「動物」「エリート」「ヘタレ」
2006/12/23/Sat
現代社会は多様性が増している。だから社会と自己の関わり、つまりアイデンティティの確立が難しく、自我同一性の拡散などといった事態が生じる。
一見もっともらしいが、本当にそうであろうか。
宮台氏などは「社会は流動化」しているという。これならわかる。アメリカ型自由経済により、資産や労働力や物流など、様々なものの「価値」が流動化している。それはグローバル化し、いまや中国をも飲み込もうとしている。株などでは投資判断として流動性というものを考慮に入れる場合がある。大型株・小型株という奴だ。流動性は高ければ高いほどよい。
こういったものの価値は「交換原則」によるものの価値だ。中沢新一氏の「贈与/交換」論でいうなら「交換」は主観的な曖昧なものを排除する傾向がある。だからこそ「本当の価値」に近いという考え方だ。流動性が高ければ交換される回数が増え、主観などの曖昧なノイズが薄まるから流動性は高い方がよいのだ。
こういった流動化社会では、ものの価値は流動化しているが、人間の主観までも流動化するものだろうか。全体的に見れば流動化の拡大により主観というノイズは薄まってきているが、最小ミクロである個人の視点から言えば、物や労働力や資産に主観が全く入らない人はいない。確かにそういった意味では流動化していると言える。
なるほど。
ここは私の誤謬だったかもしれない。株をやっていたこともあってか、この流動化そのものがアメリカ型資本主義社会への一本化に他ならず、イデオロギーとしては多様化と全く逆の一本化に進んでいるものとばかり思っていた。このイデオロギーは意識する、自我に影響するものではなく、無意識的に影響するイデオロギーなのだろう。目の前にあるイデオロギーではなく、自分たちの地面にあるイデオロギーなのだ。
流動化すれば視野が広がる。しかしそれはアメリカ型資本主義経済や近代民主主義というイデオロギーの庭の中でだけの視野に過ぎない。そういったところで見つけた多様性は果たして多様性といえるのだろうか。アメリカ型資本主義経済や近代民主主義に分析的視線を突きつけてこそ多様性と呼ぶのではないか。
まあそんなことはどうでもいいだろう。
現代日本の社会は、「狭い庭において」多様化しているとして話を進める。
資本主義社会や科学信仰など、近代的知に対する対立思想として、中村雄二郎氏は「パトスの知」「演劇的知」という概念を提唱し、それらを「受動的知」と表現した。科学的知やロゴス中心主義は「能動的知」なのである。この時点で受動的知→母性、能動的知→父性という換喩が連想され、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理が駆動しそうだが、ここではやめておく。事実中村氏はその著作「魔女ランダ考」で「パトスの知」「演劇的知」が女性性的であることを示しているからだ。
自我同一性の拡散を見てみよう。冷戦時代と現代では構造は異なるかもしれないが。
ともかく、今の社会は流動化により「見た目は」多様化しているように見える。若者の目にはそう見えるのだろう。だからどれを選択すればよいのかわからない、だから社会と自我との折り合い的なアイデンティティの確立が難しい。と言い換えることができる。
うん? 何故選択できないのだろう? と私なんかは思う。
選択肢が多いから選択できないとは矛盾である。そもそも近代民主主義が自由な選択肢を国民に均しく用意するという思想ではなかったか。その恩恵を目の前にして選択できないどころかそれがストレッサーになる原因は何か。
ここで、若者の態度を「受動的」か「能動的」かという表現で分析してみよう。
一見、自我同一性の拡散の表出は、受動的である。本当にそうであろうか。選択することに疑問を覚えるから負的な感情が芽生えるのだとしたら、それは「能動的であろうとしているのに受動的にしか生きられない自分」を嘆いているからこそストレスになり、負的な感情を覚えたり、アイロニカルな態度を取ってしまうのではないか。つまり、彼らの態度のベースは「能動的たらん」なのである。
これは前の記事でも説明したパラノイアの構成要件と類似している。「強い仲間意識→同一化→受動」「強い正義感→差異化→能動」。社会に組み込まれるという受動的な同一化と、自分は固有的な自分でありたいと思い能動的たらんとする差異化。この二つの葛藤が自我同一性の拡散の根底にあるような気がする。
成長期に、象徴的他者としての父性の抑圧が少なければ、ファルスは増長する。ファルスが増長すると、「同一化」と「差異化」の希求は強くなる。ラカンの鏡像段階論を考えれば、どちらとも幼児期の全能感=ファルスが原因で生まれた欲動だからだ。これらは反発することが多いので葛藤となる。この二項が強くなり葛藤に耐え切れなくなると前の記事に示した「前世」などといった呪文にすがりついてしまうのだろう。
ここで東浩紀氏が世に広めたポストモダンにおける「動物化」という言葉を考える。
東氏の著作「動物化するポストモダン」においてもそうだが、「動物化」とは表現作品を享受する受取手の態度を示していることがわかる。この著作で東氏は「動物化」を否定的に取り扱っていない。むしろポストモダンにおける正しい態度として書かれているように思える。だからオタクという人種はポストモダンに一早く適応した人種だと。
それについては条件付きで私は賛成する。しかしその著作から六年経った今、現状では行き過ぎた形、オーバーシュート的な状況になってしまっているのではないか。そこではオタクという言葉が発生した時から言われている近視眼的な「オタク批判」を再度許してしまう文化傾向が生じているのではないか、と私は考える。
私はどうしても芸術文化視点で物事を見てしまうので、そういう視点からそれを述べてみよう。
オタク文化を表現文化と捉え、芸術文化論的に批判する私の論として「オタク文化における記号のサイン化傾向」というものを何度か挙げた。
コギャル文化にしてもオタク文化にしても、対象や自己さえも「記号化」しているというのが、90年代の若者文化評論の文脈だったように思う。宮台氏はそれを「世界の有意味化戦略」と呼び肯定した。私も「記号化」そのものは否定しない。それは前の記事で書いた通りだ。しかしそのシンボルであったはずの記号が、意味の振幅を抑制するサイン化傾向にあることが問題だと書いた。それは単なる記号化のオーバーシュートに過ぎず、一過性のものだと考える向きもあるだろう。私もそう思う。だがその「一過性」がどれくらいの規模なのか、後世にどれだけの影響を与えるかは予想できない。なのでこのことを論じるのは無意味なことではないと私は考える。
なぜポストモダン文化の記号はサイン化するのか。
これまで私はオタク文化を例に挙げて、「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」、法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などといった表出からそれを論じてきたが、その内的構造を少し読み解いてみたいと思う。
