嘘とは優しさであり優しさとは嘘である。
2009/01/21/Wed
「仲間と騒いできたんだ」と
嘘はまだ優しさなのね
「カメラを忘れていって何も撮れなかった」って嘘
男はいつも嘘がうまいね
女よりも子供よりも嘘がうまいね
女はいつも嘘が好きだね
昨日よりも明日よりも 嘘が好きだね
わたしも嘘が好きだ。全部というわけではないが、中島みゆきや谷山浩子が歌うような嘘が好きだ。だから演劇にはまったのかもしれない。嘘は優しさだから。優しさが嘘だから。
嘘と優しさは等号関係にある。「嘘が好き」とは「優しさが好き」ということになる。
さあってこっから理屈モード。
何故優しさと嘘は等号関係にあるのか。
優しさとは快楽的なものである。いわば優しさとは快楽の一つの表象である。快楽とはフロイト論とクリステヴァ論を参照すればわかるように、アブジェという自他未分化的な(個人的にこの言葉はしっくりこないので自他混淆的と述べたい)おぞましくも魅惑的なケガレを棄却することであり、それが正常な成人主体に普遍的に存在する快楽原則である。正常な成人主体における快楽原則という概念で示されている実体とは、「快/不快」や「美/ケガレ」という二項対立に固定観念的に固縛されていることである。それがないのが無垢な存在たる生まれたばかり赤ん坊の主観世界である。
一方、正常な成人主体には赤ん坊にはない事後的な「快/不快」「美/ケガレ」という区別が前提として無意識に存在する。しかし元々の赤ん坊の主観世界においては快楽原則は存在せず、事後的に(鏡像段階以降)生成するのだから、正常な成人主体にとって快楽とはアブジェ即ち不快即ちケガレを棄却することだとなる。先述のごとく優しさとは快楽的なものだから、優しさもアブジェ即ち不快即ちケガレを棄却する機制である、となる。正常な成人主体にとっては。
この理屈を冒頭の『夏土産』の歌詞に当てはめてみよう。この男は、事実を言うことで容易に予測できる泥沼劇を避けるために嘘をついた。泥沼劇という不快即ちケガレを避けるために嘘をついた。不快を棄却することが快楽であり、その一表象が優しさなるものだから、「嘘はまだ優しさなのね」となる。
とはいえ、不快の棄却即ち快楽の一表象としての優しさではない優しさの可能性も考えねばならない。不快の表象としての優しさ、不快と連鎖する優しさなるものがあってもおかしくない。中島はそれに似たようなことついても言及している。たとえば『友情』という作品。
背中に隠したナイフの意味を
問わないことが友情だろうか
この歌における友情を優しさと解釈するならば、「優しさと嘘は等号関係にある」という命題は偽となる。
しかし彼女は「友情だろうか」と疑問を呈している。従って、そういったケースが存在する可能性も否定しないまま、この記事においては「『友情』という作品で述べられた友情はこの記事における優しさではない」という仮定を採用して論を進める。
ここで注記しておく。元々の赤ん坊には正常な成人主体による「快/不快」「美/ケガレ」という二項区分は存在しない。もちろん正常な成人主体によるそれではないなんらかの二項区分はあるのかもしれない。が、少なくとも成人主体による二項区分とは同一ではない。たとえばへその緒を切れば赤ん坊は泣くが、この泣くという表象は正常な成人主体が認知する不快であるとは限らない。クリステヴァは泣くという表象と排便という表象を繋げて論じている。要するに表面上「快/不快」と思えるような二項区分の存在が赤ん坊にあるとしても、正常な成人主体のそれと同一視してはならない、ということだ。
