「モノの殺害」
2009/02/03/Tue
「モノの殺害」について書かなくてはならない、という強迫観念から逃げられない。従って応急処置で以下書く。
まずこの記事を読んで欲しい。
……読んだ? おけ。この記事最近の中では一番いい出来だと本人は思っている。なんにとってかはわからんけど。
あとどこだっけか。ああめんどくさい。ここでいっか。
=====
現実は所有できない。所有という概念そのものが幻想であるため、所有できたと思ったものは既に幻想なのである。
=====
ああ一応リンクしてるとこも読んでね。今回は応急処置で親切に説明しないから。常連読者どもは別にどうでもいいや。
笙野頼子は自論における「仏教的自我」について、ブッダが国を所有していたことを強調している。所有と「仏教的自我」なるものとの関わりとは。
まー多くのラカニアンは「あーはいはい「所有」ね」って思うだろうな。ラカン論でも結構なキーワードなのだよ。「所有」って。
じゃあざっくり説明するね。
上で書いたように「所有すること」というのはあくまで概念である。即ち現実ではない。
あなたは道端で拾った小石を所有している。手の中に握っている。
これはこうも言い換えられる。
道端に落ちていた小石に人間の手が覆いかぶさった。次の瞬間小石は人間の手にくるまれている。
この文章に「所有」なる概念は存在しない。
もっとわかりやすいのは土地だよな。「土地を所有している」って今手に持っているわけじゃないじゃん。現実ではないあるルール(それこそ言語ゲーム)に従って定められた幻想としての「所有」。
むしろ「手に何かを持つ」ことだって概念である、とも言える。概念というとちょっとぶっ飛んじゃうから言い直すと、ロボットアームとか想像してみそ。「アームが何かを持つ」という動作はプログラミングやらにより、さまざまなモーターやら減速器やらシリンダーやらという各部品の作動を統御してなされる行為である。人間だって同じだわね。金属じゃなくタンパク質になるだけで。っていうのが認知心理学の考え方。ちなみに減速器はやっぱドイツ製がいいよ。精密さが。小型モーターやらセンサーは日本で充分だけどね。お世話になりました。
ともかく、モーターやら減速器やらシリンダーやらという各部品の作動を、「持つ」という動作を目的としたプログラミングで統御している。この統御がポイント。
たとえばこの統御がうまく行われていなかったりしたら。人間というロボットに。
目というセンサーで小石を認知する。拾おうと思う。違う場所をつまんだりすることもあろうね。作動の統御がうまく行われていなかったら。
こういうことが赤ん坊に起こっていないとは限らないわけだ。
そもそも、赤ん坊の視覚聴覚嗅覚は、そのセンサーとしての機能は、大人のように発達していないことがわかっている。センサーそのものがさまざまな情報を事後的に入力されて大人が持っているセンサーへと成長していく。
センサーがそうなわけだから、赤ん坊の統御がうまく行われていないことは明らかだろう。つーか「統御」って概念そのものが、どっか一箇所作動がおかしかったら「統御がうまく行われていない」となるわけで。
どっかで書いてなかったっけ。さっきと同じんとこでいいや。
=====
「歩く」という日常的な動作でさえファルス(無学フェミニストどもがぎゃーぎゃー言うなら中枢性統合って換言してあげてもいいよ)の統合機能が働いている。
=====
赤ん坊って歩けないわけじゃん。歩くようになるのは生まれてから以降。ともかく、赤ん坊に「歩く」という動作の統御が行われていないのは明らか。
んじゃ「持つ」という動作の統御もうまく行われていないと考えるのが自然だわね。確かに「歩く」より簡単な動作だけど。ロボット研究史でもそうじゃん。「持つ」ロボットより「歩く」ロボットの方が作んの難しい、ってこと。だからASIMOがぎゃーぎゃー騒がれた。
未だ「持つ」という動作の統御がうまく行われていない赤ん坊の世界。未だ「所有」という概念即ち幻想を学習していない赤ん坊の世界。それが最初のリンク先で紹介した、谷山浩子の『ゆりかごの歌』の世界だ、とわたしは言いきる。直観で。むしろ実体験で。
「所有」という統御あるいは概念を未だ学習していない赤ん坊の主観世界で、何故モノたちは「人は人を殺せる」とささやきかけるのか。
