絶対的未知星人
2009/01/04/Sun
数学が好きだった。
好きと言っても、平均的に得意科目だと言える成績ではあったが、非常にムラがあった。このことは以前にも書いたと思う。
このムラの原因は自覚している。
というのは、たとえば定理や方程式など、単に覚えれば済むだけの要件を、わたしは確かめずにいられなかったのだ。定理や方程式をいちいち自分で証明しないとそれを使えなかった。
かっこつけて言うならわたしの美学みたいなもの。だけど美学でもなんでもない。証明していない定理を使うのが気持ち悪かっただけ。この気持ち悪さをパラノイアックな文法で説明するなら、自分で証明していない定理を使うと間違ってしまう気になる、みたいな言い方だとわかってもらえるだろうか。とはいえ当時はそんなこと全く思ってなかった。何故自分が気持ち悪くなるのかもわからないまま、機械的に授業で習う定理や方程式をしこしこと解いていた。
一つ一つの定理や方程式を自分が納得するまでいじくり倒すわけだから、ただ単に暗記して使えばいい、という手法と比較すれば、かなり効率が悪い。一つわからない定理があると一週間でも悩み続ける。その間の授業には当然ついていけない。
しかし、そういったことを繰り返していくと、ある時突然コツのようなものを覚える瞬間が来る。たとえば二次関数という項目ならば、二次関数に関する他の定理もすらすらと解けるようになる。当然問題もあっさり解けるようになる。
わたしはこのことを「思考が飛ぶ」などと表現していた。精神分析における夢の解釈では、空を飛ぶことは言語ゲームへの参入を象徴している、となる。わたしはこの時の実感をもってなるほどと思える。また、このような感じを「勉強を地道にやっていれば成績はある時突然RPGのレベルアップのように上がる」などとうそぶいていたりしていた。
高校数学まではこれで通用したのだが、東京大学の数学問題などはこれだけでは済まない。今まで覚えたさまざまな項目のコツを、まるでレゴブロックを組み立てるかのように組み合わせて挑まないと解けない。それがおもしろかった。赤本は東大のだけ出版されているもの全て解いた(と思う。「えーもう終わりい?」って思った記憶あるもん)。クラスメイトと競い合ったりして、部活のように楽しかった。パズルゲームのようなものだ。
一方、京都大学や大阪大学などの数学問題は、穴埋め問題があったりと、正直おもしろくなかった。出題者の「解答者の思考をこうやって導いてあげよう」という傲慢さが見えた。試験とは問題が解けなかった者をふるい落とす役割であるはずなのに、何故授業のような親切さを醸し出すのだろうと、妙な違和感を覚えて気持ち悪かった。むしろわたしなどはそういう風な態度を取られると、わざと横道にそれて遠回りに解いてやりたくなる。でも出題の仕方がそれを許してくれない。
東大の問題は冷たいのだ。ぽん、と問題を提示して、解答者があれこれ悩む過程をにやにや眺めているような態度。その分思考の自由度が高い。問題を解くという原始的な縛りだけで、後は自由に解いてみろ、という感じだった。パズルゲームとしてはこっちの方がおもしろいに決まっている。手探りでレゴブロックを組み立てるのだから、わざと横道にそれる必要もない。砂漠の真ん中においてけぼりにされたら、寄り道などせずにまっすぐオアシスへと向かうだろう。
ベイトソンの学習理論を比喩的に用いるならば、高校の授業は学習1と学習2(の繰り返し)で、東大の問題は学習3のような感じだ。そのままだと言わないが、この回帰のような感じのステップアップがたまたま受験時期と合致したのが、わたしの場合幸運だったのかもしれない。
どっかの進学塾の広告にでも使えそうなこのテクストは、わたしのあるトラウマを隠蔽している。
というのは、定理や方程式を証明もしていないのに暗記だけして成績を上げる周りの子たちに、わたしは嫉妬していたのだ。正直むかついた。何故気持ち悪くならないのだろうか、と不思議に思った。なんて自分はめんどくさい性格をしているのだろう、とずっと悩んでいた。今でも。
このわたしの症状は、数学以外のケースにも見られる。
