「自閉症スペクトラム」における迂回と要約――『そっくり人形展覧会』に乗せて。
2009/01/22/Thu
そっくりだけどちがう ちがうけどヘイキ
なぜなぜヘイキなの?
そっくりだから
こっそりととりかえてにっこり笑えばわからない
わたしでも あなたでも 誰でもかまわない
「エエ?」
そっくりだけどちがう そっくりだけどちょっとね
どこが どこが ちがうの?
当ててごらんよ
さていつもの。この記事のアリスさんのコメントへの横槍。
横槍すみません。
>このあたりを混同している保護者にどう分けて説明していけばいいのか、
「自閉症スペクトラムは元々定型発達との連続性を想定した概念ではない」以上の説明はないと思うのですが。
では、何故そういう概念が定型発達との連続性を含意した概念になったのか、というところですよね。
概念即ち言葉は生き物ですから、意味は変遷するに決まっています。正常人には快楽原則が機能していますから、自分の都合のいいように、よく言えば経済的に、意味を加工することができます。無意識の内に。
そう言った意味では「保護者が都合のよい解釈をしている」とも言えるでしょう。大多数の正常人がそうしてしまうことは精神分析論で説明できる、という話です(精神分析は自閉症を語れませんが正常人(神経症者)の心を語るにはこれ以上の道具はありません)。
とはいえそれだけでは物足りません。わたしが。なのでもうちょっと。
自閉症研究においてはいろいろな学派があるのですが、村瀬学氏はこんなことを言っています。
「自閉症の原因という謎は、自分たち(定型発達者たち)自身が持つ謎と共通している」
と(すみません要約です)。
さてこの問題をわたしなりの理屈で説明してみましょう。わたしがそうしたいから。
自閉症の原因は、バロン=コーエン論を採用するならば、SAMの形成不全である、ということになります。よって正常なSAMから展開した「心の理論」が自閉症者たちは理解できない、と。SAMは生後二年くらいまでに形成される、とされています。
であるならば、SAMの形成以前はどうなのだ? という話になります。SAMの形成以前に自閉症と非自閉症の差異が見つかれば、バロン=コーエン論は多分採用されなくなるでしょう。
実は、それがないのです。ないから未だに彼の論が語られているわけです。
具体的に言いましょう。生後一年以内の乳幼児に見られる自閉症「的」症候と、その後自閉症になるかどうかは関係ない、と臨床によって明らかにされています。自閉症「的」症候が見られた乳幼児が健常者として育ったり、むしろ逆に自閉症「的」症候が見られなかった乳幼児が自閉症になったりすることがわかっています。要するに、生後一年以内の自閉症「的」症候による自閉症診断は全く当てにならない、というわけです。
また、自閉症は器質因あるいは内因と言われていますが、脳科学においても、自閉症と非自閉症の差異はいまだ確定されていません(さまざまな説はありますがね)。
であるならば、SAMの形成以前の乳幼児の主観世界は、後に自閉症者になる人も定型発達者となる人も同じだ、となるわけです。この理屈を覆す要素がないのでそうなります。
とはいえ、繰り返しになりますが、もし将来SAMの形成以前の自閉症と非自閉症の差異が見つかれば、この理屈は採用されなくなります。脳科学が発達し、出産直後のスキャンなどで自閉症かどうかわかる日が来るかもしれません。
要するに、現代の学問においては、生後一年以内の自閉症診断が不可能だから、村瀬氏のような言葉が成立するわけです。
ちなみにそれが何故「謎」となるかは精神分析派のわたしから言えばまさにフロイトの「子供時代はそのものとしてはもうない」でありラカンの「現実界とは到達不可能である」だよなあ、という独り言。
正常人が失った「そのものとしてもうない子供時代」や正常人にとって「到達不可能な現実界」に親近した主観世界を生きている人たちの一種が自閉症なわけです。
どうでもいいことついでに。成長過程においてSAMの形成不全が起こるのが自閉症で、SAMが正常に形成されたのが定型発達者。これらはどうしようもできない断絶です。しかしながら、SAMが正常に形成されて育ってると思ってたらある日突然なんらかの原因でSAMなる機能が不全を起こすこともありましょう。それがたとえば統合失調症だとわたしは考えています。
……それはともかく。
