「幸せは倍に、悲しみは半分に」
2009/01/05/Mon
なんかのCMのフレーズだが、「苦痛の伝染」を主張するわたしにとっては癇に障るはずの言葉であるのにあまりそう思わない。
悲しみという不快も刺激の一種でありあるがままのそれを主張しているのであって、周りの人がたとえば当該フレーズとは逆の「幸せは半分に、悲しみは倍に」をテーマに生きられても困るのだ。
悲しみを味わうことは幸せを味わうことより享楽に近い。悲しみは享楽的で幸せは快楽的である。
しかし悲しめばよいと言うわけではない。そこに他我が介入していると「他人の不幸は蜜の味」の理屈で快楽的な悲しみになる。この時の刺激は、鏡像の破壊ではなく、鏡像段階というトラウマを強化させている。未去勢の方向に近づいてはいるが、鏡像段階という断絶を乗り越えるのではなくそこでUターンして、結果的に去勢済みである状態の強化させることになる。要するに「他人の不幸は蜜の味」と「苦痛の伝染」は別物だという話である。「苦痛の伝染」における「苦痛」は鏡の鎧の破壊を含意する。「他人の不幸は蜜の味」における「不幸」は鎧の鍛錬にすぎない。
悲しみ(という不快な刺激)が享楽(という現実界との接触)となるには、(現象学的な)他我を含めた(ラカン論的な)他者との一般的なコミュニケーションが成立しない場合でなければならない。
享楽とは現実界と接触することである。世間に存在するコミュニケーションは想像界的あるいは象徴界的なものであり、全て非現実界的な事物という意味で幻想である。享楽の場面においては、幻想は幻想でなければならない。従って、この領域の実体を説明する場合においては、一般的なコミュニケーションは幻想であるという立場に立たなければならない。正常人がパラノイアックに偏執する正常であることはパラノイアの妄想と同等物であるという立場に立たなければならない。ラカン論の一テーマ「(正常な)人格とはパラノイアである」ということだ。「一般的なコミュニケーションは(パラノイアックな)幻想(妄想)である」を換言して「一般的なコミュニケーションが成立しない場合」と表現している。
一般的な正常人即ち神経症者即ち去勢済みな主体たちは、幻想たる一般的なコミュニケーションを幻想と思わない。思えない。思わなくなる、思えなくなることが去勢なのである。象徴界への参入なのである。
「幸せは倍に、悲しみは半分に」というフレーズは、谷村新司と高橋真梨子が老夫婦(?)を演じるCMで言われてたものだ。
わたしは享楽としての悲しみを主張している。それは一般的なコミュニケーションを信頼しない(できない)ことである。つまり、人との関わりという点では孤独なのだ。空観的な関わりでは決して孤独ではないが。
だから、ささやかな幻想たるコミュニケーションを保持しているようなイメージが連想される老夫婦が言う分には、わたしは何も思わない。幻想にすぎない去勢済みな主観世界を「お前もそうだろ? そうに決まっている」というパラノイアの症状と同じ構造で妄想を押しつけてくる正常人の権力を批判しているのであって、二人っきりで保持する幻想にまでいちゃもんをつける気はない。
そういうことだろうか。
谷村新司はあんまり好きじゃないけどね。
要するにここまであっけらかんと快楽原則を称揚されたらこちとら手も足も出ねえよなあ、ということかな。
そんなくだらない話でした。
宛先がありそうでない手紙。あっちめんどくさそうだし。
刃なあ。キチガイという刃物を利用するってのはよくあるんだよな。『アンチ・オイディプス』がまさにそうだ。確かに「『アンチ・オイディプス』は分裂症を神格化している」という言い方もかなーり粗雑だが可能だろう。
刃ねえ。
道具を使えば道具は自然物だとわかる。たとえ加工されたものでも、道具を道具として使っていれば道具に纏わりついていた「人なるもの」即ち正常人の根拠となる要件は薄らいでいく。道具もなかなか言うことを聞いてくれない自然物の一つであることがわかる。