赤ん坊のあるかないかわからない「快/不快」的な二項区分は、あったとしても、成人主体のそれとは同一ではない。従って赤ん坊にとって成人主体における快楽原則は嘘である、ということになる。快楽原則という機制そのものが嘘であるため、快楽原則という機制即ち不快の棄却即ち快楽も嘘だとなる。従って「優しさは嘘である」となる。
余談となるが、生まれたばかりの赤ん坊の主観世界と成人主体の主観世界が全く別物であり、赤ん坊が成人主体の主観世界に参入する過程を論じたのがラカンの鏡像段階論である。それは赤ん坊にとっては世界の大激動なのである。だからそれがトラウマとなり、鏡像段階(生後十八ヶ月ぐらいまで)以降も、主体はこの主観世界の大激動というトラウマに常に既に束縛されている。
この根源的なトラウマを根拠に、正常人たちは定型化された幻想を共有する。鏡像段階により現実界を棄却し想像界や象徴界を主に生きていく。生の欲動とは、非現実界という意味での幻想を生きようとする欲動である。
従って、悪意がある嘘即ち不快を生じせしめる嘘にしても、嘘という幻想を与えようとしている点では、生の欲動にとっては優しさなのである。
快楽原則が壊れている故の不快と、快楽原則により二元化された不快は別物だ。この記事なら獣道を歩いている故の不快と、ハイウェイを走っている不快。現実界的な不快と、幻想的な不快。嘘によって生じせしめた不快は幻想的な不快である。快楽原則を根拠にした不快である。従ってそれは快楽原則が形成されていない赤ん坊にとって優しさなのである。社会なる非現実界という意味での嘘の総体を、子供が不快に感じていようが刷り込ませるのが教育である。
さて、以上に述べた論はわたし自身ネタだと思われても仕方のないものだと思っている。しかしこの論は、自閉症者に多く見られるある傾向を一部体系化するための道具となりえる。それを述べてみよう。
まず前提となる理屈を簡単に説明しておく。バロン=コーエン論によれば、自閉症者にはSAMが、あるいは中枢性統合が欠損しており、故に正常なSAMあるいは中枢性統合を根拠にして展開する「心の理論」が自閉症者はうまく理解できない、となっている。わたしの自論においてはこの中枢性統合という機能が示す実体はラカン論におけるファルスあるいはスターン論における間主観的自己感という概念が示す実体と非常に親近しているもの、同じものだと考えている。この論拠の一つとして、簡単にここでは、それらの形成期が生後十八ヶ月を中心に大体同期している事実を挙げておく。
自閉症者たちが大抵恐る恐るという態度で自分の主観世界を述べている文章には、ある一つの共通点が見られる。それは、正常人たちが快楽的なものとして周囲の人間とやり取りする「優しさ」や「愛情」や「気遣い」なるものを理解できず、時には嫌悪さえしている点だ。嫌悪というよりわたしには怯えているようにすら見える。
このブログにおいてはこの記事のきつねミク氏のコメントや、狸穴猫氏のブログのこの記事がそれに当たるだろう。またわたしがある程度の期間観察している薬師氏のブログにもそのような記事があったが削除してしまったようだ。自閉症当事者であり自閉症研究に造詣の深い山岸氏ならばこの記事が参考になろうか。
これらの症例が意味することは、彼らは正常な成人主体が「快く美しいもの」として捉えている「優しさ」や「愛情」や「気遣い」なるものを理解できず不快に思っている、あるいはそれに対し警戒していることが理解できる。
ここでもう一つの自閉症の症状のある特徴を机上に乗せる。それは「自閉症者は嘘をつけない」というものだ。この言葉は大雑把で正確ではない。自閉症者たちだって嘘をつく。実際に何人かのアスペルガー症候群者と会話したところ、全員自分は嘘をついたことがあると言った。しかしそれは、ある反社会的行動を咎められるのを怖れて「僕はやってない」と言ったりするものだ。つまり、そのほとんどが先述で述べた通りの不快を避けるための嘘であり、正常人と比して幼稚で稚拙な嘘なのだ。わたしは「自閉症者は嘘をつけない」という言葉より、「自閉症は自開症である」という言葉の方が精密に実体を示していると考える。
