妥協点と対立点
2009/01/16/Fri
一時期2ちゃんのアニメ系板住人だった。スレ立て職人みたいなこともやっていた。
そこでわたしは結構自作自演をしていた。と言っても、自分の意見を擁護する自作自演ではなく、自分が前に書いたレスに反論したくなって自作自演をしてしまうのだ。同じIDでやったら「ここはお前の日記帳じゃ(ry」状態じゃん、っていうのはさすがにわかってたからね。
でも、会社でも似たようなことやってたなあ、と思う。表面上は全然違うが、中身の構造はこの自作自演反論と同じだな、と思えるところがある。
たとえば何かの議論になって、三つぐらいの派閥に分かれるとする。大体その内の一つって「まあまあ穏便に」派なんだけどね。わたしも(意外に思われるかもしれないが)この穏便派になることが多かった。とはいえラディカルな穏便派(なんじゃそりゃ)だった。残りの対立する二派を煽るようなことを言ってしまうのだ。
対立する二つの意見を分析的に要約したり解体したりするのが穏便派の腕の見せ所である。要約と解体を駆使して二つの意見の妥協点を模索するわけだ。一方わたしは、要約と解体を駆使して二つの意見の対立点を煽ってしまう。煽るつもりはないのだが、対立点を明確にすればするほど議論は平行線を辿ってしまう。しかしながら、対立点が浮き彫りになると「こりゃあお互いわかり合えっこねえな」みたいな雰囲気になって、むしろ対立点を置き去りにしたまま議論が収束する場合も多々あったので、一応穏便派だった、と自認している。
会社では人を使う立場にいたのだが、特に人間が関わるシステムにおいては、全体の構造を把握するにはこの対立点がキーポイントだ、という考えをわたしはしている。要するに、意見の対立がないシステム(そんなものがあればの話だが)だと、システムの全体像がわからなくなってしまう、ということである。この対立点は、少なくとも妥協点では全くない。むしろ対立点を隠蔽した代用品が妥協点である。わたしにとっては。
この考え方が自作自演反論においても作用していたのかな、と思う。自作自演で反論すると、時々他の名無しが「釣れた」りする。議論が発展することもある。夜中とか特に。そうすると必然的に意見の対立が起きる。わたしはその対立点を摘出して、そのアニメに関する一般の受け取り方みたいなものを認知する、というわけだ。
「要するにさみしがり屋じゃん」とか言われても仕方ないやり方だけどね。
そういう言い訳。
そうそう、この記事の「ゲル状の狂気」って笙野頼子の言う「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」と関連させて考えるのもおもしろいかもね。わたしのイメージではどろどろというよりもうちょっと固体性が強いものだけど。粘着性が高いというか。「分散」っていうエントロピー的な意味が付随しないと物足りない感じがする。「どろどろ」だけだとこの意味が弱い。だからゲル状。いや別に「どろどろ」でもいいんだが。分散しているからこそなんとなくな固体性を保っている、って感じ、わかるかなー?
多分、正常人(特に精神分析の文脈における正常な女性的主体)はどろどろの何かの中に水晶があるのだろう。それを単純にファルスって言っちゃってもいいような気がしてきた。フェミニストが脊髄反射的に反論する男根って意味だけじゃなく、バロン=コーエン論におけるSAMや中枢性統合という概念も付加させた概念として。「歩く」という日常的な動作でさえファルス(無学フェミニストどもがぎゃーぎゃー言うなら中枢性統合って換言してあげてもいいよ)の統合機能が働いている。そういった人間というシステムにおける中枢的な統合機能としての実体。
一方、わたし語用における(いい加減この注釈飽きた)キチガイ即ち未去勢者即ち統合失調症者や自閉症者やスキゾイドたちは、ゲル状の何かの中に水晶は存在しない。しかしながら水晶を持っている人たちの中で生きなければならないわけだから、外側を固体化させる。たとえば刃にしたり鎧にしたりする。『だいにっほんシリーズ』の火星人だな、もろ。地球スーツの中身はどろどろのどす黒いもの。逆なんだな。構造が。固体とゲルの。確信してしまうことと疑ってしまうことの。
どろどろの中に水晶があるって主張する笙野は正常人なのだろう。かなーり火星人よりの視点に立てていると思えるが。
