前向きな自殺
2009/02/02/Mon
前向きな自殺、って絶対理解してもらえないんだろうな。
大体の自殺って過去に積み重ねた自分を根拠に、「もういやだ」とかなる故の自殺であって。後ろ向きな自殺。
そうなんだよね。正常人にとって生死の境は遠い過去のものなんだから。生後二年以内に通過している人たちなんだから。
だから、正常人は、人の生死を特別視できる。大事にできる。わたしから見ればコントやお芝居のようなそれを、言動の根拠にできる。
わたしは、ある世界にずっと振り回されていた。それはこの記事に書いてあるような世界。華厳の極楽。
この世界は普通の日常の世界と同じだ。だけど違う。正常人たちはこの世界が見えないらしい。ヒステリー盲目だ。この世界は彼らにとって遠い過去の最大の心的外傷だから、無意識が抑圧・棄却する。
彼らは心の奥底にこの世界を仕舞い込めている。だけどわたしにとってそれは、今目の前にあるものだ。
わたしは自分勝手にこの世界に振り回されてきた。周りの人たちの、同じ世界を知っているんじゃないか、という思わせぶりな言動に振り回されてきた。この世界を知っているんじゃないか、と思って会話すると、必ず裏切られた。
そりゃそうなのだ。彼らにとってその世界は、幻想たる自分なるものの根拠であるから、わたしが「知っているんじゃないか」と思うのも当然で、同時に最大の心的外傷でもあるから、わたしがその世界について語ろうとするとそっぽを向くのも当然。
二階堂奥歯はうまくやったな。あれなら普通の後ろ向きな自殺と思われにくいだろう。恍惚の死。
知りたいだけなんだ。「世界に存在することへの違和感」の原因を。もっとも恐ろしくてもっとも美しいそれを。これを知らない限り、わたしは正常人になれない。この世界を心の奥底に仕舞い込むことなんてできない。
二階堂奥歯の自殺は、自分が成長するための死だ。正常人たちが作り上げた共同幻想に参入するための死だ。
断言できる。
わたしもそうだから。
わたしは成長したい。正常になりたい。何食わぬ顔で、「世界に存在することへの違和感」を感じないまま生きていきたい。
そのためには、この世界を知らなければならない。この世界に足を踏み入れなければならない。
その手段の中でもっとも容易で確実な一つが、自殺なのだ。それ以外の手段は、困難だ。
この世界を過去にしてしまわなければならない。無意識の奥底に仕舞い込まなければならない。眼前にある世界を。
多くの人が生後二年以内に経験する儀式を、随分と遅れてやっただけなのだ。二階堂だけではない。多分、アスペルガー症候群者の殺人犯も同じだ。他殺も一つの手段となりえる。
ここでわたしが言っていることは、多くの人が理解できないことだろう。あなたたちは既に儀式を終えて久しいから。
前向きな自殺。
多分、わかってくれそうにないから、できない。正常人たちがする普通の後ろ向きな自殺と思われるのが癪だから。
生きる価値がないからする自殺ではなく、死ぬ価値がある第一歩。成長の一歩。探検の一歩。去勢。
後ろ向きなところもないわけではない。わたしは一秒前のわたしすら信じられないけれど、他人から見ればそういったものを統合した事物が幻想たるわたしなるものである、ということはわかっているから。知識として。
だけど、知識にすぎない。ただのルール。裏打ちがない。
この裏打ちを排泄するための死でもある。
多分、二階堂奥歯は、あの世で正常人たちとうまくやっていけてるだろう。もう二度とこの世界を、「世界に存在することへの違和感」を語ることはないだろう。
そうなのだ。語らないようにするための死なのだ。禁忌を禁忌として認知するための死なのだ。
