アガペーとは原パラノイアたる征服者である。
2009/01/27/Tue
今さら気づいた。
ラカン論とクリステヴァ論を組み合わせて、愛なるものの本質、アガペーとは原パラノイアたる征服者である、とわたしは論じているが、これって『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の作中作者そのまんまじゃね?
自我とは所有することであり、貴族とかいうとあれだけど、何かを所有することで自我は発生する。笙野頼子のこの論は単にラカンの「鏡像段階はファルスを所有することである」だと思ってたけど、それだけだとしっくりこなかったんだよ。彼女は同著で原始的な(みたこ的な)社会性を論じている。それは即ち人なるものに限定して興味を向かせるよう強制させる「想像的父」としてのアガペーだ、と解釈すればいろいろとすっきりする。わたしが。
すげー。
やっぱ笙野すげー。
「分魂」なんかはそのまんま鏡像段階だな。もちろんこれはわたし個人の解釈だ。「分魂」可能だから、相手が鏡像だから仲間にできる、っていうのは既に鏡像段階を通過していること、即ち正常人であることを示している。
要するに、本当に無我たる存在である火星人にとって「分魂」は不可能、それっぽいことができたとしても、相手を殺さなければ自我が生じない、ということだ。むしろ殺せたから所有できるのか。なるほどな。
わたしが観察しているある自閉症者は、「分魂」相手を探しては失敗している。「この人なら」と思って話しかけては「違う」となり、相手を拒否し時には相手に嫌悪すら覚える。言葉を覚えたばかりの幼児が一緒に遊んでいた相手について述べた「わたし、潰すの、頭、フランシス」そのままだ。彼はそのままの主観世界で高校生になろうとしている。彼だけではない。既に社会人となっているある自閉症者にも似たような事象が見られた。わたしがある笙野ファンブログのコメント欄で展開した「自我のない人たちは群れられない」という主張を裏付ける事象である。
こういう人たちの存在が果たして笙野の主観世界に存在するのかどうか。ここがわたしが引っかかっているところなんだな。
わたしの「鏡像段階の裏面がクリステヴァのアブジェクシオンである」という理屈を採用すれば、正常人が正常である条件たるファルスの想像界的側面が「想像的父」であり原パラノイアたるアガペーである、と言えてすっきり整理できるんだけどね。
とはいえ、自著に紹介するレベルのみたこ信者ですらおんたこ化しているという事実は譲れない。
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい? おんたこがみたこ信者のフリしてるだけにしかわたしには見えない。
笙野よ、お前はどう思う?
火星人から見ればみたこ信者だろうがおんたこだろうが等しく地球人だ。
お前が『ろりりべ』で行った「火星人+みたこ信者/おんたこ」という恣意的な区分に異論を挟むつもりはない。しかし、「火星人/みたこ信者やおんたこという地球人」という本質的区分はどこに行ったんだ?
