「曖昧なもの」と「確かなもの」
2006/12/22/Fri
「曖昧なもの」と「確かなもの」。
「確かなもの」について、人間は安心感を得ます。前回の幼児期の話であるなら、「乳房」「自分の体」などがそうなるでしょうか。しかし「乳房」は幼児が自己の差異化に気付くと、「良い乳房/悪い乳房」という両義性を孕みます。ここでは「自己愛」の根源となる全能感を満足させる「鏡に映る(暗喩ですよ)自分の体」が幼児期における「確かなもの」の根源的象徴となるでしょうか。
「曖昧なもの」について。人間はそれに対し不安感を覚えます。ホラーやミステリや心霊現象などを考えればわかりやすいでしょうか。または闇の恐怖。「曖昧なもの」=「わからないもの」に対して人は恐怖や不安を覚えます。
何故「わからないもの」に対して不安を覚えるのでしょうか。この先何が起こるかわからないからですよね。自分の身に危害が及ぶかもしれない。「確かなもの」の象徴である自分の体を傷つけられるかもしれない。そういった意味では、「過去」に対する「未来」は強度の「曖昧なもの」と言えるでしょう。
しかし、私たちはホラーやミステリや心霊現象に惹かれます。わからない未来に惹かれます。それは何故でしょう。「曖昧なもの」の根源を探る必要がありそうです。
幼児における「曖昧なもの」とは何でしょうか。先程言ったように、乳房の両義性に着目すれば、「母親」が最初の「曖昧なもの」なのかもしれません。しかし、その両義性は自分の体を手に入れたから覚えるものです。自分の体という「確かなもの」に対する「曖昧なもの」とは。それは母親の胎内にいた頃の自分という、自分の体と母親の体の差異が曖昧な時代の自分が、「曖昧なもの」の根源となるのではないでしょうか。
母親の胎内では、自分と母体という差異は幼児にとって曖昧なものでしょう。胎内では、幼児の全能感は満足されていると思われます。「求めるだけ与えられる」世界だからです。この換喩により、人は未来やホラーやミステリという「曖昧なもの」に惹かれてしまうのではないでしょうか。
しかし同時に一つの疑問が湧きます。「曖昧なもの」に惹かれる原初的記憶はそうだとしても、「曖昧なもの」に対して不安に思う原初はそこにはないだろう、と。
この感情の原初を「良い乳房/悪い乳房」に持ってくるなら話は簡単です。惹かれる感情とそれを否定する感情、二つの矛盾する感情がそこにはあるからです。しかしこれは、繰り返しますが、「鏡に映った自分の体」という「確かなもの」を手に入れた後の話です。それ以前の幼児の感情に、「曖昧なもの」に対する矛盾した感情はないのでしょうか。もしないのであれば、「確かなもの」を得られた後で「曖昧なもの」を覚えるわけですから、人は「確かなもの」を求め続ければよい、ということになります。それなら何故人は古代ギリシャ哲学のように、「わからない謎」に挑んできたのでしょうか。「曖昧なもの」から惹起される不安を打ち消すためだけなら、思考しなければよいのです。シュレーディンガーの猫を思い出しましょう。箱の中の猫は、生死が曖昧です。「曖昧なもの」から逃れるためだけなら、箱を開けなければよいのです。そこには「箱」という「確かなもの」があるのですから。しかし人は箱を開けます。パンドラの箱や竜宮からの土産物といった箱を開けてしまうのです。これらの神話・説話にはやはり、両義性を持つ「曖昧なもの」へ対する本能的な希求が感じられます。逆に言えば、マイナスとプラスという両義性がないと「曖昧なもの」とは言えないのです。
それでは、幼児期における母親の胎内への希求は「曖昧なもの」ではないのでしょうか。それは大きな希求と言えます。「求めるだけ与えられる」世界の方がいいに決まっているからです。やはりここには、母親の胎内に戻ることへの大きな恐れとなる何かがあるという考えの方がしっくりきます。
メラニー・クラインによる表現では、「母親の胎内にある父親のペニス」とあります。幼児はそれを恐れると。しかし私はこの比喩はしっくりきません(余談ですが、人間の感情なんて再現性のない「曖昧なもの」ですから、それを精確に描写するには比喩表現に頼るしかないのです。だから精神分析学では比喩表現が多いのです)。
「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理でこれを探っていきましょう。
幼児の生後の「その時」は「確かなもの」で、母親の胎内にいる自己と母体の境界が曖昧な頃という「曖昧なもの」。これは自己と母体の関係性に着目したらそうでしょう。しかし、これを定性的に細分化してみます。つまり、「曖昧なもの」と「確かなもの」の間には、それらを繋ぐ「曖昧なもの」がそこにあるはずです。