「キチガイ/正常人」という区分すら道具であり刃だ。その「戦い」を叙述する際の道具としてわたしにとって有用って話にすぎない。
薬師さんはあなたに噛みついた。あなたは傷ついた。この時薬師さんが使っていた道具は刃だろうか。刃なのだ。
しかし刃と違うものがある。牙とかって簡単な言い方になっちゃうな。
そうすれば、「刃を手に入れたらキチガイになる」っていうのは「牙を手に入れたらキチガイになる」ってことになる。その方がわかりやすいっちゃーわかりやすい。でも牙が生えることが正常なのだ。この牙はわたしが再三述べている鎧でもある。鎧というより皮膚に癒着した鎧、鱗だな。牙と関係させるなら。鱗が牙になる過程はわたしは知らない。わたしはゲル状のわたしを刃にすることしかやっていない。
キチガイを刃として見ているなら、その刃という幻影を生み出す牙は(お前が正常人ならば)お前の奥底にあるだろう。
わたしはキチガイを刃として見れない。ここで言うキチガイはもちろんわたしの語用におけるキチガイ、即ち未去勢者だが。その狂気は粘着的な流体と固体の間のゲル状のものだ。
ここまでくれば薬師さんと殺し合えるんでないかい? ゲル状の牙をなんとか確実な固体にしようとしているのがキチガイなわけだから。固体化=正常人化、だな。言っただろ、中二病はファルスが不安定になることだと。
牙の生えない獣と牙の生えた獣の戦いだ。
生得的な牙あるいは鱗を持っているとはいえまだまだちっちゃな牙あるいは粗末な鱗でしかない人間が、わたしが事後的に作った刃で傷ついてもどうでもいい。わたしにとってはそれを固体化することが大事だから。試し斬りで斬ることもある。ゲル状だから中身がないと言われることもある。中身が確定的ではないという意味でないのが未去勢者たちであり、たとえば自閉症者たちなのだよ。ある自閉症者は「自閉症とは(仏教の無我という意味で)空である」とすら言っている。前記事の「絶対的未知星人」にも当てはまろうな。
牙を生得的に持っているなら、牙を利用すればよい。まだちっちゃな牙で歯が立たないと言われてもわたしはどうしようもない。
そういう解釈をするなら、
=====
今まではキチガイの信仰者になろうとしてた。でも正常人になると言った事でキチガイの道に進んでるのではないか
=====
という懸念は正しかろう。答えとしてではなく懸念つーか疑問として。
お前のそういった悩みが、事後的に刃を作り出すか、お前の根底に生得的にあった牙を再発見させるかは知らない。わたしの見立てでは後者になるとは予測する。牙と刃を両方手に入れたら権力者になれるだろう。鎧(鱗)と刃両方持っているんだからよい戦士になれるだろう。
一方、牙や鎧(鱗)を持たず事後的に作った不細工な刃をただ振り回しているのが薬師さんだ。
わたしは加藤智大についてこう述べた。「狂気が間欠泉のように噴き出した症状」と。狂気はどろどろしているものなんだよ。確定できないから正常人は棄却する。確定できない自分勝手なものに操られているキチガイたちはそれを確定しようとする。コントロールしようとする。
「正常人/キチガイ」という二項対立は、「生の欲動/死の欲動」という対立に連鎖するだろう。これはベクトルを示している。かといって「生の欲動/死の欲動」は向きが逆だ、という話ではない。方向性が「統合される/拡散する」ということだ。「ネゲントロピー/エントロピー」の方が厳密には正しい。
そういう意味で、わたしが中二病(を含む神経症)を悪化させる場合には、なるべく相手を混乱させるつもりでやっている。とはいえわたしの本性には固体化のベクトルがあるわけだから、そうはならないことも多々ある。宛先がある手紙ではなるべく相手を混乱させようと意識するが、意識的ではない宛先のない手紙では固体化に向かう。まあ固体化してもそれを穿っちゃうんだがね。自分自身をわたしは穿っている。それはこのブログでも時々書いていることだ。この宛先があるようでない手紙も後半は固体化に向かっているな。
