大人になることこそが現実逃避である。
2009/01/11/Sun
レベルの低い解釈を披露されると萎える。レベルの低い解釈=みんなにわかりやすい解釈=正常というパラノイアックな精神疾患の暴力なんだよな。まあ普通に「ホウソウデゴザイマスカ」って言うくらいまでには慣れたけど。
最近の評論ってそんなんばっかでおもろない。つか怖い。擬似ロボット高性能識別不可能。本当に洗脳されてる人のように見える。二次元評論家とはよく言ったものだ。
圧縮圧縮ぅ。
「大人に対抗するために力を得たい」
若い子にはありがちな言い分。いわゆるエディプスコンプレックスの一症状だね。
わたしはこれが理解できないんだよなー。
わたしにとって大人とは力を持っているものだとは思えない。思わないまま生きてきた。肉体的な力とかじゃない力を意味するならば、だけど。
いや、たとえば社会的な、金銭的な生活力とも言えるべきものはあると思ってる。だけどそんなものどこかどうでもいいと思ってしまうところがある。社会的な、金銭的な力は、もちろん生きていくためには重要な要素の一つではあるが、要素の一つであって、「力」と表現されるようなものではないと思うんだな。
じゃあわたしにとっての力とはなんだ? となる。
多分、これが『アンチ・オイディプス』で言うところの「強度」なのだろうな、と思う。
もっと言うなら、自然そのもの。
わたしたちは自然という力に支配されており、自分自身の体も自然という力の一つである、みたいな。
なんか宗教チックな言い方だけど、それは決して(一般的な美的感覚における)美しいものではない。むしろケガレである。獣性である。わたしは大人になることを「牙が取れること」とマジで言っていた(なんだこいつと思われてたろうな)。
社会的な力や金銭的な力は、わたしが思う力の一つの影絵みたいなものではあるけれど、影絵は影絵であって、それそのものではない、という感じ。だから別に社会的な力や金銭的な力を全否定するわけじゃない。影絵としてその力の一表出となっていることまで否定するつもりはない。
でも周りの人はそうじゃないみたいだ。社会的な力とか金銭的な力とか、そういったものにしか、とは言わないけれど、それを基準にしているように思える。
違うんだよなー。
あ、補足だけど、「性関係は存在しない」即ち「性関係は幻想でしか存在しない」で言うところの幻想としての性関係による性的な力、平たく言うなら「オレ百人斬りしてるぜ」的な力は、ここでは社会的な力に含まれる。
また違う話だが、以前ある小説投稿サイトのチャットで「大人は子供より弱いんだよ」と発言し、それをネタに短編を書かれたことがある。わたしは本気でそう思っているところあるんだよな。
わたしにとっての力とは、子供の方が強いものなのだ。
たとえば、ゴムボールプールの中でキチガイのごとくはしゃぐガキども。本気でぞっとする。これはわたしにとっての力の一表出である。社会的な力や金銭的な力と等しい影絵。影絵としてなら、ガキたちのそれの方が大人たちのそれと比較して精密だ、という話である。社会的な力や金銭的な力は大雑把なのだ。
わたしは、わたしが感じるこの力とは一体なんぞや? という疑問の中で生きてきた。
演劇に触れて、暗黒舞踏やアングラ演劇に近いものを感じた。芸術論を学んで、シュルレアリスムやアール・ブリュ(アウトサイダーアート)などに近いものを感じた。
普通の生活ではなかなか他人に理解してもらえなかったわたしが感じる力は、芸術というジャンルの中ではそこそこ重要視されていることを知った。
さらに精神分析を学び、この力についていろいろ理屈的に表現できるようになった。ガタリ論なら先に言ったように「器官なき身体上の強度」。ラカン論ならば「現実界からのうねり」。クライン論ならば「部分対象あるいは悪い乳房の取り込み」。クリステヴァ論ならば「恐怖の権力」。あるいは「会話以前の会話としてのうめき声」。
先ほどの「大人は子供より弱いんだよ」という言葉は、これらの言葉を使って、「器官なき身体上の強度を喪失したのが大人である」や「現実界のうねりから逃避することが大人になることである」や「悪い乳房を取り込まなくなったのが大人である」や「恐怖の権力から逃避することが大人になることである」や「会話以前の会話としてのうめき声を上げられなくなったのが大人である」などと換言できる。
「大人は子供より弱い」というわたしの言葉は、「(ラカン論的な意味での)現実から逃避して大人になる」という意味なのだ。
