『疑惑』――「悪女は存在しない」
2009/01/26/Mon
『疑惑』を見た。
沢口靖子の演技は褒めてあげるべき熱演だと思うけど悪女になれてなかったよなあ、これは沢口靖子という物体としての問題だから演技力って問題じゃないから仕方ないか、だから褒めてあげるべきなんだよなあ、みたいな。この人は物体として悪女を演じられないと思うんだよな。『科捜研の女』はそこそこ好きだ。そうそうこういう子いたって感じ。小学校の班長みたいな感覚でチームをまとめるインテリ女。理系の人は結構リアリティ感じるんじゃない? 捜査内容とかじゃなく沢口演じる役みたいな奴いるわーって。わたしじゃないよ。わたしは班長になったら真っ先に班を混乱させる人だから。大学の友人は口を揃えて言ってたな。「あんたが就職するなんて思わなかった」とか。研究者タイプなんだろうな、地が。
室井滋はさすがすぎるわ。この人舞台出身じゃねえんだよな。大体わたしがすげえって思う役者って舞台出身だけどこの人は別だ。こう、役の深いとこまで掘り下げなきゃいけないのが舞台役者だけど、映像は掘り下げすぎるとだめなんだよな。舞台役者が慣れないテレビに出た時のひどさつったら。『振り返れば奴がいる』の西村さんとか(善ちゃんは一般ウケしないことは最初からわかっていた。っていうか腹筋善之助も佐々木蔵之介と比べたらウケてないのは「善」っていう字がだめなのかとかすら思うぐらいだ)、タイトル忘れたけど主役で坂本龍馬やった時の上川隆也とか、なんかの時代劇で勝海舟役やった野田秀樹とか。野田は『ゴーストバスターズ』の吹き替えでも大ゴケしてるよな。東大で芝居やってたら野田の話ばっかになるからめんどくさい。あんま興味ないのに。わたしが演劇にはまったきっかけは東京グランギニョル(実際には見てないけど)とかケラとかなんだよな。サブカルミーハーみたいな。そういう人いなかったわ、駒場小劇場には(蓮實がぶっ潰して新しいの建てたらしいが行ったことない)。むしろ明大とかの(ry。東大はやっぱ頭でっかちばっか。如月小春とか戯曲読んだだけだけど何がいいのかすらわからない。まあ戯曲なんざ上演してなんぼだからとやかく言わないでおこう。
室井の話だっつに。関西系の芸人魂のある舞台役者(生瀬さんとか)はともかく、舞台役者がテレビで演技する時のポイントって抑制だと思うのだよな。舞台演劇好きじゃない人って大概「演技が大仰でキモイ」みたいなこと言うじゃん。うん、大仰。だがそれがいい、って反論したくなるけど大仰さへの嫌悪感も理解できるんだよな。要するに、舞台役者がテレビ出る時は舞台ならではの魅力でもある大仰さを抑制しなきゃいけない。かと言って抑制しすぎるとモブになっちゃう。龍馬やった時の上川みたいに。このバランス感覚ってのが室井のすげえところなんだよなあ、って思う。それが再確認できた。狂気っていうと言いすぎだけど、そんな感じで大仰に演技したくなるような役にも関わらず抑えてる。『やっぱり猫が好き』のごとく大仰に演技するとコントになるってちゃんと自覚しつつ、バランスの取れた演技をしている。映像をわかってるなあ、って他人事で思える。
ああ主役忘れてた。古畑任三郎。
あのさー……、そろそろ誰か言ってあげた方がよくね? 大物だから誰も言ってくれないのかもしれないけどさー。
演技の雰囲気を重視しすぎてセリフが聞き取りにくい。
もちろんそんなの役者の初歩の初歩の話なんだけど、初心忘れるべからず、じゃん。
シャ乱Qのつんくにも一瞬だけどそんな時期あったんだよな。雰囲気っていうか「俺の音楽」っていうオリジナル魂かなんか知らないけど、歌詞が何言っているかわからないような歌い方をしてた時期が一瞬あるんだよ。売れ始めたばっかの頃だったから誰か注意したんだろうな。すぐ普通の歌い方に戻った。
田村は古畑もあんま好きじゃなかった。ダウンタウンの浜ちゃん龍馬の方がおもしろかった。テレビは何やってもコントなんだよ。ラカンの言う現実界から見れば日常的な現実がコントなわけだけど、日常的な現実を現実だって言い張る人が正常人であり圧倒的多数なわけで、結局そういう綱引きになるんだよな。だから室井みたいな映像出身の役者の、コントともマジメとも受け取れるバランス感覚溢れる演技にわたしは感心してしまう。