「所有」という統御あるいは概念を未だ学習していない赤ん坊にとってのモノは、所有できないものだ。ゆりかごから見るモノたちは手の届かないところにある。「所有」を学んで初めてモノたちは「所有可能なモノ」と認知される。
この「所有可能なモノ」という認知がミソだ。
「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノと、「所有」という概念がベースにある主観世界における「所有可能なモノ」たちは別物だ。「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノこそが物自体なる概念に親近しているものだとし、物自体的なモノが殺害される、という意味で語られたのがラカン論における「モノの殺害」なわけだ。
「殺害」とかんなオーバーな、と思われるかもしれない。だがちょっと待って欲しい(2ちゃん口調で読んで)。
人間は、実際に所有不可能なモノでさえ「所有」してしまう。先に言った通り土地などまさにそうだ。海だって「領海」などは国の所有物として認識されている故定立する概念である。それを考えると、人間たちは地球そのものでさえ「所有可能なモノ」と見做していると言える。人間は周りにあるもの全てを「所有可能なモノ」と見做せる。当然よね、そもそも「所有」っていうことが幻想なわけだから。
つまり、「所有」という概念がベースにあるわたしたちにとって、「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノたちは、既に存在していないのだ。
そういう逆立ちした見方でモノを考えようぜ、みたいな感じが「モノの殺害」という言葉には含意されている。つーかわたしはそこらにあるラカン本で説明している通りの話をしているだけ。
存在させないようにするわけだから「殺害」。簡単な話。
赤ん坊の話に戻る。赤ん坊にとってモノと人間の区別はついてないだろう、って説明しなきゃいけない? めんどいなー。「モノ」も「人間」もあくまで概念。言葉で考えてる限り何やっても概念。だから言葉を覚えていない赤ん坊にとっては「モノ」という概念も「人間」という概念もあるわきゃないよね。ってぐらいでいい?
言葉を覚えているわたしたち向けに言うならば、「モノ」とか「人間」とか言葉で区分けされている頭をごちゃごちゃにしちゃえー、ぐらい言わなきゃいけない。区分け自体が存在していないという意味で……ってめんどいなー。「ごちゃごちゃ」でいいよもう。感じとしては。
ちなみに「モノ」と「人間」の区別を根拠のあるものとして覚える過程が鏡像段階。今日はそこまで話しないと思う。この過程に不具合がある人は、不具合ない人より、「モノ」と「人間」の区別は曖昧になるだろうね。わたしは自閉症はこの過程に決定的不具合があるのが原因となっていると考えているから、定型発達者より自閉症者の方が「モノ」と「人間」の区別は曖昧になるだろう。理屈的に。今ぱっと思い出したこの記事の一文だけ引用しとく。
=====
よく自閉症の人の恋愛は、相手をモノとしてしか見ないと言われますが、もしこれがそうなら、その通りだと認めざるを得ません。タカラモノです。
=====
これはむしろ恋愛という場面において自閉症者の「モノ」と「人間」の区別の曖昧さが浮き彫りになる、と考えた方がわかりやすいとわたしは思う。即ち、むしろ恋愛という場面において定型発達者は「モノ」と「人間」の区別をつけたがる、という逆立ち視点。わたしがよく言う「正常という精神疾患」ってのも逆立ち。
まあここんとこはこれぐらいで。
赤ん坊にとって「モノ」と「人間」の区別はついてない。従って「モノの殺害」は「人間の殺害」ともなりえる。そもそも「モノ」と「人間」の区別が事後的なものだから。
だから別に「人は人を殺せる」は「人はモノを殺せる」でも「モノは人を殺せる」でも「モノはモノを殺せる」でもいいわけだ。いいんだけど、赤ん坊とか実際に殺せないだけで、みんな「赤ん坊がそんなこと考えるわけがない」って思っちゃうわけじゃん。区別がついていないことが重要なわけで、区別がついているわたしたちにパンチを喰らわせるために、区別がついているわたしたちがもっとも忘れがちな「人は人を殺せる」場合を補完させた歌詞だ、みたいな解釈をしておこう。
