『泥は降りしきる』――きれいは汚い、天国は地獄。
2009/02/13/Fri
トリックスターとは大体賛否両論が激しいものである。むしろ両極端な論がぶつかり合う激しさこそがトリックスターという元型が示す本質だとわたしは考えている。
一方、その賛否両論の激しさがトリックスターという内面を圧殺していく。あたかものっぺらぼうの顔に七つの穴を開けられて死んだ混沌のごとく。あたかも養育者のダブルバインドに苦悩する反抗期の少年少女のごとく。
めでたくトリックスターという内面を圧殺できた主体は、恐らく賛同する論に組み込まれていくだろう。大文字の他者として。去勢あるいは去勢の承認である。
しかしトリックスターの亡霊が主体に憑依する場合もある。
その時彼は、自説を翻し否定する論に組したり、それらを取り込んでその時の賛否両論を脱構築した論理を展開したりするかもしれない。
とはいえその時のトリックスターはあくまで亡霊である。主体は一度トリックスターを殺した経験を持っている。
これが、『だいにっほんシリーズ』でいぶきが死者でなければならなかった理由である。
いぶきはトリックスターである。第二部(『ろんちくおげれつ記』)ではそのトリックスターぶりを遺憾なく発揮し、作中作者たる笙野頼子という登場人物の主張に反抗している。両者の意見が対立したまま終わる第二部はわたしは高く評価している。評価というより「ぶっちゃけおもれえwww」というネットスラングめいた言い方の方が適しているだろう。
しかし第三部(『ろりりべしんでけ録』)、いぶきは笙野の主張に組する。「わたしは火星人の歴史を語る」といういぶきの言葉は、執筆前後のリアル笙野の主張に合致するものだ。事実作中作者も「語る主体」たるリアル作者もいぶきのこの主張に一切の反論をしていない。わたしはこの言葉に粘っこい違和感を覚える。この記事でも書いている通り、いぶきはリアル作者にそう「言わされている」ようにしか見えない。もちろんこのいぶきはわたしが感情移入したいぶきである。
いや、別に語ってよいのだ。トリックスターに禁忌は存在しない。従って「火星人は歴史を語ってはならない」などという禁忌も存在しないからだ。だからいぶきが笙野の主張に組するのは別におかしいことではない。
しかし、主張に組することになった心的原因が問題なのだ。
いぶきは他の火星人とともに殺された記憶を思い出すことで火星人の歴史を語ろうと決心した。
これは明らかに巷に転がるトラウマ克服物語と同じ構造をしており、トラウマという概念を生み出した精神分析理論における去勢の承認と合致する。
主体化のステップたる去勢とはバンジージャンプなどというイニシエーションに象徴されるように生死の境として認知されることが多い。であるならば、登場時点で既に死んでいたいぶきは去勢済みの主体であり、去勢を否認していただけである、となる。抑圧していたトラウマを再現前化し他者と共有することで(ここでは読者や歴史を語る相手と共有するということになろう)、主体は去勢を承認し神経症は治療される。精神分析治療の基本プログラムである。
要するに、いぶきは第三部で笙野の主張に組するために、最初から殺されていなければならなかった、という話である。
わたしも登場時点で気づくべきだったが、第三部を読み終えた時、「何これ? これまでの笙野のはちゃめちゃさ・どろどろさが消えてオーソドックスなトラウマ克服物語になってるじゃん」という、それまで笙野ファンを自称していたわたしの脳内笙野が一瞬で遠く離れていった感じを覚えた。いぶきという自分に似ていると思える、わたしにしては珍しく感情移入できたキャラクターがいた分、この裏切られた感じは大きかった。
恐らく、リアル笙野は去勢済みな主体なのであろう。即ちどんなにキチガイのフリしても神経症即ち正常人即ち去勢済みの主観世界から抜け出せない主体だと。キチガイ即ち未去勢者の主観世界が存在しない主観世界を生きている人間だと。トリックスターを既に殺した経験のある人間だと。
逆に言えば、笙野は自分という主体を見事に正確に描き出している、とも言えるのだ。いぶきというトリックスターを最初から殺している時点で、彼女はそれこそ巫女めいた洞察力を発揮しているのである。正常人たる自分に対する。そういう意味で、現代日本文学においてもっとも自分なるものに肉迫できた私小説家である、などという賛辞も可能だろう。車谷長吉にも可能だな。