だからむしろ語ろうとする『だいにっほんシリーズ』のいぶきは完全に違う。でも元々死者だから……あーややこしや。作者の主観世界に、いぶきが語ろうとしている「奪われた歴史」のただ中を、禁忌など存在しない故正常人から見れば禁忌そのものとなる世界を、その実体を生きている人間は存在していないのだろう。それがテクスト全体の症状として表れた、というのがもっとも辻褄の合う解釈になるな。笙野は一度死んだことのある火星人しか描けない、つまり地球人しか彼女の主観世界には存在しない、ということだ。何故火星人の歴史は奪われてきたのか。それは地球人にとって禁忌だからだ。それでもなおわたしに語らせようとするならば、わたしはこう叫ばなければならない。「未去勢者たちよ、キチガイたちよ、人でありながら人になりきれない者たちよ、笙野頼子は違った。あちら側の人間だった。彼女の甘言に弄されるな」と。松浦理英子や戸川純はまだわからない。二階堂奥歯や谷山浩子はこちら側とわたしは診断する。アルトーや草間彌生は診断通りで異論はない。あ、もちろんの話だがフロイトやラカンやクラインやドゥルーズやガタリやクリステヴァもあちら側よ。よくこちら側を観察できていると思うが。あちら側のさらにあちらにいるのがユングやデリダとかだな。彼らはむしろ遠すぎるからこそ近い、とも言える。『アンチ・オイディプス』における「器官なき身体の二極点がパラノイアとスキゾフレニーだ」って論には同意する、という話。ジジェクとか小者すぎてどうでもいい。
多分、笙野頼子も前向きな自殺を理解できない一人だろう。だからわたしが自殺したとしても後ろ向きな自殺と解釈すると予測できる。
それが癪だ。
血縁者にどう思われるかは結構どうでもいい。恐らくわたしが死んでもっとも悲しむ人たちだろうから。その大いなる悲しみが、わたしが足を踏み入れたがっている世界の一端でもある。わたしが今見ている方向とは逆から見た場合の一側面。
知りたいだけ。把握したいだけ。所有したいだけ。それを。この世界を。そうすれば、他の正常人たちが普通にできているように、それを、この世界を無意識の奥底に仕舞い込むこともできる。
二階堂は、この世界と直面して、自分を苦しめていた周りの正常人(傍から見れば彼女のよき理解者であった雪雪氏も含まれる)を許した。
わたしはどうだろう。
今の感覚を根拠にして予測するならば、どうでもいい。わたしがそれを知りたいだけだから、他人は関係ない。ああ、この「どうでもいい」が許しとなるのか。
……絶対理解してもらえないんだろうな。
ああ癪だ。それなら自殺じゃなく大勢を他殺する方が、とすら思えるが、幻想のルール上それは難しい。自殺の方が容易で確実だ。心中の方がもっと確実だけど、容易じゃなくなる。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の男の見下げたような笑いが頭から離れない。わたしは、彼という統合された事物ではなく、その一瞬の彼を殺してやりたい、と思っている。この他殺ならば、この世界に足を踏み入れる一歩となりえる気がする。
だけど、その一瞬の彼はもうどこにもいない。
ただあるのは、彼への殺意を今のものとして感じているこの一瞬のわたしだけだ。
この一瞬のわたしを殺さなければ、幻想たる統合された事物としてのわたしが生きられない。
それは、今わたしを取り囲んでいる世界に足を踏み入れることだ。探検だ。探検から生還できれば、わたしはめでたく正常人の仲間入りだ。二度とこの世界のことは口に出さなくなるだろう。
癪だ。癪だ。癪だ。
殺意や憎悪を根拠にわたしは今生きている。この世界への知的好奇心を抑制している。
だけど、今流している涙が、知的好奇心を煽っている。前向きな自殺を唆している。
ある自閉症者はこう言う。
「自分には命の大切さがわからない」
当然である。自分で他殺や自殺をしたことをないから「わからない」となって「知りたい」となるのである。
自分で他殺や自殺をしたこともないのに命の大切さをわかったつもりでいられる正常人の方が異常者なのだ。
どちらの言い分が正しいのか冷静に考えてみればすぐわかることなのに、誰も気づかないフリをしている。