お前は「正常人になると言った事で」自分を確定させようとしている。正常人化に向かっている。これはいい。だけど「それが正常化かキチガイ化かわからない」と言っている。混乱している。この部分はキチガイ化していると言えるだろう。炎上したブログでうだうだ言っているのをわたしは中二病の悪化だと書いたよな。混乱しているからだ。
要するに、「正常人になると言った事で」お前は混乱しているわけであり、そういう意味で「キチガイの道に進んでる」ことにはなろうな。言わずに無意識的に「キチガイの信仰者」になってた方がお前なるものを無自覚に確定できただろう。即ち楽に正常人化できただろう。
主観世界が混乱している獣道を主に生きているのがキチガイであり、だから彼らは固定化されることを確定されることを望む(相手はなんでもいいってわけではないが)。ここのきつねミクさんのコメント読んでみろ。混乱している主観世界を必死に整序しようとしている。
一方、主に生きている世界が整序されたハイウェイであるのが正常人であり、窮屈さ(ジャーゴンで言うなら抑圧)とか刺激のなさ(不快の排除)を嫌って彼らは混乱を望む。「ボクチンを決めつけないで!」っていう尾崎チック純情もこれだな。
ここでのたとえならば、長らく風呂に入ってないから風呂に入りたがるのがキチガイで、毎日風呂に入っている故風呂に入らなければならないという束縛を嫌っているのが正常人だ。
流体を確定化させるには(刃を作り出すには)、一般道、即ち学問的な道具の方がやりやすい。文系と理系なら理系。何故ならハイウェイよか一般道の方が複雑だから。ハイウェイは統合されてて一般道は混乱している。文系は大雑把で理系は緻密。わたしにとってはね。
=====
戦いってこれか?
=====
混乱がキチガイ(な部分)で固定化が正常人(な部分)という読み替えをしたなら、そうだと言えるだろう。
あと、一般的な語用におけるキチガイとわたしのキチガイは微妙に違うということを付け加えておかなくちゃならんな。わたしの言うキチガイとは未去勢者だ。しかしここに精神病という意味でパラノイアを付け加えることができる。「人格とはパラノイアである」ということだから正常人とはなべてパラノイアックなBPDである、となる。語弊がある言い方でいいなら、精神病としてのパラノイアは正常でありすぎた故の症状なわけだな。
これを踏まえて当該テクストの別の解釈をしてみる。
もしお前がキチガイを刃という固体的なものとして見ているならば、確定化=正常化なわけだから、お前が欲望しているキチガイはパラノイアだということになる。歴史上の英雄やら大物政治家は大体パラノイアだ。先ほどの「牙と刃を両方身につけたら権力者になれるだろう。」という言葉と符号する。
サイコパスについては両方あるだろう。たくさんの他人を支配したくて殺人を犯すのと、去勢されようとして(去勢とは何度も言っているが生死の境だ)殺人を犯すのと。権力的なものと儀式的なもの、という語弊がある言い方も可能か。前者はたとえば加藤智大で後者はたとえば酒鬼薔薇聖斗や宮崎勤だ。当時を知っている者として言うと宮崎なんかは最初前者の犯罪として語られてたんだよ。真相が明らかになるにつれ「あれ、こいつフツーじゃねえ」ってなってきたが。正常人は大体狂気というと前者の狂気しか想像できない傾向はあるな。要するに、前者はパラノイアックなもので後者は未去勢的な(スキゾフレニックな)ものだってこと。
もしお前が本当にキチガイを神格化していたらこっちの解釈の方が(お前にとって)説得力が生じるだろう。とりあえずここは、お前が欲望していた狂気はパラノイアックなそれだった、という解釈を採用して話を進めよう。
ならば、理屈的に、お前は刃として使う道具を誤った、ということになる。