もちろん、テレビであってもコントからの脱出法はいくらでもある。たとえば死体のグロさを忠実に再現した『CSIシリーズ』とか。死体のリアリズムが映像というコントの前提となる要件に勝っている。『BONES』は役者の演技がコント臭い。スナッフ技術はがんばってると思うけど。むしろ部下たちのコントっぷりが好きだ。主役はだめだな。FBIのバカ男はなかなかいい。毛唐は舞台の奴でもあんな感じがする。リアリズム故のファロセントリスムっていうかな。ああごめん大道具だからかもしんない。
要するに三村じゃなくて田村正和はそこそこ大物な故に緊張感っていうのかな、そういうのなくしてんじゃねえの? って思うわけだ。
もちろんキャリアという重みはあるんだよ。彼にも。それで納得してあげてもいいんだけどねえ。彼と直に会話すれば圧倒されるかもしれない。その重みに。だけどわたしは一般の視聴者だ。他の視聴者もほとんどがそうだろう。
社会人時代わたしに目をかけてくれた工場長とか、わたしは「ヤクザみたいな人だ」とか本社人事の人に言ってたもん。怖かった。自分の上司だからってこともあったかもしれないけれど、他の重役はどうでもよかったんだよな。今の語彙で言うならちんちんちっちぇえ奴らだと感じた。だけどその工場長は、直に何度も話したせいか、傷だらけのちんちんに思えた。怖かったんだよ。本当に。彼はわたしがいろいろやらかして辞める直前に社長になった。その会社では最年少での社長だったらしいが、「ああやっぱり」と思ったもんなあ。いろいろリストラしてた。
そういう重みがある人ほど初心を忘れちゃいけないと思うのだよな。
前置きのつもりが長くなってしまった。
原作読んでないからこんなこと言うのもあれだけど、オチがすげえ正常人のパラノイアックさを感じた、っていう話をしたかった。
※ネタバレ注意!
と書いておいた方がいいのだろう。
謎解き部分。途中まではよかった。夫の方が企図した無理心中っていうのは。
だけどな、あれだと沢口演じる悪女、鬼クマがただの中二病だった、ってなっちゃうんだよ。少なくともこのストーリーだと、鬼クマは鏡像段階で正常にファルスが生成していた正常人で、学生時代にレイプされたせいで未去勢方向に親近していただけの神経症者だった、となる。彼女が悪女になったのは心的外傷即ちトラウマが原因だった、と。
これが正常人の正常人による正常人のためのトラウマ物語の基本構造なんだ。
未去勢者は必ず去勢される。必ず正常化される。必ず大人になる。必ず救われる。そういう前提から逃れられていない。
悪女は未去勢的な女性だ。トラウマ故悪女になったのなら、元々去勢はされているけどそれを否認しているだけとなる。
未去勢と去勢の否認は別物だ。
去勢の否認なら治療される。というか運命的に治療されてしまう。元々去勢されていて否認しているだけなのだから、少し抑圧されていたトラウマたる心的事実を掘り返してあげれば普通の人間に戻れてしまう。
未去勢者は、いくら抑圧されていたトラウマを意識化しても、普通の人間になるのは一瞬で、すぐ未去勢的な症状をぶり返す。
ここが違う。ここにわたしは天国の押し売りを感じてしまう。
心中という題材はいいのだ。未去勢者にも通用する外傷たりえる。何故なら去勢とは自他混淆的な生死の境だからだ。自殺や他殺だと自他混淆的という要件が満たされないため、心中の方が去勢という心的外傷に親近する可能性は高くなる。
ともかく、あらすじを説明しておこう。ある港で夫婦が乗っていた車が海に転落した。夫は溺死し妻は助かった。助かった妻は警察に連絡した。
この妻、鬼クマという悪女が保険金目当てで夫を殺害した、とマスコミが騒ぎ立てる。マスコミが「気持ちの資本家」としての権力を振るい、大多数の人間に「鬼クマが犯人だ」という気持ちを刷り込む。
それに田村演じる弁護士が立ち向かう。
対抗する検察側の労力を全く描いていない不満はまあ置いておこう。尺もあるしな。
このドラマは「気持ちの資本家」たるマスコミを敵にして、真実を告発する弁護士、という構図になっている。
ここまでは別にいいのだ。わたしは。どうでもいいってか。