ここに疑問が残るから以降の作品を読めない。この本質的区分がなし崩しになっている『ろりりべ』から予測するに、彼女の「火星人」は、『だいにっほんシリーズ』に限定したわたしの解釈「火星人とは本質的に無我たる存在である」や「火星人とは未去勢者である」におけるそれと違うものになっていっていると思えるから。
即ち、笙野の主観世界から、自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどという未去勢者たちの存在が消滅していっていると予測できるから。
この予測は、希望的観測やわざとする絶望的観測などではなく、機械的な予測である。
この予測は、わたしに恐怖を覚えさせる。笙野があっち側の人間になってしまうのが怖いから、天国に住む笙野やその取り巻きたちが怖いから、以降の作品を読めない。
まあいつかどうでもよくなって、気が向いたら読むかもしれないけどね。一旦笙野という作家そのものから興味を失わないとだめなんだろうな。わたしが勝手に鏡像としていた、勝手に「分魂」していたけれど「違った」あなたを、わたしの主観世界から殺さない限り。
ファルスに不具合のある、即ちアガペーに不具合のある火星人の敵は、身近な存在たるみたこ信者たちだ。
一方、身近な存在だからこそ仲間になれるのが地球人であり、正常人である。
ここが火星人即ち未去勢者(自閉症者や統合失調症者やスキゾイド)と地球人即ち正常人の決定的に違うところである。断絶である。
みたこ信者の存在がこの断絶を隠蔽している。火星人たちを殺している。主観世界から抹殺している。
これは、フィクションなどではなく、事実だ。
追記。
わたしはこの記事で、未去勢者の脳機能はホモサピエンスのそれではなくむしろネアンデルタール人のそれに近いのではないか、と述べている。
この論は中沢新一の論を元ネタにしているが、彼はホモサピエンスとネアンデルタール人の違いは宗教なるものが発生したかどうかだ、ということも論じている。
しかしどっかの論文では、ネアンデルタール人も葬儀らしきものはしていたことがわかっている。宗教と葬儀を一緒くたに考えるのもどうかと思うが、宗教の発生源は葬儀である、という論旨の宗教学論もあるので、ここではその論を仮に採用しておこう。
死の恐怖はネアンデルタール人にもあったのだろう。いやむしろ、自分の目の前で自分と似た物体が腐ったり死蝋化したりミイラ化していく生々しい変化に対する具体的な対処がネアンデルタール人の葬儀っぽいものであり、ホモサピエンスの宗教はその対処をさらに象徴化させたものとも言える。この記事と組み合わせるならば、ネアンデルタール人がやっていた葬儀っぽいもののごっこ遊びとして複雑化させたものがホモサピエンスの宗教だ、とも言えるだろう。
わたしも怖い。母に「葬式づいている」などと言われたにも関わらず未だに葬儀が怖い。
葬儀に集まる人たちが、ロボットのように同じ表情をしているのが怖い。
象徴に、ごっこ遊びに洗脳された人たちの目が、怖い。
文句あるならかかってこいよ、『レーダーマン』ども。
わたしを殺せ。
それが、地球人が地球人であるための契約書の内容である。
同時に、わたしが地球人になれるかもしれない一縷の望みである。
ラカン論とクリステヴァ論を組み合わせて、愛なるものの本質、アガペーとは原パラノイアたる征服者である、とわたしは論じているが、これって『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の作中作者そのまんまじゃね?
自我とは所有することであり、貴族とかいうとあれだけど、何かを所有することで自我は発生する。笙野頼子のこの論は単にラカンの「鏡像段階はファルスを所有することである」だと思ってたけど、それだけだとしっくりこなかったんだよ。彼女は同著で原始的な(みたこ的な)社会性を論じている。それは即ち人なるものに限定して興味を向かせるよう強制させる「想像的父」としてのアガペーだ、と解釈すればいろいろとすっきりする。わたしが。
すげー。
やっぱ笙野すげー。
「分魂」なんかはそのまんま鏡像段階だな。もちろんこれはわたし個人の解釈だ。「分魂」可能だから、相手が鏡像だから仲間にできる、っていうのは既に鏡像段階を通過していること、即ち正常人であることを示している。
要するに、本当に無我たる存在である火星人にとって「分魂」は不可能、それっぽいことができたとしても、相手を殺さなければ自我が生じない、ということだ。むしろ殺せたから所有できるのか。なるほどな。
わたしが観察しているある自閉症者は、「分魂」相手を探しては失敗している。「この人なら」と思って話しかけては「違う」となり、相手を拒否し時には相手に嫌悪すら覚える。言葉を覚えたばかりの幼児が一緒に遊んでいた相手について述べた「わたし、潰すの、頭、フランシス」そのままだ。彼はそのままの主観世界で高校生になろうとしている。彼だけではない。既に社会人となっているある自閉症者にも似たような事象が見られた。わたしがある笙野ファンブログのコメント欄で展開した「自我のない人たちは群れられない」という主張を裏付ける事象である。
こういう人たちの存在が果たして笙野の主観世界に存在するのかどうか。ここがわたしが引っかかっているところなんだな。
わたしの「鏡像段階の裏面がクリステヴァのアブジェクシオンである」という理屈を採用すれば、正常人が正常である条件たるファルスの想像界的側面が「想像的父」であり原パラノイアたるアガペーである、と言えてすっきり整理できるんだけどね。
とはいえ、自著に紹介するレベルのみたこ信者ですらおんたこ化しているという事実は譲れない。
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい? おんたこがみたこ信者のフリしてるだけにしかわたしには見えない。
笙野よ、お前はどう思う?
