2009/02/15/Sun
言葉が繋がらない。イメージが流れない。
旋律にならない。
断片的な意味たち。
でもこれは
サーカスになっていない。
きらびやかじゃない。毒々しくない。どきどきもはらはらもしない。
バブル時代のディスコがサーカスなら、これは田舎の小川で蛍を見るようなものだ。
いやそんなにいいものじゃない。ゴミ。
淀みにゴミが溜まっているのがサーカスなら、これはゴミを浮かべながら流れているドブ川だ。
蛍の光より人工的な光が好きだ。線香花火とか。火薬は燃え尽きたけどまだ赤く燃えている部分が残っているそれを振り回すと光は線状になる。
谷山浩子の個別の作品を精神分析で語るのは、
この記事や
この記事でやっている。
中島みゆきも
この記事でやってるか。
言い訳にならないな。言い訳なんていいか。
ただなんとなくみゆきの個別の作品を語りたくなった。
「たくなった」というのも言い訳だ。
この記事で書いているような
=====
濁った何かが頭の中に残っているようで気持ち悪い。というわけで中島みゆきを聞く。だけど泣けない。頭は冷めている。たとえば、そこで歌われている世界を精神分析の理屈で噛み砕いてしまう。
=====
という状態。泣いてはいないけど。
噛み砕いた食べカスを並べてみようか、試しに。という記事である。
『仮面』という作品。甲斐よしひろ作曲だったのね。
これは母性的な女性を歌った曲だろうか? 否、とわたしは答える。もちろんわたしの主観でだ。この主観をこれからジャーゴンでデコレートしていく。
まず作中の女が語る男について分析してみよう。
=====
羽振りのよかった時代のように
思い上がった口を聞きなさい
己を知らない子供ように
なんでもできそうな口を聞きなさい
=====
これはまさにファルスを歌っている。ファルスそのものだった頃の男について述べている。
ファルスとは万能感でもある。「なんでもできそうな」感じ。ファルスの増長(勃起の方が正確か)が「思い上がった口」である。
「羽振りのよかった時代の」、即ちファルスが勃起してた頃の、ファルスそのものだった頃のあんたに戻りなさい、と女は歌っている。
とはいえファルスは存在しない。
「ない」ものを「ある」と確信している状態が(精神医学的な)正常であるということである。一方、本当は「ない」ファルスをなんらかの代用品で後付けするのが精神病としてのパラノイアである。従って正常であることとはパラノイアックなBPDである、となる。「人格とはパラノイアである」ということだ。
しかし今の男はそうでないようだ。抗えない現実に打ちのめされ、今の彼のファルスは萎えている。ラカン的な意味での現実の否認がパラノイアである。彼は現実を承認しかけている。パラノイアックな領域からスキゾフレニックな方向へ一歩退き、神経症の領域を漂っている。抑鬱症という神経症に罹患している。精神分析治療の前半過程において不可避的に存在するデプレッションの状態に陥っている。
従ってこう言い換えることも可能である。女は「パラノイアックだった頃のあなたに戻りなさい」と歌っている、と。
萎えたファルスをぶら下げて男は女のところへ帰ってきた。
今の彼には去勢というトラウマが回帰している。
鏡像段階における鏡像的他者は養育者であることが多い。即ち母であることが。
彼女は母に見立てた女のところに帰ってきた。
しかし女はこう言い放つ。
「おあいにくさま。何を期待してたの? 甘い慰め? 無言のぬくもり?」
この「甘い慰め」や「無言のぬくもり」は
対象aと考えてよいだろう。分析家のディスクールにおいて能動者は対象aでなければならない。彼は現実に折られてしまったファルスを再び勃起させんと女という分析家の下を訪れた。しかし女は
分析家であることを、対象aであることを拒否する。「おあいにくさま」
一方、男の神経症は重篤なようだ。
=====
そんなに震えて何を怯えているの?