だけど、わたしは悪女とは未去勢者たるべきだと考えている。なのに弁護士が真実を明らかにするにつれ、鬼クマのトラウマが表面化し、鬼クマは改心した、という筋書きになっている。正当な精神分析の構図そのままだ。
ここがわたしの腹が立つところだ。
ではどうすればよかったのか。
田村演じる弁護士が法廷で真実を明らかにしていく。鬼クマのトラウマが表面化されていく。
夫の無理心中であり、鬼クマが夫を殺したのではない、という事実が明らかになっていく。
この時、鬼クマが未去勢者だったならば、事実を高らかに開陳する弁護士に対し、こう言うべきだったのだ。
「違う!」
弁護士はこう言うだろう。
「……もういいんです。私は全てわかっています。あなたは初めて愛することができた夫に殺されそうになった。それを認めてしまうと信じられるものが全てなくなってしまう。だからあなたはこの事件を事故だと、自分は無実だと言い張ってきた。違いますか?」
未去勢者は冷たい口ぶりでこう答えるだろう。
「事実はあなたの言った通りです。だけど、わたしは殺されそうになったのではありません。海へと向かう車の中で、わたしは夫が無理心中を企てていることに気づきました。わたしは混乱しました。でも、わたしはそれでいいと思ったのです。わたしは夫を本当に愛していました。だから心中してもいいと思いました。だけど、やっぱり怖かったのでしょう。死ぬのが。無我夢中でした。自分が何しているかすらよくわかりませんでした。気がつけば地面の上にへたり込んでいました。……でも、でも、夫がわたしを殺そうとしたというのは違います。無理心中なんかじゃありません。わたしは夫と心中してもいいと思ったのです。あなたの言っていることは間違っています」
と。
何故なら、未去勢者ほど去勢されたがるからだ。心中は去勢にもっとも親近する事象である。従って、鬼クマが未去勢者だったならば、去勢済みの主体と同様に死を怖れるのはいいとしても、心中を拒否してはならないのだ。
作中では、鬼クマにとって夫との関係が初めての本当の愛だった、となっている。去勢によって生じるファルスの想像界的側面が原パラノイアたるアガペーである。むしろ、鬼クマは未去勢者であり、自分を弁護する田村に対しこう抗弁することで、夫に対する愛が初めての本当の愛だった、となりえるのである。むしろ、こう抗弁しなければ、鬼クマの夫に対する愛は初めての本当の愛ではなくなるのである。
しかし、作中の鬼クマはそうしなかった。最後には弁護士に頭を下げすらした。従って、沢口演じるこの悪女は未去勢者ではなかった、とわたしは診断する。彼女は学生時代にレイプされたという明確なトラウマを抱えたPTSD者、精神分析的に言うなら典型的ヒステリーだった、と。セックスにトラウマがありながらホステスをしていたことなどまさに「非性器がエロス化し性器が非エロス化している」状態だと言える。そして、田村演じる弁護士はそのトラウマを抉り出す精神分析家だった、と。
結局、鬼クマという女はマスコミが悪女と騒ぎ立てていただけで、実はいい人だった、という小学校の道徳レベルの内容だったのだ。
結局、この作品も「女(ファルスを持っていない者即ち未去勢者)は存在しない」というラカンの言葉通りの内容だったのだ。
……とはいえ、事実が明らかになりかけた途端鬼クマは獄中で自殺を図った。この辺りはむしろ心中を完遂しようとしていたと解釈できる。彼女がわたしの診断通り去勢済みな主体であったとしても、極めて未去勢な主観世界に親近していたと思われる。
だけど、やっぱりラストシーン、「夫の無理心中だった」という弁護士の主張に合意してはならないよなあ、と斜に構えて見てしまいました。まる。沢口の演技は評価すべきものだが、物体として悪女を演じられる人間じゃなかった、という印象も大きく影響しているだろう。未去勢者特有の冷たさというか、気持ちの交流が表面上は可能だったとしても前提的に不可能だと思わせるような、芯からの孤立感が彼女には足りない。たとえば、カナエ症例におけるシャンプー浣腸などといった行為に感じられるような、子供が身勝手な好奇心からおたまじゃくしを解剖してしまうがごとき冷酷さとか。
