自分のことに必死になっている人
2009/02/05/Thu
わたしが男女問わず好きになるタイプって、自分のことに必死になっている人だなあ、と前記事を読み返しながら思った。ドジっ子はまさにそういうタイプだった。
だけど、この「自分」というのが一般で言われているものと微妙にずれている。それは、自己愛じゃなく自体愛の対象となる自分だ。この違いを言葉にするのは難しい。一応仮に、「臭い」でそれを感じ取る、という言い方をここではしておく。
多くの人たちは、わたしが生きてきた経験から言うと、ざっくり八割以上は、自分のことに必死になっていても、自己愛的に自分に必死になっている。あと二割はグレー。これなら実験的に付き合ってみる価値はあるかもしれない、という感じ。だけど付き合っても大体裏切られる。そもそもが自体愛的なわたしと付き合っていると、相手にもあった自体愛的なそれがどんどん自己愛的なそれになっていく。「欲望のシーソー」とはああいう感じか、と思う。
だからわたしはグレーゾーンの人については、遠くから見るだけになった。自分から動こうと意識して動くことはあんまりない(いや、過剰防衛みたいなことはあるか……)。奇妙な緊張感を自分勝手に覚えながら、そういう人たちと付き合っている。
自己愛の対象としての自分と、自体愛の対象としての自分……。直観的にそう表現しているけれど、理屈で説明してみよっかな。
さて、ブログ界ではそこそこ有名らしい(嫌味じゃないよ。精神分析の社会方面への適用についてわたしが理解できていないだけで。そもそも社会自体をうまく理解していないのかもしれない。社会なるものに興味を向ける主体たちにとっての「社会」とわたしにとっての「社会」は別物だとすら思う。彼の論自体は評価しているものもある。この記事でパクってる奴とか)pikarrr氏とぎゃーぎゃーやり合った時、彼はこんなことを言った。
=====
精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
=====
その通りなのだ。正解も正解、大正解。さすがわたしが目を付けてた人(結構前からの読者なのよ)だけのことはある。
正常人即ち神経症者たちの主観世界には、他者の関わっていない環境は存在していない。たとえば主体が何かの物体を欲望したとしても「欲望とは他者の欲望である」と言われてしまう。
あるいはこう述べた方がいいだろうか。大文字の他者即ち象徴界ならば、具体的に言うと、そこに言語(記号)らしきものがあれば、判読もしていないのに「誰かからのメッセージだ」と人は思ってしまう。古代文明が残した文字とかまさにそう。「いや違う、それは宇宙人が書いた文字だ」とかトンデモ論であっても「宇宙「人」っつってんじゃん」とトンデモ(でもないけどね)屁理屈で反論できる。小文字の他者即ち想像界ならば、鏡像という他者(動物は鏡に映る姿を自分と認知できない)が根拠になっている、となる。また、この記事で山岸氏が述べているように、鏡に映っているのは自分以外のものも含まれる。鏡像ではなくガラスの表面に付着する埃がある。なのに、それらについて思考が及ばず、「鏡を見る」となると条件反射的に「自分を見る」こととなってしまう。そういう感じのこと。想像界についてだから「感じ」で説明した方がよいだろう。
要するに、右脳的思考回路も左脳的思考回路も他者を根拠にして成り立っている、となっちゃうわけだ。ラカン論では。
ただし、これらは正常人即ち神経症者のみに当てはまる理屈である。精神分析では非神経症即ち精神病(パラノイアや統合失調症)となるが、わたしは自閉症も非神経症だという立場を取っている。
また、これは余談めいた話だが、正常人即ち神経症者であっても、他者の関わっていない主観世界は「(象徴界の)穴」や「欠如」という形で存在している、などと述べられることもある。要するに「存在していないものとして存在している」というレトリックだわな。
この大文字小文字問わない他者という根拠は、無意識下に存在する。議論していた理屈じゃなくてpikarrr氏が述べていた文脈を分析する限り、彼も無意識で他者を思考回路の根拠にしている。彼は立派な正常人即ち神経症者だとわたしは診断する。あとはこの記事の追記1に貼ったリンク先とかも参考になろう。わたしに突っかかってきた相手とかとっても端的よね。無意識的に他者を思考回路の根拠にしている症状として。