この場合だと、出産の瞬間になるでしょうか。なるほど。出産時産道を通る赤ん坊は、頭部が変形するほどの圧力を受けます。これが胎内の中にいた頃という「曖昧なもの」への不安の根源でしょうか。もしそうであれば、帝王切開で生まれた幼児は、胎内への希求が強く表出することになります。体内へ戻ることへの不安材料がないからです。表出としては甘えん坊だとかになるのでしょうか。しかし私はそうは思えません。なので私はもう一つ不安材料があると考えます。陣痛などがそうなるでしょうか。胎内の赤ん坊も同じ痛みを感じているとは言いませんが、母体が感じている陣痛による強いストレスを赤ん坊もある程度共有していると考える方が妥当でしょう。つまり、陣痛から出産において赤ん坊が感じる強いストレスが、「母親の胎内にある父親のペニス」の正体ではないだろうか、と私は考えます。
さて、これでようやく「胎内にいた頃の自分」という「曖昧なもの」の、プラスとマイナスの両義性が説明できたことになります。人は「曖昧なもの」に対して、恐れや不安というマイナスの感情を覚えると同時に、それに惹かれるというプラスの感情も持っている、ということが原初の感情の原因から説明できる、ということになりましょうか。
この矛盾する感情は、生まれた直後に感じるものでしょう。先では「確かなもの」の後に「曖昧なもの」があるとしましたが、「曖昧なもの」が先にあって「確かなもの」を手に入れる、という順番になります。哲学の「真理」とは根源を求めることでもあります。学問的思考は、必ず「曖昧なもの」志向へ帰着するというのが、私の考えです。
「曖昧なもの」がベースにあって、「確かなもの」が生まれるわけですね。
前の記事も併せて読んで頂くと、パラノイア構成要件からの「差異化」「同一化」という志向と、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理は深い関係を持っていることがおわかりになるでしょう。しかし、どちらがどっちに当てはまるとは簡単には言い切れません。~的という、曖昧な言い方なら、「差異化」が「確かなもの」的で「同一化」が「曖昧なもの」的とは「換喩的に」言えると思いますが、厳密に同一というわけではありません。「差異化」の志向の中にも「曖昧なもの」があるでしょうし、「同一化」にしてもそうでしょう。
どちらの二項も、一般に適用させる場合は、傾向を「曖昧に」捉えて、モデル化、単純化することで理解の手助けをする二項論理だと思ってください。
「確かなもの」について、人間は安心感を得ます。前回の幼児期の話であるなら、「乳房」「自分の体」などがそうなるでしょうか。しかし「乳房」は幼児が自己の差異化に気付くと、「良い乳房/悪い乳房」という両義性を孕みます。ここでは「自己愛」の根源となる全能感を満足させる「鏡に映る(暗喩ですよ)自分の体」が幼児期における「確かなもの」の根源的象徴となるでしょうか。
「曖昧なもの」について。人間はそれに対し不安感を覚えます。ホラーやミステリや心霊現象などを考えればわかりやすいでしょうか。または闇の恐怖。「曖昧なもの」=「わからないもの」に対して人は恐怖や不安を覚えます。
何故「わからないもの」に対して不安を覚えるのでしょうか。この先何が起こるかわからないからですよね。自分の身に危害が及ぶかもしれない。「確かなもの」の象徴である自分の体を傷つけられるかもしれない。そういった意味では、「過去」に対する「未来」は強度の「曖昧なもの」と言えるでしょう。
しかし、私たちはホラーやミステリや心霊現象に惹かれます。わからない未来に惹かれます。それは何故でしょう。「曖昧なもの」の根源を探る必要がありそうです。
幼児における「曖昧なもの」とは何でしょうか。先程言ったように、乳房の両義性に着目すれば、「母親」が最初の「曖昧なもの」なのかもしれません。しかし、その両義性は自分の体を手に入れたから覚えるものです。自分の体という「確かなもの」に対する「曖昧なもの」とは。それは母親の胎内にいた頃の自分という、自分の体と母親の体の差異が曖昧な時代の自分が、「曖昧なもの」の根源となるのではないでしょうか。
母親の胎内では、自分と母体という差異は幼児にとって曖昧なものでしょう。胎内では、幼児の全能感は満足されていると思われます。「求めるだけ与えられる」世界だからです。この換喩により、人は未来やホラーやミステリという「曖昧なもの」に惹かれてしまうのではないでしょうか。
しかし同時に一つの疑問が湧きます。「曖昧なもの」に惹かれる原初的記憶はそうだとしても、「曖昧なもの」に対して不安に思う原初はそこにはないだろう、と。
