逆精神分析の失敗例
2009/01/17/Sat
まんこちゃん続報。
この記事から。
=====
出てくる言葉は全部真理が影響されているみたいで
=====
ラカニアンならすぐぴんとくるだろう。彼女がここで言っている真理とはS1だ。神経症にとってのS1とはファルスだ。ファルスは全てのS2に隠喩的作用を及ぼす。
一応断っておくが(多分)彼女はラカン論どころか精神分析の「せ」の字も知らないただのブスな女子高生だ。
ラカン論を字面だけ追ってファルスを論じている新聞紙で作った棒でヒーローごっこする奴なんかよりこいつの方がラカン論を理解できていると言える。ファルス主義のラカン論を。
彼女は自分が「女」として登録されている故、真理というファルスを、男根を自分が持っていることを嫌がっている。大文字の他者に忠実すぎる故の、超自我が強すぎる故の症状である。
一方、笙野頼子は「俺」という金毘羅を再発見した。
さまざまな労苦の中でファルスを持った瞬間の一枚の絵が「美」である。だから『金毘羅』は優れて美しい小説たりえる。この記事から。
=====
「女の人の「個」の問題」こそが、現代では「美」の本質に肉薄しているからだろうが。
=====
女がファルスを持つのにもっとも一般的な方法は子供を持つことだ。子供がファルスとなる。子供を持たない、持てない女性は、子供じゃないファルスを持とうとする。それはとても困難なことである。出産も苦痛である。女がファルスを持つことはとても困難で苦痛なことなのだ。
このまんこちゃんといいツレションババアといい正常人女性に唾を吐いていることが多いが、わたしは彼女らがファルスを持とうとする努力を否定しない。ファルスを持とうとあがいている姿に唾を吐くことはない。
ただし、生後十八ヶ月以内に起きるファルス生成過程、即ち鏡像段階は生物学的男女に共通である。しかし女たちは、「女」と登録されるために元々持っていたファルスを心の奥底にしまわなければならない。自分から見えない心の奥底に真理をしまい込まなければならない。
奥底にしまわれたファルスは彼女らの想像界、象徴界に見えない影響を及ぼす。
自分の奥底にある水晶に無自覚なまま、水晶によって統御された暴力を、水晶を持たない人間に振るうのならば、女だろうが男だろうがわたしは唾を吐く。精神分析というメスで切り刻む。
お前の奥底に眠っているファルスを呼び起こしてやる。
あわよくば、摘出したファルスを破壊してやろうと思っている。
……なんだ、結局普通の精神分析じゃん。分析家のディスクールはS1を生成する。
わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
冒頭のまんこちゃん症例においても、逆精神分析のつもりでやっていた。彼女がファルス(彼女の言う「真理」)を破壊する目的でやっていた。
しかし結果はご覧の通りだ。わたしは彼女がそれまで気づいてなかった「真理」を、心の奥底にしまい込んでいたファルスを気づかせただけだった。再発見の手伝いをしただけだった。
通常の精神分析としては成功と言えるが、逆精神分析としては失敗だった。
逆精神分析の失敗例として記しておく。
まんこちゃんへ。
ファルスを、真理を所有する瞬間の絵が「美」である。お前は「美」の寸前にいる。よかったねー(棒読み)。
いってらっしゃい。
さようなら。
怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど寒さに痛み呼ぶ片耳は
されどわたしの裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
追記。
