責任感とは無意識における責任逃避ルーチンである。
2009/01/15/Thu
「だって、同じことを自分がされたらあなたも嫌でしょ?」
正常人の思考回路が鏡像段階というトラウマに拘束されている事実を端的に示している言葉だ。正常人が正常であるための条件である強固な固定観念だ。
自分がやったことを自分がされたとしても、その時になってみないとわからない。たとえば相手がマゾヒストで自分が相手にとって快楽を満たす道具として見られていたらどうなる? あるいはいつ自分がマゾヒスムに目覚めるかもわからないだろう?
この言葉には狡猾な責任逃避が隠蔽されている。
わたしがした行為をお前が不快に思っているからわたしを咎めているのだ。
お前が不快だからわたしを咎めているのだ。
正常になることとは、こういった責任逃避が無意識的にできることである。
ほんと正常人って生きている価値ねえな。まじで死んでいいと思うよ。
「私が不快だからやめろ」
そう言ってくるなら考えなくもない。お前の見えないところでやってあげよう、くらいには妥協するかもしれない。
何かに対して快いと思うか不快に思うかは、全てお前というシステムによる情報処理のアウトプットなのだ。
責任はお前にある。
もちろんわたしにだってある。
わたしはこのブログでよく言っているじゃないか。
「わたしが不快だから」
と。
責任感(笑)からじゃなく事実だから言っているだけなんだがね。むしろ責任感(笑)が強いから「他の人が嫌がっているでしょ」とかって言質になるんだよな。
だとすると、(巷で言われている、あるいは正常人にとっての)責任感って要するに無意識的な責任逃避ルーチンなわけだ。
正常人ってほんと糞だな。
あとさ、「ネゲントロピーをあなたに」つってるあんちゃんさ、エントロピーを地で生きる未去勢的なわたしにとってネゲントロピーって凍死するようなもんなわけだが、お前わたしを殺してくれるのかい? もちろん無抵抗に殺されるわきゃないから、即ちわたしと殺し合えるのかい? わたしと心中できるのかい? 小笠原晋也になれるのかい?
できるっつうんならおいで。言葉で切り刻み合いましょ。図書館でおべんきょするガリ勉君にうんこ投げつけるのは楽しいよ。
さあおいで。ちっちゃなちんちん君。
酔っ払ったキャリアウーマンが店で知り合った大学生男子におしっこを飲ませる場末のスナックへようこそ。
あ、学生さんは三千円で飲み放題だから。若い子好きなのよー。
なんかキモそうな「黒い少女」たちの足跡が残ってるんだがやめてくれよなー。前記事の子みたいなのとか困るわ。
超自我が強い故ケガレに向かう、なあ。決定的に違うよな、わたしの語用におけるキチガイと。
そんなのよりあっけらかんとした正常人であってくれ。ファルスを持ってる人たちは。
「一緒に死んで」となんの含みもなしに言った時の、男のコバカにしたような、見下したような笑みが纏わりついてくる。
意味はなかった。ただ単にそう思ったから言っただけで、含みも何もなかった。
なのに男は笑った。
わたしも笑ったけど。恥ずかしくて。なんでそんなことを言ったのか自分でわからないのが。
眠剤変えたからだな。
眠くなって寝ようと思ったらシャワーのような流し台のような水の音が聞こえてよく眠れなかった。水の音は真心ブラザーズみたいなごちゃごちゃした音楽になって、「裏切れ、裏切れ」って言っているように聞こえた。
あの時の見下した笑いがなかなか消えない。
あなたは何故笑うの?
「キチガイって一歩引いて見てる分にゃ笑えるじゃん。ミスタービーンだ」
なるほどね。「引いた」わけだ。
死ね。
追記。
前記事にリンクしたブログ筆者(以下まんこちゃんと呼ぶ)について経過がよくわからーん、って人もいるだろう。わたしの主観を交えて経過を説明する。
まんこちゃんは薬師さんという自閉症者と接触した。薬師さんは自分と近い人間だと思って話しかけたのだが、違った。よってまんこちゃんを拒否した。拒否られたまんこちゃんはそれを不快に思った。
物語風に要約するならこういうことだ。
ブスでいじめられて「ああ、いっそ動物にでもなってしまいたい」とか思っている悩める女子高生がいた。彼女はある日スーパーで生肉を買って街を歩いていた。生肉の臭いに引き寄せられた狂犬が彼女に愛想を振り撒く。彼女は「この子ならわたしの心を癒してくれるかもしれない」と期待する。別の日、同じ街角を手ぶらで彼女は歩いている。あの狂犬がいる。この前愛想を振り撒いてくれたから、と思い彼女はそいつに近づく。今の手ぶらな彼女は狂犬にとって自分の存在を脅かす敵でしかない。よって狂犬は彼女に噛みつく。彼女は裏切られたと思う。狂犬を擬人化して認知するという傲慢さ故の怪我である。人間らしさという傲慢さ故の事件である。
そういう話。
正常人の思考回路が鏡像段階というトラウマに拘束されている事実を端的に示している言葉だ。正常人が正常であるための条件である強固な固定観念だ。
自分がやったことを自分がされたとしても、その時になってみないとわからない。たとえば相手がマゾヒストで自分が相手にとって快楽を満たす道具として見られていたらどうなる? あるいはいつ自分がマゾヒスムに目覚めるかもわからないだろう?