このようなパラノイアックな精神疾患が、正常であるということだ。
一生ごっこ遊びの中だけで生き続けられる集団性の異常心理が、正常であるということだ。
イベントの仕事で、産廃処理施設に付き合って行ったことがある。
呆れるほど巨大な穴の中に、バラしたパネルやらパンチカーペットやらを放り込んでいく。
穴の底には、色とりどりの廃棄物が溜まっていた。
あの穴の底も、この世界らしい一つだ。
以前、飲茶に「脂さんは他人に認めてもらいたがっている。チャットで自分の記事が取り上げられたことを言いたがるのがその証拠。それが過剰なんじゃないか」と言われたことがある。わたしは内心違和感を感じながら、そうかもしれない、とも思った。あんまり反論しなかったんじゃないかな。
今の言葉で言うと、わたしは逆精神分析なる自分の論説というメスの鋭さを上げるためにそう言っていた、となる。「他人に認められたい」というより「他人を知りたい」わけだ。正常人は隠蔽劣化が上手だ。ラカン論でもそれは明らかである。真理を隠蔽するためにシニフィアン群が隠喩的に連鎖している。この隠蔽劣化を切り刻むメスとして、「わたしの言っていることはトンデモ論なんかではない」という意味を示すことで、要するに権威づけすることで、その鋭さを上げようとしていた。
他人に認めてもらうことは一つの道具にすぎないんだな。他人の本性を知るための。わたしにとって。
あと、自分の言っていることが理解できる人がいるかもしれない、この世界を知っている人がいるかもしれない、正常な世界に存在することへ違和感を感じている人が他にもいるかもしれない、という希望。それはあった。この希望がなければとっくに死んでると思う。これは、目的語が「わたしを」ではなく「この(わたしの主観)世界を」だったならば、他人に認めもらいたがる気持ちと言えるかもしれない。わたしがまんこちゃんに指摘したことだ。だけどわたしは、一度認めてもらっても疑ってしまう。認めてもらった瞬間のわたしを今のわたしが疑ってしまうからだ。「わたしは、あなたは、本当に愛してるの?」となる。本性を知りたい、の方が優先してしまう。チャットでのあるみん曰く「キチガイじみたドリル」の噂は聞いておろう。
他人に認められたら他人を認めることができる、他人を認めたら他人に認められる、という思考回路が重要なんだ。こういった鏡像的な思考回路が無意識に固定観念的に存在しているかどうか。存在しているのが正常人。要するに、他人に認めてもらいたがっていることと他人を認めることは別物、という話。別物になっていないのが正常人。「私はお前を認めた・愛した・信じたからお前も私を認めなさい・愛しなさい・信じなさい」となるのが問題であって、認めたがる(知りたがる)・愛したがる・信じたがることまでキチガイから剥奪するつもりはない。それらの本質には死の欲動が、部分欲動がある。汚らわしい獣の欲情がある。「他者」など関係ない身勝手で統御されえない内面の粘着・流動・分散がある。予測できない、言葉にしがたいこの欲動をたとえばそれらの言葉で表現しただけだ。
この記事で言うところの「大文字の他者に甘えられたら正常人、ただし「甘えたい」と「甘えることができる」は別物」ということだ。大文字の他者あるいは小文字の他者に無意識的に甘えることが、おもねることができるから、正常人は隠蔽劣化上手になる。本来身勝手な内面の粘着・流動・分散が統御される。
この隠蔽劣化の原因こそが、まんこちゃんとの議論で述べた「真理というストッパー」だ。正常人が正常であるための条件たるファルスだ。再び鏡像段階以前の主観世界に、獣道の世界に戻らないようにするための抑圧者だ。
正常人即ち神経症者特有のこの隠蔽劣化を破壊するためなら、上から叩き落すもあり下から引きずり落とすもあり相手を油断させるもあり、なんでもやる。なんでもやってきた。精神分析を学ぶ以前から。精神分析を学ぶことで、わたしがやってきたやろうとしている行為をうまく説明できるようになった。