=====
怯える対象が人なるものであった場合、彼の症状は対人恐怖症となるだろう。
しかし分析家の立場を放棄した女はこう指摘する。
=====
あれはあんたの正体じゃないか
=====
男が怯えているのは自分の正体だと。
これはこう考えるのが妥当だろう。
女の下を訪れたばかりの男は、確かに神経症領域だったかもしれない。ポスト・フェストゥム的な対人恐怖症であったかもしれない。
しかし女はその領域からさらに引きずり下ろそうとしている。
=====
勝手に底まで落ちぶれるがいい
=====
そして直後、先述のごとく「パラノイアックだった頃のあなたに戻りなさい」と語りかける。
まさにダブルバインドである。萎えたファルスをさらに萎えさせることを言いながら、ファルスを勃起させろとささやきかける。
ダブルバインドがスキゾフレニーの原因だという論は現代では反証されている。わたしもそれに倣う。しかし現役精神科医である斎藤環はこんなことを言っている。
「統合失調症者がダブルバインドに弱いのも事実」と。
仮に男にスキゾフレニックな素質があったとしたら、彼は神経症領域からスキゾフレニックな領域に引きずり下ろされるだろう。
その時の彼が対人恐怖症だったとしたら、その恐怖症はハンス症例のごとき幼児的なものに退行させられるだろう。
フロイト派の分析家であるクリステヴァは、その著作『恐怖の権力』において、アブジェクシオンという概念とハンス症例のごとき幼児的な恐怖症との関わりを述べている。ここではこの幼児的な恐怖症を、一般的な成人主体が罹患するポスト・フェストゥム的な対人恐怖症と区別するため、アンテ・フェストゥム的なあるいはスキゾフレニックな恐怖症と述べてもいいだろう。
幼児的な恐怖症において、恐怖を覚える対象は人格化されていない。ハンスが怖れているのは
ラカン論的な意味での「他者」ではない。部分対象的なものである。しかし対象aという移行対象も部分対象である。それはライナスの毛布のごときものであり、少なくとも恐怖を覚える対象ではない。従って幼児的な恐怖症者が怖れるのは前-対象的な部分対象だと考えるのが妥当である。
要するに、幼児的な恐怖症者が怖れているのは、去勢済みな主体が棄却してきた、
殺してきた物自体的なモノ即ちアブジェそのものなのだ。
アブジェはラカン的に言うなら「外側に内包しているという意味で外-密している現実界」に棄てられている。
ここで女の指摘のおぞましさが理解される。
=====
あれはあんたの正体じゃないか
=====
女の言う「正体」とは、男に「外-密している」現実界であり、アブジェなのだ。
どんな人間でも必ず経てきたにも関わらずほとんどの人間が忘れてしまった未去勢の時代を、フロイトならば「そのものとしてもうない子供時代」を、ラカンならば「存在していないはずの女(ファルスを持っていない人間)」を、女は指摘しているのだ。
男の「正体」として。
=====
ねぇ 覚えてやいないでしょう
わたしあんたが文無しだった頃から近くにいたのにさ
近くで見とれていたのにさ
=====
女はまだ男が「文無し」だった時代を生きている。「羽振り」がよくなってファルスが勃起している時代は男だけが生きてきた。
男のファルスがまだちっちゃかった時代から、女はささやきかけている。
「勝手に底まで落ちぶれるがいい」
と。
この女は、男を分裂症者化させようとしている。
この一曲だけでも、ガタリが提唱する分裂分析などごっこ遊びにすぎない、と感ぜられる。分裂分析は社会に適用されるものと定義されている。
一方、分析家の立場を放棄しているこの女は、男というクライアントを分裂症に導いている。「底まで落ちぶれ」させようとしている。
これが本当の分裂分析ではないか? いや提唱者の定義に逆らうような馬鹿な真似はさすがにわたしと言えどしない。従ってわたしは新たな概念をこのブログで提唱している。
逆精神分析という概念を。
この女は確かに「甘い慰め」や「無言のぬくもり」という対象aとしての立場を放棄している。分析家の立場を放棄している。
しかしわたしの概念を利用すれば、彼女は逆精神分析家として男とディスクールしている、と言える。
現代の精神医学で疾患とされる状態を増長させようとしてる。狂気を悪化させようとしている。
わたしはそう解釈する。
ファルスはその主体のアブジェを、現実界を刺激すればするほど勃起する。わたしが
「超自我が強い故自傷するBPD」と診断しているある若者を(逆精神)分析していた時痛感したことだ。当然なのだ。アブジェとは棄却されるべきものであり、実際に主体が棄却してきたものだ。それが回帰してきたなら、主体はその快楽原則に則り不快を覚えるだろう。アブジェの影響が強ければ強いほど、快楽原則の軸であるファルスは強くなければならない。棄却するために。狂気から防衛するために。
ほとんどの宗教が「人と獣の差異」を太古から論じてきたが、人間とて獣である現実は揺るがない。獣であることを隠蔽できた去勢済みな主体であっても、その獣としての「正体」を、アブジェを、現実界を刺激すれば、ファルスは勃起する。人という幻想から獣という現実に堕ちないために何かにすがりつく。
何にすがりつくのだろう?
