ネアンデルタール人の排泄
2009/01/28/Wed
今思い出した。
会社の隣の席の先輩が自殺した時、葬儀でちょっと酒の入った上司二人が口論っぽいことをした。
自殺した彼は基本設計やる部署だったんだけど現場に回されていた(わたしが主に設計やってた)。
んで、直属の上司たる設計部署の上司と、直属ではないけど彼と仕事していた現場の上の人がぶつかったんだな。
現場の人曰く「上司のお前がなんで気づかなかったんだよ」とか。「あなたに言われたくない」みたいに思ったろうな。だって組織的にはそうだけど長く一緒に仕事してたのは現場の人の方だもん。
彼らの口論とまで行かないぎすぎすした会話は、「こういう場でそういうのはやめなさい」となって止められた。
何故止めるのだろう、とわたしは思った。
設計の上司(即ちわたしの上司でもある)も何故言い返さなかったのか。
彼の死について何故論を戦わせなかったのか。
結論に至らなくても、「彼は何故自殺なんかしたのか」という議題で議論するべきではないのか。そして何故それを葬儀の場でしてはいけないのか。
わたしにとって葬儀とは、ガタリの言う劣化、即ち器官なき身体を隠蔽抑圧する最大の祭祀である。
彼と最後に会った社内の人間は、その設計の上司とわたしだった。現場の人はそういう意味で言ったのかもしれない。だとしたらわたしにも適用される言い分である。「何故わたしは気づけなかったのか」と。
気づくも何も、と思う。普通に笑い話みたいなことすらしてたんだから。
わたしは知りたかった。何故彼は自殺したのか。客観的事実ではなく、彼の心的事実を知りたいと思った。
なのに何故そういった議論をしてはいけないのか。言い合いをしてはいけないのか。
本当にわからない。
彼は工場にも泊り込んでいたりしていたのだが、工場の人がわたしにこう言ってきた。「あなたのことをよく話してましたよ」と。わたしはぞっとした。
断っておくが男女の仲とかそういうのだったわけではない。それどころか、自分は現場に回されて後輩のわたしが基本設計やってたのを妬んでいたのではないか、とすらわたしは思っている。とはいえ表面上はうまくやっていた。意見が対立しそうになったらすぐ「ああ、ごめんごめん」などと言うような人だった。わたしがその部署に入っていろいろ教えてくれたのは彼だ。設計の上司はむしろわたしより後にやってきた。わたしが来る以前はその現場の人が設計の上司だったこともある。
それはともかく、わたしは彼の仕事を横取りした形になる。多分、なんだかんだ言って現場は体力勝負だ(それこそ工場に泊り込んだりしないといけない)から、というのが主な理由だと思う。しかし、わたしの方が設計として有能だったことは、まさにその口論した現場の人が軽口叩くほど、客観的に明らかなことだった。
彼は、今の語彙で言うなら抑鬱症的な印象が強い人だったので、なんでもかんでも自分の中に抑圧するタイプだったのだろう。
彼はわたしについてどんな陰口を言っていたのか。わたしはぞわぞわした。
このことと、彼が自殺に至った心的過程を知りたいと思ったことはシニフィアンとして連鎖している。
だけど、彼の心的事実なんて結論が出るわけない、というのもわかっている。死人に口なしである。
だからと言って、出ないからやめろ、というのがわたしにはわからない。出なくてもそれについて何かしら議論すること自体がぞわぞわの排泄になる。
しかし、ホモサピエンスどもは、この排泄を必要としていないらしい。
ぞわぞわはわたしの中に今でも残っている。
甲虫が皮膚と肉の間を這いずり回っている。
前記事から。
=====
とはいえ、自著に紹介するレベルのみたこ信者ですらおんたこ化しているという事実は譲れない。
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい? おんたこがみたこ信者のフリしてるだけにしかわたしには見えない。
笙野よ、お前はどう思う?