わたしは相手の本性を知りたいだけだった。
「本当に愛してるの?」と聞くことで「本当の愛など存在しない」というラカン論的な意味での現実をまず共有したかった。前提なのだ、これは。わたしという存在の。
だけどファルスとはよく言ったものだ。相手の本性をいじくると勃起する。正常人にとっての正常人であるための条件ってすごくうまくできていると思う。ファルスが勃起することとは全てのシニフィアン群への隠喩的作用が強化されるということだ。即ち固定観念的な思考回路がどんどん固定化即ち正常化していく。パラノイア化していく。
つまり、本性を知ろうとすればするほど相手は本性を隠蔽劣化しようとする。
本性をむき出しにすると、不幸が訪れるから。正常人が作り上げてきた共同幻想即ち社会においては。正常人が作り上げてきた共同幻想を破壊することと等しいことだから。
イザナミはとてもよいことを言っている。
「一日に千人死者を増やしてやろう」
だから、わたしの言っている前向きの自殺を、正常人でもよく見られる後ろ向きの自殺と誤読するのは、正常人たるあなたたちにとって必要なことなのだ。イザナギ側のあなたたちにとって。
それもわかっている。
わかっているから、もう何も言いたくなくなる。何言っても無駄だと思えてくる。誤読されていいよもう、と思う。
こうやってわたしは抑鬱状態に入る。
愛してる? 愛してる? 愛してる?
繰り返す問いかけの答えを今は 僕も知らない
時という船の行く先を
あ、大事なことを書き忘れていた。
「他人を知りたい」だけじゃない。わたしはわたしを知りたい。
その結果の一つが、「本当の愛など存在しない」というわたしなる物体の本性だ。
愛なるものに対し獣のように怯えているわたしがいた。
その時のわたしも、今のわたしも、お互いに疑っている。
他人が言うような統合された事物としてのわたしになれない。
他者と関われば関わるほど、わたし同士の警戒は強まっていく。
大体の自殺って過去に積み重ねた自分を根拠に、「もういやだ」とかなる故の自殺であって。後ろ向きな自殺。
そうなんだよね。正常人にとって生死の境は遠い過去のものなんだから。生後二年以内に通過している人たちなんだから。
だから、正常人は、人の生死を特別視できる。大事にできる。わたしから見ればコントやお芝居のようなそれを、言動の根拠にできる。
わたしは、ある世界にずっと振り回されていた。それはこの記事に書いてあるような世界。華厳の極楽。
この世界は普通の日常の世界と同じだ。だけど違う。正常人たちはこの世界が見えないらしい。ヒステリー盲目だ。この世界は彼らにとって遠い過去の最大の心的外傷だから、無意識が抑圧・棄却する。
彼らは心の奥底にこの世界を仕舞い込めている。だけどわたしにとってそれは、今目の前にあるものだ。
わたしは自分勝手にこの世界に振り回されてきた。周りの人たちの、同じ世界を知っているんじゃないか、という思わせぶりな言動に振り回されてきた。この世界を知っているんじゃないか、と思って会話すると、必ず裏切られた。
そりゃそうなのだ。彼らにとってその世界は、幻想たる自分なるものの根拠であるから、わたしが「知っているんじゃないか」と思うのも当然で、同時に最大の心的外傷でもあるから、わたしがその世界について語ろうとするとそっぽを向くのも当然。
二階堂奥歯はうまくやったな。あれなら普通の後ろ向きな自殺と思われにくいだろう。恍惚の死。
知りたいだけなんだ。「世界に存在することへの違和感」の原因を。もっとも恐ろしくてもっとも美しいそれを。これを知らない限り、わたしは正常人になれない。この世界を心の奥底に仕舞い込むことなんてできない。
二階堂奥歯の自殺は、自分が成長するための死だ。正常人たちが作り上げた共同幻想に参入するための死だ。
断言できる。
わたしもそうだから。