「所有」などという統御。「モノ」と「人間」の区別。これらが既に存在しているわたしたちの主観世界において、これらが未だ存在していない赤ん坊の主観世界はもう既に存在していない。即ちフロイトの「子供時代はそのものとしてもうない」でありラカンの「女(ファルスを持っていない人間)は存在しない」だ。
正常な大人たちの主観世界ではそれが存在していないことすら存在していない。殺害した過去を覚えていない。存在していないということはそういうことだからだ。
とはいえ、この正常な大人には存在しないはずの主観世界が、ある時ふと甦る場合だってあろう。それが分裂症(あえてこう言う)という病気である。
分裂症は病気である。苦痛を伴うものである。従って分裂症に罹った者たちは必死に元に戻ろうとする。周りにある物自体的なモノたちを再度殺害しようとする。「モノ」と「人間」の区別以前の主観世界なわけだから、物自体的なモノたちには人間も含まれる。体は大人になっているわけだから、赤ん坊と違い実際に人間を存在させないようにできる。殺害できる。
これが殺人(自殺他殺問わず)を犯す分裂症者たちの主観世界である。正常な大人が想像できるような犯行動機ではないのだ。何故ならその主観世界を失うことが正常であるということだから。
……そういう感じのことをここでは述べておきたい。
補足しておく。「分裂症」という言葉は、現代で言う統合失調症とほぼ等しいものと考えてよい。しかし、わたしは谷山浩子はスキゾイドだと個人的な診断をしている。
統合失調症との境界例としてスキゾイドという概念は作られたわけだが、たとえばスキゾイド症状がひどくなっても統合失調症にはならない事実がわかっている。むしろアスペルガー症候群の受動型がスキゾイドと等しい実体ではないか、とわたしは最近考えている。とはいえスキゾイドが自閉症と結びつく確固たる理屈はない。ここら辺のごちゃごちゃはこの記事で整理しておいた。
この記事における「分裂症」は、そういった境界例も含ませたかったので、定義としてわざと曖昧化させるためにそう書いた。実際『アンチ・オイディプス』では自閉症も分裂症の一種として描かれている。
そんな感じ。便秘の時の無理矢理出すうんこでした。
『よその子』とかまさに『アンチ・オイディプス』言うところの「無意識の本質は孤児である」っぽいな。笙野の『金毘羅』とも通ずる。
だめだなんかもう。笙野の言っていること全部「正常人バンジャーイ」にしか聞こえない。ラカン論のファロセントリスムと同じ。実体は。言い方が違うだけで。正常人(ラカン論ではイコール神経症者)の実体を描けているという意味で笙野の思想はすげえ、とも言える。
考えれば考えるほどそうなる。辻褄が合ってしまう。
多分、坂東眞砂子との猫殺し論争も一つのきっかけなんだろうな。むしろ坂東がスキゾイド臭い。思想が。アスペルガー症候群者って外人と結婚すること多いらしいしね。よく知らないから診断とは言わないけど。笙野と等しく中二病なだけの可能性も否定しない。ただ子猫を崖から「棄てる」っていう点が微妙だな。本当にスキゾイドあるいはスキゾフレニックな境界例だったら解剖だろ。それを把握(即ち所有)したくて機械やら人形やらというモノをバラす(ここのコメント欄参照)。だから「棄てるぐらいなら飼うな」という反論は意外と納得できる。わたしなら、解剖した後の肉片をどう処理するかめんどくさそうだからやらない、となる。現時点一番わけわからなくて興味をそそる正常人の精神を切り刻めているから。猫に興味が向いたらどうなるかわからない。実家では犬飼ってたけどもっそい嫌われてたな。生まれたばかりの子犬をいじくり倒して殺しかけてすっげえ怒られた記憶がある。獣にもなんらかの統御機能、つまりファルスもどきはあるだろう。それが多分猫より犬の方が強い気がする。犬は忠実、猫は気まぐれ。『アンチ・オイディプス』風に言うなら犬はモル的、猫は分子的。
猫にそんなに思い入れのないわたしはどっちでもいい。それこそ「猫」と「モノ」の区別は曖昧だろう。笙野と比べて。
ああもう、いやだ。
まずこの記事を読んで欲しい。