自閉症者にだって「快/不快」を分別する快楽原則的なものは存在する。しかし正常人と比してそれは壊れている。これらの嘘と先の『夏土産』の男がついた嘘と比較すれば明らかである。『夏土産』の男の嘘は恋人たる主人公女性のためかつ自分のためについた嘘である。一方、自閉症者の嘘は自分に降りかかるであろう不快を避けるためについた嘘である。自分と恋人双方に生じるであろう不快を双方のために避ける目的の嘘が前者の嘘であり、自分という身体的存在を叱られて殴られたりすることから防衛するための嘘が後者の嘘である。自閉症者の嘘は、少なくとも自分以外の他人の快楽を保持するための、他人にも発生するであろう不快を避けるための嘘ではない。以上のことから、自閉症者の嘘は優しさなどではないことがわかる。それは自分の身を守るための、正常人の世界では身勝手と呼ばれても仕方のない嘘なのだ。
従ってこう要約することができる。嘘と優しさが等号関係になるのは正常な成人主体に限った話であり、自閉症者においてはその等号は成り立たない、ということだ。「嘘も方便」とは正常人にのみ適用される言葉なのである。
正常な成人主体における「快/不快」を分別する機能即ち快楽原則の原因となるファルスが壊れているのが自閉症なのだから、自閉症者たちの快楽原則は壊れているとなる。赤ん坊にも別物ではるがそのようなものがあると仮定するならば、自閉症のそれこそが「赤ん坊にあるかもしれない快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分」に親近していると予測できる。たとえば山岸氏は「自分の気持ちが好きか嫌いかよくわからない」などと述べている。
従って、自閉症者の「「快/不快」的な二項区分」は赤ん坊のそれに親近しているものであり、「正常な成人主体における快楽原則たる「快/不快」という二項区分」とは別物である、と考えるのが現実的であり理屈として整合する。
であるならば、赤ん坊や自閉症者の主観世界から見て、「正常な成人主体における快楽原則たる「快/不快」という二項区分」は嘘だ、となる。事後的に刷り込まれた洗脳のごとき嘘である。
また、正常な成人主体における優しさと等号関係にある嘘は、赤ん坊や自閉症者にはうまく理解できない嘘である、となる。得体の知れない何かに洗脳されたブラックボックスのようなプログラムである。
赤ん坊や自閉症者にとって快楽原則そのものがブラックボックスのごとき嘘なのだ。
ここで最初の論にもどろう。
正常な成人主体における快楽原則によって区分された快楽の一表出が優しさである。しかしそれは、自閉症者にとって嫌悪や恐怖を惹起させるものである。そしてこのことは、自閉症者がつく赤ん坊的な幼稚で稚拙な嘘と正常な成人主体がつく嘘が別物であることと関連している。そもそもの正常な成人主体の快楽原則における「快/不快」という二項区分が、赤ん坊の主観世界と親近している自閉症者にとって既に嘘なのである。
仮に、快楽原則を根拠とする正常な成人主体と、快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分を根拠にした赤ん坊や自閉症者が論争したとしよう。どちらの根拠が正しくてどちらの根拠が嘘なのか。どちらが真でどちらが嘘なのか、と。
赤ん坊や自閉症者の言い分の方が正しいのである。