だからあれよ、まんこちゃんもわたしがつついてやっと自分の中の水晶に気づき始めたみたいだが、それでいいんじゃないかな。笙野ばりに一気にパラノイア化する必要もないと思うけど。一般人として生きていくなら。
なんだよ、結果的に普通の精神分析になっちゃったな。分析家のディスクールの生成物はファルスってか。ああごめん中枢性統合機能って言った方がいいのね、はいはい。
どろどろに初めから埋もれていた固体を再発見するんじゃなくて、どろどろを多大な労力を払って固体化させるのが山岸氏が主張する擬似的なSAMあるいはサントームなんだろうな。
軸がファルスで柵がサントーム。一見同じようなものに見えるけどその実違う。ジョイスの症状は字面だけ追えば(ファルスの後付けたる)パラノイアのそれにも見えなくない。だけどそれはサントームなのだ。定義的に。
判断基準としては、それが生成する過程における労力が、一時期流行った「自分探し」のごとき再発見的なものか、統合失調症の新語創作的なものか、の違いになるのかな。いやーどうだろ。まあ一番重要なのは平時がどうであったか、だろうけどね。しばらくの期間を観察した結果、そいつの主観世界が、埋もれてはいるが何かしら固体的なものを根拠にしているものか、そんなものが見当たらない分散的なゲル状のものか、ってところになるのか。
笙野ファンブログのツレションババアがわたしに言った「あなたには何で「降り」ないんだ。」って問いかけだな。キリスト教系の学校にいたらしいが、神様のおしっこおいちかったでちゅかー? マリアをレイプした神様の聖水プレイ(笑)。
降りてくるわけねえじゃん。最初からないんだから。わたしの論に中身なんてない。むしろそんなの期待するな。他人の水晶なんかより自分の奥底にある水晶を探した方が便宜的である。それはお前たちにとっての「ここ」にあるんだから。なんだか『青い鳥』(笑)みたいだな。
わたしの言葉には外側しかない。水晶という暴力から身を守るための柵である。中身があったとしたら、それは分散しているが故にある程度の固体性を保っているゲル状の狂気だ。それはお前たちにとって常に既に棄却し続けてきた粘着的なケガレである。獣性である。血便である。だからお前たちには見えない。だからお前たちから見ればわたしの中身などない。見てくれなくていい。それはわたしにとってもケガレなのだから。
……そう、ケガレなのだ。棄却されるべきものなのだ。だから中身がなかったらなかったで苦痛となる。それが「ぐちゃぐちゃであることの痛み」であり、「本当の相対主義は狂気の内にある」であり、具体的にはたとえば「自分が「そこ」にいるという統合失調症者の離人体験」だ。
正常という精神疾患者たちはほぼ必ずと言っていいほどこの苦痛が理解できない。わたしの臨床からそう断言できる。
あ、あと今思い出したけど、pikarrr氏との議論、わたしにしては追い込みが足りねえんじゃねえの? と飲茶あたりのわたしファンには思われそうだが、彼のブログで反論したら削除されちゃったのだよ。逃げられたわけだな。
この記事のコメントの
=====
だから今回のボクから脂さんへの反論はあくまでも論理的な反論であって、
=====
を言質に、ほーれ、お前の思考回路そのものがシニフィアンに回収されている証拠じゃねえか。わたしが窮屈なんじゃなくてお前が窮屈なのをわたしに投影してるだけじゃん。バッカでー。こんなの精神分析理論の初歩の初歩だろうが。お前みたいなシニフィアンに回収されてしか生きられない神経症者の精神構造を精緻に解体したのがラカン論なわけだから、ラカン論がさまざまなものをシニフィアンに回収しているのは当然だろjk。
って反論したら消された。
まあ要するにこいつも人なるものを切り刻むメスじゃなくて社会とかっていう幻想をいじくるおもちゃとしてしか精神分析を扱えないちっちゃなちんちんだったってわけだな。ちょっとわたしが本来の使い方でつっついたらこれだ。彼のやっている学問は精神分析とは言えないと思うよ。SFみたいな感じ。いや精神分析論を社会学や哲学に援用すること全てを批判して言っているわけじゃないが。わかっている人もいるだろう。それこそガタリ曰く「社会的な機械と主体の欲望機械は同じ機械だ」なわけで。
でもなんとなく彼かわええから逃がしてやった。ほら、わたしってショタコンだから。SF映画の主人公になりきって新聞紙で作った棒ぶんぶん振り回す男の子ってかわいくね?
ああそんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
ああ明るすぎる真昼の薄闇の中
夜はいつでもわたしのものさ
みんな ねえみんな 出てきておくれ
今ならばひとりきりさ 祭りもできる
谷山浩子の『テルーと猫とベートーベン』って、『夢半球』が好きなわたしにとってはなんか笙野の『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』じゃないけど妙な違和感があったんだけど後半に行くにつれ「ああいつもの浩子さんだ」と思ったわけだが、一曲目二曲目って宮崎息子作詞なのね。なんか納得。
「自由を欲した者たちは何も持たずに飛び去った」とか男性的抑鬱症の隠者志向もろ出しでワラタ。まさに「我をだだ漏れさせているクセに我がないフリをするアホウ」だな。
谷山はいいんだよ、別に。わたし視点彼女もゲル状だから。
正常人曰く「中身がない人間」(笑)を切り刻んでもしゃーあんめえ。
みんな ねえみんな 出てきておくれ
あの人の涙からわたしを守ってよ
元結ほどけば崩れるように
髪の毛だけが泣くのです
みゆきにはあると思うよ、水晶。風俗街のネオンサインのような。
笙野読んでるかな。お前の言うみたこ信者たちと火星人たちの天国、火星人にとっては全然天国なんかじゃないよ。
この記事のコメント欄から引用する。
=====
ひとつ思ったことは、恐怖ですね。
自分自身、人生でまったく他人の悪口を言ったことがないなどとは申しません、自分でもこのような内容のことを口にしたことはあります。
ただ、単純に彼女が議論に理論的に追いつけなくなっただけだと思のですが、それが被害者意識に摩り替わり、さらにそのことがブログ上で閲覧できる状態でさらしているというに対してまぁなんていうか集団の怖さを感じます。
=====
恐怖を感じる場所が天国って言うなら理屈的に整合するけど。少なくともお前はマゾヒストではない。わたしの分析によれば。よってこの理屈は採用されない。
このコメント者はアスペルガー症候群当事者である。
自閉症当事者であり自閉症研究に造詣の深い山岸氏はあるブログでこう言った。
「自閉症とは空なのだ」
この空とは仏教で言う空観である。文脈からそれは明らかである(引用元が見つからない。削除されたようだ。まあ疑うなら山岸氏に直に聞いてくれ)。空観とは無我の境地における構造論である。この山岸氏の論は「自我」という言葉を精神分析用語のそれに置き換えた場合(仏教の我はむしろファルスそのもののように思える。あるいはユング論における自己か)においても理屈的に整合する。
『ろんちく』でいぶきはこう言っているよな。
「自我なんてわからん!」
と。
これらの断片を組み合わせればどういうことかわかるかい?
火星人にとってはみたこ信者だろうがおんたこと同じ存在なんだよ。むしろおんたこたちは遠く離れているから、身近にいるみたこ信者たちの方が「目の前の敵」となる可能性が高い。自分の存在を脅かす存在。恐怖を覚えてしまう存在。
いぶきについて、物語だから天国逝ったつってもまたいつか帰ってくるかもしれないけどね(笑)とか言い訳がましく書いておいたお前のセンスには脱帽だ。
その通りだったよ。
みたこ信者は知らんが、火星人、少なくともいぶきにとってそこは天国じゃなかった。
お前が予言した通りの実体がわたしのブログで展開されている。
やっぱりお前は巫女だ。普通に感心するわ。
このテクストはお前の思想を批判するものではない。こういった事実があった、という告発のようなものである。
ゲル状の狂気は、わたしにとって我でもなんでもない。むしろそれは本当の意味での現実である。現実は所有できない。所有という概念そのものが幻想であるため、所有できたと思ったものは既に幻想なのである。
「火星人とは無我たる人間である」というわたしの解釈が正しければ、火星人は実在する。統合失調症や自閉症やスキゾイドという病名でラベリングされて。
また、ここのきつねミクさんのコメントも参考になろう。
=====
定型発達者の本音は非定型発達者を定型発達者の想定する在り方に組み込み支配したいだけなのに、それを貴方の為等と言い愛情の一種に偽装した偽善の綺麗さを盾に
本人の意思とは無関係に本人の心を好き放題に致命的な破壊をしてザクザク切り貼りして勝手に受け取り納得し、いざ本人が想定通りに動けなければ人の気持ちに沿えぬ奴、心のない冷たい奴、つまるところ不快な奴として教育的懲罰という上から目線で能動・受動的手法を駆使して集団攻撃して圧倒的な力に屈服させようとする。
基本構造がいじめの取っ掛かりと全く同じじゃん。
非定型側が最低でも心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息にならなければ、物質的にもなにがしかの人的なセーフティネットからも隔離され、周囲レベルの生活をまず許されはしない。
=====
愛情溢れる天国は、自閉症者にとって人なるものという幻想的なものによって物体としての力動が拘束されることを強制される地獄なのだ。何故なら愛なるものの本質、アガペーは征服者たる原パラノイアなのだから。無我なる人間にとっては愛こそが自分という存在を窒息死させる暴力なのである。