=====
多分、笙野という教祖はあっち側につくんだろうな。いぶきのごとくがやがや言ってくるわたしなんか存在しないものとして。なんせどろどろ権現の奥底にぺかぺか水晶があるって主張する主体なのだから。
いいんでないかい? 作中で予言した通りカルト宗教の教祖に納まるのも。
そういやツレション陰口ババアはこうも言ってたな。
「そしてスキゾを差別する気もありません。」
バカか。わたしはこの時の議論から今の今まで、意識の問題を話しているんじゃない。無意識的にお前たちが「群れてしまう」ことを、無意識的に「群れることができる」ことを問題にしている。
そして無意識的に群れることができる、仲間を増やせられる機能を無意識下に持っているお前たちに、物体として群れることができない、仲間を増やせられる機能に不具合のある未去勢者たちは恐怖する。そいつが意識的な「差別する気はない」ということを主張しようが関係ない。これはむしろ物体的な問題だ。そいつらの意識関係なく、無意識的に群れることができる、仲間を増やせられる機能を持った正常人という物体に未去勢者たちは恐怖している。去勢済みな主体(ファルスを持っている人間)は存在するだけで未去勢者(ファルスに不具合のある人間)に恐怖を覚えさせる。
これがわたしの言う「本質的権力者/本質的被権力者」という区分である。物体として群れられない、仲間を増やせられないのが未去勢者たちであり、本質的被権力者であり、『レーダーマン』における「自分を見つめる孤独な毎日」を送っている者たち(ここのきつねミク氏のコメント参照のこと)だ。そしてそれこそが『だいにっほんシリーズ』における「火星人」であるとわたしは解釈する。『ろんちく』のいぶきに関する描写を根拠に。
であるならば、宗教徒として群れることができる奴どもは、本質的権力者なのだ。お前の言う「みたこ信者/おんたこ」という区分は、火星人から見ればたとえばテレビの向こうの話にすぎない。ラカン的な意味での現実的な区分ではない。「みたこ信者/おんたこ」の戦いはテレビの向こうのコントでしかない。
笙野が力説してたドゥルーズ=ガタリの言葉を再度引用してやろう。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
笙野は、妥協原則主義者即ち現実原則主義者即ち超自我主義者になりつつある時点で、即ち社会的な問題に興味が向いている時点で、笙野教というカルト宗教の教祖に納まることで、その目は曇り始めている、と予測できる。巫女たる彼女は「物事をよく見」えなくなりつつあるのではないか、という話だ。ガタリ論を採用すれば理屈的にそうなる。
どういう「物事をよく見」えなくなりつつあるのか。それが、たとえば『ろんちく』で「自我なんてわからん」と主張するいぶきの主観世界だ。「呪文めいた笙野の言葉だけ好き派」たちの読者の主観世界だ。笙野はいぶきや「呪文めいた笙野の言葉だけ好き派」たちの読者を切り捨てようとしている。厳密に言えば、未去勢者を、ファルスに不具合のある人間を、我を所有していない人間の主観世界を棄却しようとしている。『ろんちく』の後書や、『ろりりべ』におけるいぶきの「抑圧していたトラウマを意識化し他者と共有することで神経症は治療される」という精神分析の定理そのままの心的描写から、そう判断せざるを得ない。
ああまどろっこしい。はっきり言おう。お前は、『アケボノノ帯』の龍子になりつつある。後に『水晶内制度』でカルト宗教の教祖となった龍子に。
実は龍子はむしろわたしだと思っていたが、『だいにっほんシリーズ』を読む限り、龍子になるのに違和感を感じているのがわたしで、龍子になってしまったのがお前だ、と思える。
龍子に違和感を感じていたお前をお前は忘れつつあるのではないかい?
いろんな賞を取って他人に認めてもらった今のお前には理解しづらいことかもしれない。だけどわたしは『なにもしてない』や『レストレス・ドリーム』を書いたお前ならわかってもらえるかもしれない、という藁にもすがる思いでこの文章を書いている。
もしわたしがツレション陰口ババアに感じた違和感をお前が理解できるのなら、ババアへの反論として書いたこの言葉も理解してくれるはずと思う。希望的観測ではなく機械的な予測として。
=====
>集まるも集まらないも自由意志。
ほんとに自由だと思ってるう?