山下容莉枝辺りにやらせてたらいい味出てたように思う。いや彼女のファンってわけじゃないが今他に適任者が思い浮かばなかっただけ。
……しかしまあ、法廷ドラマって大概精神分析の構図をしているよな。取り上げる事実が客観的事実か心的事実かの違いだけであって。客観的事実と心的事実は相反しない。むしろ親近している。フロイトでさえ勘違いしたくらいである。フロイトはヒステリーの原因はトラウマにあるとし、トラウマ即ち心的外傷とは何かしらの客観的事実によるものとしたが、後に自説を取り下げた。客観的に心的外傷にならないだろうと思えるような事実であっても、主体によっては心的外傷になる場合がある、と。
ただの事実を浮き彫りにさせるだけでは受取手を感動せしめないからか。でも、『CSIシリーズ』なんかは科学的事実を追求するだけで、トラウマ的な要素が関わる場合もあるが、別にそれに囚われていない。
なんていうか、トラウマ物語を卑下するつもりはないが、描き方が正常人の正常人による正常人のためのものになってるのばっかだよなあ、というため息交じりの記事なわけです。
悪女になるなら裸足で夜明けの電車で泣いてから
涙ぽろぽろぽろぽろ流れて枯れてから
涙が枯れて初めて悪女になれる。
泣いて改心できる悪女は本当の悪女ではない。
本当の悪女は、泣いているその瞬間だけ、普通の女になっている。
以下個人的脚色。
「わたしは心中に合意していたのであり、無理心中ではない」という被告人鬼クマの抗弁は、まるでなかったかのように弁護人の主張が認められ、鬼クマはめでたく逆転無罪を勝ち取った。
しばらくして、田村のもとに、形だけの礼を述べに鬼クマが訪れる。無罪を勝ち取ったとはいえ周囲との確執は消えず、夫が経営していた料亭から追い出されたことなどを淡々と語る鬼クマ。奇妙とすら思えるほどのその淡々とした態度に、田村は一抹の不安を覚える。あたかもクライアントに転移してしまった精神分析家のごとく、彼女に探りを入れるような質問をする田村。彼は、彼女がまた自殺を図ろうとしているのではないか、と感じていたのだ。一方、遠回しな質問をのらりくらりとかわす鬼クマ。この時「涙なんか枯れちゃいましたよ」などと言わせてもよかろう。
短い会話が終わり、鬼クマは事務所を去ろうとする。しかし彼女は、ふと振り向き、田村の心を見透かすような視線と、まさに「氷の微笑」を浮かべながらこう言う。
「先生、わたしそんなにバカに見えて?」
――鬼クマが去った後、田村はただじっと自分の足元を見つめていた。
こんなシーンがあった方が、最後の最後のシーン、疎遠になっていた娘からの手紙に安堵する田村、って絵も活きると思わね?
という独りよがりでした。まる。
追記。
イトウさんとこでなんかぎゃーぎゃーやってる。彼の文章を見れば明らかだが、わたしの文章の影響を受けているのがわかる。別にこのこと自体に対しては何も思わない。向こうが勝手にやってることだ。
でも、責任感とかではなく、心がぎすぎすする。
ビッチだった頃の話。わたしと付き合った男たちは、大喧嘩したり怪我したり会社辞めたりと、不幸な目に合うことが多かった。だめんずうぉーかーではなくむしろだめんずメイカーだ。
それとは関係ない話だけど、わたしは周囲の人がよく死んだ。自分では全くそんなこと思ってなかったのだが、母親に「あんたってほんとに葬式づいてるなあ」とか言われて、奇妙なショックを受けた。この言葉を言われた後も、会社で隣の席の先輩が自殺したりして、精神疾患的な魔術めいた妄想に囚われていた時期がある。
なんかそんなことを思い出してぎすぎすした。
追記2。
『幼獣マメシバ』ってどっかで聞いたなと思ったら愛読書の『まんがくらぶオリジナル』で青木のみっちゃんが連載始めてた奴だ。ほーへー(ぐぐった)、メディアミックスって奴か。
みっちゃんは原作ないのが読みたい。
あと『あきこさんとまめお』連載希望。
『ハトのハト子』ページ増やせつってるだろ。「マンガ家なんて使い捨てだ」っつって西原理恵子をこき使ってた竹書房らしく(マンガを真に受けてます)きりきり働かせんかい。
『ベルとふたりで』が赤丸急上昇中。わたし個人の中で。あと「黒金魚」ってペンネームいいなと思った。ペンネームが。