ラカンの「パラノイアは人格そのものである」というところから始めよう。
パラノイアの構成要件は
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性・強度の希求」
●「強い挫折感・否認への恐怖」
の三つだと書いた。鏡像段階論を見てもわかるように、上二つの「同一化への希求」と「差異化の希求」は、幼児期の段階で原初的に覚える欲動だと言えるだろう。
上でも書いたように、去勢が失敗すれば(象徴的他者としての父性の抑圧が機能しなければ)ファルスは増長し、構成要件の「差異化」「同一化」の希求が強くなり、その葛藤も強くなる、というわけだ。その葛藤から逃れるために、短絡的に「前世」を信じ込んだりする。前世の世界では、同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化、つまり「同一化」と「差異化」の葛藤が融合・昇華されてしまうからだ。これは葛藤の程度の差はあれ、オタク文化にも同じ効用があるように思える。オタク仲間を手に入れられる同一化と非オタク人間との差異化。オタク文化を「同一化」と「差異化」という視点で分析してみよう。
大きなオタク文化への所属だけなら、葛藤が強ければそれは満足しないだろう。オタク文化の中の島宇宙に自分の居場所を求めることになる。そうやって自分の所属すべき場所を細分化していき、自分の葛藤とのバランスが取れた居場所を見つける。こう考えるとオタク文化はなかなか癒し的な健全な文化だとも言えよう。
そこでの居場所=集団は、彼らが「能動的に探し当てた・手に入れた共同体」であると言える。こういった共同体の内部では、自己と共同体の同一化が加速する。差異化はその集団に属するだけで満足できるからだ。こういった共同体の性格を端的に精確に表したネット用語がある。ネットにおける「モヒカン族」との対立項としての「ムラ社会」だ。以下に「ムラ社会」の特徴を引用しておく。
●論理的に正しいかどうかよりも、周囲にいる仲間であるかどうかを優先して擁護する。
●個人の思考法の違いを抑圧することで均質化して連帯感を盲目的に持つ。
●ただ単純に自分の周辺に存在しているというだけの無意味な条件だけで「仲間」と認識する。
●他人との関係を「嫌っている・好んでいる」という基準でしか判断しない。
●他人から単なる事務的な指摘や事実確認をされたときでも「自分のことを挑発しているのか? 嫌っているのか?」と受け取ってしまう。
●自分の趣味の対象に否定的な言葉をかけられると、何の趣味を持っているのかということとその人の評価は無関係なのに「そんな趣味を持っている人はダメだ」という風にバッシングされたと曲解して怒る。
これらを見てもわかるように、その共同体内での彼らは「同一化>差異化」という傾向が強い。私の印象だと、オタク文化内ではこのような「幻想的」「ネット的」とも言える小さな共同体が数多くあり、そのほとんどが「ムラ社会」の様相を呈していると感じる。ライトノベル文化などは先の特徴の全てに合致すると思う。
特徴を見てもらえればわかるように、彼らの共同体は「異物」を受け入れ難い性格を持っていることがわかる。内部に同一化、外壁に差異化という性格を偏らせた結果だという言い方ができるか。このことを逆説的に言えば、異物を受け付けない、差異化が行き届いた特権的な共同体であるが故、その内部では同一化が進む、ということになる。
これを表現文化に落とし込んでみよう。ポストモダンの表現文化はサブカルなどを挙げるまでもなく細分化していると言える。そして現代ではそれぞれが共同体として確立された文化となりつつある。それと比例するように、その内部では構成者の自己と共同体そのものの同一化が進んでいく。同一化は表現作品の解釈の一本化に繋がり、作品を構成する「記号」の一本化に還元される。
これこそが、ポストモダンにおける「記号のサイン化傾向」を発生させる構造ではなかろうか。
このことは、「記号のサイン化」を加速させる環境として、「父性的マクロ社会と母性的ミクロ共同体の二重構造」を挙げたが、それと入れ子になっている構造だ。オタク文化内部の島宇宙でも細分化的に母性的共同体が発生している。しかし島宇宙の外側はオタク文化という父性的性格の薄い共同体である。母性的な共同体の中に母性的な共同体があってもそこでの差異化は難しい。結果、今度はその内部で島宇宙自身が外壁的に差異化を自発的に「能動的」に構築することになる。わかりやすく言うと、島宇宙自ら「閉塞」してしまうわけだ。
具体的に言おう。上記のムラ社会というコミュニティの構成人員が多ければ、そこには必然的に微小なりとも「差異」が立ち現れる。そういった「差異」を許容・処理するために本来の意味での(日本古来の)「村社会」があったわけだが、これが能動的に作られたコミュニティだと、コミュニティへの参加非参加は自由となり、内部での同一化、外壁の差異化傾向は強くなる。結果コミュニティは人員が限定される。純化されるわけだ。こうなると、人員が流入してくることは難しい。結果、長い目でみればコミュニティは縮小していくしかない。小さなコミュニティにおける内部での同一化と外壁の差異化。よい例がすぐ思い浮かぶのではないか。そう、「オウム」や「前世」といった、「同一化」と「差異化」を短絡的に融合・昇華させる呪文的コミュニティだ。これが上記の「ムラ社会」化が内包する危険性なのではないだろうか。
また、オタク文化に限っては、この記号のサイン化傾向が、「スキゾ的人格主体の文化へのパラノ的人格(=一般人)の流入」という劇的環境変化により加速されているということも言えるであろう。パラノ的人格は「差異化」「同一化」の葛藤を、(象徴界の内的動力の強い)スキゾ的人格と比較して強く持っている人格と言えるだろう。また社交的能力はスキゾ的人格よりあるので、「同一化」の表出は強く現れることも予想できる。
つまり、「記号のサイン化」は、単なる「記号化」のオーバーシュートではなく、構造的に必然の流れであるということだ。これをオーバーシュートだからといって看過するべきではないのだ。
言語はサインではなくシンボルであるからこそ、デリダの「散種」が可能になり、ラカンの「象徴界」が機能するのである。
この「閉塞した島宇宙」は、共同体自らが能動的に得た形である。
ここで面白い論がある。宮台氏と北田暁大氏の著作の中に示されたモデルだ。前の記事でもリンクしたpikarrr氏のブログから引用しよう。
●第一層 「動物」 環境管理のテクノロジーによって与えられる動物的生に充足する人たち。
●第二層 「エリート」 環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち。
●第三層 「ヘタレ」 意味を欠いた動物的生の反復に飽きたらずに「全体性」を希求する人たち。