たとえばわたしは大学の授業で使わされるまでコンピューターを触れなかった。中身がどうやって動いているのかわからないからだ。気持ち悪くて触れない。他の、たとえば車などは大体の構造を雑誌で学んだりしてぼんやりと知っていた。モーターの原理などもそう。だけど半導体の原理がいまいちよくわからなかった。このトラウマが大学でわたしを物性物理に進学させたのかもしれない。
とはいえ人間おもしろいもので、気持ち悪いながらも仕方なく使っていると慣れてくる。大学を卒業する頃にはすっかりコンピューターにはまっていた。
要するに、わたしはブラックボックスとでも呼べるような、わけのわからないものにとことん弱いのだ。お化け屋敷なんかも、グロ画像愛好家で元オカルト板住人のくせに苦手だ。
わたしはブラックボックスを空けないと気が済まない。ブラックボックスをブラックボックスのままで扱えない。
この性質が恋愛の場面で症状化すると、一種ストーカーのような行為となる。好きな人の知らないところがすごく気になる。全て知りたくなる。盗聴器をしかけたくなる。そこまではいかなくとも、携帯電話の履歴をこっそり見るくらいなら「普通にやるだろ」とか思ってしまう。
とはいえ、わかったらわかったで興味をなくす。わからなくても他のブラックボックスが目の前に表れたらすぐそっちに興味が向く。
こう書くとなんだかADHDのような気もしてくるが、集中力は高いのだ。先述の数学の定理などは丸一日悩んでいたりすることは普通だった。ADHDは好きな事柄に対しては高い集中力を見せるというが、別に好きなものに限らない。数学も高校までは嫌いではなかったが好きでもなかった。「思考が飛ぶ」感覚を覚えてからは、オナニーを覚えた猿のごとく好きになったが。好きだから集中するのではなく、わからないのが気持ち悪いから集中せざるをえない。好きという感情の発生は結果にすぎない。
歯止めが効かないのである。歯止めが効かないというより、何かに対する好き嫌い問わない興味という気持ちを、自分でコントロールできないのだ。コントロールのできなさの一つが歯止めが効かないという表出になっている、という話。
わたしの好き嫌い問わない興味という気持ちは、まるでわたしじゃないみたいだ。わたし自身が自分勝手だと思えるほど。
それは排便のようなものだ。出物腫れ物ところ構わず。
排便のようなものだから、何事にも興味を持てない時期もある。便秘状態、即ち抑鬱状態である。この状態が長く続くと、便秘と等しく身体に影響が出る。
この時のわたしが一番嫌いだ。嫌いというより、生理的に気持ち悪い。気持ち悪いっていうか怖いっていうか。体の中の糞便と直に接触しているような感覚。
だからわたしは抑鬱症者が嫌いだ。しかも一般的な抑鬱症(の精神分析学での解釈)である喪の状態というのがよくわからない。少なくともそれはわたしの便秘状態とは違う抑鬱状態だと思える。そんな疑問を保留してたところにクリステヴァの『黒い太陽』を読んで触発されてこんな記事を書いたりした。
わたしはわたしのために書いている。厳密に言えばわたしでもない。わたし自身が自分勝手だと思える何かだ。わたしの中の絶対的未知性だ。木村敏論など読んでいると、何故こんな単純で日常的な感覚がわからないのかがむしろわからない。センスがないにもほどがある。びんたんあれよ、前衛系の芸術論から始めてみれば? なんてアドバイスすらしたくなる。
まあわたしも精神分析系の文脈を優先してわたしの中のそれを他者とか言う場合もあるけどね。本音では他者だなんて思えていない。でも別に他者でいいやとも思う。どっちでもいいのでわかりやすさっていうか理屈を優先する時は普通に他者って言うよ。
ラカンは現実界は外側に内包しているって意味で「外-密」しているとか言っている。
あなたもわたしも一皮むけば絶対的未知星人なのです。
……なんかそういう話。
あ、わかった。「わたしを見て」じゃなくて「わたしもわたしじゃないものも見て」なんだな。この「わたしじゃないもの」は自分他人含めた物自体的な何か。絶対的未知星人。
わたしだけを見てしまうと、わたしじゃないものが見えなくなる。それは自分にもある物自体的な未去勢的な自分。わたしを見てくれないと、その人は物自体的な未去勢的な何かを見ない正常人だと思える。正常人の世界ではわたしのわたしじゃないもの即ち物自体的で未去勢的な絶対的未知星人は存在しない。わたしは殺されている。だから正常人たちに殺意が湧く。