巷のションベンタレフェミニストどもは、ラカン論のファルス主義を批判する。わたしもファルスを破壊しようとしている。しかしほとんどのフェミニストはファルスという概念が示す実体を理解できていない。字面だけで批判している。2ちゃんで言う「脊髄反射レス」ばかりである。わたしは、精神分析論を知らなかった大学生時代から、フェミニストに傾向的に見られるこの症状を不快に思っていた。「女はバカだ」という男のセリフに感情論で短絡して「バカじゃない」と反論するようなもので、そういう態度こそが「女はバカだ」と言われる所以じゃないか、わたしから見ればお前たちはバカだ、男の言葉は正しい、と内心思っていた。いや、もちろんバカは男にも大勢いるので、そもそもの「女はバカだ」という言葉が感情論で短絡された(たとえば女上司にバカにされたとか)故のものだったならば別にいいのだ。わたしはハイウェイにおいて高速で車が衝突する事故も一つの芸術として見ることができるから。現代のドラマや小説におけるラブストーリーはほとんどこれだ。
ハイウェイをぶっ飛ばすのは、傾向的に女性的主体が多い。わたしがラカン論における「ハイウェイ」という比喩が示す実体を具体的に示していると思えるのが、『自閉症の謎を解き明かす』で自閉症のそれと対比的に健常者の仮想症例として紹介されているルーシー症例だ。自閉症者がなかなか乗り入れることのできないハイウェイなるものを非常にわかりやすくかつ精密に描けている。ルーシーという名前でわかる通り女性である。このブログならこの記事のコメントにおける翔子症例がそれに当たるだろう。ここで言う「バカ」とは正常という精神疾患の、本質的権力者の一症状なのだ。2ちゃん風に言うなら「リア充」である。ハイウェイを乗りこなせない「バカ」じゃないたとえば自閉症者たちが本質的被権力者となる。流行り病たる自己愛型ひきこもり(社会的ひきこもり)ではない本来のひきこもりたるスキゾイド型ひきこもりたちである。
ファルスという概念が示す実体を認知すれば、いかにそれに反論するフェミニストたちが「バカ」だか理解できる。感情論で短絡して反論している症状こそがファルスを原因としたものなのだ。彼女たちは自分がうんこを漏らしながらうんこを漏らしている人間を否定しているようなものである。彼女たちがすべきことは、自分がうんこを漏らしている実体であるのを見つめることである。自分の奥底に最初からあるファルスを再発見するべきなのだ。笙野頼子の「俺」なる金毘羅のように。
また、これはできればでいいが、自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが、再発見ではなく、必死に手に入れようとしているのが、ファルスという概念が示す実体であることも理解すべきである。(わたしがスキゾフレニックなBPDと診断している)二階堂奥歯が記した『八本脚の蝶』におけるファルスについてのテクストのように。
ファルスなる概念が示す実体とは、自閉症研究で言うSAMや中枢性統合なる機能である。自閉症者の奥底にそれは元々ない。あっても故障している。だから彼らはそれを模した何かを事後的に作ったりする。「擬似的なSAM」なる概念を主張する山岸氏のように。
一方わたしは、ファルスに不具合がある故に苦痛を伴っている自閉症者や統合失調症者やスキゾイドたちの主観世界を、ファルスが正常に機能している正常人に味わわせるために、彼らのファルスを破壊しようとしている。正常なるものを、人なるものを殺そうとしているのである。正常人を殺そうとしているのである。
巷の「バカ」フェミニストたちのファルス批判と同一視してもらいたくない。想像しただけで鳥肌が立つ。
彼女らこそがわたしが殺すべき相手である。ファロセントリストなのである。何の障害もなく感情論で短絡化して認知・行為できるのがその証拠なのである。
ファルスは男根を意味している。言うなればファルスとは男性性なるものの本質でもある。ファルスという言葉にはこの意味が付随する。誤解を怖れず短絡化して言うならば、男性は女性より傾向的にたやすくファルスを再発見しやすい生物なのだ。従って、もしファルスという言葉を用いないならば、この意味が付随しない別の言葉で換言したならば、正常人含めた女たちのファルスを手に入れることの困難さが説明しづらくなる。仮にファルスという言葉を言葉狩りして消滅させたとしよう。それは正常人女性たちの「個」の問題に付随する多大な労苦を説明する一つの道具の消滅を意味する。もちろん代わりの道具があればよい話であるが。