何故なら、人は誰しも赤ん坊の時代をすごしてきた。従って、赤ん坊の主観世界における快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分こそが普遍的であり、真なるものだと言える。正常な成人主体における快楽原則による「快/不快」こそが嘘となる。
不快を棄却する正常な成人主体による「優しさ」や「愛情」や「気遣い」と、不快を棄却する正常な成人主体による嘘は、等しく快楽原則を根拠にした機制を根拠にしている。
一方、生まれたばかりの赤ん坊や、ファルスに不具合のある自閉症者にとって、正常な成人主体における「優しさ」や「愛情」や「気遣い」がうまく理解できない。それ故嫌悪し恐怖してしまう。同様に正常な成人主体がつく嘘がうまく理解できない。同様に嫌悪し恐怖してしまう。
以上のことから、自閉症者の「自閉症は嘘をつくのが不得手な自開症である」という症状と「自閉症者は正常人の優しさや愛情や気遣いをうまく理解できない」という症状が密接に関係していることが理解できるだろう。
要するに、正常な成人主体における「優しさ」や「愛情」や「気遣い」と彼らのつく嘘は、赤ん坊や自閉症者にとって等号関係にある。正常人にとっての「優しさ」や「愛情」や「気遣い」は赤ん坊や自閉症者にとって常に既に嘘なのだ。
それを説明するために、フロイト-ラカン論とクリステヴァ論を組み合わせた理屈体系を用い、不快を棄却するのが快楽であり快楽原則である、という要件を展開して学術的に論じたわけである。
平たく言うなら、「自閉症は嘘をつくのが不得手な自開症である」という症状と、自閉症者たちが正常人の「優しさ」や「愛情」や「気遣い」を嫌悪し怖れる症状との密接な関連は、精神分析の理屈で説明可能である、という話だ。
快楽原則が正常に機能している正常人における優しさと嘘は等号関係にあるのが実体である。赤ん坊にとっては優しさと嘘は同じものなのである。何故なら赤ん坊にとって快楽原則そのものが嘘なのだから。赤ん坊の主観世界に親近する主観世界を生きる自閉症者もその実体こそを見ている故、正常人の「優しさ」や「愛情」や「気遣い」を嘘だと気づいてしまう。見抜いてしまう。
快楽原則が機能している限り優しさは常に嘘であってしまう。そういった精神分析的な事実を自閉症者は見ている故、そういう主観世界である故、自閉症者たちは正常人の優しさや嘘を嫌悪する。怖れる。
一方の正常人たちはそれを否認する。「違う、わたしの優しさは嘘なんかじゃない」と。
確かに『夏土産』の男のような意識的についている嘘ではないだろう。しかし快楽原則を構築するファルスはお前の無意識下にある。お前の無意識が嘘をついているのだ。自閉症者たちはそのことを指摘し嫌悪し恐怖しているのであり、意識的に嘘をついているかどうかの話をしているのではない。
ファルスを持っている限り人は嘘つきとなってしまう。即ち、正常であることとは無意識的に嘘をつけることなのだ。
正常人たちは、嘘と優しさは別物だ、と思ってしまう。思い込みたがる。だから赤ん坊や自閉症者などという未去勢者たちに嘘ではない優しさを押しつけたがる。レイプしながら「お前も気持ちいいんだろ?」などと吐き捨てる男と何も変わらない。
嘘と優しさが等号関係にあるという実体を見ることができる未去勢者たちは、常に正常人たちにレイプされ続けている。
そういう話、かな。
追記。
逆精神分析は失敗してこそ意義がある。まさにフロイトが女性患者に言った「あんたその夢の中の男にレイプされたがってんだよ」である。意義なるものの破壊が逆精神分析の究極地点だからだ。従って、治療なる意義さえもこの概念は最初から放棄している。
つ、強がりなんかじゃないんだからねっ。
「正しい認知なんて、何やっても結局仮説にすぎないんだよね」
(じゃあなんのためにやってるの?)
「何かあるはずっていう希望的観測みたいな」
(要するに楽観論?)