名付け方には多少違和感があるが、ポストモダンの文化を表現するにはなかなか的を得た分析モデルだと思える。
「エリート」はパラノ的葛藤の「差異化」が上回る人種で、「ヘタレ」は「同一化」が上回る人種というイメージだろうか。では、「動物」とは一体何か。
ここで「受動的」「能動的」という二項が駆動する。
換喩的に考えれば「能動的」→「差異化」→「父性」、「受動的」→「同一化」→「母性」とすっきり整頓できるが、先に書いたように「閉塞した島宇宙」においては「能動的」に「差異化」された共同体の中の「同一化」という複雑な構造を見せている。
「動物」に戻ろう。東氏の著作を読む限り、また先の説明の「与えられる」という言葉からもわかるように、マクロ寄りの位置での「受動的」態度を取る人種だということがわかる。上のモデルはそこから「差異化」と「同一化」のどちらの傾向が強いかで分類したモデルであるということが読み取れる。
「動物」が「受動的」だと考えれば、それは必然的に「同一化」に換喩されてしまう。となると「動物」から「ヘタレ」の流れこそが必然的な流れと言える。しかし人間そうはいかない。無意識的に「同一化」と「差異化」のバランスは取りたがるものである。だからこそ母性のオタク文化の中で自分達の島宇宙を「差異化」させようとしてしまうのだ。バランスが取れた結果、その内部では「同一化」傾向がまたさらに加速される。
では「ヘタレ」にならないためにはどうしたらよいか。ここでpikarrr氏の言う「アイロニズム」という言葉が生きてくる。この「アイロニズム」は自我同一性の拡散のところでも述べたように、「能動的たらん」としている人間があえて「受動的」態度をとることを表現しているのではないだろうか。そう考えると、宮台氏のいう「ヘタレ」的な「強迫的アイロニズム」はその「強迫性」により、能動的志向を共同体にとっての異物・差異の排除という形で欲動を駆動させているのではなかろうか、という推測が成り立つ。その共同体では「差異化」と「同一化」の葛藤は融合される。「閉塞した島宇宙」は葛藤に苦しむ者にとってそこは「前世」のような楽園なのだ。
つまり、「ヘタレ」の何が問題かというと、人間の根源的な「差異化」と「同一化」の葛藤を、短絡的に(「前世」やオウムのような「超越という特異点」)、母性的文化内で差異化された母性的かつ閉鎖的な島宇宙を形成することで解消しようというのが問題なのではなかろうか、ということだ。
(余談だが、私はこの「アイロニズム」を余り感じたことがない。この葛藤をアイロニズムで消費しなければならないのは、やはり元々男性は能動的で女性は受動的である、という違いからだろうか。)
しかし宮台氏や北田氏はオタク文化に限ってこのモデルを想定したわけではないだろう。多分「ヘタレ」はネット右翼や2ちゃねらーなども示しているのではなかろうか。
確かに彼らは「動物化」しきれず「ヘタレ」ている。「同一化」=「全体性への希求」は、人により傾向の差はあるだろうが、それと表裏一体の「差異化」の希求とともにどんな人格にも備わっている。オタク文化の島宇宙では異物の排除という形で表出しているこの「差異化」志向が、2ちゃねらーやネット右翼の攻撃的性格の根源になっていると考えられるだろう。
pikarrr氏はこのモデルを元に、「ヘタレ」ないためには、「全体性への希求」そのものを問題視すべき、と言っているように思える(現在は「ヘタレ」容認派(開き直り派?)のようだが)。しかし、ミクロな共同体内部での「同一化」傾向と、共同体の外壁で「差異化」を満足させるという偏った集団のあり方が、「ヘタレ」であるのではないだろうか。
人間誰しもその人格に「差異化」「同一化」両方の希求が備わっているのだ。
社会分析的に見れば、宮台氏の「ヘタレ」モデルは確かに有用で、的を得ているモデルだと思われるし、私もこのモデルを支持する(名称には違和感がある。これも宮台氏お得意の戦略なのだろう)。この「ヘタレ」層が、私が表現文化としての問題点だと考える「記号のサイン化」への動力を担う層だということも判明した。このモデルをオタク文化に当てはまれば、「エリート」は「オタクエリート」と言い換えて、「オタクエリート」がスキゾ的オタク、「ヘタレ」がパラノ的オタクにと、私のオタク二分論に写像されうるのがわかるだろう。
しかし、芸術文化論視点で見ると本質を見誤ってしまいそうなモデルだと私は思う。
では私の論を、宮台氏の「ヘタレ」モデルを土台に少しいじってみよう。以下ではポストモダン全体としての傾向を語る。
中村雄二郎氏の予言どおり、「受動的知」として最初の段階である、能動的に(近代的知をもって)世界・表現作品に接するのではなく、受動的に接する態度を身に着けた層が生まれた。それが「動物」だとしよう。
「動物」は動物的にシンボルを受け取る。近代的知をもってしてそれを受け取っていないので、散種の多義性化への転倒は起こらない。いわば「身体的」にそのシンボルの意味を受け取っている。この時必要なのは、抽象的なシンボルを豊かに共鳴させる抽象化能力であり類化能力だろう。これはスキゾ的能力と言える。
オタク文化に限っての話ならば、アニメやマンガはイメージであり、シンボル・大文字の他者ではないという異論も出るだろう。ここでは詳しく論じないが、斎藤環氏著「戦闘美少女の精神分析」から一文を抜粋する。
=====
おたくはまさに、虚構の虚構性に対してすら多層的なリアリティを発見する。アニメのキャラクターは当然として、脚本やキャラクターデザイン、作画監督からマーケティング、評論から鑑賞のツボに至るまで、虚構のあらゆる水準においてリアリティを見出し、それを楽しむことができる。
=====
そう、オタクはその内容だけではなく、作品名というテクストそのものだって一つのシンボルとして「読んでいる」のだ。
ということでオタク文化からポストモダン全体の話に戻ろう。
このように表現作品や象徴界を豊かにそして受動的に受け取る「動物」たち。しかし、シンボルを共鳴させる能力、スキゾ的能力が貧しい層だっている。これは批判ではなく、人格ごとにいろいろな向き不向きがあるという話に過ぎない。
情報化社会が一般化するにつれ、記号は社会を埋め尽くしていく。情報化もテレビやラジオの時代からネットの時代に移り変わって大きく飛躍しただろう。社会では二次曲線的に記号の総量が増加していくことになる。