願わくば、時折彼女は作中作者たる笙野頼子という登場人物を「キチガイ」だなどと述べているが、今後この言葉は使わないで欲しい。その方が彼女にとっても賢明だとわたしは考える。
わたしの個人的語用における「キチガイ」は統合失調症や自閉症やスキゾイドなどという病名でラベリングされた未去勢者たちを示すが、精神分析理論を考慮すれば精神病としてのパラノイアも含まれてよい。確かに大河的自我などという言葉を好んで使っている彼女は非常にパラノイアックである。しかし彼女は他者を捨てていない。これはラカン論における「パラノイアは父の名を排除している」という定理と反する。父の名というのは誤解を怖れず短絡的に言えば、根本的欠如である。従って「パラノイアは根本的欠如を排除している」ということになる。この根本的欠如が大文字であれ小文字であれ他者の根拠となる。他者を捨てていない彼女は父の名を排除していない。正常人である。むしろ第三部で「他者」という言葉を強調する「語る主体」は、そうすることでパラノイアから防衛している、などとローゼンフェルト風な解釈をすることも可能である。
従って、キチガイのフリしながらその実作品の構造は正常人を賛美している、という非常に卑怯なやり口をしているとわたしには感じられる。これはたとえば、精神分析すれば神経症と診断される犯罪者が「私は精神疾患者である」と主張する構造と等しい。ちっちゃなちんちん丸出しで「ボクチンだってビョーキなんだもーん」とにやにや笑うガタリの精神構造と等しい。
正常人は正常人であることを自覚すべきである。
狂気はキチガイにとっても苦痛なのだ。その苦痛を克服できた人間として胸を張るべきである。胸を張って未去勢者たちを殺戮していくべきである。それが正常人が正常たるための契約書の内容である。
正常人にキチガイの苦痛は絶対理解してもらえない。
わたしは実体験からそう考えている。
精神分析的言い回しとして聞いて欲しいが、いぶきは自分が去勢手術を施した笙野の飼い猫である、とわたしは考えている。
驚くほど、彼女を取り巻くシニフィアン(小説以外のものも含める)から、彼女の申し分のない去勢済みな主体さ、即ち正常人さが導き出されてしまう。
驚くほど多数の状況証拠から、他のどの精神分析家が分析しても彼女は神経症者即ち正常人だと診断される、とわたしは確信している。
同時にこの確信は、わたしの「分魂」相手として笙野はふさわしくないということも意味している。
「裏切られた」と先に書いたが、わたしは勝手に笙野に対し「分魂」を試み失敗しただけである。
要するに、わたしにとっては苦痛の確信である、ということだ。
今のこの抑鬱状態や便秘状態は、それが原因の一つとなっているように思う。
だからと言って笙野のせいだなんて言わない。そういう意図を勝手に読み込んでもらっては困る。わたしは自分勝手に苦しんでいるだけである。
だからと言ってこの苦しみを文章化することまで制限されるいわれはない。
そういう話である。
しかし読み返しても、やっぱり桃木と沢野の考え方の相違の描写とか、うならせるところが随所にある。
桃木は感情移入できる。沢野にはできない。とはいえ沢野主演の『二百回忌』は、確かに「大衆ウケするなこりゃ」という感想を持ったが、おもしろく読めた。同著所収の『アケボノノ帯』の中途半端さの方が好きだが。
売れない時期真っ只中の、即ち他者から見放されていた頃の桃木は、いぶきに似ている。他者なるものの根拠が希薄なわたしに似ている。この桃木から沢野へという変遷も、その「語る主体」の症状は思春期病ではなく中二病であったことを示している。
桃木は沢野を殴り倒すべきだった。
わたしならそうする。
いぶきを生き返らせ、作中作者に対し真正面から切り込んでいく。
「さあ殺せ。わたしなりという火星人たちを、キチガイたちを、未去勢者を殺してきた、お前たちの歴史を再現前化させてやる。現実を思い出させてやる。笙野よ、お前も地球人なんだろ?」と。
追記。
この記事で中島みゆきを聞いても泣けなかったとあるが、今聞いて泣いている。
やっぱ夜聞かないとダメだなみゆきは。
『泥は降りしきる』とか演劇チックな歌が好きだ。カラオケでも歌いやすいし。