沢口靖子の演技は褒めてあげるべき熱演だと思うけど悪女になれてなかったよなあ、これは沢口靖子という物体としての問題だから演技力って問題じゃないから仕方ないか、だから褒めてあげるべきなんだよなあ、みたいな。この人は物体として悪女を演じられないと思うんだよな。『科捜研の女』はそこそこ好きだ。そうそうこういう子いたって感じ。小学校の班長みたいな感覚でチームをまとめるインテリ女。理系の人は結構リアリティ感じるんじゃない? 捜査内容とかじゃなく沢口演じる役みたいな奴いるわーって。わたしじゃないよ。わたしは班長になったら真っ先に班を混乱させる人だから。大学の友人は口を揃えて言ってたな。「あんたが就職するなんて思わなかった」とか。研究者タイプなんだろうな、地が。
室井滋はさすがすぎるわ。この人舞台出身じゃねえんだよな。大体わたしがすげえって思う役者って舞台出身だけどこの人は別だ。こう、役の深いとこまで掘り下げなきゃいけないのが舞台役者だけど、映像は掘り下げすぎるとだめなんだよな。舞台役者が慣れないテレビに出た時のひどさつったら。『振り返れば奴がいる』の西村さんとか(善ちゃんは一般ウケしないことは最初からわかっていた。っていうか腹筋善之助も佐々木蔵之介と比べたらウケてないのは「善」っていう字がだめなのかとかすら思うぐらいだ)、タイトル忘れたけど主役で坂本龍馬やった時の上川隆也とか、なんかの時代劇で勝海舟役やった野田秀樹とか。野田は『ゴーストバスターズ』の吹き替えでも大ゴケしてるよな。東大で芝居やってたら野田の話ばっかになるからめんどくさい。あんま興味ないのに。わたしが演劇にはまったきっかけは東京グランギニョル(実際には見てないけど)とかケラとかなんだよな。サブカルミーハーみたいな。そういう人いなかったわ、駒場小劇場には(蓮實がぶっ潰して新しいの建てたらしいが行ったことない)。むしろ明大とかの(ry。東大はやっぱ頭でっかちばっか。如月小春とか戯曲読んだだけだけど何がいいのかすらわからない。まあ戯曲なんざ上演してなんぼだからとやかく言わないでおこう。
室井の話だっつに。関西系の芸人魂のある舞台役者(生瀬さんとか)はともかく、舞台役者がテレビで演技する時のポイントって抑制だと思うのだよな。舞台演劇好きじゃない人って大概「演技が大仰でキモイ」みたいなこと言うじゃん。うん、大仰。だがそれがいい、って反論したくなるけど大仰さへの嫌悪感も理解できるんだよな。要するに、舞台役者がテレビ出る時は舞台ならではの魅力でもある大仰さを抑制しなきゃいけない。かと言って抑制しすぎるとモブになっちゃう。龍馬やった時の上川みたいに。このバランス感覚ってのが室井のすげえところなんだよなあ、って思う。それが再確認できた。狂気っていうと言いすぎだけど、そんな感じで大仰に演技したくなるような役にも関わらず抑えてる。『やっぱり猫が好き』のごとく大仰に演技するとコントになるってちゃんと自覚しつつ、バランスの取れた演技をしている。映像をわかってるなあ、って他人事で思える。
ああ主役忘れてた。古畑任三郎。
あのさー……、そろそろ誰か言ってあげた方がよくね? 大物だから誰も言ってくれないのかもしれないけどさー。
演技の雰囲気を重視しすぎてセリフが聞き取りにくい。
もちろんそんなの役者の初歩の初歩の話なんだけど、初心忘れるべからず、じゃん。
シャ乱Qのつんくにも一瞬だけどそんな時期あったんだよな。雰囲気っていうか「俺の音楽」っていうオリジナル魂かなんか知らないけど、歌詞が何言っているかわからないような歌い方をしてた時期が一瞬あるんだよ。売れ始めたばっかの頃だったから誰か注意したんだろうな。すぐ普通の歌い方に戻った。
田村は古畑もあんま好きじゃなかった。ダウンタウンの浜ちゃん龍馬の方がおもしろかった。テレビは何やってもコントなんだよ。ラカンの言う現実界から見れば日常的な現実がコントなわけだけど、日常的な現実を現実だって言い張る人が正常人であり圧倒的多数なわけで、結局そういう綱引きになるんだよな。だから室井みたいな映像出身の役者の、コントともマジメとも受け取れるバランス感覚溢れる演技にわたしは感心してしまう。