……読んだ? おけ。この記事最近の中では一番いい出来だと本人は思っている。なんにとってかはわからんけど。
あとどこだっけか。ああめんどくさい。ここでいっか。
=====
現実は所有できない。所有という概念そのものが幻想であるため、所有できたと思ったものは既に幻想なのである。
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ああ一応リンクしてるとこも読んでね。今回は応急処置で親切に説明しないから。常連読者どもは別にどうでもいいや。
笙野頼子は自論における「仏教的自我」について、ブッダが国を所有していたことを強調している。所有と「仏教的自我」なるものとの関わりとは。
まー多くのラカニアンは「あーはいはい「所有」ね」って思うだろうな。ラカン論でも結構なキーワードなのだよ。「所有」って。
じゃあざっくり説明するね。
上で書いたように「所有すること」というのはあくまで概念である。即ち現実ではない。
あなたは道端で拾った小石を所有している。手の中に握っている。
これはこうも言い換えられる。
道端に落ちていた小石に人間の手が覆いかぶさった。次の瞬間小石は人間の手にくるまれている。
この文章に「所有」なる概念は存在しない。
もっとわかりやすいのは土地だよな。「土地を所有している」って今手に持っているわけじゃないじゃん。現実ではないあるルール(それこそ言語ゲーム)に従って定められた幻想としての「所有」。
むしろ「手に何かを持つ」ことだって概念である、とも言える。概念というとちょっとぶっ飛んじゃうから言い直すと、ロボットアームとか想像してみそ。「アームが何かを持つ」という動作はプログラミングやらにより、さまざまなモーターやら減速器やらシリンダーやらという各部品の作動を統御してなされる行為である。人間だって同じだわね。金属じゃなくタンパク質になるだけで。っていうのが認知心理学の考え方。ちなみに減速器はやっぱドイツ製がいいよ。精密さが。小型モーターやらセンサーは日本で充分だけどね。お世話になりました。
ともかく、モーターやら減速器やらシリンダーやらという各部品の作動を、「持つ」という動作を目的としたプログラミングで統御している。この統御がポイント。
たとえばこの統御がうまく行われていなかったりしたら。人間というロボットに。
目というセンサーで小石を認知する。拾おうと思う。違う場所をつまんだりすることもあろうね。作動の統御がうまく行われていなかったら。
こういうことが赤ん坊に起こっていないとは限らないわけだ。
そもそも、赤ん坊の視覚聴覚嗅覚は、そのセンサーとしての機能は、大人のように発達していないことがわかっている。センサーそのものがさまざまな情報を事後的に入力されて大人が持っているセンサーへと成長していく。
センサーがそうなわけだから、赤ん坊の統御がうまく行われていないことは明らかだろう。つーか「統御」って概念そのものが、どっか一箇所作動がおかしかったら「統御がうまく行われていない」となるわけで。
どっかで書いてなかったっけ。さっきと同じんとこでいいや。
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「歩く」という日常的な動作でさえファルス(無学フェミニストどもがぎゃーぎゃー言うなら中枢性統合って換言してあげてもいいよ)の統合機能が働いている。
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赤ん坊って歩けないわけじゃん。歩くようになるのは生まれてから以降。ともかく、赤ん坊に「歩く」という動作の統御が行われていないのは明らか。
んじゃ「持つ」という動作の統御もうまく行われていないと考えるのが自然だわね。確かに「歩く」より簡単な動作だけど。ロボット研究史でもそうじゃん。「持つ」ロボットより「歩く」ロボットの方が作んの難しい、ってこと。だからASIMOがぎゃーぎゃー騒がれた。
未だ「持つ」という動作の統御がうまく行われていない赤ん坊の世界。未だ「所有」という概念即ち幻想を学習していない赤ん坊の世界。それが最初のリンク先で紹介した、谷山浩子の『ゆりかごの歌』の世界だ、とわたしは言いきる。直観で。むしろ実体験で。