表面だけでいいんだよ。中身がない、あったとしてもゲル状の狂気しかないキチガイたちには。水晶がない、あったとしてもすぐ壊れてしまう未去勢者たちには。
大体こうなっちゃうから。
追記2。
泣きすぎてちょっと吐きそうになった。
酒飲んでなくてよかった。
追記3。
浄泥といぶきの関係について。
いぶきがこの記事の解釈通り「去勢済みな主体(即ち死者)であって去勢を否認しているだけ」であるとしたなら、ラストの二人の決別は「わたし、潰すの、頭、フランシス」たる鏡像的他者の殺害の回帰と解釈される。いぶきにとって浄泥は鏡像段階の回帰におけるキーパーソンたる鏡像的他者即ち分魂相手だったが、「歴史を語る」という代用品を得たために、いぶきの主観世界から浄泥は殺害された、と。実際に殺してはいないが、自分という存在の根拠の一部(まさに分魂だな)たる浄泥からただの元(?)友人の一人としての浄泥となった、と。
しかしわたしはそういう風には読めない。むしろ決別前の二人の関係は、この記事に書かれているようなものに読める。
=====
そういう人と接していれば、物から発する悪意や「人は人を殺せる」というささやきが和らぐエアポケット的な場にいることになるし、八割以上の正常人たちが発する他者を根拠にした電波のエアポケット的な場にいることにもなる。
=====
浄泥もいぶきも「自分のことに必死になっている人」である。ただしこの自分なるものが自己愛の対象としてのそれか自体愛の対象としてのそれかで解釈は変わる。
先述の通りいぶきは去勢済みな主体であったとしたなら、いぶきは自己愛的に自分のことに必死になっている人だった、と理屈上はなる。しかしわたしにはいぶきの必死さは自体愛的なもののように思える。彼女は自分でうまく制御できない内面の濁流に翻弄されている。固体化・確定化されてない、形容しがたい・備給先が定まらない心的エネルギーに翻弄されている。だからこそわたしは感情移入できたわけだが。
であるならば、やはり浄泥といぶきの関係は、正常人にとっての情愛即ち対象愛などではなく、自体愛の対象としての自分に翻弄されている故、「エアポケット的な場」を求めた結果である、となる。
そうするとラストの二人の決別はもっと簡単だ。いぶきは違う居場所即ち天国を見つけただけである。従ってこの決別に正常人的な惜別の情のようなものは存在しない。そういう風に描写されていると感じる。
とはいえこの違う居場所即ち天国は、いぶきは未去勢者であるという解釈なのだから、彼女にとって「恐怖」に満ちた、「心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息」になる地獄だった、となるが。この解釈を採用するなら遅かれ早かれいぶきは下天するだろうと予測できる。
一方、いぶきが去勢済みな主体であったならば、天国で幸せに暮らしていることだろう。そして時々、若気のいたりでした過去の火傷しそうな恋愛を思い出す正常人のごとく、浄泥を思い出してため息をついている程度だろう。時々、「あの時は心的状態としてどたばたしていたから惜別の情のようなものは見えなかったけど、今頃それを感じているのよ、わたし」のごとき、わたしにとっては吐き気すら覚える正常なセンチメントに大人のいぶきは浸っていることだろう。
つまるところ、二人の決別はあまりにもあっさりと描かれている故、いぶきが未去勢者であっても去勢済みな主体であっても成立するのである。中途半端なのだ。ジャーゴンで言うならば、鏡像段階そのもの(現実から代用品へ)だったのか、鏡像段階の回帰としてのシニフィアン連鎖(代用品から代用品へ)にすぎなかったのか、どちらとも取れる描写をしている。
この加減が絶妙だとわたしは思う。激しいイメージが強いのが笙野の(最近の)文体の特徴だが、このようなあっさりさや、先にもちらっと述べた『アケボノノ帯』にも見られるような中途半端さも評価されるべきではないだろうか。バランス感覚などとも表現可能なこの特性は、大塚英志論によるような職業作家にとっては必要不可欠なものだ。純文学でありながらエンターテイメント。アヴァン・ポップならぬ「オヴァン・ポップ」。やはり笙野はタダモノではない。
……うん、おもしろいんだよ。三部作通して。一つの作品として。高い評価をせざるを得ない。