学者たちが数多くの臨床に基づきしこしこと積み上げてきたこれらの理屈を、短絡化してしまったのが、現代の自閉症スペクトラムにおける「自閉症と定型発達者は連続している」という言説でしょう。この「正常という精神疾患」に傾向的に見られる事物の短絡化も精神分析で説明できますがしません。
この言葉はニセ科学と言ってもよいかもしれません。学者たちが積み上げた理屈を無視しているという点では。しかし、先述のように学者たちが構築してきた理屈(これを「迂回」と言ってもよいでしょう)と、「自閉症と定型発達は連続している」という短文は矛盾しません。「そのものとしてもうない子供時代」や「到達不可能な現実界」を、村瀬氏の言葉なら「謎」を通じて繋がっています。ただし、忘れてならないのは、あくまでその繋がっている部分は、主体の主観世界にとって「そのものとしてもうない」「到達不可能な」「謎」であり、断絶なのです。
とはいえ、理屈的に矛盾しないため、ニセ科学と言いきれないのが難しいところだよなあ、と思います。
わたしはこの問題について、先に述べたような「迂回」がポイントになると考えます。精神分析は「わかりやすさの危険」を説いていますが、まさにこのケースが相当するように思えます。
学者が事実(臨床)を根拠に積み上げてきた理屈を、学者でない多くの人間たちに「わかりやすく」説明する際、いろいろな言説が省略されます。学者も学者でない人も省略しています。わたしもこのブログに限らずさまざまな省略を行っています。省略即ち短絡化即ち要約は、コミュニケーションの一つの道具として、経済的に有効なのは事実です。この経済性は言語学でも議論されていることです。しかし、同時にそれが孕む危険性も認識すべきではないか。そんな苦言を呈したくなる問題だと感じます。
経済性とは効率化であり、効率化とは不要なものを削除することである。言語学における経済性により棄却されていく意味たち。クリステヴァのアブジェクシオン論がここでもにゅるっと顔を出してきます。
転載以上(ちょろっと手直ししてます)。
「ハイ音楽スタート!」
そっくりだけどちがう そっくりだけどちょっとね
どこが どこが ちがうの?
よく見てごらん
――「ちょっとね」という迂回。「よく見」ないと「わからない」迂回。
目が二つ 鼻一つ 口も一つで耳二つ
丸顔で面長でちょっぴりたまご型
「ホウ」
そっくりだけどちがう ちがうけどヘイキ
なぜなぜヘイキなの?
そっくりだから
――「そっくりだから」要約する。
こっそりととりかえてにっこり笑えばわからない
わたしでも あなたでも 誰でもかまわない
「エエ?」
――「にっこり笑えば」快楽原則。「にっこり笑えば」自閉症と定型発達は連続している。
間違えたその人が 死ぬまできみのもの
間違えたその人が 死ぬまできみのもの
「この人! この人が本物です。見つけました。この人です!」
「はあ? どの人ですって?」
「だからぁ、この人……、あら?」
「ニャー」
『ア○ス』でもこんなオチあったなそういや。
つかこの歌も鏡像段階の不全を歌っているとしか(ry。オチが不全臭い。一方『ア○ス』の「トモダチ」ははしごから落ちて死んじゃった。鏡像の相手を殺しているんだから、主人公のファルスは生成しているんだろうな。少なくともこの一瞬に限っては。
とか書いてるけど芸術の手法論として鏡像の相手を殺さなかったらいいとかって話じゃねえからな。いわゆるビルドゥングスロマンなどは主体化即ち去勢の承認即ちファルスの生成やら再発見やらをテーマにしているわけで、鏡像の相手(たとえば本当に理解し合えるとそいつが思い込んでいる恋人)を殺さなきゃ(殺し方はいろいろあるけどね。たとえば別の女に乗り換えてそいつのことを忘れるとか)成立しない。谷山ならこの歌で白雪姫を殺そうとしている。もし白雪姫を殺すことができていれば、その瞬間に限って魔女は普通の人間になっているだろう。
一方、笙野頼子は『水晶内制度』で鏡像(とわたしが解釈する相手)を人形化して燃やした。鏡像を殺した(人形化)ことを殺した(燃やした)とわたしは解釈する。だからすげい、この小説は。まさに「真の女」。ってことを言いたいための学術的デコレーションだ。
そういやまんこちゃんって『ア○ス』みたいだ。「安っぽい賛同」とか。