「所有」という統御あるいは概念を未だ学習していない赤ん坊の主観世界で、何故モノたちは「人は人を殺せる」とささやきかけるのか。
「所有」という統御あるいは概念を未だ学習していない赤ん坊にとってのモノは、所有できないものだ。ゆりかごから見るモノたちは手の届かないところにある。「所有」を学んで初めてモノたちは「所有可能なモノ」と認知される。
この「所有可能なモノ」という認知がミソだ。
「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノと、「所有」という概念がベースにある主観世界における「所有可能なモノ」たちは別物だ。「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノこそが物自体なる概念に親近しているものだとし、物自体的なモノが殺害される、という意味で語られたのがラカン論における「モノの殺害」なわけだ。
「殺害」とかんなオーバーな、と思われるかもしれない。だがちょっと待って欲しい(2ちゃん口調で読んで)。
人間は、実際に所有不可能なモノでさえ「所有」してしまう。先に言った通り土地などまさにそうだ。海だって「領海」などは国の所有物として認識されている故定立する概念である。それを考えると、人間たちは地球そのものでさえ「所有可能なモノ」と見做していると言える。人間は周りにあるもの全てを「所有可能なモノ」と見做せる。当然よね、そもそも「所有」っていうことが幻想なわけだから。
つまり、「所有」という概念がベースにあるわたしたちにとって、「所有」という概念が存在しない主観世界におけるモノたちは、既に存在していないのだ。
そういう逆立ちした見方でモノを考えようぜ、みたいな感じが「モノの殺害」という言葉には含意されている。つーかわたしはそこらにあるラカン本で説明している通りの話をしているだけ。
存在させないようにするわけだから「殺害」。簡単な話。
赤ん坊の話に戻る。赤ん坊にとってモノと人間の区別はついてないだろう、って説明しなきゃいけない? めんどいなー。「モノ」も「人間」もあくまで概念。言葉で考えてる限り何やっても概念。だから言葉を覚えていない赤ん坊にとっては「モノ」という概念も「人間」という概念もあるわきゃないよね。ってぐらいでいい?
言葉を覚えているわたしたち向けに言うならば、「モノ」とか「人間」とか言葉で区分けされている頭をごちゃごちゃにしちゃえー、ぐらい言わなきゃいけない。区分け自体が存在していないという意味で……ってめんどいなー。「ごちゃごちゃ」でいいよもう。感じとしては。
ちなみに「モノ」と「人間」の区別を根拠のあるものとして覚える過程が鏡像段階。今日はそこまで話しないと思う。この過程に不具合がある人は、不具合ない人より、「モノ」と「人間」の区別は曖昧になるだろうね。わたしは自閉症はこの過程に決定的不具合があるのが原因となっていると考えているから、定型発達者より自閉症者の方が「モノ」と「人間」の区別は曖昧になるだろう。理屈的に。今ぱっと思い出したこの記事の一文だけ引用しとく。
=====
よく自閉症の人の恋愛は、相手をモノとしてしか見ないと言われますが、もしこれがそうなら、その通りだと認めざるを得ません。タカラモノです。
=====
これはむしろ恋愛という場面において自閉症者の「モノ」と「人間」の区別の曖昧さが浮き彫りになる、と考えた方がわかりやすいとわたしは思う。即ち、むしろ恋愛という場面において定型発達者は「モノ」と「人間」の区別をつけたがる、という逆立ち視点。わたしがよく言う「正常という精神疾患」ってのも逆立ち。
まあここんとこはこれぐらいで。
赤ん坊にとって「モノ」と「人間」の区別はついてない。従って「モノの殺害」は「人間の殺害」ともなりえる。そもそも「モノ」と「人間」の区別が事後的なものだから。
だから別に「人は人を殺せる」は「人はモノを殺せる」でも「モノは人を殺せる」でも「モノはモノを殺せる」でもいいわけだ。いいんだけど、赤ん坊とか実際に殺せないだけで、みんな「赤ん坊がそんなこと考えるわけがない」って思っちゃうわけじゃん。区別がついていないことが重要なわけで、区別がついているわたしたちにパンチを喰らわせるために、区別がついているわたしたちがもっとも忘れがちな「人は人を殺せる」場合を補完させた歌詞だ、みたいな解釈をしておこう。
