかるのが、たとえば統合失調症のさまざまな幻覚症状である、と言った方がわかりやすいだろう。
まあ、そんな話さ。
なんか瀬戸内寂聴が(社交辞令かもしれないが)玄侑宗久を後継者として認めているらしいが、然りだと思う。わたしの印象では(これについては分析とは言わない)、瀬戸内も非常に我が強いから。
あはは。なんかおもれえ。ニーチェの気持ちがわかるわ(笑)。誰か今度はブッダを殺してくれないもんかね。「ブッダは無我を説いた後有我を説いた」などわたしにとってはヘーゲルの「否定の否定」、即ち「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」と等しい。先述の「お前らは生得的に我を持っているんだから、我がないフリなんかすんなアホウ」における「我がないフリ」をする奴らである。あるいはこの記事の一時的にファルスは不安定になるがほぼ必ずと言っていいほど寛解する中二病もこれに当てはまる。ブッダもヘーゲルも構造的には中二病あるいは自己愛型ひきこもりと変わらない。正常人たちの生はサイン、コサイン波だ。キチガイたちはタンジェント波を生きている。
この記事は、スッパマンにアラレちゃんが投げつけるうんこである。
スッパマンたちには、空観を生きる苦痛が、うんこに塗れ続ける苦痛が、我がなかなか生じない苦痛が、人ではないのに人として育てられているアラレちゃんの苦悩が理解できない。キチガイの快楽原則や現実原則あるいは自我や超自我は壊れているのであり全くないわけではない。中途半端に人でありながら中途半端に獣であるのがキチガイだ。だから苦しいのだ。だから病として認知されているのだ。快楽原則や現実原則にがちがちに縛られたお前たち正常人に、物自体に囲まれて生きることの苦痛がわかるわけがないのだ。
アラレちゃんもいろいろ学んだらこういうことで悩むんだろうか。
ほんと正常人って滑稽だ。そうただ笑っているだけならアラレちゃんのままでいられたのに。「きーん」と誰かにぶつかって相手を死なせても、死体に「んちゃ!」で済んだのに。そういう意味ではわたしはアラレちゃんではなく『パタリロ』の(額のレーダーを外した)αランダムになるな。かっこつけすぎ? そうですねすみません。
この記事の「知的障害度と中枢性統合(即ちわたし論で言うファルス)の不具合度はなんら関係がない」という論旨も、刃物で人間を殺せるという知識は人間を殺してはいけないという固定観念とはなんら関係ない、という言い方なら理解してもらえるだろうか。殺人を犯す自閉症者や統合失調症者はアラレちゃんなのだ。
今年もご愛読ありがとうございました。
今年最後のうんこ投げでした。
願わくばこのうんこが一つでも多くのファルスを殺害できますように。
快楽原則とは、自己が感受した刺激を「快/不快」に分別する(たとえばJISのような)規格である。
刺激を認知して、「快/不快」と分別することも含まれるが、人体という物質的システムにより、(正常な)システムに好ましくない刺激を認知しない、という機能も含まれる。前者は(快楽原則の)意識的な部分であり、後者は無意識的な部分である。
後者の、快楽原則の無意識的な部分を、クリステヴァは棄却(アブジェクシオン)と呼んだ。これは精神分析学における「抑圧(否認)と排除は別物である」という定理によるところの「排除」に相当する。ちなみに抑圧(否認)は現実原則による分別である。
これらを総括すると、不快なる刺激とは、快楽原則の無意識的な部分により棄却(排除)された対象(アブジェ)を連想させるものであったり、本来棄却すべき刺激ではあるが快楽原則をすり抜けて認知してしまった刺激である、と定義される。むしろ快楽原則により快い刺激と不快な刺激は生ずる、というわけだ。
快楽原則や現実原則(という規格)はファルスを軸として成立する。わたしの自論では発達心理学における中枢性統合なる機能とファルスは同一の実体を指しているとしている。従って、自閉症とはファルスに不具合がある故生じる症状である、となる。これらを組み合わせると、自閉症者たちの快楽原則は壊れていると考えられる。これは、ある自閉症当事者が「物事に対して好きか嫌いかがよくわからない」と述べていることと符号する。