未去勢と去勢済みを分かつ去勢にすがりつく。鏡像段階にすがりつく。
ファルスは鏡像段階において生成する。わたしは
鏡像段階はスターン論の間主観的自己感の形成期と等しい実体を示していると考えている。間主観的自己感の形成で重要な点として述べられるのが「情動の模倣」である。これは大人のわれわれの感覚で換言するなら「同情」と呼ばれることの原型である。
人は同情してくれる状態にすがりつく。萎えたファルスが壊れないように。アンテ・フェストゥムな狂気に飲まれないように。分裂症者化しないように。
しかし女はそれさえも男に捨てさせようとする。
=====
惨めな歌なんかブルースシンガーにくれてやるがいい
捨てちまうがいい
=====
同情さえも、いやその原型たる「情動の模倣」さえも男は禁じられている。
萎えたファルスは、「ない」という「正体」を現すだろう。アブジェや現実界という本性を男に垣間見せるだろう。
そこは獣の世界である。人という幻想を剥ぎ取った人間という獣が跋扈する世界である。
=====
ぼろぼろになって獣がむせぶ
失うものはもう何もない
=====
当然である。「所有」という概念そのものが幻想であるからだ。幻想が剥ぎ取られた獣の世界には「所有」という幻想すら存在しない。従って「失うものはもう何もな」くなる。
獣として女は男を抱く。
=====
ぼろぼろになって獣が眠る
あたしは邪険に抱きしめる
=====
獣の世界における性行為とは、
レイプしレイプされる状態である。
獣の世界から男を引きずり下ろそうとしている逆精神分析家たる女は、「邪険に」男を抱かねばならない。「邪険に」でしか男を抱けない。
何故ならそこでは男も女も獣になっているからだ。その関係はレイプしレイプされる状態だからだ。
女は母性的に男に接しているのでは全くない。
一匹の獣として、男という獣を抱きたがっている。
人になりきれない幼児が人から滑り落ちた幼児を抱こうとしている。「わたし、潰すの、頭、フランシス」と平然な顔で述べる幼児が、大人だった男をその時代へと退行させようとしている。
これはそういう歌である。
ファルス主義のラカン論では述べられない、存在しないはずの世界を歌っている。
さすが
『悪女』を歌った女だな、と感心する。
その後、男がファルスを再び勃起させたかどうかなんてわからない。もしそうなら事後的に女は母性的に男をはげましたという解釈をされても仕方なかろう。しかし中島は事後を歌っていない。男性ファンなどは勝手にそういう事後を想像するかもしれない。しかし歌っていない事実は揺るがない。単にこの歌の女にお前の「正体」がレイプされお前のファルスが勃起しただけである。そう想像できる時点でお前は精神分析的な主体であると言える。即ち神経症者だと。
これらのことから、未去勢な世界を歌った歌である、と解釈するのが妥当となる。
さてここまで述べれば、タイトルの『仮面』の意味が見えてくる。歌詞だけ流し読みすれば何故『仮面』というタイトルになるのかわかりにくいが、以上のような補助線を引くことで、何が仮面で何が素顔かが見えてくる。
女にとって「甘い慰め」や「無言のぬくもり」が仮面である。未去勢な人間が対象aという仮面を脱ぎ捨てているのである。