もちろん、テレビであってもコントからの脱出法はいくらでもある。たとえば死体のグロさを忠実に再現した『CSIシリーズ』とか。死体のリアリズムが映像というコントの前提となる要件に勝っている。『BONES』は役者の演技がコント臭い。スナッフ技術はがんばってると思うけど。むしろ部下たちのコントっぷりが好きだ。主役はだめだな。FBIのバカ男はなかなかいい。毛唐は舞台の奴でもあんな感じがする。リアリズム故のファロセントリスムっていうかな。ああごめん大道具だからかもしんない。
要するに三村じゃなくて田村正和はそこそこ大物な故に緊張感っていうのかな、そういうのなくしてんじゃねえの? って思うわけだ。
もちろんキャリアという重みはあるんだよ。彼にも。それで納得してあげてもいいんだけどねえ。彼と直に会話すれば圧倒されるかもしれない。その重みに。だけどわたしは一般の視聴者だ。他の視聴者もほとんどがそうだろう。
社会人時代わたしに目をかけてくれた工場長とか、わたしは「ヤクザみたいな人だ」とか本社人事の人に言ってたもん。怖かった。自分の上司だからってこともあったかもしれないけれど、他の重役はどうでもよかったんだよな。今の語彙で言うならちんちんちっちぇえ奴らだと感じた。だけどその工場長は、直に何度も話したせいか、傷だらけのちんちんに思えた。怖かったんだよ。本当に。彼はわたしがいろいろやらかして辞める直前に社長になった。その会社では最年少での社長だったらしいが、「ああやっぱり」と思ったもんなあ。いろいろリストラしてた。
そういう重みがある人ほど初心を忘れちゃいけないと思うのだよな。
前置きのつもりが長くなってしまった。
原作読んでないからこんなこと言うのもあれだけど、オチがすげえ正常人のパラノイアックさを感じた、っていう話をしたかった。
※ネタバレ注意!
と書いておいた方がいいのだろう。
謎解き部分。途中まではよかった。夫の方が企図した無理心中っていうのは。
だけどな、あれだと沢口演じる悪女、鬼クマがただの中二病だった、ってなっちゃうんだよ。少なくともこのストーリーだと、鬼クマは鏡像段階で正常にファルスが生成していた正常人で、学生時代にレイプされたせいで未去勢方向に親近していただけの神経症者だった、となる。彼女が悪女になったのは心的外傷即ちトラウマが原因だった、と。
これが正常人の正常人による正常人のためのトラウマ物語の基本構造なんだ。
未去勢者は必ず去勢される。必ず正常化される。必ず大人になる。必ず救われる。そういう前提から逃れられていない。
悪女は未去勢的な女性だ。トラウマ故悪女になったのなら、元々去勢はされているけどそれを否認しているだけとなる。
未去勢と去勢の否認は別物だ。
去勢の否認なら治療される。というか運命的に治療されてしまう。元々去勢されていて否認しているだけなのだから、少し抑圧されていたトラウマたる心的事実を掘り返してあげれば普通の人間に戻れてしまう。
未去勢者は、いくら抑圧されていたトラウマを意識化しても、普通の人間になるのは一瞬で、すぐ未去勢的な症状をぶり返す。
ここが違う。ここにわたしは天国の押し売りを感じてしまう。
心中という題材はいいのだ。未去勢者にも通用する外傷たりえる。何故なら去勢とは自他混淆的な生死の境だからだ。自殺や他殺だと自他混淆的という要件が満たされないため、心中の方が去勢という心的外傷に親近する可能性は高くなる。
ともかく、あらすじを説明しておこう。ある港で夫婦が乗っていた車が海に転落した。夫は溺死し妻は助かった。助かった妻は警察に連絡した。
この妻、鬼クマという悪女が保険金目当てで夫を殺害した、とマスコミが騒ぎ立てる。マスコミが「気持ちの資本家」としての権力を振るい、大多数の人間に「鬼クマが犯人だ」という気持ちを刷り込む。
それに田村演じる弁護士が立ち向かう。
対抗する検察側の労力を全く描いていない不満はまあ置いておこう。尺もあるしな。
このドラマは「気持ちの資本家」たるマスコミを敵にして、真実を告発する弁護士、という構図になっている。
ここまでは別にいいのだ。わたしは。どうでもいいってか。