後のコメントで、癇に障ったのは「インテリのくせに(「のび太のくせに」と同義)」ってトラウマのせいだとか書いたけど、なんていうか、アリスさんのオブラートにくるんだような物言いが、このブログの初期のような、びくびくしながら生きていた時(今もそうっちゃあそうだけど)のそれっぽくてぞわぞわしたのか、と思ったようにも思った。以前も同じようなこと言わなかったっけ。
いや、それを直せとか言ってるんじゃなく、こういうのも鏡像って奴だろうか、と思った。
できもしない「オブラートにくるんだ物言い」を強制され続けて、わたしは歪んでしまった、のか。
歪んだから普通の人に見えないものが見えるようになった、のか。
『河のほとりに』が好きだった。レコードだったんだよな、まだ。
それにしてもわたし、こんな口の聞き方いつの間に覚えたんでしょうね
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」だなんて
ほんとに耳障りのいい言葉
申し分のない活字の言葉
わたしはどうしてもこの紙の上から自由になれません
もうめんどくさい 黙ってしまえ
世界一くだらない人間になって、立派なものをいちいちやっかんで、そして
「つまらない女だ」と活字の文字が わたしの顔も見ずにバカにする
薄っぺらな本の中で 誰もがよくてお前だけダメと
世界中のいい人が口を揃えて言うには
「つまらない女よりも心動かす歌の方が大切なんだ
お前などいらぬ」
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」が中身のない言葉、か。耳障りよくないみたいだけど。
いい歌もいい本もいい優しさも
まとめてわたしのこの部屋の中じゃ嫌われ役 敵役
いい気味だ
いい人なんかみんな死んじまえ
眠剤変えたら雑音がざーってなってうまく眠れなかったんだけど慣れてくるとむしろ調子いいな。精神的な。機嫌がいいっていうか、感情がメロディ化するっていうか。昔の曲聞いてぼろぼろ泣ける。歌で泣けるのはわたし直観でその瞬間は正常人になっているってことだからな。だからアリスさんのオブラートに強く反応したのか?
『スクール・ガール』でも泣けるんだからなあ(笑)。
これはカラオケスナックで聞いて好きになった。泣ける。
追記。
この記事。わたしは、考え方が全く違う二派、二人の人間でも、辛抱強く、膨大な時間をかけて話し合えば、言葉が通じなくても膨大な労力をかけてコミュニケーションを取れば、理解し合えるかもしれない、と思っている。
だけど、それにはあまりにも時間が足りない。人生という時間は短い。
他人事の視点で、陪審員のような視点で言わせてもらえば、一人の一生という時間すら全く短いと思えるほどの膨大な時間と労力をかけて討議すれば、この断絶は、連接部分は、見つかるかもしれない。
わたしの主観世界という異世界とあなたの主観世界という異世界の断絶が、連接部分が、見つかるかもしれない。そう思わないと生きていけない。
なのに正常人は、この膨大な時間や労力を無視して、さまざまな省略や短絡化や要約を施し、結果や結論だけを求める。ある程度の時間や労力ですら、何かしらの結果や結論を期待してでしか費やせない。わたしはそんな奴らに噛みついてしまう。ぶっ殺してやりたくなる。
それは、断絶たる連接部分ではなく、単なる隠蔽だ。会社役員や政治家が不祥事を隠蔽することと同じだ。
お前ら正常人は、超自我という無意識は、姑息な会社役員や政治家となんら変わらない。
シニフィアンスは、要約された結果や結論などになんかない。迂回にこそ、膨大な時間や労力の中にこそある。
シニフィアンスは既にある意味などにはない。意味のないところにしか意味の生成はない。既に意味がある場所でシニフィアンスを求めるなら、既にある意味を破壊するしかない。隠蔽を破壊しないと現実は見えてこない。
なのにお前らは、何かと言えばすぐ結果や結論というシニフィアンスの代用品を求めたがる。人形としてのわたしだけしか見てくれない。
人形としてのわたしなど、結果や結論など、シニフィアンなど、わたしにとっては他人事だ。あってもなくてもいい。だからわたしは正常人は本気で死んでいい存在だと思っている。生きててもいいが、わたしの見えないところで生きてくれ。
わたしは意味がサーカスをしている世界を生きている。意味は破壊と生成を繰り返している。
そんな世界から見ると、正常人など死人も同然だ。
だからわたしは本気で正常人は死ぬべき存在だと思っている。
なぜなぜヘイキなの?