いぶきが、心因的な原因で一時的にファルスが不安定になった状態ではなく、自閉症や統合失調症やスキゾイドのような器質因・内因的な原因で無我たる人間であったとしたら、お前が作った天国で彼女は「心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息」になっていることだろう。
とはいえ、抑圧していたトラウマを意識化することでいぶきは天国に逝くことを決意したわけだから、心因性の一時的なファルスの不安定状態、即ち神経症だった、という解釈も可能で微妙なんだよな。この解釈を採用するならば、いぶきは無我などではなく有我の人間が神経症という病を発症し一時的に無我的な状態に親近していただけの状態だった、となる。もしそうであったならばいぶきは天国で幸せに暮らしているだろう。めでたしめでたし。
いぶきは火星人である。従って火星人は元々先天的に有我であってなんらかの原因により後天的に無我たる状態に親近していただけであり、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドなどという先天的な無我なる人間ではない、となり、先述の告発に矛盾が生じる。火星人は本当の意味で無我たる人間を意味している、というわたしの解釈が間違っていた、ということになる。
お前がさわりだけ論じた仏教的自我、即ち「無我後有我」という思想には、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドは存在しなかった、ということだ。なんだ、結局『だいにっほんシリーズ』は、いぶきの視点で読まれたならば、巷に腐るほど転がっている正常人の正常人による正常人のためのトラウマ克服物語にすぎなかった、となってしまう。「世界に存在することへの違和感」を持つ者の物語ではなく「社会に対する違和感」を持つ者の物語だった、となってしまう。
ああなんかそれでいいような気がしてきた。ある自閉症者が言った「ラカンの「女性は存在しない」に倣うならアスペやスキゾはなおさら存在しない」という主張が強化される事例だな。即ちお前の主観世界には統合失調症者や自閉症者やスキゾイド(の主観世界)は存在しない、ということだ。ラカンの「女性は存在しない」という言葉に反論する資格はお前にはない、となるだけのことだ。ファルスを持っている主体の主観世界にはファルスを持っていない人間は存在しない。いたとしても自分と同じファルスを持っている人間だと思い込んでしまう。一見正常人(神経症者)と同じように見える寡症状性の統合失調症者や知的障害のない自閉症たるアスペルガー症候群者やスキゾイドたちの主観世界について、正常人たちは自分たちと同じ主観世界だと思い込む。だから平気で、むしろそれを愛情だとすら自認しながら、正常人は彼らにこんなことを言う。
「根性が足りないんだよ、根性が(俺なら根性で克服するぞ)」
「わたしも昔はそうだったのよ。でもね、いつかはいいことあるものよ(わたしのように耐えてればなんとかなるものよ)」
「人は幸せになるために生きているのよ(わたしはそう生きている)」by上野千鶴子。
征服者たちはこうやってファロセントリックに自らの主観を押しつける。サバルタンをレイプする。ゲル状の何かを自分好みの形に作り変えようとする。
金毘羅ってその程度なんだ。神でもなんでもなく、悲しいほど人なるものという固定観念に縛られたパラノイアックな「なるだけたくさんの他人を支配したい」という人間臭い征服者の、正常という精神疾患の一症状「気持ちの資本家」の象徴だった、って解釈になるな。「火星人とは無我たる人間である」という解釈が間違っていたとするならば。
大河的自我ねえ。ふうん。
冒頭に書いた通りこうやって自分の論に反論するのがわたしの癖なんでね。気にするな。
ここはわたしの日記帳。
……なんかなあ、谷山の場合『テルー~』で後に行くほど元の谷山に戻ったからふんふんってなるけど笙野の場合後に行くほど(特に『金毘羅』以降)火星人から離れてってるように見えるんだよな。
それが不安なのだ。穿って見てしまうのだ。なんかやな感じがしてその後の作品が読めない。飽きたわけじゃないんだよな。ああそっか、これとおんなじことか。そんな感じ。イトウさんおk?
かと言って火星人真っ最中な『なにもしてない』(谷山なら『夢半球』に相似しような)を乱発されてもなんか怖い感じがするんだろうなって気はするけど。
ごめんね、こういう人間もいるってことで。
追記。
ぶはwww、pikarrrたんのブログトラバ送って一瞬反映されてたのに消されてるwww。
そうそう、思う存分逃げるがいいよ。
つーかこういう子の、人なるものじゃなくてその影絵の社会とか哲学テクストにしか精神分析を応用できないのって、やっぱり自分が神経症者だからなのだろうか。正常人即ち神経症者を切り刻むことは自分も切り刻むことであるから精神分析論というメスを振り回せない。新聞紙で作ったごっこ遊びの刀としてしか使えない。
要するにヘタレってことなのかね。こういうヘタレどもが斎藤たまきんがニヒリスティックに言う