自由ならば、何故共同体に同一化している人間(筆者注:モモチとか名前は忘れたがわたが「ちっちゃなちんちん」と評したバカとか)が現れるのでしょう? もちろん共同体に同一化するのも自由ですよ。しかし共同体というものは、共同体以外と共同体という境界、すなわち抑圧を生むものですよねえ。
そんなところに境界があるのが、果たして「自由」なのか。
「極私的言語」や「主語の欠如」という言葉を加味し、もう一度よくお考えください。
=====
この文章に倣うなら、「共同体に同一化している人間」こそが、おんたこウイルスに侵された人間だ。
前記事の言葉をもう一度記しておく。
=====
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい?
=====
もし、ツレション陰口ババアの側に立つとお前が言うなら、わたしはお前への粘着をやめる。お前も所詮中二病者だった、ということにすぎない。かなーり思春期病に親近していたとは思うけどね。
要するに、お前は、たとえば仮説として言うならば、なかなか作家として認められなかった期間が長いから、未去勢的な主観世界に親近していただけで、生後二年以内に生ずるファルスを最初から持っていた人間だと、わたしが診断するだけだ。
要するに、お前に「女(ファルスを持っていない人間)は存在しない」というラカンの言葉に反論する資格はないと、「(無我という)うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をするスッパマンだと、運命的に未去勢的な症状が治療される神経症者だったのでありわたし語用におけるキチガイ(即ち未去勢者)ではなかったと、わたしが診断するだけだ。
要するに、お前も加藤智大と同様の「気持ちの資本家」だった、とわたしが診断するだけだ。
なんのことはない。ただのちょっと精神分析の知識を持っているひねくれた一読者が「なんだよ、口先だけで(わたしが思う)火星人のこと何もわかっちゃいない奴だった」と呆れるだけだ。
……もういい、もういい、わたしを呆れさせてくれ。
お前もわたしみたいな未去勢者を殺してきた正常人だと。
自分の飼い猫に去勢手術を施したごとく。
会社の隣の席の先輩が自殺した時、葬儀でちょっと酒の入った上司二人が口論っぽいことをした。
自殺した彼は基本設計やる部署だったんだけど現場に回されていた(わたしが主に設計やってた)。
んで、直属の上司たる設計部署の上司と、直属ではないけど彼と仕事していた現場の上の人がぶつかったんだな。
現場の人曰く「上司のお前がなんで気づかなかったんだよ」とか。「あなたに言われたくない」みたいに思ったろうな。だって組織的にはそうだけど長く一緒に仕事してたのは現場の人の方だもん。
彼らの口論とまで行かないぎすぎすした会話は、「こういう場でそういうのはやめなさい」となって止められた。
何故止めるのだろう、とわたしは思った。
設計の上司(即ちわたしの上司でもある)も何故言い返さなかったのか。
彼の死について何故論を戦わせなかったのか。
結論に至らなくても、「彼は何故自殺なんかしたのか」という議題で議論するべきではないのか。そして何故それを葬儀の場でしてはいけないのか。
わたしにとって葬儀とは、ガタリの言う劣化、即ち器官なき身体を隠蔽抑圧する最大の祭祀である。
彼と最後に会った社内の人間は、その設計の上司とわたしだった。現場の人はそういう意味で言ったのかもしれない。だとしたらわたしにも適用される言い分である。「何故わたしは気づけなかったのか」と。
気づくも何も、と思う。普通に笑い話みたいなことすらしてたんだから。
わたしは知りたかった。何故彼は自殺したのか。客観的事実ではなく、彼の心的事実を知りたいと思った。
なのに何故そういった議論をしてはいけないのか。言い合いをしてはいけないのか。
本当にわからない。
彼は工場にも泊り込んでいたりしていたのだが、工場の人がわたしにこう言ってきた。「あなたのことをよく話してましたよ」と。わたしはぞっとした。