火星人から見ればみたこ信者だろうがおんたこだろうが等しく地球人だ。
お前が『ろりりべ』で行った「火星人+みたこ信者/おんたこ」という恣意的な区分に異論を挟むつもりはない。しかし、「火星人/みたこ信者やおんたこという地球人」という本質的区分はどこに行ったんだ?
ここに疑問が残るから以降の作品を読めない。この本質的区分がなし崩しになっている『ろりりべ』から予測するに、彼女の「火星人」は、『だいにっほんシリーズ』に限定したわたしの解釈「火星人とは本質的に無我たる存在である」や「火星人とは未去勢者である」におけるそれと違うものになっていっていると思えるから。
即ち、笙野の主観世界から、自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどという未去勢者たちの存在が消滅していっていると予測できるから。
この予測は、希望的観測やわざとする絶望的観測などではなく、機械的な予測である。
この予測は、わたしに恐怖を覚えさせる。笙野があっち側の人間になってしまうのが怖いから、天国に住む笙野やその取り巻きたちが怖いから、以降の作品を読めない。
まあいつかどうでもよくなって、気が向いたら読むかもしれないけどね。一旦笙野という作家そのものから興味を失わないとだめなんだろうな。わたしが勝手に鏡像としていた、勝手に「分魂」していたけれど「違った」あなたを、わたしの主観世界から殺さない限り。
ファルスに不具合のある、即ちアガペーに不具合のある火星人の敵は、身近な存在たるみたこ信者たちだ。
一方、身近な存在だからこそ仲間になれるのが地球人であり、正常人である。
ここが火星人即ち未去勢者(自閉症者や統合失調症者やスキゾイド)と地球人即ち正常人の決定的に違うところである。断絶である。
みたこ信者の存在がこの断絶を隠蔽している。火星人たちを殺している。主観世界から抹殺している。
これは、フィクションなどではなく、事実だ。
追記。
わたしはこの記事で、未去勢者の脳機能はホモサピエンスのそれではなくむしろネアンデルタール人のそれに近いのではないか、と述べている。
この論は中沢新一の論を元ネタにしているが、彼はホモサピエンスとネアンデルタール人の違いは宗教なるものが発生したかどうかだ、ということも論じている。
しかしどっかの論文では、ネアンデルタール人も葬儀らしきものはしていたことがわかっている。宗教と葬儀を一緒くたに考えるのもどうかと思うが、宗教の発生源は葬儀である、という論旨の宗教学論もあるので、ここではその論を仮に採用しておこう。
死の恐怖はネアンデルタール人にもあったのだろう。いやむしろ、自分の目の前で自分と似た物体が腐ったり死蝋化したりミイラ化していく生々しい変化に対する具体的な対処がネアンデルタール人の葬儀っぽいものであり、ホモサピエンスの宗教はその対処をさらに象徴化させたものとも言える。この記事と組み合わせるならば、ネアンデルタール人がやっていた葬儀っぽいもののごっこ遊びとして複雑化させたものがホモサピエンスの宗教だ、とも言えるだろう。
わたしも怖い。母に「葬式づいている」などと言われたにも関わらず未だに葬儀が怖い。
葬儀に集まる人たちが、ロボットのように同じ表情をしているのが怖い。
象徴に、ごっこ遊びに洗脳された人たちの目が、怖い。
文句あるならかかってこいよ、『レーダーマン』ども。
わたしを殺せ。
それが、地球人が地球人であるための契約書の内容である。
同時に、わたしが地球人になれるかもしれない一縷の望みである。