精神分析家たちは、破壊を怖れてはならない。
2009/01/29/Thu
破壊は、生成なしに成立しない。
生成は、破壊なしでも成立する。
ただし、それは無限領域での話だ。
人間の精神は、正常な心は、無限などではない。超自我や自我により、ファルスにより、心の理論により、SAMにより、有限化されている。
従って、一度何かを破壊しなければ、精神は変成しない。
こんな簡単な原則に、精神分析は則っている。
分析の前半でクライアントに生じせしめるデプレッションは、破壊による結果である。
この破壊は、元からある精神における快楽原則により棄却されるものである。
従って、分析家もクライアントも、この過程を避けたがる。
その結果が、「現代の精神分析は医療的に有効ではない」という現代の言説である。
精神分析家たちは、破壊を怖れてはならない。破壊を軽視してはならない。
正常な心そのものが、その瞬間の主観世界を破壊することによって生成されたものだからだ。
この最初の破壊が鏡像段階なのだ。
正常な心が、人なるものが存在しない世界の幼い住人は、平然とした顔でこう言う。
「わたし、潰すの、頭、フランシス」
風が吹いてきた
誰もいない朝
音もなく優しくゆれるゆりかご
見えるものはただ
青く晴れた空
聞こえてくる声が
どこか遠くから
人は人を殺せる
誰もお前には教えなかった歌を
風が歌うよ
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
お前が世界に生まれてきたことを
人は祝うだろう
涙の中で
暖かな体と微笑みと夢と憎しみと孤独を
包むゆりかご
ゼンマイ仕掛けの猫が
窓辺でつぶやく
人は人を殺せる
そう造られた
オルゴールの歌姫
しとやかに歌う
人は人を殺せる
そう造られた
眠りの中聞こえる
おもちゃたちの声
人は人を殺せる
そう造られた
眠りの中聞こえる
絵本のささやき
人は人を殺せる
そう造られた
そうやって、正常な心は生成していく。
正常な心は、風の歌も、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきも、オルゴールの歌も、おもちゃたちの声も、絵本のささやきも、もう聞こえない。
これが、『アンチ・オイディプス』でガタリが謳い上げる「機械」の世界だ。
これが、ガタリというチンピラが姑息にも棄却している「分裂症」の実体だ。
物自体という悪意に満ちた世界だ。
悪意の総体論たる空観の実体だ。
ひき肉の世界だ。
未去勢者たちの、キチガイたちの主観世界だ。
……ある日、風の歌や、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきや、オルゴールの歌や、おもちゃたちの声や、絵本のささやきが、いっせいに甦る。反乱を起こす。
それを表現しようとしたのが、谷山浩子のこの『ゆりかごの歌』という作品であり、アルトーの思考の奔流であり、草間彌生の「芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い」である。
なのに、お前たちは何もわかってくれない。お前たちに物自体たちの歌は届かない。
だからアルトーの思考の奔流を間抜け面で称揚したり、草間の作品を芸術療法などと一緒くたに捉えてしまうのだ。
それは、ジョイスとその娘がしたような「川の底に向かっている」ことだ。
狂気の悪化だ。狂気との闘いだ。
お前たちは、未去勢者たちを殺している。
お前たち正常人は、こうやってキチガイたちを殺し続けてきたのだ。
気の遠くなるような昔から、「異常者は殺してもよい」と言い続けてきたのだ。
その報いを受けるべきである。
わたしを殺せ。
そして死ね。
人は人を殺せる
そう造られた
そう造られたことを、そうやって正常な心が生成していくことを、臨床を通じ論証したのが精神分析なのではないか?
なのに何を精神分析家は怖れているのだ?
そうか。分析家のディスクールにおいて分析家は対象aでなくてはならないからか。
谷山が歌っている、風の歌や、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきや、オルゴールの歌や、おもちゃたちの声や、絵本のささやきは、部分対象ではあるが対象aではない。
対象aはあくまでライナスの毛布のごときものである。ウィニコットの言う移行対象である。しかし、ここで歌われているものたちは全くライナスの毛布足りえない。ライナスは「人は人を殺せる」とささやきかける毛布を大切にしていたとでも言うのか? ここで歌われているものたちはむしろクリステヴァの言う前-対象に近いものと解釈するのが妥当である。
ここで歌われている世界こそがわたしの論における「断片の世界」である。悪意に満ち満ちた世界である。
……そう、お前たち正常人が棄却してきたアブジェである。
対象aから一歩滑り落ちればこういう世界が待っている。
悪意のゆりかごがお前たちを待っている。
お前たちが怖れているのは、風や、ゼンマイ仕掛けの猫や、オルゴールや、おもちゃたちや、絵本などという物自体たちの声である。「人は人を殺せる」と繰り返される歌である。
これらを怖れるあまり、お前たちは対象aになることですら困難となるのだ。
ファルスを持った主体であり続ける。パラノイアたる人格者であり続ける。正常人であり続ける。
お前たちに、対象aの立場に立つ資格はない。
前-対象たる、アブジェたるわたし一人ごとき殺せない奴どもに、対象aの立場が務まるわけがない。
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
わたしはお前たち分析家を挑発している。
「わたしというアブジェに近づくことは対象aに近づくことでもあるのだよ」
と。