わたしは成長したい。正常になりたい。何食わぬ顔で、「世界に存在することへの違和感」を感じないまま生きていきたい。
そのためには、この世界を知らなければならない。この世界に足を踏み入れなければならない。
その手段の中でもっとも容易で確実な一つが、自殺なのだ。それ以外の手段は、困難だ。
この世界を過去にしてしまわなければならない。無意識の奥底に仕舞い込まなければならない。眼前にある世界を。
多くの人が生後二年以内に経験する儀式を、随分と遅れてやっただけなのだ。二階堂だけではない。多分、アスペルガー症候群者の殺人犯も同じだ。他殺も一つの手段となりえる。
ここでわたしが言っていることは、多くの人が理解できないことだろう。あなたたちは既に儀式を終えて久しいから。
前向きな自殺。
多分、わかってくれそうにないから、できない。正常人たちがする普通の後ろ向きな自殺と思われるのが癪だから。
生きる価値がないからする自殺ではなく、死ぬ価値がある第一歩。成長の一歩。探検の一歩。去勢。
後ろ向きなところもないわけではない。わたしは一秒前のわたしすら信じられないけれど、他人から見ればそういったものを統合した事物が幻想たるわたしなるものである、ということはわかっているから。知識として。
だけど、知識にすぎない。ただのルール。裏打ちがない。
この裏打ちを排泄するための死でもある。
多分、二階堂奥歯は、あの世で正常人たちとうまくやっていけてるだろう。もう二度とこの世界を、「世界に存在することへの違和感」を語ることはないだろう。
そうなのだ。語らないようにするための死なのだ。禁忌を禁忌として認知するための死なのだ。
だからむしろ語ろうとする『だいにっほんシリーズ』のいぶきは完全に違う。でも元々死者だから……あーややこしや。作者の主観世界に、いぶきが語ろうとしている「奪われた歴史」のただ中を、禁忌など存在しない故正常人から見れば禁忌そのものとなる世界を、その実体を生きている人間は存在していないのだろう。それがテクスト全体の症状として表れた、というのがもっとも辻褄の合う解釈になるな。笙野は一度死んだことのある火星人しか描けない、つまり地球人しか彼女の主観世界には存在しない、ということだ。何故火星人の歴史は奪われてきたのか。それは地球人にとって禁忌だからだ。それでもなおわたしに語らせようとするならば、わたしはこう叫ばなければならない。「未去勢者たちよ、キチガイたちよ、人でありながら人になりきれない者たちよ、笙野頼子は違った。あちら側の人間だった。彼女の甘言に弄されるな」と。松浦理英子や戸川純はまだわからない。二階堂奥歯や谷山浩子はこちら側とわたしは診断する。アルトーや草間彌生は診断通りで異論はない。あ、もちろんの話だがフロイトやラカンやクラインやドゥルーズやガタリやクリステヴァもあちら側よ。よくこちら側を観察できていると思うが。あちら側のさらにあちらにいるのがユングやデリダとかだな。彼らはむしろ遠すぎるからこそ近い、とも言える。『アンチ・オイディプス』における「器官なき身体の二極点がパラノイアとスキゾフレニーだ」って論には同意する、という話。ジジェクとか小者すぎてどうでもいい。
多分、笙野頼子も前向きな自殺を理解できない一人だろう。だからわたしが自殺したとしても後ろ向きな自殺と解釈すると予測できる。
それが癪だ。
血縁者にどう思われるかは結構どうでもいい。恐らくわたしが死んでもっとも悲しむ人たちだろうから。その大いなる悲しみが、わたしが足を踏み入れたがっている世界の一端でもある。わたしが今見ている方向とは逆から見た場合の一側面。
知りたいだけ。把握したいだけ。所有したいだけ。それを。この世界を。そうすれば、他の正常人たちが普通にできているように、それを、この世界を無意識の奥底に仕舞い込むこともできる。
二階堂は、この世界と直面して、自分を苦しめていた周りの正常人(傍から見れば彼女のよき理解者であった雪雪氏も含まれる)を許した。