中二病とは、わたしの個人的定義によれば、「(思春期における)身体的な変動により鏡像段階というトラウマが回帰しファルスが不安定になること」となる。要するに反抗期なんだけどね。病という言葉を使っているのが気に入っているのでこっちを使う。正常であることこそが精神疾患である、という精神分析的な立場を取っているわたしの論にも合致するし。
もう一つ要件を付け加えるならば、時期を経ればほぼ必ず寛解するものだ、というのを付け加えてもよい。ギャグで作った「中二病/思春期病」という示差はこの要件を強調する。中二病はほぼ必ず寛解するものであり、思春期病は器質因・内因的に寛解するのが困難である、ということ。
一時期的ではあるとはいえ、中二病者たちは大人たちよりラカン論的な現実に一歩近づいていることになる。去勢によりファルスが生じそれを軸とした幻想を生きるのが生の欲動であり正常という精神疾患なのだから、トラウマの回帰というPTSD的な症状ではあるが、正常な大人たちより未去勢な主観世界、即ち現実界に近い世界を生きているのが中二病者である、となる。理屈として整合する。
であるならば、現実逃避をこじらせたのが中二病者なのではなく、大人なのであるわけだから、中二病者たちは現実を主張してよいのだ。たとえその症状は時期を経れば治癒されると臨床統計によって示されていようとも、「現実を見ろよ」としたり顔で語る大人たちに反論してよいのだ。
「現実を見ていないのはお前だ」
と。
この反論の根拠としてラカン論が活用できる、という話にすぎない。
=====
だから歴史上の狂人たちは言ったのだ。言い続けてきたのだ。
「わたしは狂ってなんかいない。狂っているのはお前たちの方だ」と。
「わたしは間違っていない。お前たちが間違っているのだ」と。
=====
それだけ。
あ、そうそう。一つ断っておく。
わたしの論を「ラディカルな精神分析論」みたいに表現しているのも「レベルの低い解釈」だなーって思っちゃうからね。たとえ好意的にそう言っているとしても。
ラディカルでもなんでもない。どこがラディカルなんだか。わたしの論をラディカルって感じること自体が「器官なき身体上の強度を喪失したのが大人である」や「現実界のうねりから逃避することが大人になることである」や「悪い乳房を取り込まなくなったのが大人である」や「恐怖の権力から逃避することが大人になることである」や「会話以前の会話としてのうめき声を上げられなくなったのが大人である」ということだ。正常という精神疾患の一症状だ。
死んでいいよ。そんな奴ら。
ラディカルなのは圧倒的軍勢を誇る正常人たちだ。
最近の評論ってそんなんばっかでおもろない。つか怖い。擬似ロボット高性能識別不可能。本当に洗脳されてる人のように見える。二次元評論家とはよく言ったものだ。
圧縮圧縮ぅ。
「大人に対抗するために力を得たい」
若い子にはありがちな言い分。いわゆるエディプスコンプレックスの一症状だね。
わたしはこれが理解できないんだよなー。
わたしにとって大人とは力を持っているものだとは思えない。思わないまま生きてきた。肉体的な力とかじゃない力を意味するならば、だけど。
いや、たとえば社会的な、金銭的な生活力とも言えるべきものはあると思ってる。だけどそんなものどこかどうでもいいと思ってしまうところがある。社会的な、金銭的な力は、もちろん生きていくためには重要な要素の一つではあるが、要素の一つであって、「力」と表現されるようなものではないと思うんだな。
じゃあわたしにとっての力とはなんだ? となる。
多分、これが『アンチ・オイディプス』で言うところの「強度」なのだろうな、と思う。
もっと言うなら、自然そのもの。
わたしたちは自然という力に支配されており、自分自身の体も自然という力の一つである、みたいな。
なんか宗教チックな言い方だけど、それは決して(一般的な美的感覚における)美しいものではない。むしろケガレである。獣性である。わたしは大人になることを「牙が取れること」とマジで言っていた(なんだこいつと思われてたろうな)。
社会的な力や金銭的な力は、わたしが思う力の一つの影絵みたいなものではあるけれど、影絵は影絵であって、それそのものではない、という感じ。だから別に社会的な力や金銭的な力を全否定するわけじゃない。影絵としてその力の一表出となっていることまで否定するつもりはない。
でも周りの人はそうじゃないみたいだ。社会的な力とか金銭的な力とか、そういったものにしか、とは言わないけれど、それを基準にしているように思える。
違うんだよなー。
あ、補足だけど、「性関係は存在しない」即ち「性関係は幻想でしか存在しない」で言うところの幻想としての性関係による性的な力、平たく言うなら「オレ百人斬りしてるぜ」的な力は、ここでは社会的な力に含まれる。