これは対象aにならなければならないお前たちの目的とも合致するはずだ。
さあ、わたしを殺せ。
そして死ね。
小笠原晋也のごとく。
生成は、破壊なしでも成立する。
ただし、それは無限領域での話だ。
人間の精神は、正常な心は、無限などではない。超自我や自我により、ファルスにより、心の理論により、SAMにより、有限化されている。
従って、一度何かを破壊しなければ、精神は変成しない。
こんな簡単な原則に、精神分析は則っている。
分析の前半でクライアントに生じせしめるデプレッションは、破壊による結果である。
この破壊は、元からある精神における快楽原則により棄却されるものである。
従って、分析家もクライアントも、この過程を避けたがる。
その結果が、「現代の精神分析は医療的に有効ではない」という現代の言説である。
精神分析家たちは、破壊を怖れてはならない。破壊を軽視してはならない。
正常な心そのものが、その瞬間の主観世界を破壊することによって生成されたものだからだ。
この最初の破壊が鏡像段階なのだ。
正常な心が、人なるものが存在しない世界の幼い住人は、平然とした顔でこう言う。
「わたし、潰すの、頭、フランシス」
風が吹いてきた
誰もいない朝
音もなく優しくゆれるゆりかご
見えるものはただ
青く晴れた空
聞こえてくる声が
どこか遠くから
人は人を殺せる
誰もお前には教えなかった歌を
風が歌うよ
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
お前が世界に生まれてきたことを
人は祝うだろう
涙の中で
暖かな体と微笑みと夢と憎しみと孤独を
包むゆりかご
ゼンマイ仕掛けの猫が
窓辺でつぶやく
人は人を殺せる
そう造られた
オルゴールの歌姫
しとやかに歌う
人は人を殺せる
そう造られた
眠りの中聞こえる
おもちゃたちの声
人は人を殺せる
そう造られた
眠りの中聞こえる
絵本のささやき
人は人を殺せる
そう造られた
そうやって、正常な心は生成していく。
正常な心は、風の歌も、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきも、オルゴールの歌も、おもちゃたちの声も、絵本のささやきも、もう聞こえない。
これが、『アンチ・オイディプス』でガタリが謳い上げる「機械」の世界だ。
これが、ガタリというチンピラが姑息にも棄却している「分裂症」の実体だ。
物自体という悪意に満ちた世界だ。
悪意の総体論たる空観の実体だ。
ひき肉の世界だ。
未去勢者たちの、キチガイたちの主観世界だ。
……ある日、風の歌や、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきや、オルゴールの歌や、おもちゃたちの声や、絵本のささやきが、いっせいに甦る。反乱を起こす。
それを表現しようとしたのが、谷山浩子のこの『ゆりかごの歌』という作品であり、アルトーの思考の奔流であり、草間彌生の「芸術療法やアートセラピーとなんの関係もない、生死をきわめるための一つのプロセスとしての闘い」である。
なのに、お前たちは何もわかってくれない。お前たちに物自体たちの歌は届かない。
だからアルトーの思考の奔流を間抜け面で称揚したり、草間の作品を芸術療法などと一緒くたに捉えてしまうのだ。
それは、ジョイスとその娘がしたような「川の底に向かっている」ことだ。
狂気の悪化だ。狂気との闘いだ。
お前たちは、未去勢者たちを殺している。
お前たち正常人は、こうやってキチガイたちを殺し続けてきたのだ。
気の遠くなるような昔から、「異常者は殺してもよい」と言い続けてきたのだ。
その報いを受けるべきである。
わたしを殺せ。
そして死ね。
人は人を殺せる
そう造られた
そう造られたことを、そうやって正常な心が生成していくことを、臨床を通じ論証したのが精神分析なのではないか?
なのに何を精神分析家は怖れているのだ?
そうか。分析家のディスクールにおいて分析家は対象aでなくてはならないからか。
谷山が歌っている、風の歌や、ゼンマイ仕掛けの猫のつぶやきや、オルゴールの歌や、おもちゃたちの声や、絵本のささやきは、部分対象ではあるが対象aではない。
対象aはあくまでライナスの毛布のごときものである。ウィニコットの言う移行対象である。しかし、ここで歌われているものたちは全くライナスの毛布足りえない。ライナスは「人は人を殺せる」とささやきかける毛布を大切にしていたとでも言うのか? ここで歌われているものたちはむしろクリステヴァの言う前-対象に近いものと解釈するのが妥当である。
ここで歌われている世界こそがわたしの論における「断片の世界」である。悪意に満ち満ちた世界である。
……そう、お前たち正常人が棄却してきたアブジェである。
対象aから一歩滑り落ちればこういう世界が待っている。
悪意のゆりかごがお前たちを待っている。
お前たちが怖れているのは、風や、ゼンマイ仕掛けの猫や、オルゴールや、おもちゃたちや、絵本などという物自体たちの声である。「人は人を殺せる」と繰り返される歌である。
これらを怖れるあまり、お前たちは対象aになることですら困難となるのだ。
ファルスを持った主体であり続ける。パラノイアたる人格者であり続ける。正常人であり続ける。
お前たちに、対象aの立場に立つ資格はない。
前-対象たる、アブジェたるわたし一人ごとき殺せない奴どもに、対象aの立場が務まるわけがない。
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
わたしはお前たち分析家を挑発している。
「わたしというアブジェに近づくことは対象aに近づくことでもあるのだよ」
と。
これは対象aにならなければならないお前たちの目的とも合致するはずだ。
さあ、わたしを殺せ。
そして死ね。
小笠原晋也のごとく。