ここで記号に対し豊かに接することができる元来の「動物」層の他に、仕方なく記号の海に飲まれざるを得なくなった一般層が加わる。彼らは「動物」層と比べ「人間」的だ。社交的で、社会との迎合も容易だ。(私のスキゾ/パラノ論で言うなら、その定義はパラノは内的動力が「想像界>象徴界」でスキゾは逆である。鏡像段階論を思い出せば、初めての小文字の他者=母親であり、幼児は一番初めに胎内いた頃のような母親との同一化を希求する。次の小文字の他者である鏡で見る自分の姿により差異化されるが。言語は説明するまでもなくまず差異を生み出すものである。その後他者との間で同一性を確認することで客観性を得る(科学の再現性とほぼ同義)。「卵が先か鶏が先か」的発生順を考えれば「想像界→同一化的、象徴界→差異化的」という換喩も可能かもしれない。そう考えれば比較として、スキゾ的人格は差異化志向的であり、パラノ的人格は同一化志向的である、といった言い方も可能かもしれない。)結果、人間的な彼らの行動は、同一化的な「全体性への希求」として表出する。これが「ヘタレ」層だ。彼らは「仕方なく記号の海に飲まれ」たので、その行動は「強迫的」に見えるのだろう。
「エリート」層については、よくわからないがスキゾ/パラノ関係なく知識を持っている層ということになるだろうか。
断っておくが私はスキゾ的人格を持ち上げたりパラノ的人格を貶めるつもりは全くない。ここまでの文章は宮台氏の「ヘタレ」モデルを私の論に写像しようとした試みとして捉えてもらいたい。
このようなポストモダンの傾向から見ても、中村雄二郎氏の著作「魔女ランダ考」が重要な意味を持ってくると私は考える。
受動的な態度を示す「動物」化だけに留まらず、受け取る世界や社会や表現作品を自己の内部でどう豊かに共鳴させるかが必要となってくるのではないだろうか。それを可能とする「知」こそが中村氏の言う「パトスの知」「演劇的知」ではないか。
では「パトスの知」とはどういうものだろう。ここは私の個人的な考えをあえて述べさせてもらいたい。
パトス・情念とは、意識層に発生する感情や欲求の根源である。それは意識層と無意識層両方に跨っている。植物に喩えるなら、地下が無意識層になる。地下で受け取った栄養を地上(意識層)に運び、感動や感情や欲求という実をつける。それが情念だとする。
私は前の記事で、表現文化だけに限れば、「泣け」と言っている作品だから泣く、「笑え」と言っている作品だから「笑う」、「萌えろ」と言っている作品だから「萌える」。そういうパブロフの犬的な動物化か、詩みたいに「わけわからんけど感動した」というような身体的感動的な動物化か、それらは分けて考えないといけないと書いた。前者のパブロフの犬的な動物的反応は、情念が地下にめぐらす根が浅いという比喩で表現できる(そういった作品の構成要素の記号がサイン化しているという私の論にも繋がる)。一方、根が深くあれば、無意識層の深いところが共鳴する感動を覚えることができると言える。こういった感動が深層の心性を震わせる感動と言えるのではないか。
つまり、「パトスの知」とは、情念の無意識層に繋がる根を、より深くはりめぐらせるための「知」と言えるのではないだろうか、と私は考える。
例えば、自分がその作品を鑑賞して何故感動したのか、何故そういう感動が生じたのかを徹底的に考えたり、神経を尖らせて自分の深層心理の動きにアンテナを張ることなどは初歩的な「パトスの知」と言ってよいだろう。それよりももっと「動物的」な、映画や芝居を見て「物語」だけに感動するのではなく、体感的な深い感動を求めることも「パトスの知」であり「演劇的知」であろう。以前私が「萌えキャラに感動することは詩に感動することと構図が似ている」と考えオタク擁護に回ったことも、こういう「パトスの知」の萌芽を感じたからかもしれない。
最後に。私は前の記事でも書いたようにパラノ的人格がスキゾ的人格を模倣する、仮面を被ることについては否定的である。
確かに記号が溢れる時代においては象徴界の内的動力が強いスキゾ的人格が豊かに生活を送れるだろう。しかしだからと言ってそうでない人格が本来の人格を抑圧するように違う人格の仮面を被ることは、ストレスになりかねないと私は考える。事実宮台氏自身が「ヘタレ」について述べている「強迫的アイロニズム」の「強迫的」一つとってもそれはストレスの原因である。社会的風潮が、人格の違いを理由としたストレスを社会が与えるのはおかしいと私は思う。なので、「ヘタレ」を「スキゾ的人格の仮面を被るパラノ的人格」と読みかえるならば、ヘタレ化することは仕方ないことと言える。pikarrr氏が言うような「ヘタレ化するしか選択はない」という容認に私は同意する。
また、宮台氏の文章から一部引用しよう。
=====
園監督はその先があると言う。〈社会〉の中の自分と〈社会〉に収まらない自分を両方容認できる場合に限り救われるのだ、と。監督によれば、〈社会〉に収まらない自分が「脱社会的存在」なのではなく、両方容認できる存在が「脱社会的存在」だということになる。
そうした「脱社会的存在」になれれば良いのだと監督は言う。〈社会〉を過剰に否定しようとする時点で彼ないし彼らは〈社会〉に内在し尽くしている。真に「脱社会的」であれば、〈社会〉と内と外を、区別しながらも等価に生きられる筈ではないか。そう語った。
(中略)
むろん「強迫的にではなく曖昧に生きよ」という定言命法もまた強迫的で人を〈社会〉に縛り付ける。だから『サイファ』応用編の『絶望・断念・福音・映画』では、絶望と断念の末に福音の〈訪れ〉を静かに待つようなあり方のみが、「脱社会性」を可能にすると述べた。
=====
社会的に生きることを「同一化」、脱社会的に生きることを「差異化」と捉えれば、それら逆方向に向かう自分の欲動を認めることで、究極の「差異化」、つまり自我同一性を得られるのではないか、という風にも捉えることができる。まず、自分の欲動を冷静に真摯に見つめなおすことが先で、その上で「動物的」に「受動的」態度で世界を受け入れよ、という意図の文章ではないかと私は考える。
では「受動的」に、違う人格の仮面を被らないとしたら、どうすればよいのか。私の本分は芸術文化論なので、それに限って答えるならば、その答えこそが「パトスの知」「演劇的知」という概念に眠っていると私は考える。繰り返すが、中村雄二郎氏はこれらの「知」を「受動的」、「女性的」と表現した。「能動的」を一律的に否定するつもりは全くないが、現代社会・ポストモダンにおいてはこの「受動的」という言葉がキーワードになるのではないだろうか。
――余談ですが、ラカンの鏡像段階論やパラノイア論からこの「差異化」「同一化」という人間の欲動を読み解いたわけですが、これが私の「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理に繋がる欲動かなあ、なんて最近は思ってます。まあここ繋げちゃうと面白くない論理になりそうなので思考停止(おいw)してますが……。
まあ所詮その程度の安直な思考方法ですよ、ってことで。
宮台氏による「サイファ」という言葉は、「純粋なシニフィアン=シニフィエがないシニフィアン=究極的な曖昧さを示す言葉」として提示したと考えれば、近代→ポストモダンにおける科学信仰的なロゴス中心主義的な「確かなもの」が蔓延する世界における「曖昧さ」を止揚するための言葉として捉えることができますねえ。うーん、これは少し言い過ぎかな……。
一見もっともらしいが、本当にそうであろうか。