男にとって「羽振りのよかった時代」の「思い上がった口」「なんでもできそうな口」 を聞いている状態が仮面である。現実的に「ない」のに幻想として「ある」と思い込んだファルスという仮面が剥ぎ取られてしまったのである。
人という仮面を脱ぎ捨て、獣として二人は寄り添っている。
対象aやファルスという去勢済みな幻想を脱ぎ捨てて、未去勢な現実を二人は生きている。
少なくともこの一瞬は。
=====
下りの坂なら落ちる先は海
=====
対象が確定されていない、前-対象的な部分対象が荒れ狂う「海」。
笙野頼子の『金毘羅』も海からやって来た。
この「海」は谷山浩子なら
『夢のスープ』となろう。
谷山浩子論でも未去勢な歌として解釈することが多いが、わたしはそういう歌を選んで論じている。谷山にも中島にも去勢済みっぽいなあ、と思える歌がある。
この記事ではそういった作品を「正的なイメージの曲」と呼んで言及している。
そりゃそうだ。未去勢な世界に「同情」は存在しない。従って人を感動させる作品など存在しない。心を動かす作品は成立しない。心そのものがないのだから。
本当にそんな作品があったとしたら、芸術作品として駄作と呼ばれるものだ。
わたしはアウトサイダーアートとアートは別物だと考えている。
谷山浩子も一時期その作品を駄作と評価された時代があった。そんな時彼女は
『紙吹雪』という作品を歌った。
=====
世界中のいい人が口を揃えて言うには
「つまらない女よりも心動かす歌の方が大切なんだ
お前などいらぬ」
=====
「いら」ないから棄てられる。
恐らく『仮面』のこの女も、ファルスが再び勃起した暁には、男に棄てられるだろう。
獣は棄てられるしかその存在意義がない。
棄てられるその瞬間が人という幻想との接点なのだ。
獣にとって。
未去勢者にとって。
わたしは、人という幻想に帰っていくファルスの後姿を通してでしか、人という幻想を生きられない。
わたしは、棄てられてでしか、生の欲動を生きられない。
海は、陸上に這い上がる彼の後姿を、見つめることしかできない。
雨が降っていたわ とっても寒かった
フロントガラスを打って流れる涙
雪が残ってたわ とっても寒かった
話しかけられも ああ話しもせずに
去るあなたは美しいわ
行かないでとすがるわたしより
追記。
カウンターが荒れてるなあと思ってアクセス解析の方見たら150前後(ユニークアクセス)で安定しているのでカウンターの不調らしい。
なんだよーもー。どっかで炎上してるのかとびびって損した。
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2009-02-15 日 21:29:02 / / /
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以前から気になっていたのですが、
脂氏の言う獣とはどういうものなのでしょうか?
定義があるのであれば教えて下さい。
また本論では獣のレイプしレイプされる関係について論じていましが、
鳥類や鯨類の一部など、交尾にまつわる行動が高度に様式化されている種もあり、
単純にレイプという表現には当てはまらないのではないかと思います。
なお人間の婚姻の形態に関しても一夫多妻制や内縁関係なども含め様々な様式があり、一様ではないと思われますが、
ここで言うところのレイプとはどのような意味なのでしょうか?