「所有」などという統御。「モノ」と「人間」の区別。これらが既に存在しているわたしたちの主観世界において、これらが未だ存在していない赤ん坊の主観世界はもう既に存在していない。即ちフロイトの「子供時代はそのものとしてもうない」でありラカンの「女(ファルスを持っていない人間)は存在しない」だ。
正常な大人たちの主観世界ではそれが存在していないことすら存在していない。殺害した過去を覚えていない。存在していないということはそういうことだからだ。
とはいえ、この正常な大人には存在しないはずの主観世界が、ある時ふと甦る場合だってあろう。それが分裂症(あえてこう言う)という病気である。
分裂症は病気である。苦痛を伴うものである。従って分裂症に罹った者たちは必死に元に戻ろうとする。周りにある物自体的なモノたちを再度殺害しようとする。「モノ」と「人間」の区別以前の主観世界なわけだから、物自体的なモノたちには人間も含まれる。体は大人になっているわけだから、赤ん坊と違い実際に人間を存在させないようにできる。殺害できる。
これが殺人(自殺他殺問わず)を犯す分裂症者たちの主観世界である。正常な大人が想像できるような犯行動機ではないのだ。何故ならその主観世界を失うことが正常であるということだから。
……そういう感じのことをここでは述べておきたい。
補足しておく。「分裂症」という言葉は、現代で言う統合失調症とほぼ等しいものと考えてよい。しかし、わたしは谷山浩子はスキゾイドだと個人的な診断をしている。
統合失調症との境界例としてスキゾイドという概念は作られたわけだが、たとえばスキゾイド症状がひどくなっても統合失調症にはならない事実がわかっている。むしろアスペルガー症候群の受動型がスキゾイドと等しい実体ではないか、とわたしは最近考えている。とはいえスキゾイドが自閉症と結びつく確固たる理屈はない。ここら辺のごちゃごちゃはこの記事で整理しておいた。
この記事における「分裂症」は、そういった境界例も含ませたかったので、定義としてわざと曖昧化させるためにそう書いた。実際『アンチ・オイディプス』では自閉症も分裂症の一種として描かれている。
そんな感じ。便秘の時の無理矢理出すうんこでした。
『よその子』とかまさに『アンチ・オイディプス』言うところの「無意識の本質は孤児である」っぽいな。笙野の『金毘羅』とも通ずる。
だめだなんかもう。笙野の言っていること全部「正常人バンジャーイ」にしか聞こえない。ラカン論のファロセントリスムと同じ。実体は。言い方が違うだけで。正常人(ラカン論ではイコール神経症者)の実体を描けているという意味で笙野の思想はすげえ、とも言える。
考えれば考えるほどそうなる。辻褄が合ってしまう。
多分、坂東眞砂子との猫殺し論争も一つのきっかけなんだろうな。むしろ坂東がスキゾイド臭い。思想が。アスペルガー症候群者って外人と結婚すること多いらしいしね。よく知らないから診断とは言わないけど。笙野と等しく中二病なだけの可能性も否定しない。ただ子猫を崖から「棄てる」っていう点が微妙だな。本当にスキゾイドあるいはスキゾフレニックな境界例だったら解剖だろ。それを把握(即ち所有)したくて機械やら人形やらというモノをバラす(ここのコメント欄参照)。だから「棄てるぐらいなら飼うな」という反論は意外と納得できる。わたしなら、解剖した後の肉片をどう処理するかめんどくさそうだからやらない、となる。現時点一番わけわからなくて興味をそそる正常人の精神を切り刻めているから。猫に興味が向いたらどうなるかわからない。実家では犬飼ってたけどもっそい嫌われてたな。生まれたばかりの子犬をいじくり倒して殺しかけてすっげえ怒られた記憶がある。獣にもなんらかの統御機能、つまりファルスもどきはあるだろう。それが多分猫より犬の方が強い気がする。犬は忠実、猫は気まぐれ。『アンチ・オイディプス』風に言うなら犬はモル的、猫は分子的。
猫にそんなに思い入れのないわたしはどっちでもいい。それこそ「猫」と「モノ」の区別は曖昧だろう。笙野と比べて。
ああもう、いやだ。