宮台氏などは「社会は流動化」しているという。これならわかる。アメリカ型自由経済により、資産や労働力や物流など、様々なものの「価値」が流動化している。それはグローバル化し、いまや中国をも飲み込もうとしている。株などでは投資判断として流動性というものを考慮に入れる場合がある。大型株・小型株という奴だ。流動性は高ければ高いほどよい。
こういったものの価値は「交換原則」によるものの価値だ。中沢新一氏の「贈与/交換」論でいうなら「交換」は主観的な曖昧なものを排除する傾向がある。だからこそ「本当の価値」に近いという考え方だ。流動性が高ければ交換される回数が増え、主観などの曖昧なノイズが薄まるから流動性は高い方がよいのだ。
こういった流動化社会では、ものの価値は流動化しているが、人間の主観までも流動化するものだろうか。全体的に見れば流動化の拡大により主観というノイズは薄まってきているが、最小ミクロである個人の視点から言えば、物や労働力や資産に主観が全く入らない人はいない。確かにそういった意味では流動化していると言える。
なるほど。
ここは私の誤謬だったかもしれない。株をやっていたこともあってか、この流動化そのものがアメリカ型資本主義社会への一本化に他ならず、イデオロギーとしては多様化と全く逆の一本化に進んでいるものとばかり思っていた。このイデオロギーは意識する、自我に影響するものではなく、無意識的に影響するイデオロギーなのだろう。目の前にあるイデオロギーではなく、自分たちの地面にあるイデオロギーなのだ。
流動化すれば視野が広がる。しかしそれはアメリカ型資本主義経済や近代民主主義というイデオロギーの庭の中でだけの視野に過ぎない。そういったところで見つけた多様性は果たして多様性といえるのだろうか。アメリカ型資本主義経済や近代民主主義に分析的視線を突きつけてこそ多様性と呼ぶのではないか。
まあそんなことはどうでもいいだろう。
現代日本の社会は、「狭い庭において」多様化しているとして話を進める。
資本主義社会や科学信仰など、近代的知に対する対立思想として、中村雄二郎氏は「パトスの知」「演劇的知」という概念を提唱し、それらを「受動的知」と表現した。科学的知やロゴス中心主義は「能動的知」なのである。この時点で受動的知→母性、能動的知→父性という換喩が連想され、「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理が駆動しそうだが、ここではやめておく。事実中村氏はその著作「魔女ランダ考」で「パトスの知」「演劇的知」が女性性的であることを示しているからだ。
自我同一性の拡散を見てみよう。冷戦時代と現代では構造は異なるかもしれないが。
ともかく、今の社会は流動化により「見た目は」多様化しているように見える。若者の目にはそう見えるのだろう。だからどれを選択すればよいのかわからない、だから社会と自我との折り合い的なアイデンティティの確立が難しい。と言い換えることができる。
うん? 何故選択できないのだろう? と私なんかは思う。
選択肢が多いから選択できないとは矛盾である。そもそも近代民主主義が自由な選択肢を国民に均しく用意するという思想ではなかったか。その恩恵を目の前にして選択できないどころかそれがストレッサーになる原因は何か。
ここで、若者の態度を「受動的」か「能動的」かという表現で分析してみよう。
一見、自我同一性の拡散の表出は、受動的である。本当にそうであろうか。選択することに疑問を覚えるから負的な感情が芽生えるのだとしたら、それは「能動的であろうとしているのに受動的にしか生きられない自分」を嘆いているからこそストレスになり、負的な感情を覚えたり、アイロニカルな態度を取ってしまうのではないか。つまり、彼らの態度のベースは「能動的たらん」なのである。
これは前の記事でも説明したパラノイアの構成要件と類似している。「強い仲間意識→同一化→受動」「強い正義感→差異化→能動」。社会に組み込まれるという受動的な同一化と、自分は固有的な自分でありたいと思い能動的たらんとする差異化。この二つの葛藤が自我同一性の拡散の根底にあるような気がする。
成長期に、象徴的他者としての父性の抑圧が少なければ、ファルスは増長する。ファルスが増長すると、「同一化」と「差異化」の希求は強くなる。ラカンの鏡像段階論を考えれば、どちらとも幼児期の全能感=ファルスが原因で生まれた欲動だからだ。これらは反発することが多いので葛藤となる。この二項が強くなり葛藤に耐え切れなくなると前の記事に示した「前世」などといった呪文にすがりついてしまうのだろう。
ここで東浩紀氏が世に広めたポストモダンにおける「動物化」という言葉を考える。
東氏の著作「動物化するポストモダン」においてもそうだが、「動物化」とは表現作品を享受する受取手の態度を示していることがわかる。この著作で東氏は「動物化」を否定的に取り扱っていない。むしろポストモダンにおける正しい態度として書かれているように思える。だからオタクという人種はポストモダンに一早く適応した人種だと。
それについては条件付きで私は賛成する。しかしその著作から六年経った今、現状では行き過ぎた形、オーバーシュート的な状況になってしまっているのではないか。そこではオタクという言葉が発生した時から言われている近視眼的な「オタク批判」を再度許してしまう文化傾向が生じているのではないか、と私は考える。
私はどうしても芸術文化視点で物事を見てしまうので、そういう視点からそれを述べてみよう。
オタク文化を表現文化と捉え、芸術文化論的に批判する私の論として「オタク文化における記号のサイン化傾向」というものを何度か挙げた。
コギャル文化にしてもオタク文化にしても、対象や自己さえも「記号化」しているというのが、90年代の若者文化評論の文脈だったように思う。宮台氏はそれを「世界の有意味化戦略」と呼び肯定した。私も「記号化」そのものは否定しない。それは前の記事で書いた通りだ。しかしそのシンボルであったはずの記号が、意味の振幅を抑制するサイン化傾向にあることが問題だと書いた。それは単なる記号化のオーバーシュートに過ぎず、一過性のものだと考える向きもあるだろう。私もそう思う。だがその「一過性」がどれくらいの規模なのか、後世にどれだけの影響を与えるかは予想できない。なのでこのことを論じるのは無意味なことではないと私は考える。
なぜポストモダン文化の記号はサイン化するのか。
これまで私はオタク文化を例に挙げて、「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」、法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などといった表出からそれを論じてきたが、その内的構造を少し読み解いてみたいと思う。
ラカンの「パラノイアは人格そのものである」というところから始めよう。
パラノイアの構成要件は
●「強い仲間意識・他者との同一化への希求」