私自身の関心の問題から獣という語からどうしても動物行動学的な動物を連想してしまうのです。
2009-02-16 月 00:37:20 /URL /● /
編集
フィーリングです(ぉ。
人間の性関係は合意が必要です。合意のない性行為をレイプと表現しています。
動物にも人間の主観から見て「合意している」と思われるやり取りがあるかもしれませんが、人間はその動物ではありません。少なくとも、人間の性関係に必要な言語的あるいは想像的な合意とは言えません。
動物の性関係にもなんらかの合意と考えられるやり取りがある動物もいるかもしれませんが、それを合意と考えるのは、あくまで人間の想像の域を出ないのが事実です。
何故なら人間はその動物ではないのですから。
そもそも動物行動学って人間同士が議論するためのものじゃん。その動物が参加して構築された学ではないのは事実です。
性行為にいたるまでの動物の行動様式を擬人化して見ていないか? それこそが「人間らしさ」という暴力の一つの表れ、パラノイアックな症状だとわたしは考えています。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-281.html
そういった人間的な言語的あるいは想像的合意のない性関係をレイプと呼んでいます。
とはいえ、そういった合意のない性関係をレイプと一言でまとめるのは確かに乱暴かもしれません。自覚してます(笑)。
まー文芸的な表現って意識もありますねー。だからフィーリング。
でも、先に述べたような動物を擬人化して見ること、「人間らしさ」という想像的な暴力をおっかぶせること(わたしはそれを精液と呼んでいます)、こういったことを告発するにはレイプという言葉の意味、そこから連鎖されるシニフィアン群は有用だと考えます。
2009-02-16 月 01:29:13 /URL /脂 /
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あ、だからと言って動物行動学などという学を批判しているわけではありませんよ。
あくまでも人間同士が、その動物の生態を知るための学としてなら、有用なんじゃないでしょうか。
わたしがあんまり興味ないだけで。
どちらかと言うと解剖学的な動物に興味が向きますね。
2009-02-16 月 01:30:58 /URL /脂 /
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たとえばここにおける「動物行動学は人間同士のためにあるものである」という事実がすっぽり抜け落ちることが人にはよくあります。
「いや違う、その動物のためだ」などと言われるかもしれませんが、精神分析的にはその人はその動物を欲望している、となります。「欲望は他者の欲望である」(神経症者の場合)なわけですから、「彼はその動物を擬人化している」と言えないまでも、なんらかの「人なるもの」たる他者が彼の欲望の根拠となっている、と。
このすっぽり抜け落ちることが、ラカンの言う「女は存在しない」という言葉が示す(神経症者の)実体です。
女というファルスを持っていない動物は、ファルスを持っている主体の主観世界には存在しない。
もちろんこの場合の女は一般的な女ではありません。ファルスを持っていない人間を仮に女と呼ぼう、という机上の空論としての女です。
存在しないから、ここで指摘したような事実がすっぽり抜け落ちるわけです。
2009-02-16 月 01:44:33 /URL /脂 /
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では合意とは何なのか?
人間の「性行為」をめちゃくちゃ高度に様式化された生殖行動と考えると
そこに見えて来るのは合意であるとする。
しかし、現実として合意のない生殖行動も成立している。
結論として生殖行動に合意は必要ない。
「合意の上の性行為」こそ人間らしさという暴力的な想像に相違ないつか、動物を擬人化する暴力と大差ないのではないかと考えてしまうのですが、
以外がでしょうか。
2009-02-16 月 02:12:31 /URL /● /
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>「合意の上の性行為」こそ人間らしさという暴力的な想像に相違ないつか、動物を擬人化する暴力と大差ないのではないかと考えてしまうのですが、
そうだと思います。
ではこの記事の『仮面』の女と男は合意しているのか。
そこにあるのは人間的な言語的あるいは想像的な合意ではない性的関係である、とわたしは解釈しているわけです。
たとえば、そこらにある陳腐なフレーズならあれですよ。
「むさぼり合うように愛し合った二人」とかそんなん。これも獣的なレイプしレイプされている関係に親近する状態の一つの表象だとわたしは考えます。
愛し合う前には確かに合意はあったかもしれません。合意したその後、二人はレイプしレイプされている関係に溺れてしまう。その関係に溺れ言語的かつ想像的な合意を忘れてしまう。人間だってベースは獣なわけですから、そういうこともあるでしょう。
だから「むさぼり合うように愛し合った二人」というフレーズがあるとほぼ必ずその二人は破局するというわけです。
なんせその二人の関係は「人間らしさ」を損なう関係だったわけですから。「人間らしさ」を失うことは狂気という苦痛に塗れることです。
「むさぼり合う」関係を棄てることで、彼らは「人間らしさ」という幻想に留まることができた、っつー話。
神経症者の神経症者による神経症者のための筋書きですわね。
2009-02-16 月 02:24:42 /URL /脂 /
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動物行動学が人間の理解のためにあるというのは全くその通りだと思います。
同様に全ての学問は人間の為にあり、人間同士が理解し合う為にある。それだけのものである。
そも、この様な学問という概念は古代ギリシア思想やヘブライズム思想の影響が多分にあり、「パラノイアック」な或いは文明化された人間はこの枠を越えた思考をする事は不可能であると思われます。
って言うファルスにまみれた戯言。
ごちゃごちゃ言ってるのは単に悔しいからです。
2009-02-16 月 02:26:54 /URL /● /
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この人間的な言語的あるいは想像的な合意は、非現実界なものである、という意味で幻想となります。
だからラカンはこう言ったわけです。
「性関係は存在しない」とね。
レイプしレイプされる関係はファルスを持っている主体の主観世界には存在しないわけです。
2009-02-16 月 02:28:34 /URL /脂 /
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なんで悔しいんだw
お気になさらず、と言っておきます。
2009-02-16 月 02:32:51 /URL /脂 /
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>ベースは獣
ベースというより獣そのものだと思います。
ただ獣の中ではずはぬけて幻想に依存した生き方をしていると思うのです。
人間以外の獣が何考えて生きてるか分かんないですけど。
たまたまこの一万年くらいが人間という獣にとってとても過ごしやすい時代だっただけの事ではないか、と思うのです。
勝負に出たらたまたま当たったとかそんな感じ。
人間とは何か?