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しかし私は、それでも日本のラカニアンたちによる、それこそジジェク的なものをも含む、多様な「事例」への無節操なまでの応用を待望している。
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ってことか。
わたしは一足先に
=====
その有効性と限界とが真に問われるべき時
=====
に行ってるってことか? ファルスに不具合のある、ラカン論においては存在しないはずの自閉症を精神分析論で語っているのとか。
pikarrrたんとか見てると「インストール」はまだまだ終わってない気がするけどなあ。あ、ヘビーラカニアンとして言っているのか。
わたしは自称「なんちゃってラカニアン」なんだが。クリステヴァ論者だっつってるだろ。
ヒスイ
心の深く
ヒスイ
沈めた恋の
ヒスイ
ゆらめき
わたしにだって、水晶が、翡翠が、何かの宝石が、ゲル状の奥底にあると思う時がある。
だけど、手を伸ばすと、それは消えてなくなってしまう。握り潰してしまう。壊れてしまう。完全な球体だと思っていたのに、次の瞬間歪んだ何かになる。少し前を振り返ってあれは球体だったな、と思っても、やっぱり違うかもしれない、と思ってしまう。降りたと思っても疑ってしまう。降りた状態はわたしにとってもっともおぞましいものだからだ。狂気の境地だからだ。それは神なんかではない、と思わないと、わたしは正常人の中で生きられない。
その時気づいた
探していたのは、あなたじゃない
そこでわたしは結構自作自演をしていた。と言っても、自分の意見を擁護する自作自演ではなく、自分が前に書いたレスに反論したくなって自作自演をしてしまうのだ。同じIDでやったら「ここはお前の日記帳じゃ(ry」状態じゃん、っていうのはさすがにわかってたからね。
でも、会社でも似たようなことやってたなあ、と思う。表面上は全然違うが、中身の構造はこの自作自演反論と同じだな、と思えるところがある。
たとえば何かの議論になって、三つぐらいの派閥に分かれるとする。大体その内の一つって「まあまあ穏便に」派なんだけどね。わたしも(意外に思われるかもしれないが)この穏便派になることが多かった。とはいえラディカルな穏便派(なんじゃそりゃ)だった。残りの対立する二派を煽るようなことを言ってしまうのだ。
対立する二つの意見を分析的に要約したり解体したりするのが穏便派の腕の見せ所である。要約と解体を駆使して二つの意見の妥協点を模索するわけだ。一方わたしは、要約と解体を駆使して二つの意見の対立点を煽ってしまう。煽るつもりはないのだが、対立点を明確にすればするほど議論は平行線を辿ってしまう。しかしながら、対立点が浮き彫りになると「こりゃあお互いわかり合えっこねえな」みたいな雰囲気になって、むしろ対立点を置き去りにしたまま議論が収束する場合も多々あったので、一応穏便派だった、と自認している。
会社では人を使う立場にいたのだが、特に人間が関わるシステムにおいては、全体の構造を把握するにはこの対立点がキーポイントだ、という考えをわたしはしている。要するに、意見の対立がないシステム(そんなものがあればの話だが)だと、システムの全体像がわからなくなってしまう、ということである。この対立点は、少なくとも妥協点では全くない。むしろ対立点を隠蔽した代用品が妥協点である。わたしにとっては。
この考え方が自作自演反論においても作用していたのかな、と思う。自作自演で反論すると、時々他の名無しが「釣れた」りする。議論が発展することもある。夜中とか特に。そうすると必然的に意見の対立が起きる。わたしはその対立点を摘出して、そのアニメに関する一般の受け取り方みたいなものを認知する、というわけだ。
「要するにさみしがり屋じゃん」とか言われても仕方ないやり方だけどね。
そういう言い訳。
そうそう、この記事の「ゲル状の狂気」って笙野頼子の言う「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」と関連させて考えるのもおもしろいかもね。わたしのイメージではどろどろというよりもうちょっと固体性が強いものだけど。粘着性が高いというか。「分散」っていうエントロピー的な意味が付随しないと物足りない感じがする。「どろどろ」だけだとこの意味が弱い。だからゲル状。いや別に「どろどろ」でもいいんだが。分散しているからこそなんとなくな固体性を保っている、って感じ、わかるかなー?
多分、正常人(特に精神分析の文脈における正常な女性的主体)はどろどろの何かの中に水晶があるのだろう。それを単純にファルスって言っちゃってもいいような気がしてきた。フェミニストが脊髄反射的に反論する男根って意味だけじゃなく、バロン=コーエン論におけるSAMや中枢性統合という概念も付加させた概念として。「歩く」という日常的な動作でさえファルス(無学フェミニストどもがぎゃーぎゃー言うなら中枢性統合って換言してあげてもいいよ)の統合機能が働いている。そういった人間というシステムにおける中枢的な統合機能としての実体。