「楽観じゃないなあ。なんつーか、自分が趣味で描いている絵があって、それが一万円で売れたとするじゃん、趣味だからお金いりませんとか言わないだろ?」
(金かよw)
「お前いらないって言うか?」
(言うわけないやん)
「だからそう言った」
……一応断っとくけどフィクションでっせ。
違うよなあ。
歩き方を忘れてただ坂道をころころ転がってったら一万円札が落ちてた。交番に届けようにもころころ転がるだけだからできない。だからもらっちゃえ。
もっとちげえ。
嘘はまだ優しさなのね
「カメラを忘れていって何も撮れなかった」って嘘
男はいつも嘘がうまいね
女よりも子供よりも嘘がうまいね
女はいつも嘘が好きだね
昨日よりも明日よりも 嘘が好きだね
わたしも嘘が好きだ。全部というわけではないが、中島みゆきや谷山浩子が歌うような嘘が好きだ。だから演劇にはまったのかもしれない。嘘は優しさだから。優しさが嘘だから。
嘘と優しさは等号関係にある。「嘘が好き」とは「優しさが好き」ということになる。
さあってこっから理屈モード。
何故優しさと嘘は等号関係にあるのか。
優しさとは快楽的なものである。いわば優しさとは快楽の一つの表象である。快楽とはフロイト論とクリステヴァ論を参照すればわかるように、アブジェという自他未分化的な(個人的にこの言葉はしっくりこないので自他混淆的と述べたい)おぞましくも魅惑的なケガレを棄却することであり、それが正常な成人主体に普遍的に存在する快楽原則である。正常な成人主体における快楽原則という概念で示されている実体とは、「快/不快」や「美/ケガレ」という二項対立に固定観念的に固縛されていることである。それがないのが無垢な存在たる生まれたばかり赤ん坊の主観世界である。
一方、正常な成人主体には赤ん坊にはない事後的な「快/不快」「美/ケガレ」という区別が前提として無意識に存在する。しかし元々の赤ん坊の主観世界においては快楽原則は存在せず、事後的に(鏡像段階以降)生成するのだから、正常な成人主体にとって快楽とはアブジェ即ち不快即ちケガレを棄却することだとなる。先述のごとく優しさとは快楽的なものだから、優しさもアブジェ即ち不快即ちケガレを棄却する機制である、となる。正常な成人主体にとっては。
この理屈を冒頭の『夏土産』の歌詞に当てはめてみよう。この男は、事実を言うことで容易に予測できる泥沼劇を避けるために嘘をついた。泥沼劇という不快即ちケガレを避けるために嘘をついた。不快を棄却することが快楽であり、その一表象が優しさなるものだから、「嘘はまだ優しさなのね」となる。
とはいえ、不快の棄却即ち快楽の一表象としての優しさではない優しさの可能性も考えねばならない。不快の表象としての優しさ、不快と連鎖する優しさなるものがあってもおかしくない。中島はそれに似たようなことついても言及している。たとえば『友情』という作品。
背中に隠したナイフの意味を
問わないことが友情だろうか
この歌における友情を優しさと解釈するならば、「優しさと嘘は等号関係にある」という命題は偽となる。
しかし彼女は「友情だろうか」と疑問を呈している。従って、そういったケースが存在する可能性も否定しないまま、この記事においては「『友情』という作品で述べられた友情はこの記事における優しさではない」という仮定を採用して論を進める。
ここで注記しておく。元々の赤ん坊には正常な成人主体による「快/不快」「美/ケガレ」という二項区分は存在しない。もちろん正常な成人主体によるそれではないなんらかの二項区分はあるのかもしれない。が、少なくとも成人主体による二項区分とは同一ではない。たとえばへその緒を切れば赤ん坊は泣くが、この泣くという表象は正常な成人主体が認知する不快であるとは限らない。クリステヴァは泣くという表象と排便という表象を繋げて論じている。要するに表面上「快/不快」と思えるような二項区分の存在が赤ん坊にあるとしても、正常な成人主体のそれと同一視してはならない、ということだ。