ここでは、「快/不快」という分別がなされる以前の作用を一括して刺激と述べているが、一般に「刺激」と述べても、快楽原則により無意識的に棄却された刺激を含まない作用しか想像されない。快楽原則が正常に機能している人間がほとんどだからだ。従って、わたしは「快/不快」という分別がなされる以前の作用である刺激を一括して「悪意」と呼ぶことがある。そう述べなければ逆説的に「刺激」の本質が伝わらないのだ。また、快楽原則と現実原則(超自我)は一体のものであるため、快楽原則という規格が存在する限り、それを持つものにとっての「刺激」は常に既に幻想的なものとなるためである。
仮に世の人間の大多数がファルスに不具合のある自閉症者や統合失調症者やスキゾイドばかりだったならば、わたしはそれを悪意と呼ばずに刺激と呼ぶだろう。しかしそうはいかない。自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどといったファルスに不具合がある人間は、総人口を母集団とすれば、少数派であるのは確固たる事実である。わたしの「悪意」という語用はこの事実を含意していると思っていただきたい。
従って、「刺激」を「悪意」と換言すること自体に快楽原則が働いているではないか、という反論は意味をなさない。あなたという実体において既に快楽原則が働いているせいでわたしはそう述べているのだから。そういう反論を述べたければ、あなたという実体は自閉症あるいは統合失調症あるいはスキゾイドであるべきである。己のファルスを破壊すべきである。己の正常人の部分を殺害すべきなのである。
あなたはキチガイなのですか?
あなたは本当の刺激を感受できているのですか? あなたが認知している「刺激」とは自我や超自我によって加工されたものではありませんか?
そういう問いかけが、わたしの「悪意」という言葉には含意されている。
あなたが正常人だから、わたしはそれを「悪意」と呼ぶのである。あなたとディスクールするために。
さまざまな手法によって自我や超自我に不具合を起こさせ、「快/不快」という分別がなされる以前の作用即ち本当の刺激を認知できるようになるケースも、わたしは否定しない。仏教の修行における無我を目指す過程などは、自我や超自我に不具合を起こさせる過程だとわたしは考えている。
従って、無我という過程を極限まで推し進めた(と言われている)龍樹の空観などは、本当の刺激の総体論だと考えることができる。しかし、わたしの臨床においてファルスが認められる一般の坊主が、知ったかぶりな顔で空観を述べたとしても、わたしは理解できない。たとえば玄侑宗久などは、その作品をクリステヴァ的記号分析視点で読めば、「語る主体」にファルスの隠喩的影響の強さが見て取れる。従って、ここでは「語る主体」=筆者そのものと短絡して述べるが、彼が空観を述べてもわたしは理解できないだろう。要するにこの坊主は無我方向の修行が全く足りないのではないか、とわたしは感じているわけだ。
もちろんこれらはわたしの主観である。わたしは自我や超自我に不具合のある自閉症者を多く観察している故、そういう風に見えてしまうのだろう。少なくとも玄侑宗久はわたしが観察してきた自閉症者たちと比較してはるかに無我ではない、我が強い、という話にすぎない。わたしは精神分析的に自閉症者と接しているため、同じシニフィアンという分析材料を基に判断していることになる(精神分析論とはシニフィアンを分析材料とした分析論である)。従ってこの比較はそうそう的外れなものではないと思われる。
龍樹については、この記事である一つのエピソードを基にわたしはキチガイ(わたしの語用におけるキチガイとはファルスに不具合のある人間を意味する)だと診断しているが、本人についての伝記はかなり脚色されたものと推測できるため明らかではない。従って「龍樹はキチガイである」という要件は仮説となるが、この仮説を採用するならば、玄侑宗久は、わたしの判断基準において、空観を語る資格はない、となる。
わざわざ断る必要もないことで断るのもバカらしいが一応断っておくならば、小説の「語る主体」(即ち読者の想像による筆者)に我が強いからといってその小説がおもしろくないというわけではない。正直わたしは玄侑の小説をおもしろいとは思わなかったが。痛みも糞もないこんなテクストが評価されるのは坊主っていう肩書きのせいじゃね? などと穿っているのは認める。