根拠が無意識にあるから、正常人即ち神経症者はそれこそpikarrr氏のごとく「他者の関わっていない環境だってあるんじゃないか」などと思ってしまう。要するに無自覚なだけ。
本人が無自覚なだけで、大体の人間は他者を根拠に認識し思考し行動している。それはそれでいいのだ。何故ならそういった状態こそが精神医学における正常な状態なのだから。
本人が無自覚になってしまう根拠としての他者のあるなしが、先に述べた「自己愛の対象としての自分/自体愛の対象としての自分」の違いではないか、とわたしは考える。
理屈的にも大雑把に考えて矛盾しない。自体愛から自己愛への昇華は鏡像段階による。自体愛には鏡像的他者は存在せず、自己愛には存在する。そっから対象愛になるのは、自体愛の根拠になった鏡像的他者を無意識に抑圧する段階となろう。だから正常人即ち神経症者にとってそれは無自覚なこととなる。フロイト論ならば、この段階がエディプスコンプレックスである、となるだろう。クリステヴァ論ならば、自体愛の根拠となる前-対象あるいは部分対象を棄却する(アブジェクシオン)段階を経て、人は自己愛が可能な主観世界へと参入する、となろうか。
ざっくり言うと、ラカン論とフロイト論を併用したならば、わたしが考える「自体愛的に自分のことに必死になっている人」は、正常人即ち神経症者より遥か手前、二段階前の過程に留まっている人間だ、ということになる。
フロイト論ならばエディプスコンプレックスを経過し去勢される、となるが、ラカン論ならば生後十八ヶ月以内に経る鏡像段階において去勢される、となる。ラカン論を採用すれば、「自体愛的に自分のことに必死になっている人」とは未去勢者である、という理屈になる。
補足しておくと、未去勢者の主観世界に他者は存在しない、というわけではない。自他が混淆しているのである。この時の「他」は前-対象あるいは部分対象となる。ただ「自」も等しく前-対象あるいは部分対象となっている、という話である。
以上から、「自己愛的に自分のことに必死になっている人」における「自分」なるものは無意識に(ラカン論的な意味での)他者を根拠としている点で、本当の自分ではない、と言える。
ほとんどの「自分のことに必死になっている人」たちは、わたしには他者に何かしらの暗号を送受信しているように見える。眺めているだけなのに知らない間に巻き込まれていたりする。無意識に他者を根拠している人たちは、眺めているだけで何かしらの暗号を勝手に読み取ってしまう。
そういったことがないのが、「自体愛的に自分のことに必死になっている人」なのだ。
以上の説明は、実はわたしの主観世界においては実体験を根拠にして言える。未去勢者即ち「自体愛的に自分のことに必死になっている人」と去勢済みな主体即ち「自己愛的に自分のことに必死になっている人」は、表面上は非常によく似ているが、はっきり別物だと思えるからだ。
それは、いきなり卑俗な表現になってしまうが、野性の勘みたいなもの。本当に「臭い」としか表現できない非言語的な感じ。これを「プレコックス感」と繋げて考えてもおもしろいかもしれない。斎藤環の論文から引用する。
=====
この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
その人間の無意識下で他者が根拠になっているかどうか。根拠になっていないように感ずることが「プレコックス感」なるものではないだろうか。
わたしは未去勢者即ち「自体愛的に自分のことに必死になっている人」が好きだ、と書いたが、この「好き」も一般的な語用とずれている気がする。むしろ「興味が向く」という言い方の方が正確かもしれない。
八割以上のわたしセンサーによる失格者たちは、まるで外国語を、いやテレパシーを使っているんじゃないか、と思える時すらある。なんらかの電波を受信しているような。一般的にはわたしのような感覚を抱く者が「デムパ」と呼ばれることも承知しながらそう表現する。