この言葉には狡猾な責任逃避が隠蔽されている。
わたしがした行為をお前が不快に思っているからわたしを咎めているのだ。
お前が不快だからわたしを咎めているのだ。
正常になることとは、こういった責任逃避が無意識的にできることである。
ほんと正常人って生きている価値ねえな。まじで死んでいいと思うよ。
「私が不快だからやめろ」
そう言ってくるなら考えなくもない。お前の見えないところでやってあげよう、くらいには妥協するかもしれない。
何かに対して快いと思うか不快に思うかは、全てお前というシステムによる情報処理のアウトプットなのだ。
責任はお前にある。
もちろんわたしにだってある。
わたしはこのブログでよく言っているじゃないか。
「わたしが不快だから」
と。
責任感(笑)からじゃなく事実だから言っているだけなんだがね。むしろ責任感(笑)が強いから「他の人が嫌がっているでしょ」とかって言質になるんだよな。
だとすると、(巷で言われている、あるいは正常人にとっての)責任感って要するに無意識的な責任逃避ルーチンなわけだ。
正常人ってほんと糞だな。
あとさ、「ネゲントロピーをあなたに」つってるあんちゃんさ、エントロピーを地で生きる未去勢的なわたしにとってネゲントロピーって凍死するようなもんなわけだが、お前わたしを殺してくれるのかい? もちろん無抵抗に殺されるわきゃないから、即ちわたしと殺し合えるのかい? わたしと心中できるのかい? 小笠原晋也になれるのかい?
できるっつうんならおいで。言葉で切り刻み合いましょ。図書館でおべんきょするガリ勉君にうんこ投げつけるのは楽しいよ。
さあおいで。ちっちゃなちんちん君。
酔っ払ったキャリアウーマンが店で知り合った大学生男子におしっこを飲ませる場末のスナックへようこそ。
あ、学生さんは三千円で飲み放題だから。若い子好きなのよー。
なんかキモそうな「黒い少女」たちの足跡が残ってるんだがやめてくれよなー。前記事の子みたいなのとか困るわ。
超自我が強い故ケガレに向かう、なあ。決定的に違うよな、わたしの語用におけるキチガイと。
そんなのよりあっけらかんとした正常人であってくれ。ファルスを持ってる人たちは。
「一緒に死んで」となんの含みもなしに言った時の、男のコバカにしたような、見下したような笑みが纏わりついてくる。
意味はなかった。ただ単にそう思ったから言っただけで、含みも何もなかった。
なのに男は笑った。
わたしも笑ったけど。恥ずかしくて。なんでそんなことを言ったのか自分でわからないのが。
眠剤変えたからだな。
眠くなって寝ようと思ったらシャワーのような流し台のような水の音が聞こえてよく眠れなかった。水の音は真心ブラザーズみたいなごちゃごちゃした音楽になって、「裏切れ、裏切れ」って言っているように聞こえた。
あの時の見下した笑いがなかなか消えない。
あなたは何故笑うの?
「キチガイって一歩引いて見てる分にゃ笑えるじゃん。ミスタービーンだ」
なるほどね。「引いた」わけだ。
死ね。
追記。
前記事にリンクしたブログ筆者(以下まんこちゃんと呼ぶ)について経過がよくわからーん、って人もいるだろう。わたしの主観を交えて経過を説明する。
まんこちゃんは薬師さんという自閉症者と接触した。薬師さんは自分と近い人間だと思って話しかけたのだが、違った。よってまんこちゃんを拒否した。拒否られたまんこちゃんはそれを不快に思った。
物語風に要約するならこういうことだ。
ブスでいじめられて「ああ、いっそ動物にでもなってしまいたい」とか思っている悩める女子高生がいた。彼女はある日スーパーで生肉を買って街を歩いていた。生肉の臭いに引き寄せられた狂犬が彼女に愛想を振り撒く。彼女は「この子ならわたしの心を癒してくれるかもしれない」と期待する。別の日、同じ街角を手ぶらで彼女は歩いている。あの狂犬がいる。この前愛想を振り撒いてくれたから、と思い彼女はそいつに近づく。今の手ぶらな彼女は狂犬にとって自分の存在を脅かす敵でしかない。よって狂犬は彼女に噛みつく。彼女は裏切られたと思う。狂犬を擬人化して認知するという傲慢さ故の怪我である。人間らしさという傲慢さ故の事件である。
そういう話。