この感情の原初を「良い乳房/悪い乳房」に持ってくるなら話は簡単です。惹かれる感情とそれを否定する感情、二つの矛盾する感情がそこにはあるからです。しかしこれは、繰り返しますが、「鏡に映った自分の体」という「確かなもの」を手に入れた後の話です。それ以前の幼児の感情に、「曖昧なもの」に対する矛盾した感情はないのでしょうか。もしないのであれば、「確かなもの」を得られた後で「曖昧なもの」を覚えるわけですから、人は「確かなもの」を求め続ければよい、ということになります。それなら何故人は古代ギリシャ哲学のように、「わからない謎」に挑んできたのでしょうか。「曖昧なもの」から惹起される不安を打ち消すためだけなら、思考しなければよいのです。シュレーディンガーの猫を思い出しましょう。箱の中の猫は、生死が曖昧です。「曖昧なもの」から逃れるためだけなら、箱を開けなければよいのです。そこには「箱」という「確かなもの」があるのですから。しかし人は箱を開けます。パンドラの箱や竜宮からの土産物といった箱を開けてしまうのです。これらの神話・説話にはやはり、両義性を持つ「曖昧なもの」へ対する本能的な希求が感じられます。逆に言えば、マイナスとプラスという両義性がないと「曖昧なもの」とは言えないのです。
それでは、幼児期における母親の胎内への希求は「曖昧なもの」ではないのでしょうか。それは大きな希求と言えます。「求めるだけ与えられる」世界の方がいいに決まっているからです。やはりここには、母親の胎内に戻ることへの大きな恐れとなる何かがあるという考えの方がしっくりきます。
メラニー・クラインによる表現では、「母親の胎内にある父親のペニス」とあります。幼児はそれを恐れると。しかし私はこの比喩はしっくりきません(余談ですが、人間の感情なんて再現性のない「曖昧なもの」ですから、それを精確に描写するには比喩表現に頼るしかないのです。だから精神分析学では比喩表現が多いのです)。
「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理でこれを探っていきましょう。
幼児の生後の「その時」は「確かなもの」で、母親の胎内にいる自己と母体の境界が曖昧な頃という「曖昧なもの」。これは自己と母体の関係性に着目したらそうでしょう。しかし、これを定性的に細分化してみます。つまり、「曖昧なもの」と「確かなもの」の間には、それらを繋ぐ「曖昧なもの」がそこにあるはずです。
この場合だと、出産の瞬間になるでしょうか。なるほど。出産時産道を通る赤ん坊は、頭部が変形するほどの圧力を受けます。これが胎内の中にいた頃という「曖昧なもの」への不安の根源でしょうか。もしそうであれば、帝王切開で生まれた幼児は、胎内への希求が強く表出することになります。体内へ戻ることへの不安材料がないからです。表出としては甘えん坊だとかになるのでしょうか。しかし私はそうは思えません。なので私はもう一つ不安材料があると考えます。陣痛などがそうなるでしょうか。胎内の赤ん坊も同じ痛みを感じているとは言いませんが、母体が感じている陣痛による強いストレスを赤ん坊もある程度共有していると考える方が妥当でしょう。つまり、陣痛から出産において赤ん坊が感じる強いストレスが、「母親の胎内にある父親のペニス」の正体ではないだろうか、と私は考えます。
さて、これでようやく「胎内にいた頃の自分」という「曖昧なもの」の、プラスとマイナスの両義性が説明できたことになります。人は「曖昧なもの」に対して、恐れや不安というマイナスの感情を覚えると同時に、それに惹かれるというプラスの感情も持っている、ということが原初の感情の原因から説明できる、ということになりましょうか。
この矛盾する感情は、生まれた直後に感じるものでしょう。先では「確かなもの」の後に「曖昧なもの」があるとしましたが、「曖昧なもの」が先にあって「確かなもの」を手に入れる、という順番になります。哲学の「真理」とは根源を求めることでもあります。学問的思考は、必ず「曖昧なもの」志向へ帰着するというのが、私の考えです。
「曖昧なもの」がベースにあって、「確かなもの」が生まれるわけですね。
前の記事も併せて読んで頂くと、パラノイア構成要件からの「差異化」「同一化」という志向と、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理は深い関係を持っていることがおわかりになるでしょう。しかし、どちらがどっちに当てはまるとは簡単には言い切れません。~的という、曖昧な言い方なら、「差異化」が「確かなもの」的で「同一化」が「曖昧なもの」的とは「換喩的に」言えると思いますが、厳密に同一というわけではありません。「差異化」の志向の中にも「曖昧なもの」があるでしょうし、「同一化」にしてもそうでしょう。
どちらの二項も、一般に適用させる場合は、傾向を「曖昧に」捉えて、モデル化、単純化することで理解の手助けをする二項論理だと思ってください。