火を使える
言葉を使える
という議論があるらしいですが、たまたまそういう能力を持った獣が他の獣を駆逐したとゆぅ事かなぁと、勝手に考えてます。
2009-02-16 月 02:40:45 /URL /● /
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>ただ獣の中ではずはぬけて幻想に依存した生き方をしていると思うのです。
その通りだと思いますよ。
では何故ずば抜けて幻想する能力が発達したのか。
そこが禅問答の
「獣にも仏性はあるかないか」
「ある」
「では人間との違いは何か」
「獣は自らの仏性に気づけないが、人間は気づくことができる」
って奴かなあ、と。
鏡像を通して人間は自分の統御機能を、ファルスを実感できる。
幻想しているということを幻想することができる。
非現実界な主観世界にどっぷり浸かることができる。
たとえば認知心理学において「自閉症者はメタ言語が理解できない」などと言われることがありますが、こういう「非現実界という意味で幻想上のメタ」という話だと思いますよ。
>たまたまそういう能力を持った獣が他の獣を駆逐したとゆぅ事かなぁ
そーゆー考え方はスキゾフレニックだなあ、と思いました。フィーリングで。
いえ、批判も同意もなしにそう思っただけです。
2009-02-16 月 02:47:15 /URL /脂 /
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レイプは人間にとって生殖行動たりえるのか
ちゅうと、孕む所までは成功する可能性はある。
しかし人間は社会という幻想に依存して生きている為に、
レイプによる胎児は堕胎されるかもしれん。
あるいは正常に生まれたとしても、その後のジュニアの人生は不遇である可能性が高く、ジュニアのジュニアを作れる可能性は低くなる恐れがある。
あるいは父親本体が捕まって社会的に不遇な立場におかれれば配偶者をみつけるには至らない。
だとするとレイプは生殖行動としては失敗である。
だからレイプは駄目なんだよって言う議論が成立する場合、
ラカンの論は棄却される。
それでもレイプがなくならないのは何故かというとオスは配偶子の生産性が高いからなのか。
とするとムクムクとラカンが息をふきかえしてくるように思います。
人間の幻想って獣としてね実態が有る限り完成されないんだろうなと思う。
お好きにと言われると余計に悔しいのうw
好きにいたしますがw
2009-02-16 月 03:02:57 /URL /● /
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獣は実態で
人間は状態じゃね?
ってちょっと思いました。
2009-02-16 月 03:11:28 /URL /● /
編集
えー。
ラカン論単体で考えれば、
>だからレイプは駄目なんだよって言う議論が成立する場合、
ラカニアンたちは「ほーれ見ろ(笑)」って言うと思うのですが……。
まさに「手紙は宛先に届く」。合意は大事、っつーことで。
わたしはラカニアンっつかファルスによって棄却されたものを論じようとしているクリステヴァ論者ですしー。
ラカニエンヌなら響きがにちゃにちゃしてるから可。
社会学とかあんまりピンとこないのでよくわからないのですが、幻想が高度に複雑化した現代社会のような社会なるものは、幻想の複雑化により現実界に親近しているとも言えるかもしれませんね。
わたしはフロイトの現実原則は妥協原則と読み替えることを主張していますが、複雑化した幻想である故現実界に親近している、という意味では、現実原則ってネーミングにも意味があるなあ、と思います。フロイトの無意識(超自我)がそうさせたんでしょうね。
確かに快楽原則主義的に「快/不快」やら「幸福/不幸」やら「天国/地獄」やらを重視するクリトリスが肥大した主体たちの主観世界よか現実界っぽくはある。複雑化してる分。
>人間は状態じゃね?