また違う話だが、以前ある小説投稿サイトのチャットで「大人は子供より弱いんだよ」と発言し、それをネタに短編を書かれたことがある。わたしは本気でそう思っているところあるんだよな。
わたしにとっての力とは、子供の方が強いものなのだ。
たとえば、ゴムボールプールの中でキチガイのごとくはしゃぐガキども。本気でぞっとする。これはわたしにとっての力の一表出である。社会的な力や金銭的な力と等しい影絵。影絵としてなら、ガキたちのそれの方が大人たちのそれと比較して精密だ、という話である。社会的な力や金銭的な力は大雑把なのだ。
わたしは、わたしが感じるこの力とは一体なんぞや? という疑問の中で生きてきた。
演劇に触れて、暗黒舞踏やアングラ演劇に近いものを感じた。芸術論を学んで、シュルレアリスムやアール・ブリュ(アウトサイダーアート)などに近いものを感じた。
普通の生活ではなかなか他人に理解してもらえなかったわたしが感じる力は、芸術というジャンルの中ではそこそこ重要視されていることを知った。
さらに精神分析を学び、この力についていろいろ理屈的に表現できるようになった。ガタリ論なら先に言ったように「器官なき身体上の強度」。ラカン論ならば「現実界からのうねり」。クライン論ならば「部分対象あるいは悪い乳房の取り込み」。クリステヴァ論ならば「恐怖の権力」。あるいは「会話以前の会話としてのうめき声」。
先ほどの「大人は子供より弱いんだよ」という言葉は、これらの言葉を使って、「器官なき身体上の強度を喪失したのが大人である」や「現実界のうねりから逃避することが大人になることである」や「悪い乳房を取り込まなくなったのが大人である」や「恐怖の権力から逃避することが大人になることである」や「会話以前の会話としてのうめき声を上げられなくなったのが大人である」などと換言できる。
「大人は子供より弱い」というわたしの言葉は、「(ラカン論的な意味での)現実から逃避して大人になる」という意味なのだ。
中二病とは、わたしの個人的定義によれば、「(思春期における)身体的な変動により鏡像段階というトラウマが回帰しファルスが不安定になること」となる。要するに反抗期なんだけどね。病という言葉を使っているのが気に入っているのでこっちを使う。正常であることこそが精神疾患である、という精神分析的な立場を取っているわたしの論にも合致するし。
もう一つ要件を付け加えるならば、時期を経ればほぼ必ず寛解するものだ、というのを付け加えてもよい。ギャグで作った「中二病/思春期病」という示差はこの要件を強調する。中二病はほぼ必ず寛解するものであり、思春期病は器質因・内因的に寛解するのが困難である、ということ。
一時期的ではあるとはいえ、中二病者たちは大人たちよりラカン論的な現実に一歩近づいていることになる。去勢によりファルスが生じそれを軸とした幻想を生きるのが生の欲動であり正常という精神疾患なのだから、トラウマの回帰というPTSD的な症状ではあるが、正常な大人たちより未去勢な主観世界、即ち現実界に近い世界を生きているのが中二病者である、となる。理屈として整合する。
であるならば、現実逃避をこじらせたのが中二病者なのではなく、大人なのであるわけだから、中二病者たちは現実を主張してよいのだ。たとえその症状は時期を経れば治癒されると臨床統計によって示されていようとも、「現実を見ろよ」としたり顔で語る大人たちに反論してよいのだ。
「現実を見ていないのはお前だ」
と。
この反論の根拠としてラカン論が活用できる、という話にすぎない。
=====
だから歴史上の狂人たちは言ったのだ。言い続けてきたのだ。
「わたしは狂ってなんかいない。狂っているのはお前たちの方だ」と。
「わたしは間違っていない。お前たちが間違っているのだ」と。
=====
それだけ。
あ、そうそう。一つ断っておく。
わたしの論を「ラディカルな精神分析論」みたいに表現しているのも「レベルの低い解釈」だなーって思っちゃうからね。たとえ好意的にそう言っているとしても。
ラディカルでもなんでもない。どこがラディカルなんだか。わたしの論をラディカルって感じること自体が「器官なき身体上の強度を喪失したのが大人である」や「現実界のうねりから逃避することが大人になることである」や「悪い乳房を取り込まなくなったのが大人である」や「恐怖の権力から逃避することが大人になることである」や「会話以前の会話としてのうめき声を上げられなくなったのが大人である」ということだ。正常という精神疾患の一症状だ。
死んでいいよ。そんな奴ら。
ラディカルなのは圧倒的軍勢を誇る正常人たちだ。