単純なんだよな。
でも「全部見て」じゃないんだよ、「全部」って言うとややこしいことに中枢性統合機能が即ちファルスがぶぶぶうんって作動しちゃうから。「部分を部分として見て。全体は事後的に幻影として生じるだけ」って『アンチ・オイディプス』をぱくった言い方でしか言えない。幻影の発生は先述の「思考が飛ぶ」状態に相当するだろう。幻影としての全体を認知(予測)できるようになる段階がいわゆる学習2の段階だ。
「部分を部分として見て」だと「わたしだけを見て」みたいになるけど、「わたしだけを見て」は部分対象的な視点を取れていないという意味で「部分を部分として見」れていない。というのは、ファルス即ち中枢性統合機能によって、興味の力動が人なるものに限定された状態が「心の理論」に洗脳された状態だから。正常人は本当にこの洗脳から抜け出せない。わたしの臨床をもって断言できる。わたしが大体正常人の臭いとして感知するのはこの部分である。「物自体的なわたしも含めて見て」ならば語義的に部分対象的なそれに近い視点を要請できる。
ファルスあるいは中枢性統合機能が正常に働いている正常人は全ての興味の力動が人なるものに限定されている。人ではない物に対する欲望だってそうだ。ラカニアンはすぐぴんとくるだろう。「欲望とは他者の欲望である」である。猿でもわかるラカン本『生き延びるためのラカン』で言うなら糸井重里のコピー「欲しいものが欲しいわ」である。正常人(神経症者)の主観世界においては表面的に物を欲望していたとしてもその実他者という人なるものの欲望が根拠になった欲望なのである。
だから、言葉では言えない。言葉を受け取る相手は確率的にファルスがある正常人な場合がほとんどだから、大抵誤解される。正常人たちを洗脳している「心の理論」によってわたしの言葉は改竄される。
しいて言うなら「物自体的な視点で見て」あるいは「部分が全体であり全体が部分である視点で見て」ということなのであるが、まあわかってくれないんだろうなあ。
あーあ。
好きと言っても、平均的に得意科目だと言える成績ではあったが、非常にムラがあった。このことは以前にも書いたと思う。
このムラの原因は自覚している。
というのは、たとえば定理や方程式など、単に覚えれば済むだけの要件を、わたしは確かめずにいられなかったのだ。定理や方程式をいちいち自分で証明しないとそれを使えなかった。
かっこつけて言うならわたしの美学みたいなもの。だけど美学でもなんでもない。証明していない定理を使うのが気持ち悪かっただけ。この気持ち悪さをパラノイアックな文法で説明するなら、自分で証明していない定理を使うと間違ってしまう気になる、みたいな言い方だとわかってもらえるだろうか。とはいえ当時はそんなこと全く思ってなかった。何故自分が気持ち悪くなるのかもわからないまま、機械的に授業で習う定理や方程式をしこしこと解いていた。
一つ一つの定理や方程式を自分が納得するまでいじくり倒すわけだから、ただ単に暗記して使えばいい、という手法と比較すれば、かなり効率が悪い。一つわからない定理があると一週間でも悩み続ける。その間の授業には当然ついていけない。
しかし、そういったことを繰り返していくと、ある時突然コツのようなものを覚える瞬間が来る。たとえば二次関数という項目ならば、二次関数に関する他の定理もすらすらと解けるようになる。当然問題もあっさり解けるようになる。
わたしはこのことを「思考が飛ぶ」などと表現していた。精神分析における夢の解釈では、空を飛ぶことは言語ゲームへの参入を象徴している、となる。わたしはこの時の実感をもってなるほどと思える。また、このような感じを「勉強を地道にやっていれば成績はある時突然RPGのレベルアップのように上がる」などとうそぶいていたりしていた。
高校数学まではこれで通用したのだが、東京大学の数学問題などはこれだけでは済まない。今まで覚えたさまざまな項目のコツを、まるでレゴブロックを組み立てるかのように組み合わせて挑まないと解けない。それがおもしろかった。赤本は東大のだけ出版されているもの全て解いた(と思う。「えーもう終わりい?」って思った記憶あるもん)。クラスメイトと競い合ったりして、部活のように楽しかった。パズルゲームのようなものだ。