非常に効率的で経済的な交信方法だと思える。正常であることとはなんと素晴らしいことか、などと資本家的視点で思ってしまう。しかしその素晴らしさは未去勢的な主観世界を経験しないと理解できないことだろう。彼らはそれを無意識的に即ち無自覚にやってのけているのだから。
この正常人の電波は、わたしの中にささやかながらもあるかもしれない、根拠として希薄な他者を狂わせる。
本当に、宇宙人たちの中でただ一人生きているような一瞬の感覚。
しかし、さみしくなどはない。「仲間を見つけよう」と積極的に動くこともあまりない。何故ならそこは物が悪意になっている世界だからだ。あらゆる物が「人は人を殺せる」とささやきかけてくる世界だからだ。
さみしいとか「仲間を見つけよう」とかそんな余裕はない。悪意から身を守ることで手一杯。
多分わたしも「自体愛的に自分のことに必死になっている人」なのだろう、と理屈を迂回して思える。
その必死さが理解できるから、相手がこちらに興味を向けたとしても、偶然のことであると理解できる。
そういう人を相手にしていると、わたしを襲ってくる確率は低くなる。合理的な判断である。
わたしの「自体愛的に自分のことに必死になっている人」が好きという気持ちは、合理的な判断を根拠にしている。
そういう人と接していれば、物から発する悪意や「人は人を殺せる」というささやきが和らぐエアポケット的な場にいることになるし、八割以上の正常人たちが発する他者を根拠にした電波のエアポケット的な場にいることにもなる。
緊張感は消えないけれど。
ただの身勝手で合理的な判断故の言い分。
「無意識の本質は孤児である」
たまには中二病者もいいこと言うじゃん。
某ブログに貼ってあったこれに中毒状態。
あとパール兄弟とか聞いてる。はーくちゅうのぅ、ナーイトメァー♪ ってこの曲だったんだ。これも懐かしい。ほかをあたるよー♪ つか梅図かずおにしか見えない。
ああこの曲すげー好きだったあああ。久しぶりに聞いた。泣ける。
不思議なくらいよく似てたね 生意気なあの日の二人
淡い恋も切ない歌も まだ知らずにいたね
恋すらうまくできないほど幼すぎた二人 傷ついて
恋人にも友だちにさえもなれなかった二人
だけど、この「自分」というのが一般で言われているものと微妙にずれている。それは、自己愛じゃなく自体愛の対象となる自分だ。この違いを言葉にするのは難しい。一応仮に、「臭い」でそれを感じ取る、という言い方をここではしておく。
多くの人たちは、わたしが生きてきた経験から言うと、ざっくり八割以上は、自分のことに必死になっていても、自己愛的に自分に必死になっている。あと二割はグレー。これなら実験的に付き合ってみる価値はあるかもしれない、という感じ。だけど付き合っても大体裏切られる。そもそもが自体愛的なわたしと付き合っていると、相手にもあった自体愛的なそれがどんどん自己愛的なそれになっていく。「欲望のシーソー」とはああいう感じか、と思う。
だからわたしはグレーゾーンの人については、遠くから見るだけになった。自分から動こうと意識して動くことはあんまりない(いや、過剰防衛みたいなことはあるか……)。奇妙な緊張感を自分勝手に覚えながら、そういう人たちと付き合っている。
自己愛の対象としての自分と、自体愛の対象としての自分……。直観的にそう表現しているけれど、理屈で説明してみよっかな。
さて、ブログ界ではそこそこ有名らしい(嫌味じゃないよ。精神分析の社会方面への適用についてわたしが理解できていないだけで。そもそも社会自体をうまく理解していないのかもしれない。社会なるものに興味を向ける主体たちにとっての「社会」とわたしにとっての「社会」は別物だとすら思う。彼の論自体は評価しているものもある。この記事でパクってる奴とか)pikarrr氏とぎゃーぎゃーやり合った時、彼はこんなことを言った。
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精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
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その通りなのだ。正解も正解、大正解。さすがわたしが目を付けてた人(結構前からの読者なのよ)だけのことはある。