そっくりだから
こっそりととりかえてにっこり笑えばわからない
わたしでも あなたでも 誰でもかまわない
「エエ?」
そっくりだけどちがう そっくりだけどちょっとね
どこが どこが ちがうの?
当ててごらんよ
さていつもの。この記事のアリスさんのコメントへの横槍。
横槍すみません。
>このあたりを混同している保護者にどう分けて説明していけばいいのか、
「自閉症スペクトラムは元々定型発達との連続性を想定した概念ではない」以上の説明はないと思うのですが。
では、何故そういう概念が定型発達との連続性を含意した概念になったのか、というところですよね。
概念即ち言葉は生き物ですから、意味は変遷するに決まっています。正常人には快楽原則が機能していますから、自分の都合のいいように、よく言えば経済的に、意味を加工することができます。無意識の内に。
そう言った意味では「保護者が都合のよい解釈をしている」とも言えるでしょう。大多数の正常人がそうしてしまうことは精神分析論で説明できる、という話です(精神分析は自閉症を語れませんが正常人(神経症者)の心を語るにはこれ以上の道具はありません)。
とはいえそれだけでは物足りません。わたしが。なのでもうちょっと。
自閉症研究においてはいろいろな学派があるのですが、村瀬学氏はこんなことを言っています。
「自閉症の原因という謎は、自分たち(定型発達者たち)自身が持つ謎と共通している」
と(すみません要約です)。
さてこの問題をわたしなりの理屈で説明してみましょう。わたしがそうしたいから。
自閉症の原因は、バロン=コーエン論を採用するならば、SAMの形成不全である、ということになります。よって正常なSAMから展開した「心の理論」が自閉症者たちは理解できない、と。SAMは生後二年くらいまでに形成される、とされています。
であるならば、SAMの形成以前はどうなのだ? という話になります。SAMの形成以前に自閉症と非自閉症の差異が見つかれば、バロン=コーエン論は多分採用されなくなるでしょう。
実は、それがないのです。ないから未だに彼の論が語られているわけです。
具体的に言いましょう。生後一年以内の乳幼児に見られる自閉症「的」症候と、その後自閉症になるかどうかは関係ない、と臨床によって明らかにされています。自閉症「的」症候が見られた乳幼児が健常者として育ったり、むしろ逆に自閉症「的」症候が見られなかった乳幼児が自閉症になったりすることがわかっています。要するに、生後一年以内の自閉症「的」症候による自閉症診断は全く当てにならない、というわけです。
また、自閉症は器質因あるいは内因と言われていますが、脳科学においても、自閉症と非自閉症の差異はいまだ確定されていません(さまざまな説はありますがね)。
であるならば、SAMの形成以前の乳幼児の主観世界は、後に自閉症者になる人も定型発達者となる人も同じだ、となるわけです。この理屈を覆す要素がないのでそうなります。
とはいえ、繰り返しになりますが、もし将来SAMの形成以前の自閉症と非自閉症の差異が見つかれば、この理屈は採用されなくなります。脳科学が発達し、出産直後のスキャンなどで自閉症かどうかわかる日が来るかもしれません。
要するに、現代の学問においては、生後一年以内の自閉症診断が不可能だから、村瀬氏のような言葉が成立するわけです。
ちなみにそれが何故「謎」となるかは精神分析派のわたしから言えばまさにフロイトの「子供時代はそのものとしてはもうない」でありラカンの「現実界とは到達不可能である」だよなあ、という独り言。
正常人が失った「そのものとしてもうない子供時代」や正常人にとって「到達不可能な現実界」に親近した主観世界を生きている人たちの一種が自閉症なわけです。
どうでもいいことついでに。成長過程においてSAMの形成不全が起こるのが自閉症で、SAMが正常に形成されたのが定型発達者。これらはどうしようもできない断絶です。しかしながら、SAMが正常に形成されて育ってると思ってたらある日突然なんらかの原因でSAMなる機能が不全を起こすこともありましょう。それがたとえば統合失調症だとわたしは考えています。
……それはともかく。