ファロセントリストたる正常人女性がファルス批判をするのは、自分の首を絞めるようなことなのである。わたし視点つまらないコントにしか見えない。
わたしはファルスという概念が示す実体を認知しているので、別の言葉で換言できる。たとえばこの記事で説明しているようにバロン=コーエン論における「SAM」やスターン論における「間主観的自己感」などと。別にそれ使ってもいいんだよ。お前たちの「個」の問題に纏わる労苦が説明できなくなるだけなんだから。
「バカ」にはわかりにくいことかもしれないけどね。
ああそうそう断っておくけれど感情論がだめだって話じゃねえからな。事実自閉症者にも統合失調症者にもスキゾイドにも感情はある。正常人たちに嬲られ続けてるから鈍磨するだけで。
ファルスで加工された感情なのかどうかが問題なのだ。お前たちの感情はファルスで加工されたものだから、「快/不快」という二元論に基づいて処理され、事物を短絡化してしまうのだ。
このことは冒頭のまんこちゃんのブログコメントでちらっと書いた。こっちから見ればむしろ感情論の方が近道である。ハイウェイでも一般道でもない獣道への。獣性への。ケガレへの。物自体の世界への。現実界への。
しかしファロセントリストたるお前らのファルスは強固だから、(獣道に辿り着くには)一般道を迂回した方が早い、となるだけだ。お前らが罹患している正常という精神疾患のせいで辿り着けないだけだ。一般道とハイウェイをぐるぐる回るだけだ。永遠に。
だから、パトスを排除した学問的な、ハイウェイより複雑な一般道を走っていたとしても、獣道に辿り着けるというわけではないのだ。むしろ(獣道に踏み入れるために)一般道を走っている正常人に足りないのが感情論である。ファルスに加工されていない生の感情。獣の感情。ケガレとしての粘着性・浸透性。
ジャーゴンで言うなら欲動(死の欲動あるいは部分欲動)に親近しているのがわたしにとっての感情だから、それを「感情」と呼んでいるだけだ。
まあ要するに転移の話だな。わたしの考えにおける転移には、アニメキャラに感情移入するようなことも含まれるが、正常人のそれは象徴界・想像界によって加工を受けた、「快/不快」二元論によって統御された感情の流動である。そうではない、たとえばウタ・フリスが指摘する「自閉症者にもある共感」、幼稚で稚拙な共感、原始的な共感も含められる。自閉症はファルスに不具合がある故の症状なのだから、その感情の流動における加工度合いは非常に少ないだろう。獣の感情に限りなく親近しているだろう。これらをシニフィアンによって示差するのは困難だ。そもそもが流動的なものだから。
ああ、「バカ」に説明するのってしんどいわ。
ああなんか追記ばっかしてるけど、一応言っとく。
ファルスの生成機制は鏡像段階である。鏡像段階はシーソーとも言うべきものである。つまり、鏡像たる相手を殺さないとファルスは生成しないのである。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。
獣は鏡に映る姿を自分だと認知できない。敵だと思って威嚇する。鏡に映る姿という敵を、現実では殺せない敵を殺して初めてファルスは生成するのである。
ファルスに不具合のある者即ち未去勢者は、むしろ鏡像たる相手に、自分に似ていると自分で思う相手に、自分と似ていると言ってくる相手に、自分に似せて人間を作ったという神に、「お前はわたしじゃない」と、「お前は違う」と言い続けなくてはならないのだ。ルイトモを何度も何人も殺していくしかないのだ。
ファルスを手に入れるために。
不具合のあるファルスは、そうやってでしか機能しないのだ。
ヒスイ
その時気づいた
探していたのは、あなたじゃない
あ、今気づいたけど同アルバム収録の『お人形畑』も鏡像段階がうまく成立していない歌に聞こえるな。ぱっと見(聞き、か)快楽原則ばりばりっぽいメルヘンチックな曲だけど。
すげえな谷山。
この記事から。
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出てくる言葉は全部真理が影響されているみたいで