正常人即ち神経症者たちの主観世界には、他者の関わっていない環境は存在していない。たとえば主体が何かの物体を欲望したとしても「欲望とは他者の欲望である」と言われてしまう。
あるいはこう述べた方がいいだろうか。大文字の他者即ち象徴界ならば、具体的に言うと、そこに言語(記号)らしきものがあれば、判読もしていないのに「誰かからのメッセージだ」と人は思ってしまう。古代文明が残した文字とかまさにそう。「いや違う、それは宇宙人が書いた文字だ」とかトンデモ論であっても「宇宙「人」っつってんじゃん」とトンデモ(でもないけどね)屁理屈で反論できる。小文字の他者即ち想像界ならば、鏡像という他者(動物は鏡に映る姿を自分と認知できない)が根拠になっている、となる。また、この記事で山岸氏が述べているように、鏡に映っているのは自分以外のものも含まれる。鏡像ではなくガラスの表面に付着する埃がある。なのに、それらについて思考が及ばず、「鏡を見る」となると条件反射的に「自分を見る」こととなってしまう。そういう感じのこと。想像界についてだから「感じ」で説明した方がよいだろう。
要するに、右脳的思考回路も左脳的思考回路も他者を根拠にして成り立っている、となっちゃうわけだ。ラカン論では。
ただし、これらは正常人即ち神経症者のみに当てはまる理屈である。精神分析では非神経症即ち精神病(パラノイアや統合失調症)となるが、わたしは自閉症も非神経症だという立場を取っている。
また、これは余談めいた話だが、正常人即ち神経症者であっても、他者の関わっていない主観世界は「(象徴界の)穴」や「欠如」という形で存在している、などと述べられることもある。要するに「存在していないものとして存在している」というレトリックだわな。
この大文字小文字問わない他者という根拠は、無意識下に存在する。議論していた理屈じゃなくてpikarrr氏が述べていた文脈を分析する限り、彼も無意識で他者を思考回路の根拠にしている。彼は立派な正常人即ち神経症者だとわたしは診断する。あとはこの記事の追記1に貼ったリンク先とかも参考になろう。わたしに突っかかってきた相手とかとっても端的よね。無意識的に他者を思考回路の根拠にしている症状として。
根拠が無意識にあるから、正常人即ち神経症者はそれこそpikarrr氏のごとく「他者の関わっていない環境だってあるんじゃないか」などと思ってしまう。要するに無自覚なだけ。
本人が無自覚なだけで、大体の人間は他者を根拠に認識し思考し行動している。それはそれでいいのだ。何故ならそういった状態こそが精神医学における正常な状態なのだから。
本人が無自覚になってしまう根拠としての他者のあるなしが、先に述べた「自己愛の対象としての自分/自体愛の対象としての自分」の違いではないか、とわたしは考える。
理屈的にも大雑把に考えて矛盾しない。自体愛から自己愛への昇華は鏡像段階による。自体愛には鏡像的他者は存在せず、自己愛には存在する。そっから対象愛になるのは、自体愛の根拠になった鏡像的他者を無意識に抑圧する段階となろう。だから正常人即ち神経症者にとってそれは無自覚なこととなる。フロイト論ならば、この段階がエディプスコンプレックスである、となるだろう。クリステヴァ論ならば、自体愛の根拠となる前-対象あるいは部分対象を棄却する(アブジェクシオン)段階を経て、人は自己愛が可能な主観世界へと参入する、となろうか。
ざっくり言うと、ラカン論とフロイト論を併用したならば、わたしが考える「自体愛的に自分のことに必死になっている人」は、正常人即ち神経症者より遥か手前、二段階前の過程に留まっている人間だ、ということになる。
フロイト論ならばエディプスコンプレックスを経過し去勢される、となるが、ラカン論ならば生後十八ヶ月以内に経る鏡像段階において去勢される、となる。ラカン論を採用すれば、「自体愛的に自分のことに必死になっている人」とは未去勢者である、という理屈になる。
補足しておくと、未去勢者の主観世界に他者は存在しない、というわけではない。自他が混淆しているのである。この時の「他」は前-対象あるいは部分対象となる。ただ「自」も等しく前-対象あるいは部分対象となっている、という話である。