だけど、わたしにとっては、笙野頼子という「語る主体」の正常人たる実体が垣間見えた作品だった、ということにすぎない。
ただそれだけのことだって。
一方、その賛否両論の激しさがトリックスターという内面を圧殺していく。あたかものっぺらぼうの顔に七つの穴を開けられて死んだ混沌のごとく。あたかも養育者のダブルバインドに苦悩する反抗期の少年少女のごとく。
めでたくトリックスターという内面を圧殺できた主体は、恐らく賛同する論に組み込まれていくだろう。大文字の他者として。去勢あるいは去勢の承認である。
しかしトリックスターの亡霊が主体に憑依する場合もある。
その時彼は、自説を翻し否定する論に組したり、それらを取り込んでその時の賛否両論を脱構築した論理を展開したりするかもしれない。
とはいえその時のトリックスターはあくまで亡霊である。主体は一度トリックスターを殺した経験を持っている。
これが、『だいにっほんシリーズ』でいぶきが死者でなければならなかった理由である。
いぶきはトリックスターである。第二部(『ろんちくおげれつ記』)ではそのトリックスターぶりを遺憾なく発揮し、作中作者たる笙野頼子という登場人物の主張に反抗している。両者の意見が対立したまま終わる第二部はわたしは高く評価している。評価というより「ぶっちゃけおもれえwww」というネットスラングめいた言い方の方が適しているだろう。
しかし第三部(『ろりりべしんでけ録』)、いぶきは笙野の主張に組する。「わたしは火星人の歴史を語る」といういぶきの言葉は、執筆前後のリアル笙野の主張に合致するものだ。事実作中作者も「語る主体」たるリアル作者もいぶきのこの主張に一切の反論をしていない。わたしはこの言葉に粘っこい違和感を覚える。この記事でも書いている通り、いぶきはリアル作者にそう「言わされている」ようにしか見えない。もちろんこのいぶきはわたしが感情移入したいぶきである。
いや、別に語ってよいのだ。トリックスターに禁忌は存在しない。従って「火星人は歴史を語ってはならない」などという禁忌も存在しないからだ。だからいぶきが笙野の主張に組するのは別におかしいことではない。
しかし、主張に組することになった心的原因が問題なのだ。
いぶきは他の火星人とともに殺された記憶を思い出すことで火星人の歴史を語ろうと決心した。
これは明らかに巷に転がるトラウマ克服物語と同じ構造をしており、トラウマという概念を生み出した精神分析理論における去勢の承認と合致する。
主体化のステップたる去勢とはバンジージャンプなどというイニシエーションに象徴されるように生死の境として認知されることが多い。であるならば、登場時点で既に死んでいたいぶきは去勢済みの主体であり、去勢を否認していただけである、となる。抑圧していたトラウマを再現前化し他者と共有することで(ここでは読者や歴史を語る相手と共有するということになろう)、主体は去勢を承認し神経症は治療される。精神分析治療の基本プログラムである。
要するに、いぶきは第三部で笙野の主張に組するために、最初から殺されていなければならなかった、という話である。
わたしも登場時点で気づくべきだったが、第三部を読み終えた時、「何これ? これまでの笙野のはちゃめちゃさ・どろどろさが消えてオーソドックスなトラウマ克服物語になってるじゃん」という、それまで笙野ファンを自称していたわたしの脳内笙野が一瞬で遠く離れていった感じを覚えた。いぶきという自分に似ていると思える、わたしにしては珍しく感情移入できたキャラクターがいた分、この裏切られた感じは大きかった。
恐らく、リアル笙野は去勢済みな主体なのであろう。即ちどんなにキチガイのフリしても神経症即ち正常人即ち去勢済みの主観世界から抜け出せない主体だと。キチガイ即ち未去勢者の主観世界が存在しない主観世界を生きている人間だと。トリックスターを既に殺した経験のある人間だと。
逆に言えば、笙野は自分という主体を見事に正確に描き出している、とも言えるのだ。いぶきというトリックスターを最初から殺している時点で、彼女はそれこそ巫女めいた洞察力を発揮しているのである。正常人たる自分に対する。そういう意味で、現代日本文学においてもっとも自分なるものに肉迫できた私小説家である、などという賛辞も可能だろう。車谷長吉にも可能だな。