一方、わたし語用における(いい加減この注釈飽きた)キチガイ即ち未去勢者即ち統合失調症者や自閉症者やスキゾイドたちは、ゲル状の何かの中に水晶は存在しない。しかしながら水晶を持っている人たちの中で生きなければならないわけだから、外側を固体化させる。たとえば刃にしたり鎧にしたりする。『だいにっほんシリーズ』の火星人だな、もろ。地球スーツの中身はどろどろのどす黒いもの。逆なんだな。構造が。固体とゲルの。確信してしまうことと疑ってしまうことの。
どろどろの中に水晶があるって主張する笙野は正常人なのだろう。かなーり火星人よりの視点に立てていると思えるが。
だからあれよ、まんこちゃんもわたしがつついてやっと自分の中の水晶に気づき始めたみたいだが、それでいいんじゃないかな。笙野ばりに一気にパラノイア化する必要もないと思うけど。一般人として生きていくなら。
なんだよ、結果的に普通の精神分析になっちゃったな。分析家のディスクールの生成物はファルスってか。ああごめん中枢性統合機能って言った方がいいのね、はいはい。
どろどろに初めから埋もれていた固体を再発見するんじゃなくて、どろどろを多大な労力を払って固体化させるのが山岸氏が主張する擬似的なSAMあるいはサントームなんだろうな。
軸がファルスで柵がサントーム。一見同じようなものに見えるけどその実違う。ジョイスの症状は字面だけ追えば(ファルスの後付けたる)パラノイアのそれにも見えなくない。だけどそれはサントームなのだ。定義的に。
判断基準としては、それが生成する過程における労力が、一時期流行った「自分探し」のごとき再発見的なものか、統合失調症の新語創作的なものか、の違いになるのかな。いやーどうだろ。まあ一番重要なのは平時がどうであったか、だろうけどね。しばらくの期間を観察した結果、そいつの主観世界が、埋もれてはいるが何かしら固体的なものを根拠にしているものか、そんなものが見当たらない分散的なゲル状のものか、ってところになるのか。
笙野ファンブログのツレションババアがわたしに言った「あなたには何で「降り」ないんだ。」って問いかけだな。キリスト教系の学校にいたらしいが、神様のおしっこおいちかったでちゅかー? マリアをレイプした神様の聖水プレイ(笑)。
降りてくるわけねえじゃん。最初からないんだから。わたしの論に中身なんてない。むしろそんなの期待するな。他人の水晶なんかより自分の奥底にある水晶を探した方が便宜的である。それはお前たちにとっての「ここ」にあるんだから。なんだか『青い鳥』(笑)みたいだな。
わたしの言葉には外側しかない。水晶という暴力から身を守るための柵である。中身があったとしたら、それは分散しているが故にある程度の固体性を保っているゲル状の狂気だ。それはお前たちにとって常に既に棄却し続けてきた粘着的なケガレである。獣性である。血便である。だからお前たちには見えない。だからお前たちから見ればわたしの中身などない。見てくれなくていい。それはわたしにとってもケガレなのだから。
……そう、ケガレなのだ。棄却されるべきものなのだ。だから中身がなかったらなかったで苦痛となる。それが「ぐちゃぐちゃであることの痛み」であり、「本当の相対主義は狂気の内にある」であり、具体的にはたとえば「自分が「そこ」にいるという統合失調症者の離人体験」だ。
正常という精神疾患者たちはほぼ必ずと言っていいほどこの苦痛が理解できない。わたしの臨床からそう断言できる。
あ、あと今思い出したけど、pikarrr氏との議論、わたしにしては追い込みが足りねえんじゃねえの? と飲茶あたりのわたしファンには思われそうだが、彼のブログで反論したら削除されちゃったのだよ。逃げられたわけだな。
この記事のコメントの
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だから今回のボクから脂さんへの反論はあくまでも論理的な反論であって、
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を言質に、ほーれ、お前の思考回路そのものがシニフィアンに回収されている証拠じゃねえか。わたしが窮屈なんじゃなくてお前が窮屈なのをわたしに投影してるだけじゃん。バッカでー。こんなの精神分析理論の初歩の初歩だろうが。お前みたいなシニフィアンに回収されてしか生きられない神経症者の精神構造を精緻に解体したのがラカン論なわけだから、ラカン論がさまざまなものをシニフィアンに回収しているのは当然だろjk。
って反論したら消された。
まあ要するにこいつも人なるものを切り刻むメスじゃなくて社会とかっていう幻想をいじくるおもちゃとしてしか精神分析を扱えないちっちゃなちんちんだったってわけだな。ちょっとわたしが本来の使い方でつっついたらこれだ。彼のやっている学問は精神分析とは言えないと思うよ。SFみたいな感じ。いや精神分析論を社会学や哲学に援用すること全てを批判して言っているわけじゃないが。わかっている人もいるだろう。それこそガタリ曰く「社会的な機械と主体の欲望機械は同じ機械だ」なわけで。
でもなんとなく彼かわええから逃がしてやった。ほら、わたしってショタコンだから。SF映画の主人公になりきって新聞紙で作った棒ぶんぶん振り回す男の子ってかわいくね?
ああそんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
ああ明るすぎる真昼の薄闇の中
夜はいつでもわたしのものさ
みんな ねえみんな 出てきておくれ
今ならばひとりきりさ 祭りもできる
谷山浩子の『テルーと猫とベートーベン』って、『夢半球』が好きなわたしにとってはなんか笙野の『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』じゃないけど妙な違和感があったんだけど後半に行くにつれ「ああいつもの浩子さんだ」と思ったわけだが、一曲目二曲目って宮崎息子作詞なのね。なんか納得。
「自由を欲した者たちは何も持たずに飛び去った」とか男性的抑鬱症の隠者志向もろ出しでワラタ。まさに「我をだだ漏れさせているクセに我がないフリをするアホウ」だな。
谷山はいいんだよ、別に。わたし視点彼女もゲル状だから。
正常人曰く「中身がない人間」(笑)を切り刻んでもしゃーあんめえ。
みんな ねえみんな 出てきておくれ
あの人の涙からわたしを守ってよ
元結ほどけば崩れるように
髪の毛だけが泣くのです
みゆきにはあると思うよ、水晶。風俗街のネオンサインのような。
笙野読んでるかな。お前の言うみたこ信者たちと火星人たちの天国、火星人にとっては全然天国なんかじゃないよ。
この記事のコメント欄から引用する。
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ひとつ思ったことは、恐怖ですね。
自分自身、人生でまったく他人の悪口を言ったことがないなどとは申しません、自分でもこのような内容のことを口にしたことはあります。
ただ、単純に彼女が議論に理論的に追いつけなくなっただけだと思のですが、それが被害者意識に摩り替わり、さらにそのことがブログ上で閲覧できる状態でさらしているというに対してまぁなんていうか集団の怖さを感じます。
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恐怖を感じる場所が天国って言うなら理屈的に整合するけど。少なくともお前はマゾヒストではない。わたしの分析によれば。よってこの理屈は採用されない。
このコメント者はアスペルガー症候群当事者である。
自閉症当事者であり自閉症研究に造詣の深い山岸氏はあるブログでこう言った。
「自閉症とは空なのだ」
この空とは仏教で言う空観である。文脈からそれは明らかである(引用元が見つからない。削除されたようだ。まあ疑うなら山岸氏に直に聞いてくれ)。空観とは無我の境地における構造論である。この山岸氏の論は「自我」という言葉を精神分析用語のそれに置き換えた場合(仏教の我はむしろファルスそのもののように思える。あるいはユング論における自己か)においても理屈的に整合する。
『ろんちく』でいぶきはこう言っているよな。
「自我なんてわからん!」
と。
これらの断片を組み合わせればどういうことかわかるかい?
火星人にとってはみたこ信者だろうがおんたこと同じ存在なんだよ。むしろおんたこたちは遠く離れているから、身近にいるみたこ信者たちの方が「目の前の敵」となる可能性が高い。自分の存在を脅かす存在。恐怖を覚えてしまう存在。
いぶきについて、物語だから天国逝ったつってもまたいつか帰ってくるかもしれないけどね(笑)とか言い訳がましく書いておいたお前のセンスには脱帽だ。
その通りだったよ。
みたこ信者は知らんが、火星人、少なくともいぶきにとってそこは天国じゃなかった。
お前が予言した通りの実体がわたしのブログで展開されている。
やっぱりお前は巫女だ。普通に感心するわ。
このテクストはお前の思想を批判するものではない。こういった事実があった、という告発のようなものである。
ゲル状の狂気は、わたしにとって我でもなんでもない。むしろそれは本当の意味での現実である。現実は所有できない。所有という概念そのものが幻想であるため、所有できたと思ったものは既に幻想なのである。
「火星人とは無我たる人間である」というわたしの解釈が正しければ、火星人は実在する。統合失調症や自閉症やスキゾイドという病名でラベリングされて。
また、ここのきつねミクさんのコメントも参考になろう。
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定型発達者の本音は非定型発達者を定型発達者の想定する在り方に組み込み支配したいだけなのに、それを貴方の為等と言い愛情の一種に偽装した偽善の綺麗さを盾に
本人の意思とは無関係に本人の心を好き放題に致命的な破壊をしてザクザク切り貼りして勝手に受け取り納得し、いざ本人が想定通りに動けなければ人の気持ちに沿えぬ奴、心のない冷たい奴、つまるところ不快な奴として教育的懲罰という上から目線で能動・受動的手法を駆使して集団攻撃して圧倒的な力に屈服させようとする。
基本構造がいじめの取っ掛かりと全く同じじゃん。
非定型側が最低でも心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息にならなければ、物質的にもなにがしかの人的なセーフティネットからも隔離され、周囲レベルの生活をまず許されはしない。
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愛情溢れる天国は、自閉症者にとって人なるものという幻想的なものによって物体としての力動が拘束されることを強制される地獄なのだ。何故なら愛なるものの本質、アガペーは征服者たる原パラノイアなのだから。無我なる人間にとっては愛こそが自分という存在を窒息死させる暴力なのである。
いぶきが、心因的な原因で一時的にファルスが不安定になった状態ではなく、自閉症や統合失調症やスキゾイドのような器質因・内因的な原因で無我たる人間であったとしたら、お前が作った天国で彼女は「心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息」になっていることだろう。