演劇やってた時、「芸術とは表現者と受取手の間に生ずる現象だ」と述べ、そこから「人間そのものが現象じゃないか」とした論文を書いたことがあります。どこにも発表されませんでしたけどね。演劇関係の授業取ってる子に売ろうとして断られた記憶が。
内容忘れたのでそれだけ。
2009-02-16 月 03:23:22 /URL /脂 /
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ラカン論知らないのがバレてしまいますね。知ったかはだめだ。
脂氏が引用した箇所しか見てない素人の意見でした。
m(__)m
どっかで
女は実態、男は現象
というのを読んだのでそれなパクりです。状態じゃなくね?って投稿してから気が付いたという言い訳。
幻想が現実世界に接近しているのかというとよく分かんないのですが、ソレを言い出したら獣は幻想を生きているって事になるのではと混乱している。
禅問答の
人間は仏性を認識できるが
獣は認識できない
という議論ではないけれども
では何故人間は仏性を認識できるのかという答えにはなっていない。
もっと言うと仏教が言う仏性は悟りを開いた人間にしか認識出来ない。
悟りを開くには修行が必要で、修行をするためには修行をできるだけの環境が整っていなければならない。
つまり畜生道や修羅道などに堕ちている人間は悟りを開く事ができない。
乱暴に言うと、
仏性は分かる人が分かればよろしい。
フロイトが現実に接近できたのだとすれば多少は(失礼)分かる人だったって事なのかなぁ。
なんて言うか幻想を生きている人間も現実に接近できる可能性はあるんじゃね?と思った。
2009-02-16 月 03:46:14 /URL /● /
編集
>では何故人間は仏性を認識できるのかという答えにはなっていない。
「そこで鏡ですよ」byラカニアン。
人間に近いと考えられている猿でも鏡に映る自分の姿に対し威嚇する。日光猿軍団とか飼われてる猿は知りませんが。
でもまあ、これも答えにはなってないですよね。
>仏性は分かる人が分かればよろしい。
小乗(わたしはわざとこう言いたくなる)の世界へようこそ。冗談です。
ファルスがある人間とファルスに不具合がある人間は別々に生きればよい、っていう論に惹かれるのは事実。でも「うきーっ」ってなる自分はここにある。現代のファルスばりばりの坊主が述べるような劣化した空観ではなく、龍樹のようなはちゃめちゃな人間の言う空観なら「うきーっ」も含まれた論だと思える。極端に言うなら戦争も平和も含まれた総体論が空観。だから「空観は平和のための論だ」とか言うどこぞの坊主の言い分にはゲロをぶっかけてやりたくすらなる。
お前みたいな奴がいるから宗教は劣化していくんだ、とね。
だから魔女狩りとか戦争大好きだった全盛期のキリスト教とかに惹かれる。
戦争が好きというわけではなく、そういった宗教ならわたしの居場所もあるかもしれない、と。
まあ、世の中「いい人」ばかりだっつーことですよ。
2009-02-16 月 03:58:15 /URL /脂 /
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そういえば『仮面』のサビ歌詞
=====
ねぇ 覚えてやいないでしょう
わたしあんたが文無しだった頃から近くにいたのにさ
近くで見とれていたのにさ
=====
もまさに「女は存在しない」だな、と思った。
ファルスを持っていない人間、即ち獣としての人間は存在しない。ファルスを持っている主体の主観世界には。
この男は、ファルスがまだちっちゃかった「文無しだった頃」からファルスが増長した「羽振りのよかった時代」まで女の存在に気づかなかった。
獣という素顔を仮面で隠していた女に。
仮面には気づいてたのかもしれないけれど、ファルスがぽっきり折れてしまったことで、女の獣的な素顔に気づけた、という感じかな。
アルバムでその一個前に配置されている『黄色い犬』にも呼応しますね。
http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/236145/Y050506