以上から、「自己愛的に自分のことに必死になっている人」における「自分」なるものは無意識に(ラカン論的な意味での)他者を根拠としている点で、本当の自分ではない、と言える。
ほとんどの「自分のことに必死になっている人」たちは、わたしには他者に何かしらの暗号を送受信しているように見える。眺めているだけなのに知らない間に巻き込まれていたりする。無意識に他者を根拠している人たちは、眺めているだけで何かしらの暗号を勝手に読み取ってしまう。
そういったことがないのが、「自体愛的に自分のことに必死になっている人」なのだ。
以上の説明は、実はわたしの主観世界においては実体験を根拠にして言える。未去勢者即ち「自体愛的に自分のことに必死になっている人」と去勢済みな主体即ち「自己愛的に自分のことに必死になっている人」は、表面上は非常によく似ているが、はっきり別物だと思えるからだ。
それは、いきなり卑俗な表現になってしまうが、野性の勘みたいなもの。本当に「臭い」としか表現できない非言語的な感じ。これを「プレコックス感」と繋げて考えてもおもしろいかもしれない。斎藤環の論文から引用する。
=====
この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
その人間の無意識下で他者が根拠になっているかどうか。根拠になっていないように感ずることが「プレコックス感」なるものではないだろうか。
わたしは未去勢者即ち「自体愛的に自分のことに必死になっている人」が好きだ、と書いたが、この「好き」も一般的な語用とずれている気がする。むしろ「興味が向く」という言い方の方が正確かもしれない。
八割以上のわたしセンサーによる失格者たちは、まるで外国語を、いやテレパシーを使っているんじゃないか、と思える時すらある。なんらかの電波を受信しているような。一般的にはわたしのような感覚を抱く者が「デムパ」と呼ばれることも承知しながらそう表現する。
非常に効率的で経済的な交信方法だと思える。正常であることとはなんと素晴らしいことか、などと資本家的視点で思ってしまう。しかしその素晴らしさは未去勢的な主観世界を経験しないと理解できないことだろう。彼らはそれを無意識的に即ち無自覚にやってのけているのだから。
この正常人の電波は、わたしの中にささやかながらもあるかもしれない、根拠として希薄な他者を狂わせる。
本当に、宇宙人たちの中でただ一人生きているような一瞬の感覚。
しかし、さみしくなどはない。「仲間を見つけよう」と積極的に動くこともあまりない。何故ならそこは物が悪意になっている世界だからだ。あらゆる物が「人は人を殺せる」とささやきかけてくる世界だからだ。
さみしいとか「仲間を見つけよう」とかそんな余裕はない。悪意から身を守ることで手一杯。
多分わたしも「自体愛的に自分のことに必死になっている人」なのだろう、と理屈を迂回して思える。
その必死さが理解できるから、相手がこちらに興味を向けたとしても、偶然のことであると理解できる。
そういう人を相手にしていると、わたしを襲ってくる確率は低くなる。合理的な判断である。
わたしの「自体愛的に自分のことに必死になっている人」が好きという気持ちは、合理的な判断を根拠にしている。
そういう人と接していれば、物から発する悪意や「人は人を殺せる」というささやきが和らぐエアポケット的な場にいることになるし、八割以上の正常人たちが発する他者を根拠にした電波のエアポケット的な場にいることにもなる。
緊張感は消えないけれど。
ただの身勝手で合理的な判断故の言い分。
「無意識の本質は孤児である」
たまには中二病者もいいこと言うじゃん。
某ブログに貼ってあったこれに中毒状態。
あとパール兄弟とか聞いてる。はーくちゅうのぅ、ナーイトメァー♪ ってこの曲だったんだ。これも懐かしい。ほかをあたるよー♪ つか梅図かずおにしか見えない。
ああこの曲すげー好きだったあああ。久しぶりに聞いた。泣ける。
不思議なくらいよく似てたね 生意気なあの日の二人
淡い恋も切ない歌も まだ知らずにいたね
恋すらうまくできないほど幼すぎた二人 傷ついて
恋人にも友だちにさえもなれなかった二人