赤ん坊のあるかないかわからない「快/不快」的な二項区分は、あったとしても、成人主体のそれとは同一ではない。従って赤ん坊にとって成人主体における快楽原則は嘘である、ということになる。快楽原則という機制そのものが嘘であるため、快楽原則という機制即ち不快の棄却即ち快楽も嘘だとなる。従って「優しさは嘘である」となる。
余談となるが、生まれたばかりの赤ん坊の主観世界と成人主体の主観世界が全く別物であり、赤ん坊が成人主体の主観世界に参入する過程を論じたのがラカンの鏡像段階論である。それは赤ん坊にとっては世界の大激動なのである。だからそれがトラウマとなり、鏡像段階(生後十八ヶ月ぐらいまで)以降も、主体はこの主観世界の大激動というトラウマに常に既に束縛されている。
この根源的なトラウマを根拠に、正常人たちは定型化された幻想を共有する。鏡像段階により現実界を棄却し想像界や象徴界を主に生きていく。生の欲動とは、非現実界という意味での幻想を生きようとする欲動である。
従って、悪意がある嘘即ち不快を生じせしめる嘘にしても、嘘という幻想を与えようとしている点では、生の欲動にとっては優しさなのである。
快楽原則が壊れている故の不快と、快楽原則により二元化された不快は別物だ。この記事なら獣道を歩いている故の不快と、ハイウェイを走っている不快。現実界的な不快と、幻想的な不快。嘘によって生じせしめた不快は幻想的な不快である。快楽原則を根拠にした不快である。従ってそれは快楽原則が形成されていない赤ん坊にとって優しさなのである。社会なる非現実界という意味での嘘の総体を、子供が不快に感じていようが刷り込ませるのが教育である。
さて、以上に述べた論はわたし自身ネタだと思われても仕方のないものだと思っている。しかしこの論は、自閉症者に多く見られるある傾向を一部体系化するための道具となりえる。それを述べてみよう。
まず前提となる理屈を簡単に説明しておく。バロン=コーエン論によれば、自閉症者にはSAMが、あるいは中枢性統合が欠損しており、故に正常なSAMあるいは中枢性統合を根拠にして展開する「心の理論」が自閉症者はうまく理解できない、となっている。わたしの自論においてはこの中枢性統合という機能が示す実体はラカン論におけるファルスあるいはスターン論における間主観的自己感という概念が示す実体と非常に親近しているもの、同じものだと考えている。この論拠の一つとして、簡単にここでは、それらの形成期が生後十八ヶ月を中心に大体同期している事実を挙げておく。
自閉症者たちが大抵恐る恐るという態度で自分の主観世界を述べている文章には、ある一つの共通点が見られる。それは、正常人たちが快楽的なものとして周囲の人間とやり取りする「優しさ」や「愛情」や「気遣い」なるものを理解できず、時には嫌悪さえしている点だ。嫌悪というよりわたしには怯えているようにすら見える。
このブログにおいてはこの記事のきつねミク氏のコメントや、狸穴猫氏のブログのこの記事がそれに当たるだろう。またわたしがある程度の期間観察している薬師氏のブログにもそのような記事があったが削除してしまったようだ。自閉症当事者であり自閉症研究に造詣の深い山岸氏ならばこの記事が参考になろうか。
これらの症例が意味することは、彼らは正常な成人主体が「快く美しいもの」として捉えている「優しさ」や「愛情」や「気遣い」なるものを理解できず不快に思っている、あるいはそれに対し警戒していることが理解できる。
ここでもう一つの自閉症の症状のある特徴を机上に乗せる。それは「自閉症者は嘘をつけない」というものだ。この言葉は大雑把で正確ではない。自閉症者たちだって嘘をつく。実際に何人かのアスペルガー症候群者と会話したところ、全員自分は嘘をついたことがあると言った。しかしそれは、ある反社会的行動を咎められるのを怖れて「僕はやってない」と言ったりするものだ。つまり、そのほとんどが先述で述べた通りの不快を避けるための嘘であり、正常人と比して幼稚で稚拙な嘘なのだ。わたしは「自閉症者は嘘をつけない」という言葉より、「自閉症は自開症である」という言葉の方が精密に実体を示していると考える。