だけど、わたしは悪女とは未去勢者たるべきだと考えている。なのに弁護士が真実を明らかにするにつれ、鬼クマのトラウマが表面化し、鬼クマは改心した、という筋書きになっている。正当な精神分析の構図そのままだ。
ここがわたしの腹が立つところだ。
ではどうすればよかったのか。
田村演じる弁護士が法廷で真実を明らかにしていく。鬼クマのトラウマが表面化されていく。
夫の無理心中であり、鬼クマが夫を殺したのではない、という事実が明らかになっていく。
この時、鬼クマが未去勢者だったならば、事実を高らかに開陳する弁護士に対し、こう言うべきだったのだ。
「違う!」
弁護士はこう言うだろう。
「……もういいんです。私は全てわかっています。あなたは初めて愛することができた夫に殺されそうになった。それを認めてしまうと信じられるものが全てなくなってしまう。だからあなたはこの事件を事故だと、自分は無実だと言い張ってきた。違いますか?」
未去勢者は冷たい口ぶりでこう答えるだろう。
「事実はあなたの言った通りです。だけど、わたしは殺されそうになったのではありません。海へと向かう車の中で、わたしは夫が無理心中を企てていることに気づきました。わたしは混乱しました。でも、わたしはそれでいいと思ったのです。わたしは夫を本当に愛していました。だから心中してもいいと思いました。だけど、やっぱり怖かったのでしょう。死ぬのが。無我夢中でした。自分が何しているかすらよくわかりませんでした。気がつけば地面の上にへたり込んでいました。……でも、でも、夫がわたしを殺そうとしたというのは違います。無理心中なんかじゃありません。わたしは夫と心中してもいいと思ったのです。あなたの言っていることは間違っています」
と。
何故なら、未去勢者ほど去勢されたがるからだ。心中は去勢にもっとも親近する事象である。従って、鬼クマが未去勢者だったならば、去勢済みの主体と同様に死を怖れるのはいいとしても、心中を拒否してはならないのだ。
作中では、鬼クマにとって夫との関係が初めての本当の愛だった、となっている。去勢によって生じるファルスの想像界的側面が原パラノイアたるアガペーである。むしろ、鬼クマは未去勢者であり、自分を弁護する田村に対しこう抗弁することで、夫に対する愛が初めての本当の愛だった、となりえるのである。むしろ、こう抗弁しなければ、鬼クマの夫に対する愛は初めての本当の愛ではなくなるのである。
しかし、作中の鬼クマはそうしなかった。最後には弁護士に頭を下げすらした。従って、沢口演じるこの悪女は未去勢者ではなかった、とわたしは診断する。彼女は学生時代にレイプされたという明確なトラウマを抱えたPTSD者、精神分析的に言うなら典型的ヒステリーだった、と。セックスにトラウマがありながらホステスをしていたことなどまさに「非性器がエロス化し性器が非エロス化している」状態だと言える。そして、田村演じる弁護士はそのトラウマを抉り出す精神分析家だった、と。
結局、鬼クマという女はマスコミが悪女と騒ぎ立てていただけで、実はいい人だった、という小学校の道徳レベルの内容だったのだ。
結局、この作品も「女(ファルスを持っていない者即ち未去勢者)は存在しない」というラカンの言葉通りの内容だったのだ。
……とはいえ、事実が明らかになりかけた途端鬼クマは獄中で自殺を図った。この辺りはむしろ心中を完遂しようとしていたと解釈できる。彼女がわたしの診断通り去勢済みな主体であったとしても、極めて未去勢な主観世界に親近していたと思われる。
だけど、やっぱりラストシーン、「夫の無理心中だった」という弁護士の主張に合意してはならないよなあ、と斜に構えて見てしまいました。まる。沢口の演技は評価すべきものだが、物体として悪女を演じられる人間じゃなかった、という印象も大きく影響しているだろう。未去勢者特有の冷たさというか、気持ちの交流が表面上は可能だったとしても前提的に不可能だと思わせるような、芯からの孤立感が彼女には足りない。たとえば、カナエ症例におけるシャンプー浣腸などといった行為に感じられるような、子供が身勝手な好奇心からおたまじゃくしを解剖してしまうがごとき冷酷さとか。