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ラカニアンならすぐぴんとくるだろう。彼女がここで言っている真理とはS1だ。神経症にとってのS1とはファルスだ。ファルスは全てのS2に隠喩的作用を及ぼす。
一応断っておくが(多分)彼女はラカン論どころか精神分析の「せ」の字も知らないただのブスな女子高生だ。
ラカン論を字面だけ追ってファルスを論じている新聞紙で作った棒でヒーローごっこする奴なんかよりこいつの方がラカン論を理解できていると言える。ファルス主義のラカン論を。
彼女は自分が「女」として登録されている故、真理というファルスを、男根を自分が持っていることを嫌がっている。大文字の他者に忠実すぎる故の、超自我が強すぎる故の症状である。
一方、笙野頼子は「俺」という金毘羅を再発見した。
さまざまな労苦の中でファルスを持った瞬間の一枚の絵が「美」である。だから『金毘羅』は優れて美しい小説たりえる。この記事から。
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「女の人の「個」の問題」こそが、現代では「美」の本質に肉薄しているからだろうが。
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女がファルスを持つのにもっとも一般的な方法は子供を持つことだ。子供がファルスとなる。子供を持たない、持てない女性は、子供じゃないファルスを持とうとする。それはとても困難なことである。出産も苦痛である。女がファルスを持つことはとても困難で苦痛なことなのだ。
このまんこちゃんといいツレションババアといい正常人女性に唾を吐いていることが多いが、わたしは彼女らがファルスを持とうとする努力を否定しない。ファルスを持とうとあがいている姿に唾を吐くことはない。
ただし、生後十八ヶ月以内に起きるファルス生成過程、即ち鏡像段階は生物学的男女に共通である。しかし女たちは、「女」と登録されるために元々持っていたファルスを心の奥底にしまわなければならない。自分から見えない心の奥底に真理をしまい込まなければならない。
奥底にしまわれたファルスは彼女らの想像界、象徴界に見えない影響を及ぼす。
自分の奥底にある水晶に無自覚なまま、水晶によって統御された暴力を、水晶を持たない人間に振るうのならば、女だろうが男だろうがわたしは唾を吐く。精神分析というメスで切り刻む。
お前の奥底に眠っているファルスを呼び起こしてやる。
あわよくば、摘出したファルスを破壊してやろうと思っている。
……なんだ、結局普通の精神分析じゃん。分析家のディスクールはS1を生成する。
わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
冒頭のまんこちゃん症例においても、逆精神分析のつもりでやっていた。彼女がファルス(彼女の言う「真理」)を破壊する目的でやっていた。
しかし結果はご覧の通りだ。わたしは彼女がそれまで気づいてなかった「真理」を、心の奥底にしまい込んでいたファルスを気づかせただけだった。再発見の手伝いをしただけだった。
通常の精神分析としては成功と言えるが、逆精神分析としては失敗だった。
逆精神分析の失敗例として記しておく。
まんこちゃんへ。
ファルスを、真理を所有する瞬間の絵が「美」である。お前は「美」の寸前にいる。よかったねー(棒読み)。
いってらっしゃい。
さようなら。
怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど寒さに痛み呼ぶ片耳は
されどわたしの裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
追記。