願わくば、時折彼女は作中作者たる笙野頼子という登場人物を「キチガイ」だなどと述べているが、今後この言葉は使わないで欲しい。その方が彼女にとっても賢明だとわたしは考える。
わたしの個人的語用における「キチガイ」は統合失調症や自閉症やスキゾイドなどという病名でラベリングされた未去勢者たちを示すが、精神分析理論を考慮すれば精神病としてのパラノイアも含まれてよい。確かに大河的自我などという言葉を好んで使っている彼女は非常にパラノイアックである。しかし彼女は他者を捨てていない。これはラカン論における「パラノイアは父の名を排除している」という定理と反する。父の名というのは誤解を怖れず短絡的に言えば、根本的欠如である。従って「パラノイアは根本的欠如を排除している」ということになる。この根本的欠如が大文字であれ小文字であれ他者の根拠となる。他者を捨てていない彼女は父の名を排除していない。正常人である。むしろ第三部で「他者」という言葉を強調する「語る主体」は、そうすることでパラノイアから防衛している、などとローゼンフェルト風な解釈をすることも可能である。
従って、キチガイのフリしながらその実作品の構造は正常人を賛美している、という非常に卑怯なやり口をしているとわたしには感じられる。これはたとえば、精神分析すれば神経症と診断される犯罪者が「私は精神疾患者である」と主張する構造と等しい。ちっちゃなちんちん丸出しで「ボクチンだってビョーキなんだもーん」とにやにや笑うガタリの精神構造と等しい。
正常人は正常人であることを自覚すべきである。
狂気はキチガイにとっても苦痛なのだ。その苦痛を克服できた人間として胸を張るべきである。胸を張って未去勢者たちを殺戮していくべきである。それが正常人が正常たるための契約書の内容である。
正常人にキチガイの苦痛は絶対理解してもらえない。
わたしは実体験からそう考えている。
精神分析的言い回しとして聞いて欲しいが、いぶきは自分が去勢手術を施した笙野の飼い猫である、とわたしは考えている。
驚くほど、彼女を取り巻くシニフィアン(小説以外のものも含める)から、彼女の申し分のない去勢済みな主体さ、即ち正常人さが導き出されてしまう。
驚くほど多数の状況証拠から、他のどの精神分析家が分析しても彼女は神経症者即ち正常人だと診断される、とわたしは確信している。
同時にこの確信は、わたしの「分魂」相手として笙野はふさわしくないということも意味している。
「裏切られた」と先に書いたが、わたしは勝手に笙野に対し「分魂」を試み失敗しただけである。
要するに、わたしにとっては苦痛の確信である、ということだ。
今のこの抑鬱状態や便秘状態は、それが原因の一つとなっているように思う。
だからと言って笙野のせいだなんて言わない。そういう意図を勝手に読み込んでもらっては困る。わたしは自分勝手に苦しんでいるだけである。
だからと言ってこの苦しみを文章化することまで制限されるいわれはない。
そういう話である。
しかし読み返しても、やっぱり桃木と沢野の考え方の相違の描写とか、うならせるところが随所にある。
桃木は感情移入できる。沢野にはできない。とはいえ沢野主演の『二百回忌』は、確かに「大衆ウケするなこりゃ」という感想を持ったが、おもしろく読めた。同著所収の『アケボノノ帯』の中途半端さの方が好きだが。
売れない時期真っ只中の、即ち他者から見放されていた頃の桃木は、いぶきに似ている。他者なるものの根拠が希薄なわたしに似ている。この桃木から沢野へという変遷も、その「語る主体」の症状は思春期病ではなく中二病であったことを示している。
桃木は沢野を殴り倒すべきだった。
わたしならそうする。
いぶきを生き返らせ、作中作者に対し真正面から切り込んでいく。
「さあ殺せ。わたしなりという火星人たちを、キチガイたちを、未去勢者を殺してきた、お前たちの歴史を再現前化させてやる。現実を思い出させてやる。笙野よ、お前も地球人なんだろ?」と。
追記。
この記事で中島みゆきを聞いても泣けなかったとあるが、今聞いて泣いている。
やっぱ夜聞かないとダメだなみゆきは。
『泥は降りしきる』とか演劇チックな歌が好きだ。カラオケでも歌いやすいし。
表面だけでいいんだよ。中身がない、あったとしてもゲル状の狂気しかないキチガイたちには。水晶がない、あったとしてもすぐ壊れてしまう未去勢者たちには。