一方、京都大学や大阪大学などの数学問題は、穴埋め問題があったりと、正直おもしろくなかった。出題者の「解答者の思考をこうやって導いてあげよう」という傲慢さが見えた。試験とは問題が解けなかった者をふるい落とす役割であるはずなのに、何故授業のような親切さを醸し出すのだろうと、妙な違和感を覚えて気持ち悪かった。むしろわたしなどはそういう風な態度を取られると、わざと横道にそれて遠回りに解いてやりたくなる。でも出題の仕方がそれを許してくれない。
東大の問題は冷たいのだ。ぽん、と問題を提示して、解答者があれこれ悩む過程をにやにや眺めているような態度。その分思考の自由度が高い。問題を解くという原始的な縛りだけで、後は自由に解いてみろ、という感じだった。パズルゲームとしてはこっちの方がおもしろいに決まっている。手探りでレゴブロックを組み立てるのだから、わざと横道にそれる必要もない。砂漠の真ん中においてけぼりにされたら、寄り道などせずにまっすぐオアシスへと向かうだろう。
ベイトソンの学習理論を比喩的に用いるならば、高校の授業は学習1と学習2(の繰り返し)で、東大の問題は学習3のような感じだ。そのままだと言わないが、この回帰のような感じのステップアップがたまたま受験時期と合致したのが、わたしの場合幸運だったのかもしれない。
どっかの進学塾の広告にでも使えそうなこのテクストは、わたしのあるトラウマを隠蔽している。
というのは、定理や方程式を証明もしていないのに暗記だけして成績を上げる周りの子たちに、わたしは嫉妬していたのだ。正直むかついた。何故気持ち悪くならないのだろうか、と不思議に思った。なんて自分はめんどくさい性格をしているのだろう、とずっと悩んでいた。今でも。
このわたしの症状は、数学以外のケースにも見られる。
たとえばわたしは大学の授業で使わされるまでコンピューターを触れなかった。中身がどうやって動いているのかわからないからだ。気持ち悪くて触れない。他の、たとえば車などは大体の構造を雑誌で学んだりしてぼんやりと知っていた。モーターの原理などもそう。だけど半導体の原理がいまいちよくわからなかった。このトラウマが大学でわたしを物性物理に進学させたのかもしれない。
とはいえ人間おもしろいもので、気持ち悪いながらも仕方なく使っていると慣れてくる。大学を卒業する頃にはすっかりコンピューターにはまっていた。
要するに、わたしはブラックボックスとでも呼べるような、わけのわからないものにとことん弱いのだ。お化け屋敷なんかも、グロ画像愛好家で元オカルト板住人のくせに苦手だ。
わたしはブラックボックスを空けないと気が済まない。ブラックボックスをブラックボックスのままで扱えない。
この性質が恋愛の場面で症状化すると、一種ストーカーのような行為となる。好きな人の知らないところがすごく気になる。全て知りたくなる。盗聴器をしかけたくなる。そこまではいかなくとも、携帯電話の履歴をこっそり見るくらいなら「普通にやるだろ」とか思ってしまう。
とはいえ、わかったらわかったで興味をなくす。わからなくても他のブラックボックスが目の前に表れたらすぐそっちに興味が向く。
こう書くとなんだかADHDのような気もしてくるが、集中力は高いのだ。先述の数学の定理などは丸一日悩んでいたりすることは普通だった。ADHDは好きな事柄に対しては高い集中力を見せるというが、別に好きなものに限らない。数学も高校までは嫌いではなかったが好きでもなかった。「思考が飛ぶ」感覚を覚えてからは、オナニーを覚えた猿のごとく好きになったが。好きだから集中するのではなく、わからないのが気持ち悪いから集中せざるをえない。好きという感情の発生は結果にすぎない。
歯止めが効かないのである。歯止めが効かないというより、何かに対する好き嫌い問わない興味という気持ちを、自分でコントロールできないのだ。コントロールのできなさの一つが歯止めが効かないという表出になっている、という話。
わたしの好き嫌い問わない興味という気持ちは、まるでわたしじゃないみたいだ。わたし自身が自分勝手だと思えるほど。