巷のションベンタレフェミニストどもは、ラカン論のファルス主義を批判する。わたしもファルスを破壊しようとしている。しかしほとんどのフェミニストはファルスという概念が示す実体を理解できていない。字面だけで批判している。2ちゃんで言う「脊髄反射レス」ばかりである。わたしは、精神分析論を知らなかった大学生時代から、フェミニストに傾向的に見られるこの症状を不快に思っていた。「女はバカだ」という男のセリフに感情論で短絡して「バカじゃない」と反論するようなもので、そういう態度こそが「女はバカだ」と言われる所以じゃないか、わたしから見ればお前たちはバカだ、男の言葉は正しい、と内心思っていた。いや、もちろんバカは男にも大勢いるので、そもそもの「女はバカだ」という言葉が感情論で短絡された(たとえば女上司にバカにされたとか)故のものだったならば別にいいのだ。わたしはハイウェイにおいて高速で車が衝突する事故も一つの芸術として見ることができるから。現代のドラマや小説におけるラブストーリーはほとんどこれだ。
ハイウェイをぶっ飛ばすのは、傾向的に女性的主体が多い。わたしがラカン論における「ハイウェイ」という比喩が示す実体を具体的に示していると思えるのが、『自閉症の謎を解き明かす』で自閉症のそれと対比的に健常者の仮想症例として紹介されているルーシー症例だ。自閉症者がなかなか乗り入れることのできないハイウェイなるものを非常にわかりやすくかつ精密に描けている。ルーシーという名前でわかる通り女性である。このブログならこの記事のコメントにおける翔子症例がそれに当たるだろう。ここで言う「バカ」とは正常という精神疾患の、本質的権力者の一症状なのだ。2ちゃん風に言うなら「リア充」である。ハイウェイを乗りこなせない「バカ」じゃないたとえば自閉症者たちが本質的被権力者となる。流行り病たる自己愛型ひきこもり(社会的ひきこもり)ではない本来のひきこもりたるスキゾイド型ひきこもりたちである。
ファルスという概念が示す実体を認知すれば、いかにそれに反論するフェミニストたちが「バカ」だか理解できる。感情論で短絡して反論している症状こそがファルスを原因としたものなのだ。彼女たちは自分がうんこを漏らしながらうんこを漏らしている人間を否定しているようなものである。彼女たちがすべきことは、自分がうんこを漏らしている実体であるのを見つめることである。自分の奥底に最初からあるファルスを再発見するべきなのだ。笙野頼子の「俺」なる金毘羅のように。
また、これはできればでいいが、自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが、再発見ではなく、必死に手に入れようとしているのが、ファルスという概念が示す実体であることも理解すべきである。(わたしがスキゾフレニックなBPDと診断している)二階堂奥歯が記した『八本脚の蝶』におけるファルスについてのテクストのように。
ファルスなる概念が示す実体とは、自閉症研究で言うSAMや中枢性統合なる機能である。自閉症者の奥底にそれは元々ない。あっても故障している。だから彼らはそれを模した何かを事後的に作ったりする。「擬似的なSAM」なる概念を主張する山岸氏のように。
一方わたしは、ファルスに不具合がある故に苦痛を伴っている自閉症者や統合失調症者やスキゾイドたちの主観世界を、ファルスが正常に機能している正常人に味わわせるために、彼らのファルスを破壊しようとしている。正常なるものを、人なるものを殺そうとしているのである。正常人を殺そうとしているのである。
巷の「バカ」フェミニストたちのファルス批判と同一視してもらいたくない。想像しただけで鳥肌が立つ。
彼女らこそがわたしが殺すべき相手である。ファロセントリストなのである。何の障害もなく感情論で短絡化して認知・行為できるのがその証拠なのである。
ファルスは男根を意味している。言うなればファルスとは男性性なるものの本質でもある。ファルスという言葉にはこの意味が付随する。誤解を怖れず短絡化して言うならば、男性は女性より傾向的にたやすくファルスを再発見しやすい生物なのだ。従って、もしファルスという言葉を用いないならば、この意味が付随しない別の言葉で換言したならば、正常人含めた女たちのファルスを手に入れることの困難さが説明しづらくなる。仮にファルスという言葉を言葉狩りして消滅させたとしよう。それは正常人女性たちの「個」の問題に付随する多大な労苦を説明する一つの道具の消滅を意味する。もちろん代わりの道具があればよい話であるが。