●「強い正義感・差異を明確にするための論理性・強度の希求」
●「強い挫折感・否認への恐怖」
の三つだと書いた。鏡像段階論を見てもわかるように、上二つの「同一化への希求」と「差異化の希求」は、幼児期の段階で原初的に覚える欲動だと言えるだろう。
上でも書いたように、去勢が失敗すれば(象徴的他者としての父性の抑圧が機能しなければ)ファルスは増長し、構成要件の「差異化」「同一化」の希求が強くなり、その葛藤も強くなる、というわけだ。その葛藤から逃れるために、短絡的に「前世」を信じ込んだりする。前世の世界では、同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化、つまり「同一化」と「差異化」の葛藤が融合・昇華されてしまうからだ。これは葛藤の程度の差はあれ、オタク文化にも同じ効用があるように思える。オタク仲間を手に入れられる同一化と非オタク人間との差異化。オタク文化を「同一化」と「差異化」という視点で分析してみよう。
大きなオタク文化への所属だけなら、葛藤が強ければそれは満足しないだろう。オタク文化の中の島宇宙に自分の居場所を求めることになる。そうやって自分の所属すべき場所を細分化していき、自分の葛藤とのバランスが取れた居場所を見つける。こう考えるとオタク文化はなかなか癒し的な健全な文化だとも言えよう。
そこでの居場所=集団は、彼らが「能動的に探し当てた・手に入れた共同体」であると言える。こういった共同体の内部では、自己と共同体の同一化が加速する。差異化はその集団に属するだけで満足できるからだ。こういった共同体の性格を端的に精確に表したネット用語がある。ネットにおける「モヒカン族」との対立項としての「ムラ社会」だ。以下に「ムラ社会」の特徴を引用しておく。
●論理的に正しいかどうかよりも、周囲にいる仲間であるかどうかを優先して擁護する。
●個人の思考法の違いを抑圧することで均質化して連帯感を盲目的に持つ。
●ただ単純に自分の周辺に存在しているというだけの無意味な条件だけで「仲間」と認識する。
●他人との関係を「嫌っている・好んでいる」という基準でしか判断しない。
●他人から単なる事務的な指摘や事実確認をされたときでも「自分のことを挑発しているのか? 嫌っているのか?」と受け取ってしまう。
●自分の趣味の対象に否定的な言葉をかけられると、何の趣味を持っているのかということとその人の評価は無関係なのに「そんな趣味を持っている人はダメだ」という風にバッシングされたと曲解して怒る。
これらを見てもわかるように、その共同体内での彼らは「同一化>差異化」という傾向が強い。私の印象だと、オタク文化内ではこのような「幻想的」「ネット的」とも言える小さな共同体が数多くあり、そのほとんどが「ムラ社会」の様相を呈していると感じる。ライトノベル文化などは先の特徴の全てに合致すると思う。
特徴を見てもらえればわかるように、彼らの共同体は「異物」を受け入れ難い性格を持っていることがわかる。内部に同一化、外壁に差異化という性格を偏らせた結果だという言い方ができるか。このことを逆説的に言えば、異物を受け付けない、差異化が行き届いた特権的な共同体であるが故、その内部では同一化が進む、ということになる。
これを表現文化に落とし込んでみよう。ポストモダンの表現文化はサブカルなどを挙げるまでもなく細分化していると言える。そして現代ではそれぞれが共同体として確立された文化となりつつある。それと比例するように、その内部では構成者の自己と共同体そのものの同一化が進んでいく。同一化は表現作品の解釈の一本化に繋がり、作品を構成する「記号」の一本化に還元される。
これこそが、ポストモダンにおける「記号のサイン化傾向」を発生させる構造ではなかろうか。
このことは、「記号のサイン化」を加速させる環境として、「父性的マクロ社会と母性的ミクロ共同体の二重構造」を挙げたが、それと入れ子になっている構造だ。オタク文化内部の島宇宙でも細分化的に母性的共同体が発生している。しかし島宇宙の外側はオタク文化という父性的性格の薄い共同体である。母性的な共同体の中に母性的な共同体があってもそこでの差異化は難しい。結果、今度はその内部で島宇宙自身が外壁的に差異化を自発的に「能動的」に構築することになる。わかりやすく言うと、島宇宙自ら「閉塞」してしまうわけだ。
具体的に言おう。上記のムラ社会というコミュニティの構成人員が多ければ、そこには必然的に微小なりとも「差異」が立ち現れる。そういった「差異」を許容・処理するために本来の意味での(日本古来の)「村社会」があったわけだが、これが能動的に作られたコミュニティだと、コミュニティへの参加非参加は自由となり、内部での同一化、外壁の差異化傾向は強くなる。結果コミュニティは人員が限定される。純化されるわけだ。こうなると、人員が流入してくることは難しい。結果、長い目でみればコミュニティは縮小していくしかない。小さなコミュニティにおける内部での同一化と外壁の差異化。よい例がすぐ思い浮かぶのではないか。そう、「オウム」や「前世」といった、「同一化」と「差異化」を短絡的に融合・昇華させる呪文的コミュニティだ。これが上記の「ムラ社会」化が内包する危険性なのではないだろうか。
また、オタク文化に限っては、この記号のサイン化傾向が、「スキゾ的人格主体の文化へのパラノ的人格(=一般人)の流入」という劇的環境変化により加速されているということも言えるであろう。パラノ的人格は「差異化」「同一化」の葛藤を、(象徴界の内的動力の強い)スキゾ的人格と比較して強く持っている人格と言えるだろう。また社交的能力はスキゾ的人格よりあるので、「同一化」の表出は強く現れることも予想できる。
つまり、「記号のサイン化」は、単なる「記号化」のオーバーシュートではなく、構造的に必然の流れであるということだ。これをオーバーシュートだからといって看過するべきではないのだ。
言語はサインではなくシンボルであるからこそ、デリダの「散種」が可能になり、ラカンの「象徴界」が機能するのである。
この「閉塞した島宇宙」は、共同体自らが能動的に得た形である。
ここで面白い論がある。宮台氏と北田暁大氏の著作の中に示されたモデルだ。前の記事でもリンクしたpikarrr氏のブログから引用しよう。
●第一層 「動物」 環境管理のテクノロジーによって与えられる動物的生に充足する人たち。
●第二層 「エリート」 環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち。
●第三層 「ヘタレ」 意味を欠いた動物的生の反復に飽きたらずに「全体性」を希求する人たち。
名付け方には多少違和感があるが、ポストモダンの文化を表現するにはなかなか的を得た分析モデルだと思える。
「エリート」はパラノ的葛藤の「差異化」が上回る人種で、「ヘタレ」は「同一化」が上回る人種というイメージだろうか。では、「動物」とは一体何か。