学者たちが数多くの臨床に基づきしこしこと積み上げてきたこれらの理屈を、短絡化してしまったのが、現代の自閉症スペクトラムにおける「自閉症と定型発達者は連続している」という言説でしょう。この「正常という精神疾患」に傾向的に見られる事物の短絡化も精神分析で説明できますがしません。
この言葉はニセ科学と言ってもよいかもしれません。学者たちが積み上げた理屈を無視しているという点では。しかし、先述のように学者たちが構築してきた理屈(これを「迂回」と言ってもよいでしょう)と、「自閉症と定型発達は連続している」という短文は矛盾しません。「そのものとしてもうない子供時代」や「到達不可能な現実界」を、村瀬氏の言葉なら「謎」を通じて繋がっています。ただし、忘れてならないのは、あくまでその繋がっている部分は、主体の主観世界にとって「そのものとしてもうない」「到達不可能な」「謎」であり、断絶なのです。
とはいえ、理屈的に矛盾しないため、ニセ科学と言いきれないのが難しいところだよなあ、と思います。
わたしはこの問題について、先に述べたような「迂回」がポイントになると考えます。精神分析は「わかりやすさの危険」を説いていますが、まさにこのケースが相当するように思えます。
学者が事実(臨床)を根拠に積み上げてきた理屈を、学者でない多くの人間たちに「わかりやすく」説明する際、いろいろな言説が省略されます。学者も学者でない人も省略しています。わたしもこのブログに限らずさまざまな省略を行っています。省略即ち短絡化即ち要約は、コミュニケーションの一つの道具として、経済的に有効なのは事実です。この経済性は言語学でも議論されていることです。しかし、同時にそれが孕む危険性も認識すべきではないか。そんな苦言を呈したくなる問題だと感じます。
経済性とは効率化であり、効率化とは不要なものを削除することである。言語学における経済性により棄却されていく意味たち。クリステヴァのアブジェクシオン論がここでもにゅるっと顔を出してきます。
転載以上(ちょろっと手直ししてます)。
「ハイ音楽スタート!」
そっくりだけどちがう そっくりだけどちょっとね
どこが どこが ちがうの?
よく見てごらん
――「ちょっとね」という迂回。「よく見」ないと「わからない」迂回。
目が二つ 鼻一つ 口も一つで耳二つ
丸顔で面長でちょっぴりたまご型
「ホウ」
そっくりだけどちがう ちがうけどヘイキ
なぜなぜヘイキなの?
そっくりだから
――「そっくりだから」要約する。
こっそりととりかえてにっこり笑えばわからない
わたしでも あなたでも 誰でもかまわない
「エエ?」
――「にっこり笑えば」快楽原則。「にっこり笑えば」自閉症と定型発達は連続している。
間違えたその人が 死ぬまできみのもの
間違えたその人が 死ぬまできみのもの
「この人! この人が本物です。見つけました。この人です!」
「はあ? どの人ですって?」
「だからぁ、この人……、あら?」
「ニャー」
『ア○ス』でもこんなオチあったなそういや。
つかこの歌も鏡像段階の不全を歌っているとしか(ry。オチが不全臭い。一方『ア○ス』の「トモダチ」ははしごから落ちて死んじゃった。鏡像の相手を殺しているんだから、主人公のファルスは生成しているんだろうな。少なくともこの一瞬に限っては。
とか書いてるけど芸術の手法論として鏡像の相手を殺さなかったらいいとかって話じゃねえからな。いわゆるビルドゥングスロマンなどは主体化即ち去勢の承認即ちファルスの生成やら再発見やらをテーマにしているわけで、鏡像の相手(たとえば本当に理解し合えるとそいつが思い込んでいる恋人)を殺さなきゃ(殺し方はいろいろあるけどね。たとえば別の女に乗り換えてそいつのことを忘れるとか)成立しない。谷山ならこの歌で白雪姫を殺そうとしている。もし白雪姫を殺すことができていれば、その瞬間に限って魔女は普通の人間になっているだろう。
一方、笙野頼子は『水晶内制度』で鏡像(とわたしが解釈する相手)を人形化して燃やした。鏡像を殺した(人形化)ことを殺した(燃やした)とわたしは解釈する。だからすげい、この小説は。まさに「真の女」。ってことを言いたいための学術的デコレーションだ。
そういやまんこちゃんって『ア○ス』みたいだ。「安っぽい賛同」とか。