わたしの自論では、自閉症は未去勢な症状である、となる。混乱している世界を生きている人間である。キチガイを刃として用いたいなら、牙や鱗の再発見を期待してキチガイを利用するつもりだったなら、(英雄的な)神格化されるようなキチガイ像をイメージしていたなら、全く逆のキチガイに目をつけてしまったというわけだ。お前が接触したキチガイはゲル状の狂気を生きている。とはいえグノーシス的な宗教観ではパラノイアックな狂気だけではなくスキゾフレニックな狂気も神格化可能だから、お前が感じた(と自白している)神格化がどうなのかによる。自傷っ子だし悪魔崇拝っぽい気配があるからそうじゃない気はするがな。地獄の死者だって苦痛に満ち溢れた地獄を生きているのだよ。
お前は「獣道を歩きたい」と言ってたな。獣道の世界は混乱している世界だ。生後十八ヶ月ぐらいまでの乳幼児が生きている世界。正常人が棄却してしまった感知することが非常に困難な世界。この世界は正常人の主観世界には存在しない。「子供時代はそのものとしてはもうない」って奴だ。だから狂気と言うと正常人はパラノイアックなそれしか想像できない。
従って、「正常人になると言った事でキチガイの道に進んでるのではないか」という言葉は、混乱しているゲル状の未去勢的な獣道の狂気に見切りをつけて、過剰な正常さたるパラノイアックな確定的なハイウェイをかっ飛ばす狂気に向かっている、と解釈することもできる。
正常でいることなど平均台を渡っているようなものだ。わたしにとって。平均台に慣れきってしまった正常人たちはそれを平均台だと思っていないだろうがね。木村敏論ならばポスト・フェストゥム(パラノイア)とアンテ・フェストゥム(統合失調症や自閉症)の中間を奇跡的に生きているのが健常者である、という奴だ。同じくそれらの中間ではあるが健常者とは全く逆の中間がイントラ・フェストゥム(癲癇)となる。ここら辺わたしは引っかかっている。
要するに、行く(正常化を促進する)もキチガイ、退く(退行する)もキチガイ、ということだ。狂気は正常を内包している。
平たく言うなら、お前の「正常人になると言った事」は、キチガイの信仰者から(キチガイに拘らない)何かしらの(英雄と言うと大仰だから言い直すと)リーダー的な存在、権力者的な存在になるという意味で考えてはいないかい? ということだ。
わたしは自覚的な権力者については何も言わない。ニーチェの言う「強者」だ。こういうのが能動的ニヒリズムって奴か。おお。つかwikipediaの説明だと統合失調症の「穴から這い出す」がごとき「幻覚すれすれの幻想」にしか見えないけどニーチェだしわたしだしまあ信用しないでくれ。
以上、二つの解釈を提示してみたわけだが、そんな解釈もできるって話さね。他の解釈もありえるだろう。まあ大体この二系統に収束するとは思うが。パラノイアックな狂気即ちネゲントロピーを見るか、スキゾフレニックな狂気即ちエントロピーを見るか。
お前は鱗はあるくせに勘はいいみたいだからそこそこうまく生きてけるだろう。意外と実業家とかになったりしそうだ。牙と刃を手に入れたら、ね。力が過剰になりかけたら(パラノイアになりかけたら)腕の傷が「弱者」に引き戻してくれよう。
腕の傷という錘と薬師さんとのぎすぎすという地面が磁石のように反発してやじろべえが安定するわけか。平均台の上を歩き続けられる。なるほどな。
あ、ここはわたしの勝手な独り言なのでキニスンナ。
ああそうそう、当のキチガイがうまいこと言ってるわ。この記事のコメント欄。
=====
最近の定型人は、何か巨大で圧倒的な力を持つリーダーに
従って一つの生き物と化すだとか、そういった昔の日本軍隊的な
かたちを取る事は好まないようです。
今時の「KY」と言う柵を破らないことには、
そんなリーダーシップも大きな器も思想すらも育たないのですが、
KYとなった時点でそんな人間についていく定型人は多くないようです。
思考レベルも思考回路も皆大体いっしょに整形されているから、
軽くたやすく、お互いの低レベルな精神がリンクします。
=====
圧倒的な力を持つリーダーがパラノイア。軍隊(あるいは「KY」と言う柵の中)に入れさえしないのが未去勢者たち。
さて、このキチガイはどっちに見える?