山下容莉枝辺りにやらせてたらいい味出てたように思う。いや彼女のファンってわけじゃないが今他に適任者が思い浮かばなかっただけ。
……しかしまあ、法廷ドラマって大概精神分析の構図をしているよな。取り上げる事実が客観的事実か心的事実かの違いだけであって。客観的事実と心的事実は相反しない。むしろ親近している。フロイトでさえ勘違いしたくらいである。フロイトはヒステリーの原因はトラウマにあるとし、トラウマ即ち心的外傷とは何かしらの客観的事実によるものとしたが、後に自説を取り下げた。客観的に心的外傷にならないだろうと思えるような事実であっても、主体によっては心的外傷になる場合がある、と。
ただの事実を浮き彫りにさせるだけでは受取手を感動せしめないからか。でも、『CSIシリーズ』なんかは科学的事実を追求するだけで、トラウマ的な要素が関わる場合もあるが、別にそれに囚われていない。
なんていうか、トラウマ物語を卑下するつもりはないが、描き方が正常人の正常人による正常人のためのものになってるのばっかだよなあ、というため息交じりの記事なわけです。
悪女になるなら裸足で夜明けの電車で泣いてから
涙ぽろぽろぽろぽろ流れて枯れてから
涙が枯れて初めて悪女になれる。
泣いて改心できる悪女は本当の悪女ではない。
本当の悪女は、泣いているその瞬間だけ、普通の女になっている。
以下個人的脚色。
「わたしは心中に合意していたのであり、無理心中ではない」という被告人鬼クマの抗弁は、まるでなかったかのように弁護人の主張が認められ、鬼クマはめでたく逆転無罪を勝ち取った。
しばらくして、田村のもとに、形だけの礼を述べに鬼クマが訪れる。無罪を勝ち取ったとはいえ周囲との確執は消えず、夫が経営していた料亭から追い出されたことなどを淡々と語る鬼クマ。奇妙とすら思えるほどのその淡々とした態度に、田村は一抹の不安を覚える。あたかもクライアントに転移してしまった精神分析家のごとく、彼女に探りを入れるような質問をする田村。彼は、彼女がまた自殺を図ろうとしているのではないか、と感じていたのだ。一方、遠回しな質問をのらりくらりとかわす鬼クマ。この時「涙なんか枯れちゃいましたよ」などと言わせてもよかろう。
短い会話が終わり、鬼クマは事務所を去ろうとする。しかし彼女は、ふと振り向き、田村の心を見透かすような視線と、まさに「氷の微笑」を浮かべながらこう言う。
「先生、わたしそんなにバカに見えて?」
――鬼クマが去った後、田村はただじっと自分の足元を見つめていた。
こんなシーンがあった方が、最後の最後のシーン、疎遠になっていた娘からの手紙に安堵する田村、って絵も活きると思わね?
という独りよがりでした。まる。
追記。
イトウさんとこでなんかぎゃーぎゃーやってる。彼の文章を見れば明らかだが、わたしの文章の影響を受けているのがわかる。別にこのこと自体に対しては何も思わない。向こうが勝手にやってることだ。
でも、責任感とかではなく、心がぎすぎすする。
ビッチだった頃の話。わたしと付き合った男たちは、大喧嘩したり怪我したり会社辞めたりと、不幸な目に合うことが多かった。だめんずうぉーかーではなくむしろだめんずメイカーだ。
それとは関係ない話だけど、わたしは周囲の人がよく死んだ。自分では全くそんなこと思ってなかったのだが、母親に「あんたってほんとに葬式づいてるなあ」とか言われて、奇妙なショックを受けた。この言葉を言われた後も、会社で隣の席の先輩が自殺したりして、精神疾患的な魔術めいた妄想に囚われていた時期がある。
なんかそんなことを思い出してぎすぎすした。
追記2。
『幼獣マメシバ』ってどっかで聞いたなと思ったら愛読書の『まんがくらぶオリジナル』で青木のみっちゃんが連載始めてた奴だ。ほーへー(ぐぐった)、メディアミックスって奴か。
みっちゃんは原作ないのが読みたい。
あと『あきこさんとまめお』連載希望。
『ハトのハト子』ページ増やせつってるだろ。「マンガ家なんて使い捨てだ」っつって西原理恵子をこき使ってた竹書房らしく(マンガを真に受けてます)きりきり働かせんかい。
『ベルとふたりで』が赤丸急上昇中。わたし個人の中で。あと「黒金魚」ってペンネームいいなと思った。ペンネームが。