この涙は誰の涙だろう
2009/01/06/Tue
鏡像は、見つけた途端鏡像ではなくなる。
鏡像を所有すれば、それは自分だと把握すれば、保持できたなら、鏡の国で生きられる。
それが自分だとわからない人間は、自分の中の絶対的未知性に操られている人間は、鏡像ではなくなる。
「それは鏡に映った自分の像であり、わたしではない」
こう言っているのは、誰だ?
「あなたはわたしじゃない。わたしがあなたじゃないように」
鏡の国を生きられない人間にとって、鏡を見ることとは仲間を見つける瞬間であり、仲間に裏切られる瞬間だ。
「違う」
自分が発した一言が、自分と他人を傷つける。
この一言は「主体化への恐れ」を根拠にしているが、鏡を見つけた時点で彼は主体化のイニシエーションに参加している。
「違う」という一言は、バンジージャンプを飛べなかった自分に対する絶望を生じさせる。
イニシエーションに参加しているということは、ほんのささやかながらも正常人が生きるパラノイアックな妄想の世界に足を踏み入れたことだ。
だから泣くのだ。
自分の中に生じたささやかな正常人の芽が泣いているのだ。
正常人の涙は、キチガイに伝染する。当然だ。正常人とキチガイは両方そいつの中にいるからだ。
従って、キチガイも泣く。
キチガイが否定し、否定された正常人が泣き、泣かれたキチガイが泣く。幼稚園児によくある光景ではないか。社会性の乏しいキチガイの部分を多く残した園児が、大人びた社会性のある正常人の部分が多い園児を泣かせて、自分も泣く。
正常人の涙は快楽原則故の涙だが、キチガイの涙は言葉の本質たる否定性である涙だ。この涙は赤ん坊のそれと等しい。
それは、父の名即ち欠如など存在しない言葉だ。
いや、泣いている園児は直接的暴力を受けたのかもしれない。であるならば、泣かされた園児に鏡像段階の機制が働いているとは言えない。へその緒を切られた赤ん坊が泣くのと等しい涙かもしれない。むしろ泣かせた園児の脳においてミラーニューロンが働いた故の涙とも言える。
……などと考えていると、鏡像段階と快楽原則は別物と考えた方がいいのではないか、と思い始めた。
いや、そもそも快楽原則はフロイトが成人を分析することによって提出した定義であり、フロイト論を練り直したのがラカン論だ。
従って、へその緒を切られた赤ん坊が泣くのは快楽原則によるものではないと考えるべきだろう。
やはり定義上は鏡像段階によって快楽原則が成立するということにしなければならない。
であるならば、たとえばへその緒を切られた赤ん坊が泣くという現象は、鏡像段階以前の快楽原則ではない刺激の処理が行われている、となる。
たとえば、鏡像段階即ち生後六ヶ月から十八ヶ月以前の赤ん坊の泣くということは、むしろ排便に近い、としたのがクリステヴァである。筋肉の収縮という観点によって二つの表出を結びつけている。
こういった乳幼児独特の刺激の処理が、鏡像段階によって加工され大人のそれに定型化されたのが快楽原則である、と考えるべきだろう。
一方、「へその緒を切れば泣く」という刺激の処理は、多くの乳幼児において見られるため、そういったある程度の原則が乳幼児にもあるということは否定できない。
しかし、それはあくまで乳幼児の処理の仕方であり、鏡像段階以降のわれわれの認知の処理の仕方と同一と考えてはならない。われわれの認知には常に既になんらかの加工が施されている。
ここを無視して論を進めてはならない。乳幼児の認知と大人のわれわれの認知の違いの境界線を述べたのが鏡像段階論であり、それ以降の認知には常に既に言語的な加工が施されているとしたのがラカン論の大まかな論旨である。逆に言えば鏡像段階論は、自分の認知の仕方を乳幼児に押しつけるというペドフィリアのごときパラノイアックな症状のストッパーでもあるのだ。
鏡像段階により定型化されていないのだから、「へその緒を切れば泣く」のごとき生物学的な原則はあるだろうとは言え、乳幼児の刺激の処理はわれわれの予想外のものとなるだろう。
たとえば、自閉症研究においては、生後一年以内の乳幼児に自閉症的な症状が見られたとしても、その後の観察では自閉症であるとは限らず、また自閉症的な症状が見られなかった乳幼児が自閉症になる場合も報告されている。要するに生後一年以内の自閉症的な症状と自閉症は全く関係がないということだ。
しかしこのことは、生後一年前後に生ずるなんらかの機能の変化が自閉症となるかならないかを決めるということも示している。
わたしはバロン=コーエンのSAMとラカンの(鏡像段階によって発生する)ファルスはほぼ同一の実体を示している概念だと考えているが、そう乱暴な論ではないことがわかっていただけるだろうか。
体がだるい。
さっきまで泣いていた。
この涙は誰の涙だろう、と思った。
わたしのか。
刃の中身のこんにゃくには誰も気づかないってか。
こんにゃくだもんな。すぐぐしゃってなるもんな。
気づいてくれなくてもいいんだけどね。どうでもいい人なら。
そっか、こんにゃくに気づかないから自分の中身なんてない、鬱だ死のうってなるのか。刃に執着しすぎるから喪の状態(抑鬱症)になるのか。
アホウだな、正常人ってほんとに。
こんにゃくってここではきれいに言ってるけどいつもは糞便って言っているものだな。だるくなると糞便じゃなくてこんにゃくになるのか。
うんこ味のこんにゃくとこんにゃく味のうんこどっちがいい? って味ねーよ。
そう言えば斬鉄剣ってこんにゃくだけ斬れないんだよな。
泣かないで 泣かないで わたしの恋心
あの人は あの人は お前に似合わない
鏡像を所有すれば、それは自分だと把握すれば、保持できたなら、鏡の国で生きられる。
それが自分だとわからない人間は、自分の中の絶対的未知性に操られている人間は、鏡像ではなくなる。
「それは鏡に映った自分の像であり、わたしではない」
こう言っているのは、誰だ?