大体こうなっちゃうから。
追記2。
泣きすぎてちょっと吐きそうになった。
酒飲んでなくてよかった。
追記3。
浄泥といぶきの関係について。
いぶきがこの記事の解釈通り「去勢済みな主体(即ち死者)であって去勢を否認しているだけ」であるとしたなら、ラストの二人の決別は「わたし、潰すの、頭、フランシス」たる鏡像的他者の殺害の回帰と解釈される。いぶきにとって浄泥は鏡像段階の回帰におけるキーパーソンたる鏡像的他者即ち分魂相手だったが、「歴史を語る」という代用品を得たために、いぶきの主観世界から浄泥は殺害された、と。実際に殺してはいないが、自分という存在の根拠の一部(まさに分魂だな)たる浄泥からただの元(?)友人の一人としての浄泥となった、と。
しかしわたしはそういう風には読めない。むしろ決別前の二人の関係は、この記事に書かれているようなものに読める。
=====
そういう人と接していれば、物から発する悪意や「人は人を殺せる」というささやきが和らぐエアポケット的な場にいることになるし、八割以上の正常人たちが発する他者を根拠にした電波のエアポケット的な場にいることにもなる。
=====
浄泥もいぶきも「自分のことに必死になっている人」である。ただしこの自分なるものが自己愛の対象としてのそれか自体愛の対象としてのそれかで解釈は変わる。
先述の通りいぶきは去勢済みな主体であったとしたなら、いぶきは自己愛的に自分のことに必死になっている人だった、と理屈上はなる。しかしわたしにはいぶきの必死さは自体愛的なもののように思える。彼女は自分でうまく制御できない内面の濁流に翻弄されている。固体化・確定化されてない、形容しがたい・備給先が定まらない心的エネルギーに翻弄されている。だからこそわたしは感情移入できたわけだが。
であるならば、やはり浄泥といぶきの関係は、正常人にとっての情愛即ち対象愛などではなく、自体愛の対象としての自分に翻弄されている故、「エアポケット的な場」を求めた結果である、となる。
そうするとラストの二人の決別はもっと簡単だ。いぶきは違う居場所即ち天国を見つけただけである。従ってこの決別に正常人的な惜別の情のようなものは存在しない。そういう風に描写されていると感じる。
とはいえこの違う居場所即ち天国は、いぶきは未去勢者であるという解釈なのだから、彼女にとって「恐怖」に満ちた、「心が散々破壊され血だらけになってようやく無気力な操り人形のように定型側の要求結果を出力するだけの隷属関係になるまで虫の息」になる地獄だった、となるが。この解釈を採用するなら遅かれ早かれいぶきは下天するだろうと予測できる。
一方、いぶきが去勢済みな主体であったならば、天国で幸せに暮らしていることだろう。そして時々、若気のいたりでした過去の火傷しそうな恋愛を思い出す正常人のごとく、浄泥を思い出してため息をついている程度だろう。時々、「あの時は心的状態としてどたばたしていたから惜別の情のようなものは見えなかったけど、今頃それを感じているのよ、わたし」のごとき、わたしにとっては吐き気すら覚える正常なセンチメントに大人のいぶきは浸っていることだろう。
つまるところ、二人の決別はあまりにもあっさりと描かれている故、いぶきが未去勢者であっても去勢済みな主体であっても成立するのである。中途半端なのだ。ジャーゴンで言うならば、鏡像段階そのもの(現実から代用品へ)だったのか、鏡像段階の回帰としてのシニフィアン連鎖(代用品から代用品へ)にすぎなかったのか、どちらとも取れる描写をしている。
この加減が絶妙だとわたしは思う。激しいイメージが強いのが笙野の(最近の)文体の特徴だが、このようなあっさりさや、先にもちらっと述べた『アケボノノ帯』にも見られるような中途半端さも評価されるべきではないだろうか。バランス感覚などとも表現可能なこの特性は、大塚英志論によるような職業作家にとっては必要不可欠なものだ。純文学でありながらエンターテイメント。アヴァン・ポップならぬ「オヴァン・ポップ」。やはり笙野はタダモノではない。
……うん、おもしろいんだよ。三部作通して。一つの作品として。高い評価をせざるを得ない。
だけど、わたしにとっては、笙野頼子という「語る主体」の正常人たる実体が垣間見えた作品だった、ということにすぎない。
ただそれだけのことだって。