また、わたしは通常は「我を持て」という立場を取っている。これは厳密に言うならば「お前ら(去勢済みな主体たち即ち圧倒的に多数派である正常人たち)は生得的に(厳密には違うが)我を持っているんだから、我がないフリなんかすんなアホウ」ということである。この記事の「本来のスキゾイド型ひきこもりじゃない自己愛型ひきこもりが現代の多くのひきこもりたちである」という論もそれに拠っている。
ここの読者も、自閉症者が多く読んでいるようではあるが、正常人も多いだろう。従ってわたしはこう換言する。
空観とは悪意の総体論である、と。
まず己の(精神医学的なあるいは精神分析的なあるいは発達心理学的な)正常人である部分を破壊しない限り、空観の本質は理解できない。わたしが精神分析という学派に所属していることは自認するため、精神分析的な語用において(たとえばフロイトの「憎しみは愛に先んずる」やクラインの「悪い乳房」などと連鎖可能な意味で)、そう表現する。クライン論に準拠するならば、生まれたばかり(生後六ヶ月ぐらいまで)の妄想分裂態勢あるいは抑鬱態勢の乳幼児こそ空観の世界を生きている、ということである。この時期の赤ん坊には快楽原則が定立されていない。クラインは臨床によってその事実を発見し、部分対象という概念で論じようとしたのではないか。そう考えれば、わたしのこの記事の理屈は全て整合する。
むしろ、空観的に悪意がその身に降りかかるのが、たとえば統合失調症のさまざまな幻覚症状である、と言った方がわかりやすいだろう。
まあ、そんな話さ。
なんか瀬戸内寂聴が(社交辞令かもしれないが)玄侑宗久を後継者として認めているらしいが、然りだと思う。わたしの印象では(これについては分析とは言わない)、瀬戸内も非常に我が強いから。
あはは。なんかおもれえ。ニーチェの気持ちがわかるわ(笑)。誰か今度はブッダを殺してくれないもんかね。「ブッダは無我を説いた後有我を説いた」などわたしにとってはヘーゲルの「否定の否定」、即ち「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」と等しい。先述の「お前らは生得的に我を持っているんだから、我がないフリなんかすんなアホウ」における「我がないフリ」をする奴らである。あるいはこの記事の一時的にファルスは不安定になるがほぼ必ずと言っていいほど寛解する中二病もこれに当てはまる。ブッダもヘーゲルも構造的には中二病あるいは自己愛型ひきこもりと変わらない。正常人たちの生はサイン、コサイン波だ。キチガイたちはタンジェント波を生きている。
この記事は、スッパマンにアラレちゃんが投げつけるうんこである。
スッパマンたちには、空観を生きる苦痛が、うんこに塗れ続ける苦痛が、我がなかなか生じない苦痛が、人ではないのに人として育てられているアラレちゃんの苦悩が理解できない。キチガイの快楽原則や現実原則あるいは自我や超自我は壊れているのであり全くないわけではない。中途半端に人でありながら中途半端に獣であるのがキチガイだ。だから苦しいのだ。だから病として認知されているのだ。快楽原則や現実原則にがちがちに縛られたお前たち正常人に、物自体に囲まれて生きることの苦痛がわかるわけがないのだ。
アラレちゃんもいろいろ学んだらこういうことで悩むんだろうか。
ほんと正常人って滑稽だ。そうただ笑っているだけならアラレちゃんのままでいられたのに。「きーん」と誰かにぶつかって相手を死なせても、死体に「んちゃ!」で済んだのに。そういう意味ではわたしはアラレちゃんではなく『パタリロ』の(額のレーダーを外した)αランダムになるな。かっこつけすぎ? そうですねすみません。
この記事の「知的障害度と中枢性統合(即ちわたし論で言うファルス)の不具合度はなんら関係がない」という論旨も、刃物で人間を殺せるという知識は人間を殺してはいけないという固定観念とはなんら関係ない、という言い方なら理解してもらえるだろうか。殺人を犯す自閉症者や統合失調症者はアラレちゃんなのだ。
今年もご愛読ありがとうございました。
今年最後のうんこ投げでした。
願わくばこのうんこが一つでも多くのファルスを殺害できますように。