後のコメントで、癇に障ったのは「インテリのくせに(「のび太のくせに」と同義)」ってトラウマのせいだとか書いたけど、なんていうか、アリスさんのオブラートにくるんだような物言いが、このブログの初期のような、びくびくしながら生きていた時(今もそうっちゃあそうだけど)のそれっぽくてぞわぞわしたのか、と思ったようにも思った。以前も同じようなこと言わなかったっけ。
いや、それを直せとか言ってるんじゃなく、こういうのも鏡像って奴だろうか、と思った。
できもしない「オブラートにくるんだ物言い」を強制され続けて、わたしは歪んでしまった、のか。
歪んだから普通の人に見えないものが見えるようになった、のか。
『河のほとりに』が好きだった。レコードだったんだよな、まだ。
それにしてもわたし、こんな口の聞き方いつの間に覚えたんでしょうね
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」だなんて
ほんとに耳障りのいい言葉
申し分のない活字の言葉
わたしはどうしてもこの紙の上から自由になれません
もうめんどくさい 黙ってしまえ
世界一くだらない人間になって、立派なものをいちいちやっかんで、そして
「つまらない女だ」と活字の文字が わたしの顔も見ずにバカにする
薄っぺらな本の中で 誰もがよくてお前だけダメと
世界中のいい人が口を揃えて言うには
「つまらない女よりも心動かす歌の方が大切なんだ
お前などいらぬ」
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」が中身のない言葉、か。耳障りよくないみたいだけど。
いい歌もいい本もいい優しさも
まとめてわたしのこの部屋の中じゃ嫌われ役 敵役
いい気味だ
いい人なんかみんな死んじまえ
眠剤変えたら雑音がざーってなってうまく眠れなかったんだけど慣れてくるとむしろ調子いいな。精神的な。機嫌がいいっていうか、感情がメロディ化するっていうか。昔の曲聞いてぼろぼろ泣ける。歌で泣けるのはわたし直観でその瞬間は正常人になっているってことだからな。だからアリスさんのオブラートに強く反応したのか?
『スクール・ガール』でも泣けるんだからなあ(笑)。
これはカラオケスナックで聞いて好きになった。泣ける。
追記。
この記事。わたしは、考え方が全く違う二派、二人の人間でも、辛抱強く、膨大な時間をかけて話し合えば、言葉が通じなくても膨大な労力をかけてコミュニケーションを取れば、理解し合えるかもしれない、と思っている。
だけど、それにはあまりにも時間が足りない。人生という時間は短い。
他人事の視点で、陪審員のような視点で言わせてもらえば、一人の一生という時間すら全く短いと思えるほどの膨大な時間と労力をかけて討議すれば、この断絶は、連接部分は、見つかるかもしれない。
わたしの主観世界という異世界とあなたの主観世界という異世界の断絶が、連接部分が、見つかるかもしれない。そう思わないと生きていけない。
なのに正常人は、この膨大な時間や労力を無視して、さまざまな省略や短絡化や要約を施し、結果や結論だけを求める。ある程度の時間や労力ですら、何かしらの結果や結論を期待してでしか費やせない。わたしはそんな奴らに噛みついてしまう。ぶっ殺してやりたくなる。
それは、断絶たる連接部分ではなく、単なる隠蔽だ。会社役員や政治家が不祥事を隠蔽することと同じだ。
お前ら正常人は、超自我という無意識は、姑息な会社役員や政治家となんら変わらない。
シニフィアンスは、要約された結果や結論などになんかない。迂回にこそ、膨大な時間や労力の中にこそある。
シニフィアンスは既にある意味などにはない。意味のないところにしか意味の生成はない。既に意味がある場所でシニフィアンスを求めるなら、既にある意味を破壊するしかない。隠蔽を破壊しないと現実は見えてこない。
なのにお前らは、何かと言えばすぐ結果や結論というシニフィアンスの代用品を求めたがる。人形としてのわたしだけしか見てくれない。
人形としてのわたしなど、結果や結論など、シニフィアンなど、わたしにとっては他人事だ。あってもなくてもいい。だからわたしは正常人は本気で死んでいい存在だと思っている。生きててもいいが、わたしの見えないところで生きてくれ。
わたしは意味がサーカスをしている世界を生きている。意味は破壊と生成を繰り返している。
そんな世界から見ると、正常人など死人も同然だ。
だからわたしは本気で正常人は死ぬべき存在だと思っている。