ここで「受動的」「能動的」という二項が駆動する。
換喩的に考えれば「能動的」→「差異化」→「父性」、「受動的」→「同一化」→「母性」とすっきり整頓できるが、先に書いたように「閉塞した島宇宙」においては「能動的」に「差異化」された共同体の中の「同一化」という複雑な構造を見せている。
「動物」に戻ろう。東氏の著作を読む限り、また先の説明の「与えられる」という言葉からもわかるように、マクロ寄りの位置での「受動的」態度を取る人種だということがわかる。上のモデルはそこから「差異化」と「同一化」のどちらの傾向が強いかで分類したモデルであるということが読み取れる。
「動物」が「受動的」だと考えれば、それは必然的に「同一化」に換喩されてしまう。となると「動物」から「ヘタレ」の流れこそが必然的な流れと言える。しかし人間そうはいかない。無意識的に「同一化」と「差異化」のバランスは取りたがるものである。だからこそ母性のオタク文化の中で自分達の島宇宙を「差異化」させようとしてしまうのだ。バランスが取れた結果、その内部では「同一化」傾向がまたさらに加速される。
では「ヘタレ」にならないためにはどうしたらよいか。ここでpikarrr氏の言う「アイロニズム」という言葉が生きてくる。この「アイロニズム」は自我同一性の拡散のところでも述べたように、「能動的たらん」としている人間があえて「受動的」態度をとることを表現しているのではないだろうか。そう考えると、宮台氏のいう「ヘタレ」的な「強迫的アイロニズム」はその「強迫性」により、能動的志向を共同体にとっての異物・差異の排除という形で欲動を駆動させているのではなかろうか、という推測が成り立つ。その共同体では「差異化」と「同一化」の葛藤は融合される。「閉塞した島宇宙」は葛藤に苦しむ者にとってそこは「前世」のような楽園なのだ。
つまり、「ヘタレ」の何が問題かというと、人間の根源的な「差異化」と「同一化」の葛藤を、短絡的に(「前世」やオウムのような「超越という特異点」)、母性的文化内で差異化された母性的かつ閉鎖的な島宇宙を形成することで解消しようというのが問題なのではなかろうか、ということだ。
(余談だが、私はこの「アイロニズム」を余り感じたことがない。この葛藤をアイロニズムで消費しなければならないのは、やはり元々男性は能動的で女性は受動的である、という違いからだろうか。)
しかし宮台氏や北田氏はオタク文化に限ってこのモデルを想定したわけではないだろう。多分「ヘタレ」はネット右翼や2ちゃねらーなども示しているのではなかろうか。
確かに彼らは「動物化」しきれず「ヘタレ」ている。「同一化」=「全体性への希求」は、人により傾向の差はあるだろうが、それと表裏一体の「差異化」の希求とともにどんな人格にも備わっている。オタク文化の島宇宙では異物の排除という形で表出しているこの「差異化」志向が、2ちゃねらーやネット右翼の攻撃的性格の根源になっていると考えられるだろう。
pikarrr氏はこのモデルを元に、「ヘタレ」ないためには、「全体性への希求」そのものを問題視すべき、と言っているように思える(現在は「ヘタレ」容認派(開き直り派?)のようだが)。しかし、ミクロな共同体内部での「同一化」傾向と、共同体の外壁で「差異化」を満足させるという偏った集団のあり方が、「ヘタレ」であるのではないだろうか。
人間誰しもその人格に「差異化」「同一化」両方の希求が備わっているのだ。
社会分析的に見れば、宮台氏の「ヘタレ」モデルは確かに有用で、的を得ているモデルだと思われるし、私もこのモデルを支持する(名称には違和感がある。これも宮台氏お得意の戦略なのだろう)。この「ヘタレ」層が、私が表現文化としての問題点だと考える「記号のサイン化」への動力を担う層だということも判明した。このモデルをオタク文化に当てはまれば、「エリート」は「オタクエリート」と言い換えて、「オタクエリート」がスキゾ的オタク、「ヘタレ」がパラノ的オタクにと、私のオタク二分論に写像されうるのがわかるだろう。
しかし、芸術文化論視点で見ると本質を見誤ってしまいそうなモデルだと私は思う。
では私の論を、宮台氏の「ヘタレ」モデルを土台に少しいじってみよう。以下ではポストモダン全体としての傾向を語る。
中村雄二郎氏の予言どおり、「受動的知」として最初の段階である、能動的に(近代的知をもって)世界・表現作品に接するのではなく、受動的に接する態度を身に着けた層が生まれた。それが「動物」だとしよう。
「動物」は動物的にシンボルを受け取る。近代的知をもってしてそれを受け取っていないので、散種の多義性化への転倒は起こらない。いわば「身体的」にそのシンボルの意味を受け取っている。この時必要なのは、抽象的なシンボルを豊かに共鳴させる抽象化能力であり類化能力だろう。これはスキゾ的能力と言える。
オタク文化に限っての話ならば、アニメやマンガはイメージであり、シンボル・大文字の他者ではないという異論も出るだろう。ここでは詳しく論じないが、斎藤環氏著「戦闘美少女の精神分析」から一文を抜粋する。
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おたくはまさに、虚構の虚構性に対してすら多層的なリアリティを発見する。アニメのキャラクターは当然として、脚本やキャラクターデザイン、作画監督からマーケティング、評論から鑑賞のツボに至るまで、虚構のあらゆる水準においてリアリティを見出し、それを楽しむことができる。
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そう、オタクはその内容だけではなく、作品名というテクストそのものだって一つのシンボルとして「読んでいる」のだ。
ということでオタク文化からポストモダン全体の話に戻ろう。
このように表現作品や象徴界を豊かにそして受動的に受け取る「動物」たち。しかし、シンボルを共鳴させる能力、スキゾ的能力が貧しい層だっている。これは批判ではなく、人格ごとにいろいろな向き不向きがあるという話に過ぎない。
情報化社会が一般化するにつれ、記号は社会を埋め尽くしていく。情報化もテレビやラジオの時代からネットの時代に移り変わって大きく飛躍しただろう。社会では二次曲線的に記号の総量が増加していくことになる。
ここで記号に対し豊かに接することができる元来の「動物」層の他に、仕方なく記号の海に飲まれざるを得なくなった一般層が加わる。彼らは「動物」層と比べ「人間」的だ。社交的で、社会との迎合も容易だ。(私のスキゾ/パラノ論で言うなら、その定義はパラノは内的動力が「想像界>象徴界」でスキゾは逆である。鏡像段階論を思い出せば、初めての小文字の他者=母親であり、幼児は一番初めに胎内いた頃のような母親との同一化を希求する。次の小文字の他者である鏡で見る自分の姿により差異化されるが。言語は説明するまでもなくまず差異を生み出すものである。その後他者との間で同一性を確認することで客観性を得る(科学の再現性とほぼ同義)。「卵が先か鶏が先か」的発生順を考えれば「想像界→同一化的、象徴界→差異化的」という換喩も可能かもしれない。そう考えれば比較として、スキゾ的人格は差異化志向的であり、パラノ的人格は同一化志向的である、といった言い方も可能かもしれない。)結果、人間的な彼らの行動は、同一化的な「全体性への希求」として表出する。これが「ヘタレ」層だ。彼らは「仕方なく記号の海に飲まれ」たので、その行動は「強迫的」に見えるのだろう。
