写像される世界
2009/01/01/Thu
球体が一つある。
この球体には、重力や風やそれとの摩擦や、さまざまな作用が生じている。
結果、球体はどこかに転がっていったり、時には変形したりする。
……違う。
球体の中身からの作用もある。球体の中身からの作用によっても、球体はどこかに転がっていったり、時には変形したりする。
ここが木村敏論の決定的な破綻箇所である。彼は絶対的未知性を絶対的に他者としている。彼は「ここ」を信頼しきっている。自分の中に絶対的未知性がある場合を頭の片隅にも置いていない。自分が「そこ」にいるという統合失調症者の離人体験を考慮に入れて論を構築できていない。
ここにいかにも無自覚なところが、木村が悲しいほどパラノイアックな正常人であるということを示している。彼のキチガイに対する欲望は決して成就しない。彼はファルスから逃れられない。彼の自己分析「自分はポスト・フェストゥムである」という言葉からは、彼の悲しそうな笑みが連想される。
彼はキチガイの主観世界を一生理解できないだろう。正常人の生を全うするだろう。幸運なことにも。
……違う。
要するに、球体という元の形があることが問題なのだ。球体など、座標を写像変換すれば球体じゃなくなる。トポロジーである。違う座標世界ではそれは球体ではない。
ラカンはここまで来ておいて、何故狂わなかったのだろう。多分、女性を存在させなくしたからだ。わたしはこの場合の「女性」はファルスがない(純粋な)未去勢者を意味していると考える。従って、彼は未去勢者は存在しないと考えていた、となる。鏡像段階以前の、生後六ヶ月から十八ヶ月ぐらいまで以前の乳幼児の主観世界は、われわれの主観世界には存在しない、ということだ。
フロイトの言葉「子供時代はそのものとしてはもうない」の読み直しなのだ。
わたしという野犬が、糞尿をその身に纏わせている。球体など写像が存在する世界ではイデアでもなんでもない。イデアなど存在しない自然と一体化したわたしがわたしを襲う。野犬を殺そうとしているのは僕だ。貧乏宿で体を切り売りしながら生きてきた僕だ。僕は孤児だ。だから僕は悪意から自然から君を守る。君などイデアの代用品にすぎない。イデアとは僕だ。即ち君は僕の代用品だ。
そうやって、君と僕は「ここ」にいる。
君と僕は一つの球体だ。
……もう、やめてくれ。
ある座標世界という限定した場合において、球体なそれに、外側から内側からさまざまな作用が影響する。
この作用に着目していこう。
この作用は重力によるものだ。この作用は風によるものだ。この作用は内側のある機能からくるものだ。この作用はまた別の機能からくるものだ。
重力による作用を取り上げていこう。
重力とはなんだ? 万有引力だ。万有引力とはなんだ?
……こうやって、一つ一つの作用が球体化していく。
写像が許される世界では、球体ではないものが球体であったりする。それを不完全な球体と表現しよう。であるならば、写像が許される世界においては、不完全な球体があちこちに乱舞していることになる。
実際、乱舞している。
意味がサーカスをしている。
「これがイントラ・フェストゥム。フェストゥムそのものよ」
僕は君の声を聞かないフリをする。何故なら君は存在していないから。存在してはいけない存在だから。
僕は君と同一だから、君を存在させない。
「それが鏡像ってこと」
……違う。
それは僕だ。僕は「ここ」にいる。
「「それ」って言ってるじゃない(笑)」
……いい加減やめてくんないかな。
わたしはわたしだ。
糞尿に塗れてもわたしはわたしでいるのだ。
キチガイと嫌われようと、多くの去勢済みな主体から排除され続けようと、わたしはわたしである。
わたし言ったよね。わたしは魔女だと。
お前に魔女を鏡へと閉じ込める力はあるのかい?
こんな年老いたババアを愛撫できるのかい?
ほら、さっさとママのところへおかえり。
怒っちゃいないさ。
いつものことだからね。
ああそうそう。
写像が許される世界では、魔女の世界では、わたしにとっては、お前たちの一年は一万年だったり一瞬だったりするけどね。いいさ。お前たちの固定化された世界も写像されうる世界の一つだ。気まぐれで立ち寄るかもしれないモーテルだ。
だからこう言っておくよ。
あけましておめでとう。
『バタフライ・エフェクト』がおもしろかった。ストーリーはありがちだけど、デスメタデブの友人やらロリコンの父親と娘とかヒロインの兄がちびっこで凶暴なところとか別の世界では熱心な宗教徒になってるところとか、断片的なところでサブカル魂(?)をくすぐる作りをしている。演出的にもありがちなアングルが多いが「お前B級好きだろ?」的な感じが出ててなおさらグー。主人公の少年期の子とかショタにはたまらんだろ。
これは監督の勝利だな。脚本がもっといまいちだったらB級として認知されてたろうにそこそこだったから逆に誤解されてんだろうね。いやいまいちであるべきだったなんて言わないが。
一瞬で何十年のしかも複数の人生を味わう。それそれ。イントラ・フェストゥムのほどよい象徴となろう。
これは評価すべき。ストーリーがどうのこうの言ってくるような奴は山の手事情社の芝居後のパネルディスカッションで「この芝居におけるメッセージとはどんなものでしょう?」とか聞いてくるアホンダラと同種だと思っておけばよい。小劇場ジャンルとはいえ「誰かに教えてもらうのが普通」な子ばっかりなんだろうな。
サブカルを殺したのはサブカルファンである。
とか言われてぞぞっと喜ぶ(?)のが真性サブカルファンであーる。
酒入ってるのでボーロンしてみました。