自閉症者にだって「快/不快」を分別する快楽原則的なものは存在する。しかし正常人と比してそれは壊れている。これらの嘘と先の『夏土産』の男がついた嘘と比較すれば明らかである。『夏土産』の男の嘘は恋人たる主人公女性のためかつ自分のためについた嘘である。一方、自閉症者の嘘は自分に降りかかるであろう不快を避けるためについた嘘である。自分と恋人双方に生じるであろう不快を双方のために避ける目的の嘘が前者の嘘であり、自分という身体的存在を叱られて殴られたりすることから防衛するための嘘が後者の嘘である。自閉症者の嘘は、少なくとも自分以外の他人の快楽を保持するための、他人にも発生するであろう不快を避けるための嘘ではない。以上のことから、自閉症者の嘘は優しさなどではないことがわかる。それは自分の身を守るための、正常人の世界では身勝手と呼ばれても仕方のない嘘なのだ。
従ってこう要約することができる。嘘と優しさが等号関係になるのは正常な成人主体に限った話であり、自閉症者においてはその等号は成り立たない、ということだ。「嘘も方便」とは正常人にのみ適用される言葉なのである。
正常な成人主体における「快/不快」を分別する機能即ち快楽原則の原因となるファルスが壊れているのが自閉症なのだから、自閉症者たちの快楽原則は壊れているとなる。赤ん坊にも別物ではるがそのようなものがあると仮定するならば、自閉症のそれこそが「赤ん坊にあるかもしれない快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分」に親近していると予測できる。たとえば山岸氏は「自分の気持ちが好きか嫌いかよくわからない」などと述べている。
従って、自閉症者の「「快/不快」的な二項区分」は赤ん坊のそれに親近しているものであり、「正常な成人主体における快楽原則たる「快/不快」という二項区分」とは別物である、と考えるのが現実的であり理屈として整合する。
であるならば、赤ん坊や自閉症者の主観世界から見て、「正常な成人主体における快楽原則たる「快/不快」という二項区分」は嘘だ、となる。事後的に刷り込まれた洗脳のごとき嘘である。
また、正常な成人主体における優しさと等号関係にある嘘は、赤ん坊や自閉症者にはうまく理解できない嘘である、となる。得体の知れない何かに洗脳されたブラックボックスのようなプログラムである。
赤ん坊や自閉症者にとって快楽原則そのものがブラックボックスのごとき嘘なのだ。
ここで最初の論にもどろう。
正常な成人主体における快楽原則によって区分された快楽の一表出が優しさである。しかしそれは、自閉症者にとって嫌悪や恐怖を惹起させるものである。そしてこのことは、自閉症者がつく赤ん坊的な幼稚で稚拙な嘘と正常な成人主体がつく嘘が別物であることと関連している。そもそもの正常な成人主体の快楽原則における「快/不快」という二項区分が、赤ん坊の主観世界と親近している自閉症者にとって既に嘘なのである。
仮に、快楽原則を根拠とする正常な成人主体と、快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分を根拠にした赤ん坊や自閉症者が論争したとしよう。どちらの根拠が正しくてどちらの根拠が嘘なのか。どちらが真でどちらが嘘なのか、と。
赤ん坊や自閉症者の言い分の方が正しいのである。
何故なら、人は誰しも赤ん坊の時代をすごしてきた。従って、赤ん坊の主観世界における快楽原則とは別物の「快/不快」的な二項区分こそが普遍的であり、真なるものだと言える。正常な成人主体における快楽原則による「快/不快」こそが嘘となる。
不快を棄却する正常な成人主体による「優しさ」や「愛情」や「気遣い」と、不快を棄却する正常な成人主体による嘘は、等しく快楽原則を根拠にした機制を根拠にしている。