とはいえ、抑圧していたトラウマを意識化することでいぶきは天国に逝くことを決意したわけだから、心因性の一時的なファルスの不安定状態、即ち神経症だった、という解釈も可能で微妙なんだよな。この解釈を採用するならば、いぶきは無我などではなく有我の人間が神経症という病を発症し一時的に無我的な状態に親近していただけの状態だった、となる。もしそうであったならばいぶきは天国で幸せに暮らしているだろう。めでたしめでたし。
いぶきは火星人である。従って火星人は元々先天的に有我であってなんらかの原因により後天的に無我たる状態に親近していただけであり、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドなどという先天的な無我なる人間ではない、となり、先述の告発に矛盾が生じる。火星人は本当の意味で無我たる人間を意味している、というわたしの解釈が間違っていた、ということになる。
お前がさわりだけ論じた仏教的自我、即ち「無我後有我」という思想には、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドは存在しなかった、ということだ。なんだ、結局『だいにっほんシリーズ』は、いぶきの視点で読まれたならば、巷に腐るほど転がっている正常人の正常人による正常人のためのトラウマ克服物語にすぎなかった、となってしまう。「世界に存在することへの違和感」を持つ者の物語ではなく「社会に対する違和感」を持つ者の物語だった、となってしまう。
ああなんかそれでいいような気がしてきた。ある自閉症者が言った「ラカンの「女性は存在しない」に倣うならアスペやスキゾはなおさら存在しない」という主張が強化される事例だな。即ちお前の主観世界には統合失調症者や自閉症者やスキゾイド(の主観世界)は存在しない、ということだ。ラカンの「女性は存在しない」という言葉に反論する資格はお前にはない、となるだけのことだ。ファルスを持っている主体の主観世界にはファルスを持っていない人間は存在しない。いたとしても自分と同じファルスを持っている人間だと思い込んでしまう。一見正常人(神経症者)と同じように見える寡症状性の統合失調症者や知的障害のない自閉症たるアスペルガー症候群者やスキゾイドたちの主観世界について、正常人たちは自分たちと同じ主観世界だと思い込む。だから平気で、むしろそれを愛情だとすら自認しながら、正常人は彼らにこんなことを言う。
「根性が足りないんだよ、根性が(俺なら根性で克服するぞ)」
「わたしも昔はそうだったのよ。でもね、いつかはいいことあるものよ(わたしのように耐えてればなんとかなるものよ)」
「人は幸せになるために生きているのよ(わたしはそう生きている)」by上野千鶴子。
征服者たちはこうやってファロセントリックに自らの主観を押しつける。サバルタンをレイプする。ゲル状の何かを自分好みの形に作り変えようとする。
金毘羅ってその程度なんだ。神でもなんでもなく、悲しいほど人なるものという固定観念に縛られたパラノイアックな「なるだけたくさんの他人を支配したい」という人間臭い征服者の、正常という精神疾患の一症状「気持ちの資本家」の象徴だった、って解釈になるな。「火星人とは無我たる人間である」という解釈が間違っていたとするならば。
大河的自我ねえ。ふうん。
冒頭に書いた通りこうやって自分の論に反論するのがわたしの癖なんでね。気にするな。
ここはわたしの日記帳。
……なんかなあ、谷山の場合『テルー~』で後に行くほど元の谷山に戻ったからふんふんってなるけど笙野の場合後に行くほど(特に『金毘羅』以降)火星人から離れてってるように見えるんだよな。
それが不安なのだ。穿って見てしまうのだ。なんかやな感じがしてその後の作品が読めない。飽きたわけじゃないんだよな。ああそっか、これとおんなじことか。そんな感じ。イトウさんおk?
かと言って火星人真っ最中な『なにもしてない』(谷山なら『夢半球』に相似しような)を乱発されてもなんか怖い感じがするんだろうなって気はするけど。
ごめんね、こういう人間もいるってことで。
追記。
ぶはwww、pikarrrたんのブログトラバ送って一瞬反映されてたのに消されてるwww。
そうそう、思う存分逃げるがいいよ。
つーかこういう子の、人なるものじゃなくてその影絵の社会とか哲学テクストにしか精神分析を応用できないのって、やっぱり自分が神経症者だからなのだろうか。正常人即ち神経症者を切り刻むことは自分も切り刻むことであるから精神分析論というメスを振り回せない。新聞紙で作ったごっこ遊びの刀としてしか使えない。
要するにヘタレってことなのかね。こういうヘタレどもが斎藤たまきんがニヒリスティックに言う
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しかし私は、それでも日本のラカニアンたちによる、それこそジジェク的なものをも含む、多様な「事例」への無節操なまでの応用を待望している。
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ってことか。
わたしは一足先に
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その有効性と限界とが真に問われるべき時
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に行ってるってことか? ファルスに不具合のある、ラカン論においては存在しないはずの自閉症を精神分析論で語っているのとか。
pikarrrたんとか見てると「インストール」はまだまだ終わってない気がするけどなあ。あ、ヘビーラカニアンとして言っているのか。
わたしは自称「なんちゃってラカニアン」なんだが。クリステヴァ論者だっつってるだろ。
ヒスイ
心の深く
ヒスイ
沈めた恋の
ヒスイ
ゆらめき
わたしにだって、水晶が、翡翠が、何かの宝石が、ゲル状の奥底にあると思う時がある。
だけど、手を伸ばすと、それは消えてなくなってしまう。握り潰してしまう。壊れてしまう。完全な球体だと思っていたのに、次の瞬間歪んだ何かになる。少し前を振り返ってあれは球体だったな、と思っても、やっぱり違うかもしれない、と思ってしまう。降りたと思っても疑ってしまう。降りた状態はわたしにとってもっともおぞましいものだからだ。狂気の境地だからだ。それは神なんかではない、と思わないと、わたしは正常人の中で生きられない。
その時気づいた
探していたのは、あなたじゃない