「エリート」層については、よくわからないがスキゾ/パラノ関係なく知識を持っている層ということになるだろうか。
断っておくが私はスキゾ的人格を持ち上げたりパラノ的人格を貶めるつもりは全くない。ここまでの文章は宮台氏の「ヘタレ」モデルを私の論に写像しようとした試みとして捉えてもらいたい。
このようなポストモダンの傾向から見ても、中村雄二郎氏の著作「魔女ランダ考」が重要な意味を持ってくると私は考える。
受動的な態度を示す「動物」化だけに留まらず、受け取る世界や社会や表現作品を自己の内部でどう豊かに共鳴させるかが必要となってくるのではないだろうか。それを可能とする「知」こそが中村氏の言う「パトスの知」「演劇的知」ではないか。
では「パトスの知」とはどういうものだろう。ここは私の個人的な考えをあえて述べさせてもらいたい。
パトス・情念とは、意識層に発生する感情や欲求の根源である。それは意識層と無意識層両方に跨っている。植物に喩えるなら、地下が無意識層になる。地下で受け取った栄養を地上(意識層)に運び、感動や感情や欲求という実をつける。それが情念だとする。
私は前の記事で、表現文化だけに限れば、「泣け」と言っている作品だから泣く、「笑え」と言っている作品だから「笑う」、「萌えろ」と言っている作品だから「萌える」。そういうパブロフの犬的な動物化か、詩みたいに「わけわからんけど感動した」というような身体的感動的な動物化か、それらは分けて考えないといけないと書いた。前者のパブロフの犬的な動物的反応は、情念が地下にめぐらす根が浅いという比喩で表現できる(そういった作品の構成要素の記号がサイン化しているという私の論にも繋がる)。一方、根が深くあれば、無意識層の深いところが共鳴する感動を覚えることができると言える。こういった感動が深層の心性を震わせる感動と言えるのではないか。
つまり、「パトスの知」とは、情念の無意識層に繋がる根を、より深くはりめぐらせるための「知」と言えるのではないだろうか、と私は考える。
例えば、自分がその作品を鑑賞して何故感動したのか、何故そういう感動が生じたのかを徹底的に考えたり、神経を尖らせて自分の深層心理の動きにアンテナを張ることなどは初歩的な「パトスの知」と言ってよいだろう。それよりももっと「動物的」な、映画や芝居を見て「物語」だけに感動するのではなく、体感的な深い感動を求めることも「パトスの知」であり「演劇的知」であろう。以前私が「萌えキャラに感動することは詩に感動することと構図が似ている」と考えオタク擁護に回ったことも、こういう「パトスの知」の萌芽を感じたからかもしれない。
最後に。私は前の記事でも書いたようにパラノ的人格がスキゾ的人格を模倣する、仮面を被ることについては否定的である。
確かに記号が溢れる時代においては象徴界の内的動力が強いスキゾ的人格が豊かに生活を送れるだろう。しかしだからと言ってそうでない人格が本来の人格を抑圧するように違う人格の仮面を被ることは、ストレスになりかねないと私は考える。事実宮台氏自身が「ヘタレ」について述べている「強迫的アイロニズム」の「強迫的」一つとってもそれはストレスの原因である。社会的風潮が、人格の違いを理由としたストレスを社会が与えるのはおかしいと私は思う。なので、「ヘタレ」を「スキゾ的人格の仮面を被るパラノ的人格」と読みかえるならば、ヘタレ化することは仕方ないことと言える。pikarrr氏が言うような「ヘタレ化するしか選択はない」という容認に私は同意する。
また、宮台氏の文章から一部引用しよう。
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園監督はその先があると言う。〈社会〉の中の自分と〈社会〉に収まらない自分を両方容認できる場合に限り救われるのだ、と。監督によれば、〈社会〉に収まらない自分が「脱社会的存在」なのではなく、両方容認できる存在が「脱社会的存在」だということになる。
そうした「脱社会的存在」になれれば良いのだと監督は言う。〈社会〉を過剰に否定しようとする時点で彼ないし彼らは〈社会〉に内在し尽くしている。真に「脱社会的」であれば、〈社会〉と内と外を、区別しながらも等価に生きられる筈ではないか。そう語った。
(中略)
むろん「強迫的にではなく曖昧に生きよ」という定言命法もまた強迫的で人を〈社会〉に縛り付ける。だから『サイファ』応用編の『絶望・断念・福音・映画』では、絶望と断念の末に福音の〈訪れ〉を静かに待つようなあり方のみが、「脱社会性」を可能にすると述べた。
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社会的に生きることを「同一化」、脱社会的に生きることを「差異化」と捉えれば、それら逆方向に向かう自分の欲動を認めることで、究極の「差異化」、つまり自我同一性を得られるのではないか、という風にも捉えることができる。まず、自分の欲動を冷静に真摯に見つめなおすことが先で、その上で「動物的」に「受動的」態度で世界を受け入れよ、という意図の文章ではないかと私は考える。
では「受動的」に、違う人格の仮面を被らないとしたら、どうすればよいのか。私の本分は芸術文化論なので、それに限って答えるならば、その答えこそが「パトスの知」「演劇的知」という概念に眠っていると私は考える。繰り返すが、中村雄二郎氏はこれらの「知」を「受動的」、「女性的」と表現した。「能動的」を一律的に否定するつもりは全くないが、現代社会・ポストモダンにおいてはこの「受動的」という言葉がキーワードになるのではないだろうか。
――余談ですが、ラカンの鏡像段階論やパラノイア論からこの「差異化」「同一化」という人間の欲動を読み解いたわけですが、これが私の「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理に繋がる欲動かなあ、なんて最近は思ってます。まあここ繋げちゃうと面白くない論理になりそうなので思考停止(おいw)してますが……。
まあ所詮その程度の安直な思考方法ですよ、ってことで。
宮台氏による「サイファ」という言葉は、「純粋なシニフィアン=シニフィエがないシニフィアン=究極的な曖昧さを示す言葉」として提示したと考えれば、近代→ポストモダンにおける科学信仰的なロゴス中心主義的な「確かなもの」が蔓延する世界における「曖昧さ」を止揚するための言葉として捉えることができますねえ。うーん、これは少し言い過ぎかな……。