つか外野が出てくると急速に萎えるのは何故だろう? 萎えるっていうか折り畳みモードになる。身を固くしてしまう。チャットでもそうだな。身を固くしている分外野のヤジに敏感に反応してしまう。硬ければ反作用はそのまま返すってことか。
んー、ちょっと違うなあ。
まあいいや。
ということで萎えました。後は若い者同士でごゆるりとどーぞ。
ああ、なんかおかしいなわたし。
悲しみという不快も刺激の一種でありあるがままのそれを主張しているのであって、周りの人がたとえば当該フレーズとは逆の「幸せは半分に、悲しみは倍に」をテーマに生きられても困るのだ。
悲しみを味わうことは幸せを味わうことより享楽に近い。悲しみは享楽的で幸せは快楽的である。
しかし悲しめばよいと言うわけではない。そこに他我が介入していると「他人の不幸は蜜の味」の理屈で快楽的な悲しみになる。この時の刺激は、鏡像の破壊ではなく、鏡像段階というトラウマを強化させている。未去勢の方向に近づいてはいるが、鏡像段階という断絶を乗り越えるのではなくそこでUターンして、結果的に去勢済みである状態の強化させることになる。要するに「他人の不幸は蜜の味」と「苦痛の伝染」は別物だという話である。「苦痛の伝染」における「苦痛」は鏡の鎧の破壊を含意する。「他人の不幸は蜜の味」における「不幸」は鎧の鍛錬にすぎない。
悲しみ(という不快な刺激)が享楽(という現実界との接触)となるには、(現象学的な)他我を含めた(ラカン論的な)他者との一般的なコミュニケーションが成立しない場合でなければならない。
享楽とは現実界と接触することである。世間に存在するコミュニケーションは想像界的あるいは象徴界的なものであり、全て非現実界的な事物という意味で幻想である。享楽の場面においては、幻想は幻想でなければならない。従って、この領域の実体を説明する場合においては、一般的なコミュニケーションは幻想であるという立場に立たなければならない。正常人がパラノイアックに偏執する正常であることはパラノイアの妄想と同等物であるという立場に立たなければならない。ラカン論の一テーマ「(正常な)人格とはパラノイアである」ということだ。「一般的なコミュニケーションは(パラノイアックな)幻想(妄想)である」を換言して「一般的なコミュニケーションが成立しない場合」と表現している。
一般的な正常人即ち神経症者即ち去勢済みな主体たちは、幻想たる一般的なコミュニケーションを幻想と思わない。思えない。思わなくなる、思えなくなることが去勢なのである。象徴界への参入なのである。
「幸せは倍に、悲しみは半分に」というフレーズは、谷村新司と高橋真梨子が老夫婦(?)を演じるCMで言われてたものだ。
わたしは享楽としての悲しみを主張している。それは一般的なコミュニケーションを信頼しない(できない)ことである。つまり、人との関わりという点では孤独なのだ。空観的な関わりでは決して孤独ではないが。
だから、ささやかな幻想たるコミュニケーションを保持しているようなイメージが連想される老夫婦が言う分には、わたしは何も思わない。幻想にすぎない去勢済みな主観世界を「お前もそうだろ? そうに決まっている」というパラノイアの症状と同じ構造で妄想を押しつけてくる正常人の権力を批判しているのであって、二人っきりで保持する幻想にまでいちゃもんをつける気はない。
そういうことだろうか。
谷村新司はあんまり好きじゃないけどね。
要するにここまであっけらかんと快楽原則を称揚されたらこちとら手も足も出ねえよなあ、ということかな。
そんなくだらない話でした。
宛先がありそうでない手紙。あっちめんどくさそうだし。
刃なあ。キチガイという刃物を利用するってのはよくあるんだよな。『アンチ・オイディプス』がまさにそうだ。確かに「『アンチ・オイディプス』は分裂症を神格化している」という言い方もかなーり粗雑だが可能だろう。
刃ねえ。
道具を使えば道具は自然物だとわかる。たとえ加工されたものでも、道具を道具として使っていれば道具に纏わりついていた「人なるもの」即ち正常人の根拠となる要件は薄らいでいく。道具もなかなか言うことを聞いてくれない自然物の一つであることがわかる。