断っておくが男女の仲とかそういうのだったわけではない。それどころか、自分は現場に回されて後輩のわたしが基本設計やってたのを妬んでいたのではないか、とすらわたしは思っている。とはいえ表面上はうまくやっていた。意見が対立しそうになったらすぐ「ああ、ごめんごめん」などと言うような人だった。わたしがその部署に入っていろいろ教えてくれたのは彼だ。設計の上司はむしろわたしより後にやってきた。わたしが来る以前はその現場の人が設計の上司だったこともある。
それはともかく、わたしは彼の仕事を横取りした形になる。多分、なんだかんだ言って現場は体力勝負だ(それこそ工場に泊り込んだりしないといけない)から、というのが主な理由だと思う。しかし、わたしの方が設計として有能だったことは、まさにその口論した現場の人が軽口叩くほど、客観的に明らかなことだった。
彼は、今の語彙で言うなら抑鬱症的な印象が強い人だったので、なんでもかんでも自分の中に抑圧するタイプだったのだろう。
彼はわたしについてどんな陰口を言っていたのか。わたしはぞわぞわした。
このことと、彼が自殺に至った心的過程を知りたいと思ったことはシニフィアンとして連鎖している。
だけど、彼の心的事実なんて結論が出るわけない、というのもわかっている。死人に口なしである。
だからと言って、出ないからやめろ、というのがわたしにはわからない。出なくてもそれについて何かしら議論すること自体がぞわぞわの排泄になる。
しかし、ホモサピエンスどもは、この排泄を必要としていないらしい。
ぞわぞわはわたしの中に今でも残っている。
甲虫が皮膚と肉の間を這いずり回っている。
前記事から。
=====
とはいえ、自著に紹介するレベルのみたこ信者ですらおんたこ化しているという事実は譲れない。
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい? おんたこがみたこ信者のフリしてるだけにしかわたしには見えない。
笙野よ、お前はどう思う?
=====
多分、笙野という教祖はあっち側につくんだろうな。いぶきのごとくがやがや言ってくるわたしなんか存在しないものとして。なんせどろどろ権現の奥底にぺかぺか水晶があるって主張する主体なのだから。
いいんでないかい? 作中で予言した通りカルト宗教の教祖に納まるのも。
そういやツレション陰口ババアはこうも言ってたな。
「そしてスキゾを差別する気もありません。」
バカか。わたしはこの時の議論から今の今まで、意識の問題を話しているんじゃない。無意識的にお前たちが「群れてしまう」ことを、無意識的に「群れることができる」ことを問題にしている。
そして無意識的に群れることができる、仲間を増やせられる機能を無意識下に持っているお前たちに、物体として群れることができない、仲間を増やせられる機能に不具合のある未去勢者たちは恐怖する。そいつが意識的な「差別する気はない」ということを主張しようが関係ない。これはむしろ物体的な問題だ。そいつらの意識関係なく、無意識的に群れることができる、仲間を増やせられる機能を持った正常人という物体に未去勢者たちは恐怖している。去勢済みな主体(ファルスを持っている人間)は存在するだけで未去勢者(ファルスに不具合のある人間)に恐怖を覚えさせる。
これがわたしの言う「本質的権力者/本質的被権力者」という区分である。物体として群れられない、仲間を増やせられないのが未去勢者たちであり、本質的被権力者であり、『レーダーマン』における「自分を見つめる孤独な毎日」を送っている者たち(ここのきつねミク氏のコメント参照のこと)だ。そしてそれこそが『だいにっほんシリーズ』における「火星人」であるとわたしは解釈する。『ろんちく』のいぶきに関する描写を根拠に。
であるならば、宗教徒として群れることができる奴どもは、本質的権力者なのだ。お前の言う「みたこ信者/おんたこ」という区分は、火星人から見ればたとえばテレビの向こうの話にすぎない。ラカン的な意味での現実的な区分ではない。「みたこ信者/おんたこ」の戦いはテレビの向こうのコントでしかない。
笙野が力説してたドゥルーズ=ガタリの言葉を再度引用してやろう。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
=====
笙野は、妥協原則主義者即ち現実原則主義者即ち超自我主義者になりつつある時点で、即ち社会的な問題に興味が向いている時点で、笙野教というカルト宗教の教祖に納まることで、その目は曇り始めている、と予測できる。巫女たる彼女は「物事をよく見」えなくなりつつあるのではないか、という話だ。ガタリ論を採用すれば理屈的にそうなる。