ファロセントリストたる正常人女性がファルス批判をするのは、自分の首を絞めるようなことなのである。わたし視点つまらないコントにしか見えない。
わたしはファルスという概念が示す実体を認知しているので、別の言葉で換言できる。たとえばこの記事で説明しているようにバロン=コーエン論における「SAM」やスターン論における「間主観的自己感」などと。別にそれ使ってもいいんだよ。お前たちの「個」の問題に纏わる労苦が説明できなくなるだけなんだから。
「バカ」にはわかりにくいことかもしれないけどね。
ああそうそう断っておくけれど感情論がだめだって話じゃねえからな。事実自閉症者にも統合失調症者にもスキゾイドにも感情はある。正常人たちに嬲られ続けてるから鈍磨するだけで。
ファルスで加工された感情なのかどうかが問題なのだ。お前たちの感情はファルスで加工されたものだから、「快/不快」という二元論に基づいて処理され、事物を短絡化してしまうのだ。
このことは冒頭のまんこちゃんのブログコメントでちらっと書いた。こっちから見ればむしろ感情論の方が近道である。ハイウェイでも一般道でもない獣道への。獣性への。ケガレへの。物自体の世界への。現実界への。
しかしファロセントリストたるお前らのファルスは強固だから、(獣道に辿り着くには)一般道を迂回した方が早い、となるだけだ。お前らが罹患している正常という精神疾患のせいで辿り着けないだけだ。一般道とハイウェイをぐるぐる回るだけだ。永遠に。
だから、パトスを排除した学問的な、ハイウェイより複雑な一般道を走っていたとしても、獣道に辿り着けるというわけではないのだ。むしろ(獣道に踏み入れるために)一般道を走っている正常人に足りないのが感情論である。ファルスに加工されていない生の感情。獣の感情。ケガレとしての粘着性・浸透性。
ジャーゴンで言うなら欲動(死の欲動あるいは部分欲動)に親近しているのがわたしにとっての感情だから、それを「感情」と呼んでいるだけだ。
まあ要するに転移の話だな。わたしの考えにおける転移には、アニメキャラに感情移入するようなことも含まれるが、正常人のそれは象徴界・想像界によって加工を受けた、「快/不快」二元論によって統御された感情の流動である。そうではない、たとえばウタ・フリスが指摘する「自閉症者にもある共感」、幼稚で稚拙な共感、原始的な共感も含められる。自閉症はファルスに不具合がある故の症状なのだから、その感情の流動における加工度合いは非常に少ないだろう。獣の感情に限りなく親近しているだろう。これらをシニフィアンによって示差するのは困難だ。そもそもが流動的なものだから。
ああ、「バカ」に説明するのってしんどいわ。
ああなんか追記ばっかしてるけど、一応言っとく。
ファルスの生成機制は鏡像段階である。鏡像段階はシーソーとも言うべきものである。つまり、鏡像たる相手を殺さないとファルスは生成しないのである。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。
獣は鏡に映る姿を自分だと認知できない。敵だと思って威嚇する。鏡に映る姿という敵を、現実では殺せない敵を殺して初めてファルスは生成するのである。
ファルスに不具合のある者即ち未去勢者は、むしろ鏡像たる相手に、自分に似ていると自分で思う相手に、自分と似ていると言ってくる相手に、自分に似せて人間を作ったという神に、「お前はわたしじゃない」と、「お前は違う」と言い続けなくてはならないのだ。ルイトモを何度も何人も殺していくしかないのだ。
ファルスを手に入れるために。
不具合のあるファルスは、そうやってでしか機能しないのだ。
ヒスイ
その時気づいた
探していたのは、あなたじゃない
あ、今気づいたけど同アルバム収録の『お人形畑』も鏡像段階がうまく成立していない歌に聞こえるな。ぱっと見(聞き、か)快楽原則ばりばりっぽいメルヘンチックな曲だけど。
すげえな谷山。