わたしはどうだろう。
今の感覚を根拠にして予測するならば、どうでもいい。わたしがそれを知りたいだけだから、他人は関係ない。ああ、この「どうでもいい」が許しとなるのか。
……絶対理解してもらえないんだろうな。
ああ癪だ。それなら自殺じゃなく大勢を他殺する方が、とすら思えるが、幻想のルール上それは難しい。自殺の方が容易で確実だ。心中の方がもっと確実だけど、容易じゃなくなる。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の男の見下げたような笑いが頭から離れない。わたしは、彼という統合された事物ではなく、その一瞬の彼を殺してやりたい、と思っている。この他殺ならば、この世界に足を踏み入れる一歩となりえる気がする。
だけど、その一瞬の彼はもうどこにもいない。
ただあるのは、彼への殺意を今のものとして感じているこの一瞬のわたしだけだ。
この一瞬のわたしを殺さなければ、幻想たる統合された事物としてのわたしが生きられない。
それは、今わたしを取り囲んでいる世界に足を踏み入れることだ。探検だ。探検から生還できれば、わたしはめでたく正常人の仲間入りだ。二度とこの世界のことは口に出さなくなるだろう。
癪だ。癪だ。癪だ。
殺意や憎悪を根拠にわたしは今生きている。この世界への知的好奇心を抑制している。
だけど、今流している涙が、知的好奇心を煽っている。前向きな自殺を唆している。
ある自閉症者はこう言う。
「自分には命の大切さがわからない」
当然である。自分で他殺や自殺をしたことをないから「わからない」となって「知りたい」となるのである。
自分で他殺や自殺をしたこともないのに命の大切さをわかったつもりでいられる正常人の方が異常者なのだ。
どちらの言い分が正しいのか冷静に考えてみればすぐわかることなのに、誰も気づかないフリをしている。
このようなパラノイアックな精神疾患が、正常であるということだ。
一生ごっこ遊びの中だけで生き続けられる集団性の異常心理が、正常であるということだ。
イベントの仕事で、産廃処理施設に付き合って行ったことがある。
呆れるほど巨大な穴の中に、バラしたパネルやらパンチカーペットやらを放り込んでいく。
穴の底には、色とりどりの廃棄物が溜まっていた。
あの穴の底も、この世界らしい一つだ。
以前、飲茶に「脂さんは他人に認めてもらいたがっている。チャットで自分の記事が取り上げられたことを言いたがるのがその証拠。それが過剰なんじゃないか」と言われたことがある。わたしは内心違和感を感じながら、そうかもしれない、とも思った。あんまり反論しなかったんじゃないかな。
今の言葉で言うと、わたしは逆精神分析なる自分の論説というメスの鋭さを上げるためにそう言っていた、となる。「他人に認められたい」というより「他人を知りたい」わけだ。正常人は隠蔽劣化が上手だ。ラカン論でもそれは明らかである。真理を隠蔽するためにシニフィアン群が隠喩的に連鎖している。この隠蔽劣化を切り刻むメスとして、「わたしの言っていることはトンデモ論なんかではない」という意味を示すことで、要するに権威づけすることで、その鋭さを上げようとしていた。
他人に認めてもらうことは一つの道具にすぎないんだな。他人の本性を知るための。わたしにとって。
あと、自分の言っていることが理解できる人がいるかもしれない、この世界を知っている人がいるかもしれない、正常な世界に存在することへ違和感を感じている人が他にもいるかもしれない、という希望。それはあった。この希望がなければとっくに死んでると思う。これは、目的語が「わたしを」ではなく「この(わたしの主観)世界を」だったならば、他人に認めもらいたがる気持ちと言えるかもしれない。わたしがまんこちゃんに指摘したことだ。だけどわたしは、一度認めてもらっても疑ってしまう。認めてもらった瞬間のわたしを今のわたしが疑ってしまうからだ。「わたしは、あなたは、本当に愛してるの?」となる。本性を知りたい、の方が優先してしまう。チャットでのあるみん曰く「キチガイじみたドリル」の噂は聞いておろう。