「キチガイ/正常人」という区分すら道具であり刃だ。その「戦い」を叙述する際の道具としてわたしにとって有用って話にすぎない。
薬師さんはあなたに噛みついた。あなたは傷ついた。この時薬師さんが使っていた道具は刃だろうか。刃なのだ。
しかし刃と違うものがある。牙とかって簡単な言い方になっちゃうな。
そうすれば、「刃を手に入れたらキチガイになる」っていうのは「牙を手に入れたらキチガイになる」ってことになる。その方がわかりやすいっちゃーわかりやすい。でも牙が生えることが正常なのだ。この牙はわたしが再三述べている鎧でもある。鎧というより皮膚に癒着した鎧、鱗だな。牙と関係させるなら。鱗が牙になる過程はわたしは知らない。わたしはゲル状のわたしを刃にすることしかやっていない。
キチガイを刃として見ているなら、その刃という幻影を生み出す牙は(お前が正常人ならば)お前の奥底にあるだろう。
わたしはキチガイを刃として見れない。ここで言うキチガイはもちろんわたしの語用におけるキチガイ、即ち未去勢者だが。その狂気は粘着的な流体と固体の間のゲル状のものだ。
ここまでくれば薬師さんと殺し合えるんでないかい? ゲル状の牙をなんとか確実な固体にしようとしているのがキチガイなわけだから。固体化=正常人化、だな。言っただろ、中二病はファルスが不安定になることだと。
牙の生えない獣と牙の生えた獣の戦いだ。
生得的な牙あるいは鱗を持っているとはいえまだまだちっちゃな牙あるいは粗末な鱗でしかない人間が、わたしが事後的に作った刃で傷ついてもどうでもいい。わたしにとってはそれを固体化することが大事だから。試し斬りで斬ることもある。ゲル状だから中身がないと言われることもある。中身が確定的ではないという意味でないのが未去勢者たちであり、たとえば自閉症者たちなのだよ。ある自閉症者は「自閉症とは(仏教の無我という意味で)空である」とすら言っている。前記事の「絶対的未知星人」にも当てはまろうな。
牙を生得的に持っているなら、牙を利用すればよい。まだちっちゃな牙で歯が立たないと言われてもわたしはどうしようもない。
そういう解釈をするなら、
=====
今まではキチガイの信仰者になろうとしてた。でも正常人になると言った事でキチガイの道に進んでるのではないか
=====
という懸念は正しかろう。答えとしてではなく懸念つーか疑問として。
お前のそういった悩みが、事後的に刃を作り出すか、お前の根底に生得的にあった牙を再発見させるかは知らない。わたしの見立てでは後者になるとは予測する。牙と刃を両方手に入れたら権力者になれるだろう。鎧(鱗)と刃両方持っているんだからよい戦士になれるだろう。
一方、牙や鎧(鱗)を持たず事後的に作った不細工な刃をただ振り回しているのが薬師さんだ。
わたしは加藤智大についてこう述べた。「狂気が間欠泉のように噴き出した症状」と。狂気はどろどろしているものなんだよ。確定できないから正常人は棄却する。確定できない自分勝手なものに操られているキチガイたちはそれを確定しようとする。コントロールしようとする。
「正常人/キチガイ」という二項対立は、「生の欲動/死の欲動」という対立に連鎖するだろう。これはベクトルを示している。かといって「生の欲動/死の欲動」は向きが逆だ、という話ではない。方向性が「統合される/拡散する」ということだ。「ネゲントロピー/エントロピー」の方が厳密には正しい。
そういう意味で、わたしが中二病(を含む神経症)を悪化させる場合には、なるべく相手を混乱させるつもりでやっている。とはいえわたしの本性には固体化のベクトルがあるわけだから、そうはならないことも多々ある。宛先がある手紙ではなるべく相手を混乱させようと意識するが、意識的ではない宛先のない手紙では固体化に向かう。まあ固体化してもそれを穿っちゃうんだがね。自分自身をわたしは穿っている。それはこのブログでも時々書いていることだ。この宛先があるようでない手紙も後半は固体化に向かっているな。
お前は「正常人になると言った事で」自分を確定させようとしている。正常人化に向かっている。これはいい。だけど「それが正常化かキチガイ化かわからない」と言っている。混乱している。この部分はキチガイ化していると言えるだろう。炎上したブログでうだうだ言っているのをわたしは中二病の悪化だと書いたよな。混乱しているからだ。
