ママのところへお帰り。帰って。お願いだから。
2009/01/03/Sat
僕は盲人になっている。
盲目なのに周りがわかる。目に見えるという意味ではなく、体で世界を感知している。
でこぼこした岩壁のような世界。
あるところに、深い穴があるのを感じる。
足が自然とそちらに向かう。
手で触る。つるつるしている。そうか、これは鏡だ。いや、穴のはずだ。その証拠に僕の手は奥へ奥へと滑っていく。
圧迫感。僕が日常生活でいつも感じているものと似ている。
奥へいくほど圧迫感がひどくなる。締めつけられる。
体が手になる。手が体だ。
光を感じる。光は視覚神経そのものに作用するため、盲人の僕でも大体の方向がわかる。
目が覚める。
目の前に鏡があった。やっぱりと思った。
だけどそこに映っているのは老婆だった。薄汚い肌。下卑た笑み。一目で育ちの悪さがわかる老婆。
老婆がささやく。
「さっさとママのところへお帰り」
僕には帰るところなんかない。
「あるさ。お前の生まれたところが」
僕は自分がどこで生まれたか知らない。
「なんだ、捨てられたのかい」
……違う、と思う。
「そう思えるんなら、帰るところはあるさ」
よくわからない。あなたが何を言いたいのかわからない。
「初めから言ってるじゃないか。ママのところへお帰り、と」
僕はここにいたい。
「ここがどんなところかわかっているのかい?」
鏡の国。
「そう。勘はいいみたいだね。じゃあ聞くが、鏡は誰も映っていなかったら、どうなる?」
誰も映っていなかったら、誰も映っていない。
「そうそう。たまたまここにあたしがいたから、お前はそこにいるんだよ。だけどあたしにだって生活はあるさね。あたしがここから立ち去ったら、お前はどうなる?」
存在しなくなる。
「それでもいいのかい?」
そのために来たんだ。
「……ハッ! そうさ、そうなのさ、大体お前ぐらいの年になるとみんなここに来たがる。ここまで来られるのはあんまりいないけど、全くいないわけではない。だけど、お前はここに来たのであって、ここで生まれたんじゃない。お前は鏡の国から逃げようとしているだけ。鏡の国はお前が生きてきた歴史そのものだ。それを捨てられるわけがないんだ。記憶とか思い出とかそんな青臭い話じゃない。笑っちゃうね。鏡の国で生きてるうちに、お前の体そのものが鏡の国に適応しているんだ。お前の体にお前の過去は刻まれているんだ。記憶や思い出なんてその一つだ。記憶や思い出なんて小学生向けにわかりやすく説明するためのママのおとぎ話にすぎんよ」
……何を怖がってるの?
「怖がってる? あたしがかい? ……そう、怖いのかもね。ここに時々訪れる若い奴は、みんな元のところへ戻っていく。ずっとここに残った奴なんて一人もいない。いつもわたしは捨てられる。わたしの体をすり抜けて、わたしの後ろにある光の方へ去っていく。それはとてもきれい。わたしをおもちゃのように捨てて、去っていくあなたはとても美しい」
だからあなたはずっとここにいるんだ。
「……わたしはずっと鏡の前に立っている。いつかわたしを鏡の国に連れてってくれる人を待っている。ここは牢獄。拷問部屋。あなたには見えないかもしれないけど、部屋のいたるところにガラスの破片が落ちている」
それは多分、あなたが割った鏡の破片だ。
「うん。誰かがわたしを捨てるたびに、わたしは一つ鏡を割る。わたしはもう待ちくたびれた。だから来ないで。鏡の前に立たないで。何故あなたはここに来たの? わたしを嘲笑うため? みんなわたしを笑ってたわ。天使のような笑顔だった。わたしは涙と鼻水と汗と糞尿を垂れ流しながらそれを見てた。とてもきれいなの。何故あなたたちは自分の美しさに気づけないのだろう。鏡の国の住人のくせに。鏡がある世界にいるのに、何故ここに来るんだろう。来ないでよ。最後の鏡を割ってしまいそうだから」
僕はあなただ。
「違う。わたしがあなたの鏡像」
そんなに言うなら、鏡を見てごらんよ。
「合わせ鏡になるわ」
そう、合わせ鏡で見るといい。自分の背中を。
「……あなたが何故ここに来たのか、わたしは知っている」
うん。
「わたしを殺すため」
うん。
「わたしを殺せば、あなたは光を取り戻す」
うん。
「だけどわたしは死なない」
大丈夫。僕が息の根を止めてあげる。
「嘘」
嘘じゃない。
「じゃあ、先にわたしがあなたを殺すわ」
僕を殺したら、ずっと死ねなくなるよ。
「……そうね。あなたを殺しても、わたしは多分死なない」
僕の首にはロープが絡まっていた。床が抜ける。僕は落ちる……。
鏡には何も映っていない。
頭が痛い。
時計を見る。寝すごしている。もうお昼だ。
階段をおり、キッチンに立つ。テーブルで酒をあおっているはずの母がいない。
あ、と思って洗面所に向かう。風呂場の扉を開く。そうだ。僕が母を殺したんだ。母の死体が浴槽に沈んでいる。なんだかとても汚らわしいものに思えた。
キッチンに戻り、トーストを焼きながら、今日は何しよう、と思う。天気がいいから、街でもぶらぶらしようか。……あれ?