「あなたはわたしじゃない。わたしがあなたじゃないように」
鏡の国を生きられない人間にとって、鏡を見ることとは仲間を見つける瞬間であり、仲間に裏切られる瞬間だ。
「違う」
自分が発した一言が、自分と他人を傷つける。
この一言は「主体化への恐れ」を根拠にしているが、鏡を見つけた時点で彼は主体化のイニシエーションに参加している。
「違う」という一言は、バンジージャンプを飛べなかった自分に対する絶望を生じさせる。
イニシエーションに参加しているということは、ほんのささやかながらも正常人が生きるパラノイアックな妄想の世界に足を踏み入れたことだ。
だから泣くのだ。
自分の中に生じたささやかな正常人の芽が泣いているのだ。
正常人の涙は、キチガイに伝染する。当然だ。正常人とキチガイは両方そいつの中にいるからだ。
従って、キチガイも泣く。
キチガイが否定し、否定された正常人が泣き、泣かれたキチガイが泣く。幼稚園児によくある光景ではないか。社会性の乏しいキチガイの部分を多く残した園児が、大人びた社会性のある正常人の部分が多い園児を泣かせて、自分も泣く。
正常人の涙は快楽原則故の涙だが、キチガイの涙は言葉の本質たる否定性である涙だ。この涙は赤ん坊のそれと等しい。
それは、父の名即ち欠如など存在しない言葉だ。
いや、泣いている園児は直接的暴力を受けたのかもしれない。であるならば、泣かされた園児に鏡像段階の機制が働いているとは言えない。へその緒を切られた赤ん坊が泣くのと等しい涙かもしれない。むしろ泣かせた園児の脳においてミラーニューロンが働いた故の涙とも言える。
……などと考えていると、鏡像段階と快楽原則は別物と考えた方がいいのではないか、と思い始めた。
いや、そもそも快楽原則はフロイトが成人を分析することによって提出した定義であり、フロイト論を練り直したのがラカン論だ。
従って、へその緒を切られた赤ん坊が泣くのは快楽原則によるものではないと考えるべきだろう。
やはり定義上は鏡像段階によって快楽原則が成立するということにしなければならない。
であるならば、たとえばへその緒を切られた赤ん坊が泣くという現象は、鏡像段階以前の快楽原則ではない刺激の処理が行われている、となる。
たとえば、鏡像段階即ち生後六ヶ月から十八ヶ月以前の赤ん坊の泣くということは、むしろ排便に近い、としたのがクリステヴァである。筋肉の収縮という観点によって二つの表出を結びつけている。
こういった乳幼児独特の刺激の処理が、鏡像段階によって加工され大人のそれに定型化されたのが快楽原則である、と考えるべきだろう。
一方、「へその緒を切れば泣く」という刺激の処理は、多くの乳幼児において見られるため、そういったある程度の原則が乳幼児にもあるということは否定できない。
しかし、それはあくまで乳幼児の処理の仕方であり、鏡像段階以降のわれわれの認知の処理の仕方と同一と考えてはならない。われわれの認知には常に既になんらかの加工が施されている。
ここを無視して論を進めてはならない。乳幼児の認知と大人のわれわれの認知の違いの境界線を述べたのが鏡像段階論であり、それ以降の認知には常に既に言語的な加工が施されているとしたのがラカン論の大まかな論旨である。逆に言えば鏡像段階論は、自分の認知の仕方を乳幼児に押しつけるというペドフィリアのごときパラノイアックな症状のストッパーでもあるのだ。
鏡像段階により定型化されていないのだから、「へその緒を切れば泣く」のごとき生物学的な原則はあるだろうとは言え、乳幼児の刺激の処理はわれわれの予想外のものとなるだろう。
たとえば、自閉症研究においては、生後一年以内の乳幼児に自閉症的な症状が見られたとしても、その後の観察では自閉症であるとは限らず、また自閉症的な症状が見られなかった乳幼児が自閉症になる場合も報告されている。要するに生後一年以内の自閉症的な症状と自閉症は全く関係がないということだ。
しかしこのことは、生後一年前後に生ずるなんらかの機能の変化が自閉症となるかならないかを決めるということも示している。
わたしはバロン=コーエンのSAMとラカンの(鏡像段階によって発生する)ファルスはほぼ同一の実体を示している概念だと考えているが、そう乱暴な論ではないことがわかっていただけるだろうか。
体がだるい。
さっきまで泣いていた。
この涙は誰の涙だろう、と思った。
わたしのか。
刃の中身のこんにゃくには誰も気づかないってか。
こんにゃくだもんな。すぐぐしゃってなるもんな。
気づいてくれなくてもいいんだけどね。どうでもいい人なら。
そっか、こんにゃくに気づかないから自分の中身なんてない、鬱だ死のうってなるのか。刃に執着しすぎるから喪の状態(抑鬱症)になるのか。
アホウだな、正常人ってほんとに。
こんにゃくってここではきれいに言ってるけどいつもは糞便って言っているものだな。だるくなると糞便じゃなくてこんにゃくになるのか。
うんこ味のこんにゃくとこんにゃく味のうんこどっちがいい? って味ねーよ。
そう言えば斬鉄剣ってこんにゃくだけ斬れないんだよな。
泣かないで 泣かないで わたしの恋心
あの人は あの人は お前に似合わない