他人に認められたら他人を認めることができる、他人を認めたら他人に認められる、という思考回路が重要なんだ。こういった鏡像的な思考回路が無意識に固定観念的に存在しているかどうか。存在しているのが正常人。要するに、他人に認めてもらいたがっていることと他人を認めることは別物、という話。別物になっていないのが正常人。「私はお前を認めた・愛した・信じたからお前も私を認めなさい・愛しなさい・信じなさい」となるのが問題であって、認めたがる(知りたがる)・愛したがる・信じたがることまでキチガイから剥奪するつもりはない。それらの本質には死の欲動が、部分欲動がある。汚らわしい獣の欲情がある。「他者」など関係ない身勝手で統御されえない内面の粘着・流動・分散がある。予測できない、言葉にしがたいこの欲動をたとえばそれらの言葉で表現しただけだ。
この記事で言うところの「大文字の他者に甘えられたら正常人、ただし「甘えたい」と「甘えることができる」は別物」ということだ。大文字の他者あるいは小文字の他者に無意識的に甘えることが、おもねることができるから、正常人は隠蔽劣化上手になる。本来身勝手な内面の粘着・流動・分散が統御される。
この隠蔽劣化の原因こそが、まんこちゃんとの議論で述べた「真理というストッパー」だ。正常人が正常であるための条件たるファルスだ。再び鏡像段階以前の主観世界に、獣道の世界に戻らないようにするための抑圧者だ。
正常人即ち神経症者特有のこの隠蔽劣化を破壊するためなら、上から叩き落すもあり下から引きずり落とすもあり相手を油断させるもあり、なんでもやる。なんでもやってきた。精神分析を学ぶ以前から。精神分析を学ぶことで、わたしがやってきたやろうとしている行為をうまく説明できるようになった。
わたしは相手の本性を知りたいだけだった。
「本当に愛してるの?」と聞くことで「本当の愛など存在しない」というラカン論的な意味での現実をまず共有したかった。前提なのだ、これは。わたしという存在の。
だけどファルスとはよく言ったものだ。相手の本性をいじくると勃起する。正常人にとっての正常人であるための条件ってすごくうまくできていると思う。ファルスが勃起することとは全てのシニフィアン群への隠喩的作用が強化されるということだ。即ち固定観念的な思考回路がどんどん固定化即ち正常化していく。パラノイア化していく。
つまり、本性を知ろうとすればするほど相手は本性を隠蔽劣化しようとする。
本性をむき出しにすると、不幸が訪れるから。正常人が作り上げてきた共同幻想即ち社会においては。正常人が作り上げてきた共同幻想を破壊することと等しいことだから。
イザナミはとてもよいことを言っている。
「一日に千人死者を増やしてやろう」
だから、わたしの言っている前向きの自殺を、正常人でもよく見られる後ろ向きの自殺と誤読するのは、正常人たるあなたたちにとって必要なことなのだ。イザナギ側のあなたたちにとって。
それもわかっている。
わかっているから、もう何も言いたくなくなる。何言っても無駄だと思えてくる。誤読されていいよもう、と思う。
こうやってわたしは抑鬱状態に入る。
愛してる? 愛してる? 愛してる?
繰り返す問いかけの答えを今は 僕も知らない
時という船の行く先を
あ、大事なことを書き忘れていた。
「他人を知りたい」だけじゃない。わたしはわたしを知りたい。
その結果の一つが、「本当の愛など存在しない」というわたしなる物体の本性だ。
愛なるものに対し獣のように怯えているわたしがいた。
その時のわたしも、今のわたしも、お互いに疑っている。
他人が言うような統合された事物としてのわたしになれない。
他者と関われば関わるほど、わたし同士の警戒は強まっていく。