いいね。大文字の他者に無自覚に甘えられる人は。
この球体には、重力や風やそれとの摩擦や、さまざまな作用が生じている。
結果、球体はどこかに転がっていったり、時には変形したりする。
……違う。
球体の中身からの作用もある。球体の中身からの作用によっても、球体はどこかに転がっていったり、時には変形したりする。
ここが木村敏論の決定的な破綻箇所である。彼は絶対的未知性を絶対的に他者としている。彼は「ここ」を信頼しきっている。自分の中に絶対的未知性がある場合を頭の片隅にも置いていない。自分が「そこ」にいるという統合失調症者の離人体験を考慮に入れて論を構築できていない。
ここにいかにも無自覚なところが、木村が悲しいほどパラノイアックな正常人であるということを示している。彼のキチガイに対する欲望は決して成就しない。彼はファルスから逃れられない。彼の自己分析「自分はポスト・フェストゥムである」という言葉からは、彼の悲しそうな笑みが連想される。
彼はキチガイの主観世界を一生理解できないだろう。正常人の生を全うするだろう。幸運なことにも。
……違う。
要するに、球体という元の形があることが問題なのだ。球体など、座標を写像変換すれば球体じゃなくなる。トポロジーである。違う座標世界ではそれは球体ではない。
ラカンはここまで来ておいて、何故狂わなかったのだろう。多分、女性を存在させなくしたからだ。わたしはこの場合の「女性」はファルスがない(純粋な)未去勢者を意味していると考える。従って、彼は未去勢者は存在しないと考えていた、となる。鏡像段階以前の、生後六ヶ月から十八ヶ月ぐらいまで以前の乳幼児の主観世界は、われわれの主観世界には存在しない、ということだ。
フロイトの言葉「子供時代はそのものとしてはもうない」の読み直しなのだ。
わたしという野犬が、糞尿をその身に纏わせている。球体など写像が存在する世界ではイデアでもなんでもない。イデアなど存在しない自然と一体化したわたしがわたしを襲う。野犬を殺そうとしているのは僕だ。貧乏宿で体を切り売りしながら生きてきた僕だ。僕は孤児だ。だから僕は悪意から自然から君を守る。君などイデアの代用品にすぎない。イデアとは僕だ。即ち君は僕の代用品だ。
そうやって、君と僕は「ここ」にいる。
君と僕は一つの球体だ。
……もう、やめてくれ。
ある座標世界という限定した場合において、球体なそれに、外側から内側からさまざまな作用が影響する。
この作用に着目していこう。
この作用は重力によるものだ。この作用は風によるものだ。この作用は内側のある機能からくるものだ。この作用はまた別の機能からくるものだ。
重力による作用を取り上げていこう。
重力とはなんだ? 万有引力だ。万有引力とはなんだ?
……こうやって、一つ一つの作用が球体化していく。
写像が許される世界では、球体ではないものが球体であったりする。それを不完全な球体と表現しよう。であるならば、写像が許される世界においては、不完全な球体があちこちに乱舞していることになる。
実際、乱舞している。
意味がサーカスをしている。
「これがイントラ・フェストゥム。フェストゥムそのものよ」
僕は君の声を聞かないフリをする。何故なら君は存在していないから。存在してはいけない存在だから。
僕は君と同一だから、君を存在させない。
「それが鏡像ってこと」
……違う。
それは僕だ。僕は「ここ」にいる。
「「それ」って言ってるじゃない(笑)」
……いい加減やめてくんないかな。
わたしはわたしだ。
糞尿に塗れてもわたしはわたしでいるのだ。
キチガイと嫌われようと、多くの去勢済みな主体から排除され続けようと、わたしはわたしである。
わたし言ったよね。わたしは魔女だと。
お前に魔女を鏡へと閉じ込める力はあるのかい?
こんな年老いたババアを愛撫できるのかい?
ほら、さっさとママのところへおかえり。
怒っちゃいないさ。
いつものことだからね。
ああそうそう。
写像が許される世界では、魔女の世界では、わたしにとっては、お前たちの一年は一万年だったり一瞬だったりするけどね。いいさ。お前たちの固定化された世界も写像されうる世界の一つだ。気まぐれで立ち寄るかもしれないモーテルだ。
だからこう言っておくよ。
あけましておめでとう。
『バタフライ・エフェクト』がおもしろかった。ストーリーはありがちだけど、デスメタデブの友人やらロリコンの父親と娘とかヒロインの兄がちびっこで凶暴なところとか別の世界では熱心な宗教徒になってるところとか、断片的なところでサブカル魂(?)をくすぐる作りをしている。演出的にもありがちなアングルが多いが「お前B級好きだろ?」的な感じが出ててなおさらグー。主人公の少年期の子とかショタにはたまらんだろ。
これは監督の勝利だな。脚本がもっといまいちだったらB級として認知されてたろうにそこそこだったから逆に誤解されてんだろうね。いやいまいちであるべきだったなんて言わないが。
一瞬で何十年のしかも複数の人生を味わう。それそれ。イントラ・フェストゥムのほどよい象徴となろう。
これは評価すべき。ストーリーがどうのこうの言ってくるような奴は山の手事情社の芝居後のパネルディスカッションで「この芝居におけるメッセージとはどんなものでしょう?」とか聞いてくるアホンダラと同種だと思っておけばよい。小劇場ジャンルとはいえ「誰かに教えてもらうのが普通」な子ばっかりなんだろうな。
サブカルを殺したのはサブカルファンである。
とか言われてぞぞっと喜ぶ(?)のが真性サブカルファンであーる。
酒入ってるのでボーロンしてみました。
いいね。大文字の他者に無自覚に甘えられる人は。