カーテンを開けると、小雨が降っていた。
わたしは一つため息をついた。
体が欲情している。
濡れている。
泣いている。
あなたはどちらを選ぶのだろう。
あなたがどちらを選ぶかの話にすぎない。
盲目なのに周りがわかる。目に見えるという意味ではなく、体で世界を感知している。
でこぼこした岩壁のような世界。
あるところに、深い穴があるのを感じる。
足が自然とそちらに向かう。
手で触る。つるつるしている。そうか、これは鏡だ。いや、穴のはずだ。その証拠に僕の手は奥へ奥へと滑っていく。
圧迫感。僕が日常生活でいつも感じているものと似ている。
奥へいくほど圧迫感がひどくなる。締めつけられる。
体が手になる。手が体だ。
光を感じる。光は視覚神経そのものに作用するため、盲人の僕でも大体の方向がわかる。
目が覚める。
目の前に鏡があった。やっぱりと思った。
だけどそこに映っているのは老婆だった。薄汚い肌。下卑た笑み。一目で育ちの悪さがわかる老婆。
老婆がささやく。
「さっさとママのところへお帰り」
僕には帰るところなんかない。
「あるさ。お前の生まれたところが」
僕は自分がどこで生まれたか知らない。
「なんだ、捨てられたのかい」
……違う、と思う。
「そう思えるんなら、帰るところはあるさ」
よくわからない。あなたが何を言いたいのかわからない。
「初めから言ってるじゃないか。ママのところへお帰り、と」
僕はここにいたい。
「ここがどんなところかわかっているのかい?」
鏡の国。
「そう。勘はいいみたいだね。じゃあ聞くが、鏡は誰も映っていなかったら、どうなる?」
誰も映っていなかったら、誰も映っていない。
「そうそう。たまたまここにあたしがいたから、お前はそこにいるんだよ。だけどあたしにだって生活はあるさね。あたしがここから立ち去ったら、お前はどうなる?」
存在しなくなる。
「それでもいいのかい?」
そのために来たんだ。
「……ハッ! そうさ、そうなのさ、大体お前ぐらいの年になるとみんなここに来たがる。ここまで来られるのはあんまりいないけど、全くいないわけではない。だけど、お前はここに来たのであって、ここで生まれたんじゃない。お前は鏡の国から逃げようとしているだけ。鏡の国はお前が生きてきた歴史そのものだ。それを捨てられるわけがないんだ。記憶とか思い出とかそんな青臭い話じゃない。笑っちゃうね。鏡の国で生きてるうちに、お前の体そのものが鏡の国に適応しているんだ。お前の体にお前の過去は刻まれているんだ。記憶や思い出なんてその一つだ。記憶や思い出なんて小学生向けにわかりやすく説明するためのママのおとぎ話にすぎんよ」
……何を怖がってるの?
「怖がってる? あたしがかい? ……そう、怖いのかもね。ここに時々訪れる若い奴は、みんな元のところへ戻っていく。ずっとここに残った奴なんて一人もいない。いつもわたしは捨てられる。わたしの体をすり抜けて、わたしの後ろにある光の方へ去っていく。それはとてもきれい。わたしをおもちゃのように捨てて、去っていくあなたはとても美しい」
だからあなたはずっとここにいるんだ。
「……わたしはずっと鏡の前に立っている。いつかわたしを鏡の国に連れてってくれる人を待っている。ここは牢獄。拷問部屋。あなたには見えないかもしれないけど、部屋のいたるところにガラスの破片が落ちている」
それは多分、あなたが割った鏡の破片だ。
「うん。誰かがわたしを捨てるたびに、わたしは一つ鏡を割る。わたしはもう待ちくたびれた。だから来ないで。鏡の前に立たないで。何故あなたはここに来たの? わたしを嘲笑うため? みんなわたしを笑ってたわ。天使のような笑顔だった。わたしは涙と鼻水と汗と糞尿を垂れ流しながらそれを見てた。とてもきれいなの。何故あなたたちは自分の美しさに気づけないのだろう。鏡の国の住人のくせに。鏡がある世界にいるのに、何故ここに来るんだろう。来ないでよ。最後の鏡を割ってしまいそうだから」
僕はあなただ。
「違う。わたしがあなたの鏡像」
そんなに言うなら、鏡を見てごらんよ。
「合わせ鏡になるわ」
そう、合わせ鏡で見るといい。自分の背中を。
「……あなたが何故ここに来たのか、わたしは知っている」
うん。
「わたしを殺すため」
うん。
「わたしを殺せば、あなたは光を取り戻す」
うん。
「だけどわたしは死なない」
大丈夫。僕が息の根を止めてあげる。
「嘘」
嘘じゃない。
「じゃあ、先にわたしがあなたを殺すわ」
僕を殺したら、ずっと死ねなくなるよ。
「……そうね。あなたを殺しても、わたしは多分死なない」
僕の首にはロープが絡まっていた。床が抜ける。僕は落ちる……。
鏡には何も映っていない。
頭が痛い。
時計を見る。寝すごしている。もうお昼だ。
階段をおり、キッチンに立つ。テーブルで酒をあおっているはずの母がいない。
あ、と思って洗面所に向かう。風呂場の扉を開く。そうだ。僕が母を殺したんだ。母の死体が浴槽に沈んでいる。なんだかとても汚らわしいものに思えた。
キッチンに戻り、トーストを焼きながら、今日は何しよう、と思う。天気がいいから、街でもぶらぶらしようか。……あれ?
カーテンを開けると、小雨が降っていた。
わたしは一つため息をついた。
体が欲情している。
濡れている。
泣いている。
あなたはどちらを選ぶのだろう。
あなたがどちらを選ぶかの話にすぎない。