一方、生まれたばかりの赤ん坊や、ファルスに不具合のある自閉症者にとって、正常な成人主体における「優しさ」や「愛情」や「気遣い」がうまく理解できない。それ故嫌悪し恐怖してしまう。同様に正常な成人主体がつく嘘がうまく理解できない。同様に嫌悪し恐怖してしまう。
以上のことから、自閉症者の「自閉症は嘘をつくのが不得手な自開症である」という症状と「自閉症者は正常人の優しさや愛情や気遣いをうまく理解できない」という症状が密接に関係していることが理解できるだろう。
要するに、正常な成人主体における「優しさ」や「愛情」や「気遣い」と彼らのつく嘘は、赤ん坊や自閉症者にとって等号関係にある。正常人にとっての「優しさ」や「愛情」や「気遣い」は赤ん坊や自閉症者にとって常に既に嘘なのだ。
それを説明するために、フロイト-ラカン論とクリステヴァ論を組み合わせた理屈体系を用い、不快を棄却するのが快楽であり快楽原則である、という要件を展開して学術的に論じたわけである。
平たく言うなら、「自閉症は嘘をつくのが不得手な自開症である」という症状と、自閉症者たちが正常人の「優しさ」や「愛情」や「気遣い」を嫌悪し怖れる症状との密接な関連は、精神分析の理屈で説明可能である、という話だ。
快楽原則が正常に機能している正常人における優しさと嘘は等号関係にあるのが実体である。赤ん坊にとっては優しさと嘘は同じものなのである。何故なら赤ん坊にとって快楽原則そのものが嘘なのだから。赤ん坊の主観世界に親近する主観世界を生きる自閉症者もその実体こそを見ている故、正常人の「優しさ」や「愛情」や「気遣い」を嘘だと気づいてしまう。見抜いてしまう。
快楽原則が機能している限り優しさは常に嘘であってしまう。そういった精神分析的な事実を自閉症者は見ている故、そういう主観世界である故、自閉症者たちは正常人の優しさや嘘を嫌悪する。怖れる。
一方の正常人たちはそれを否認する。「違う、わたしの優しさは嘘なんかじゃない」と。
確かに『夏土産』の男のような意識的についている嘘ではないだろう。しかし快楽原則を構築するファルスはお前の無意識下にある。お前の無意識が嘘をついているのだ。自閉症者たちはそのことを指摘し嫌悪し恐怖しているのであり、意識的に嘘をついているかどうかの話をしているのではない。
ファルスを持っている限り人は嘘つきとなってしまう。即ち、正常であることとは無意識的に嘘をつけることなのだ。
正常人たちは、嘘と優しさは別物だ、と思ってしまう。思い込みたがる。だから赤ん坊や自閉症者などという未去勢者たちに嘘ではない優しさを押しつけたがる。レイプしながら「お前も気持ちいいんだろ?」などと吐き捨てる男と何も変わらない。
嘘と優しさが等号関係にあるという実体を見ることができる未去勢者たちは、常に正常人たちにレイプされ続けている。
そういう話、かな。
追記。
逆精神分析は失敗してこそ意義がある。まさにフロイトが女性患者に言った「あんたその夢の中の男にレイプされたがってんだよ」である。意義なるものの破壊が逆精神分析の究極地点だからだ。従って、治療なる意義さえもこの概念は最初から放棄している。
つ、強がりなんかじゃないんだからねっ。
「正しい認知なんて、何やっても結局仮説にすぎないんだよね」
(じゃあなんのためにやってるの?)
「何かあるはずっていう希望的観測みたいな」
(要するに楽観論?)
「楽観じゃないなあ。なんつーか、自分が趣味で描いている絵があって、それが一万円で売れたとするじゃん、趣味だからお金いりませんとか言わないだろ?」
(金かよw)
「お前いらないって言うか?」
(言うわけないやん)
「だからそう言った」
……一応断っとくけどフィクションでっせ。
違うよなあ。
歩き方を忘れてただ坂道をころころ転がってったら一万円札が落ちてた。交番に届けようにもころころ転がるだけだからできない。だからもらっちゃえ。
もっとちげえ。