それは排便のようなものだ。出物腫れ物ところ構わず。
排便のようなものだから、何事にも興味を持てない時期もある。便秘状態、即ち抑鬱状態である。この状態が長く続くと、便秘と等しく身体に影響が出る。
この時のわたしが一番嫌いだ。嫌いというより、生理的に気持ち悪い。気持ち悪いっていうか怖いっていうか。体の中の糞便と直に接触しているような感覚。
だからわたしは抑鬱症者が嫌いだ。しかも一般的な抑鬱症(の精神分析学での解釈)である喪の状態というのがよくわからない。少なくともそれはわたしの便秘状態とは違う抑鬱状態だと思える。そんな疑問を保留してたところにクリステヴァの『黒い太陽』を読んで触発されてこんな記事を書いたりした。
わたしはわたしのために書いている。厳密に言えばわたしでもない。わたし自身が自分勝手だと思える何かだ。わたしの中の絶対的未知性だ。木村敏論など読んでいると、何故こんな単純で日常的な感覚がわからないのかがむしろわからない。センスがないにもほどがある。びんたんあれよ、前衛系の芸術論から始めてみれば? なんてアドバイスすらしたくなる。
まあわたしも精神分析系の文脈を優先してわたしの中のそれを他者とか言う場合もあるけどね。本音では他者だなんて思えていない。でも別に他者でいいやとも思う。どっちでもいいのでわかりやすさっていうか理屈を優先する時は普通に他者って言うよ。
ラカンは現実界は外側に内包しているって意味で「外-密」しているとか言っている。
あなたもわたしも一皮むけば絶対的未知星人なのです。
……なんかそういう話。
あ、わかった。「わたしを見て」じゃなくて「わたしもわたしじゃないものも見て」なんだな。この「わたしじゃないもの」は自分他人含めた物自体的な何か。絶対的未知星人。
わたしだけを見てしまうと、わたしじゃないものが見えなくなる。それは自分にもある物自体的な未去勢的な自分。わたしを見てくれないと、その人は物自体的な未去勢的な何かを見ない正常人だと思える。正常人の世界ではわたしのわたしじゃないもの即ち物自体的で未去勢的な絶対的未知星人は存在しない。わたしは殺されている。だから正常人たちに殺意が湧く。
単純なんだよな。
でも「全部見て」じゃないんだよ、「全部」って言うとややこしいことに中枢性統合機能が即ちファルスがぶぶぶうんって作動しちゃうから。「部分を部分として見て。全体は事後的に幻影として生じるだけ」って『アンチ・オイディプス』をぱくった言い方でしか言えない。幻影の発生は先述の「思考が飛ぶ」状態に相当するだろう。幻影としての全体を認知(予測)できるようになる段階がいわゆる学習2の段階だ。
「部分を部分として見て」だと「わたしだけを見て」みたいになるけど、「わたしだけを見て」は部分対象的な視点を取れていないという意味で「部分を部分として見」れていない。というのは、ファルス即ち中枢性統合機能によって、興味の力動が人なるものに限定された状態が「心の理論」に洗脳された状態だから。正常人は本当にこの洗脳から抜け出せない。わたしの臨床をもって断言できる。わたしが大体正常人の臭いとして感知するのはこの部分である。「物自体的なわたしも含めて見て」ならば語義的に部分対象的なそれに近い視点を要請できる。
ファルスあるいは中枢性統合機能が正常に働いている正常人は全ての興味の力動が人なるものに限定されている。人ではない物に対する欲望だってそうだ。ラカニアンはすぐぴんとくるだろう。「欲望とは他者の欲望である」である。猿でもわかるラカン本『生き延びるためのラカン』で言うなら糸井重里のコピー「欲しいものが欲しいわ」である。正常人(神経症者)の主観世界においては表面的に物を欲望していたとしてもその実他者という人なるものの欲望が根拠になった欲望なのである。
だから、言葉では言えない。言葉を受け取る相手は確率的にファルスがある正常人な場合がほとんどだから、大抵誤解される。正常人たちを洗脳している「心の理論」によってわたしの言葉は改竄される。
しいて言うなら「物自体的な視点で見て」あるいは「部分が全体であり全体が部分である視点で見て」ということなのであるが、まあわかってくれないんだろうなあ。
あーあ。