どういう「物事をよく見」えなくなりつつあるのか。それが、たとえば『ろんちく』で「自我なんてわからん」と主張するいぶきの主観世界だ。「呪文めいた笙野の言葉だけ好き派」たちの読者の主観世界だ。笙野はいぶきや「呪文めいた笙野の言葉だけ好き派」たちの読者を切り捨てようとしている。厳密に言えば、未去勢者を、ファルスに不具合のある人間を、我を所有していない人間の主観世界を棄却しようとしている。『ろんちく』の後書や、『ろりりべ』におけるいぶきの「抑圧していたトラウマを意識化し他者と共有することで神経症は治療される」という精神分析の定理そのままの心的描写から、そう判断せざるを得ない。
ああまどろっこしい。はっきり言おう。お前は、『アケボノノ帯』の龍子になりつつある。後に『水晶内制度』でカルト宗教の教祖となった龍子に。
実は龍子はむしろわたしだと思っていたが、『だいにっほんシリーズ』を読む限り、龍子になるのに違和感を感じているのがわたしで、龍子になってしまったのがお前だ、と思える。
龍子に違和感を感じていたお前をお前は忘れつつあるのではないかい?
いろんな賞を取って他人に認めてもらった今のお前には理解しづらいことかもしれない。だけどわたしは『なにもしてない』や『レストレス・ドリーム』を書いたお前ならわかってもらえるかもしれない、という藁にもすがる思いでこの文章を書いている。
もしわたしがツレション陰口ババアに感じた違和感をお前が理解できるのなら、ババアへの反論として書いたこの言葉も理解してくれるはずと思う。希望的観測ではなく機械的な予測として。
=====
>集まるも集まらないも自由意志。
ほんとに自由だと思ってるう?
自由ならば、何故共同体に同一化している人間(筆者注:モモチとか名前は忘れたがわたが「ちっちゃなちんちん」と評したバカとか)が現れるのでしょう? もちろん共同体に同一化するのも自由ですよ。しかし共同体というものは、共同体以外と共同体という境界、すなわち抑圧を生むものですよねえ。
そんなところに境界があるのが、果たして「自由」なのか。
「極私的言語」や「主語の欠如」という言葉を加味し、もう一度よくお考えください。
=====
この文章に倣うなら、「共同体に同一化している人間」こそが、おんたこウイルスに侵された人間だ。
前記事の言葉をもう一度記しておく。
=====
実際に会話したらばりばりおんたこじゃねえか、例のババア+その取り巻き。まさにラストシーンの「合体」したおんたこにしか見えなかったわ。わたしにゃ。わたしがそこにコメントした時のきゃつらの合体具合は、わたしが見ていないと思って本音をだだ漏れさせたババアの態度は、「習合」なのかい?
=====
もし、ツレション陰口ババアの側に立つとお前が言うなら、わたしはお前への粘着をやめる。お前も所詮中二病者だった、ということにすぎない。かなーり思春期病に親近していたとは思うけどね。
要するに、お前は、たとえば仮説として言うならば、なかなか作家として認められなかった期間が長いから、未去勢的な主観世界に親近していただけで、生後二年以内に生ずるファルスを最初から持っていた人間だと、わたしが診断するだけだ。
要するに、お前に「女(ファルスを持っていない人間)は存在しない」というラカンの言葉に反論する資格はないと、「(無我という)うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をするスッパマンだと、運命的に未去勢的な症状が治療される神経症者だったのでありわたし語用におけるキチガイ(即ち未去勢者)ではなかったと、わたしが診断するだけだ。
要するに、お前も加藤智大と同様の「気持ちの資本家」だった、とわたしが診断するだけだ。
なんのことはない。ただのちょっと精神分析の知識を持っているひねくれた一読者が「なんだよ、口先だけで(わたしが思う)火星人のこと何もわかっちゃいない奴だった」と呆れるだけだ。
……もういい、もういい、わたしを呆れさせてくれ。
お前もわたしみたいな未去勢者を殺してきた正常人だと。
自分の飼い猫に去勢手術を施したごとく。