要するに、「正常人になると言った事で」お前は混乱しているわけであり、そういう意味で「キチガイの道に進んでる」ことにはなろうな。言わずに無意識的に「キチガイの信仰者」になってた方がお前なるものを無自覚に確定できただろう。即ち楽に正常人化できただろう。
主観世界が混乱している獣道を主に生きているのがキチガイであり、だから彼らは固定化されることを確定されることを望む(相手はなんでもいいってわけではないが)。ここのきつねミクさんのコメント読んでみろ。混乱している主観世界を必死に整序しようとしている。
一方、主に生きている世界が整序されたハイウェイであるのが正常人であり、窮屈さ(ジャーゴンで言うなら抑圧)とか刺激のなさ(不快の排除)を嫌って彼らは混乱を望む。「ボクチンを決めつけないで!」っていう尾崎チック純情もこれだな。
ここでのたとえならば、長らく風呂に入ってないから風呂に入りたがるのがキチガイで、毎日風呂に入っている故風呂に入らなければならないという束縛を嫌っているのが正常人だ。
流体を確定化させるには(刃を作り出すには)、一般道、即ち学問的な道具の方がやりやすい。文系と理系なら理系。何故ならハイウェイよか一般道の方が複雑だから。ハイウェイは統合されてて一般道は混乱している。文系は大雑把で理系は緻密。わたしにとってはね。
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戦いってこれか?
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混乱がキチガイ(な部分)で固定化が正常人(な部分)という読み替えをしたなら、そうだと言えるだろう。
あと、一般的な語用におけるキチガイとわたしのキチガイは微妙に違うということを付け加えておかなくちゃならんな。わたしの言うキチガイとは未去勢者だ。しかしここに精神病という意味でパラノイアを付け加えることができる。「人格とはパラノイアである」ということだから正常人とはなべてパラノイアックなBPDである、となる。語弊がある言い方でいいなら、精神病としてのパラノイアは正常でありすぎた故の症状なわけだな。
これを踏まえて当該テクストの別の解釈をしてみる。
もしお前がキチガイを刃という固体的なものとして見ているならば、確定化=正常化なわけだから、お前が欲望しているキチガイはパラノイアだということになる。歴史上の英雄やら大物政治家は大体パラノイアだ。先ほどの「牙と刃を両方身につけたら権力者になれるだろう。」という言葉と符号する。
サイコパスについては両方あるだろう。たくさんの他人を支配したくて殺人を犯すのと、去勢されようとして(去勢とは何度も言っているが生死の境だ)殺人を犯すのと。権力的なものと儀式的なもの、という語弊がある言い方も可能か。前者はたとえば加藤智大で後者はたとえば酒鬼薔薇聖斗や宮崎勤だ。当時を知っている者として言うと宮崎なんかは最初前者の犯罪として語られてたんだよ。真相が明らかになるにつれ「あれ、こいつフツーじゃねえ」ってなってきたが。正常人は大体狂気というと前者の狂気しか想像できない傾向はあるな。要するに、前者はパラノイアックなもので後者は未去勢的な(スキゾフレニックな)ものだってこと。
もしお前が本当にキチガイを神格化していたらこっちの解釈の方が(お前にとって)説得力が生じるだろう。とりあえずここは、お前が欲望していた狂気はパラノイアックなそれだった、という解釈を採用して話を進めよう。
ならば、理屈的に、お前は刃として使う道具を誤った、ということになる。
わたしの自論では、自閉症は未去勢な症状である、となる。混乱している世界を生きている人間である。キチガイを刃として用いたいなら、牙や鱗の再発見を期待してキチガイを利用するつもりだったなら、(英雄的な)神格化されるようなキチガイ像をイメージしていたなら、全く逆のキチガイに目をつけてしまったというわけだ。お前が接触したキチガイはゲル状の狂気を生きている。とはいえグノーシス的な宗教観ではパラノイアックな狂気だけではなくスキゾフレニックな狂気も神格化可能だから、お前が感じた(と自白している)神格化がどうなのかによる。自傷っ子だし悪魔崇拝っぽい気配があるからそうじゃない気はするがな。地獄の死者だって苦痛に満ち溢れた地獄を生きているのだよ。
お前は「獣道を歩きたい」と言ってたな。獣道の世界は混乱している世界だ。生後十八ヶ月ぐらいまでの乳幼児が生きている世界。正常人が棄却してしまった感知することが非常に困難な世界。この世界は正常人の主観世界には存在しない。「子供時代はそのものとしてはもうない」って奴だ。だから狂気と言うと正常人はパラノイアックなそれしか想像できない。
従って、「正常人になると言った事でキチガイの道に進んでるのではないか」という言葉は、混乱しているゲル状の未去勢的な獣道の狂気に見切りをつけて、過剰な正常さたるパラノイアックな確定的なハイウェイをかっ飛ばす狂気に向かっている、と解釈することもできる。
正常でいることなど平均台を渡っているようなものだ。わたしにとって。平均台に慣れきってしまった正常人たちはそれを平均台だと思っていないだろうがね。木村敏論ならばポスト・フェストゥム(パラノイア)とアンテ・フェストゥム(統合失調症や自閉症)の中間を奇跡的に生きているのが健常者である、という奴だ。同じくそれらの中間ではあるが健常者とは全く逆の中間がイントラ・フェストゥム(癲癇)となる。ここら辺わたしは引っかかっている。
要するに、行く(正常化を促進する)もキチガイ、退く(退行する)もキチガイ、ということだ。狂気は正常を内包している。
平たく言うなら、お前の「正常人になると言った事」は、キチガイの信仰者から(キチガイに拘らない)何かしらの(英雄と言うと大仰だから言い直すと)リーダー的な存在、権力者的な存在になるという意味で考えてはいないかい? ということだ。
わたしは自覚的な権力者については何も言わない。ニーチェの言う「強者」だ。こういうのが能動的ニヒリズムって奴か。おお。つかwikipediaの説明だと統合失調症の「穴から這い出す」がごとき「幻覚すれすれの幻想」にしか見えないけどニーチェだしわたしだしまあ信用しないでくれ。
以上、二つの解釈を提示してみたわけだが、そんな解釈もできるって話さね。他の解釈もありえるだろう。まあ大体この二系統に収束するとは思うが。パラノイアックな狂気即ちネゲントロピーを見るか、スキゾフレニックな狂気即ちエントロピーを見るか。
お前は鱗はあるくせに勘はいいみたいだからそこそこうまく生きてけるだろう。意外と実業家とかになったりしそうだ。牙と刃を手に入れたら、ね。力が過剰になりかけたら(パラノイアになりかけたら)腕の傷が「弱者」に引き戻してくれよう。
腕の傷という錘と薬師さんとのぎすぎすという地面が磁石のように反発してやじろべえが安定するわけか。平均台の上を歩き続けられる。なるほどな。
あ、ここはわたしの勝手な独り言なのでキニスンナ。
ああそうそう、当のキチガイがうまいこと言ってるわ。この記事のコメント欄。
=====
最近の定型人は、何か巨大で圧倒的な力を持つリーダーに
従って一つの生き物と化すだとか、そういった昔の日本軍隊的な
かたちを取る事は好まないようです。
今時の「KY」と言う柵を破らないことには、
そんなリーダーシップも大きな器も思想すらも育たないのですが、
KYとなった時点でそんな人間についていく定型人は多くないようです。
思考レベルも思考回路も皆大体いっしょに整形されているから、
軽くたやすく、お互いの低レベルな精神がリンクします。
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圧倒的な力を持つリーダーがパラノイア。軍隊(あるいは「KY」と言う柵の中)に入れさえしないのが未去勢者たち。
さて、このキチガイはどっちに見える?
つか外野が出てくると急速に萎えるのは何故だろう? 萎えるっていうか折り畳みモードになる。身を固くしてしまう。チャットでもそうだな。身を固くしている分外野のヤジに敏感に反応してしまう。硬ければ反作用はそのまま返すってことか。
んー、ちょっと違うなあ。
まあいいや。
ということで萎えました。後は若い者同士でごゆるりとどーぞ。
ああ、なんかおかしいなわたし。