2009-02-16 月 08:33:39 /URL /脂 /
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小乗と言っても、畜生道の者は今生の生において救われないちぅような輪廻思想などは仏陀本来の教えではなく、
ある種の閉鎖的な人間社会における規範と習合して生まれた思想じゃね?と思う。
チベットとかブータンとか。
仏教で言うところの畜生道や修羅道については心理学で言うファルス、脂氏の言う「キチガイ」「獣」とは全く別の線引きのように思います。
ファルスの不具合の有無というのは半固定的な概念で、畜生道などは刹那的な情動に近いと言う理解です。
感覚的な理解なので上手く説明できないのですが。
その生臭坊主は「空観」を理解してはいないから、そんな坊主の言うことなど聞かなければよろしいと思います。
揚げ足を取るのは面白いかと思いますが、真っ赤になって怒るんじゃないかなぁ。
かと言ってお前理解してんのかって言われたらしてねぇけど。
私は頭で考える限り、法と契約あるいは、未開人の共同体の規範が何故機能するのかが分からないのです。
ただそれらは様々な矛盾を内包しながらも機能しているように見えるし、従わないと生きにくいから、生きていく為にしょうがなく従ってる。
でも そうやって生きている限り獣となんら変わらねーんじゃね?と思います。
あと西由来の学問は最終的に人間が一番偉いってところに持って行きたがるからあんまし好きくない。西哲にしろ、自然科学にしろ。そういう方法論しか知らないから使うけれども。心理学や精神分析も全部、地続きだと思うし。
魔女狩りも帝国主義も現象としての狂気は面白いけど、当時の政治的な背景を考えるとなんかなぁと思います。
そうか強いものが正義かみたいな。
あくまで現在の規範があるから狂気に見えるんじゃね?みたいな。
ちぅのは私も「いい人」なんでしょうね。
2009-02-16 月 12:43:10 /URL /● /
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『仮面』の女はずっと男のファルスだけ見てたのかなぁと思った。
勃起してるか萎えているかは別として。
「おっきくなーれー」
って言って彼氏の陰茎を萎えさせた女を思い出した。
2009-02-16 月 13:00:12 /URL /● /
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>ファルスの不具合の有無というのは半固定的な概念で、畜生道などは刹那的な情動に近いと言う理解です。
ふむ。わたしは仏教の方をよく知らないのでなんとも言えませんが……。
半固定的と刹那的の区分は何を根拠にしてあるのかがいまいちわかりません。
うーん。
刹那的な、人間として好ましくない情動?
それこそ神経症という症状である気がします。
一方未去勢者は、好ましくない情動というとおかしいですが、神経症者にとって自我や超自我をおびやかすしっちゃかめっちゃかな情動に、神経症者と比して常態的に翻弄されている、となります。
具体的に言うと、加藤智大などはわたしの語用におけるキチガイには当てはまらない即ち神経症者だとわたしは思っていますが(もちろんデータをきちんと集めれば考えは変わるかもしれない)、彼の凶行についてわたしは「狂気が間欠泉のように吹き出した」と表現したことがあります。これは刹那的な情動に翻弄された具体例と言えるでしょう。彼が神経症者だとすれば。
そういう意味で半固定的と刹那的という区分は理解できます。
しかし、刹那的なしっちゃかめっちゃかな情動にしか畜生道や修羅道という言葉を割り当てないとしたら、天国や地獄(六道とか?)は神経症者のみに適用される概念で、未去勢者にはそもそも仏教という思想が当てはまらない、となります。要するに即ち仏教論においても女(ファルスのない人間即ち未去勢者)は存在しない、と。確かに仏教の一部は女人禁制でしたね。
あ、そか。獣には天国も地獄もない、と言い換えられるわけだから、そう書くとそうだよなって思うな。
なるほど。
相変わらず鋭いですね。
>法と契約あるいは、未開人の共同体の規範が何故機能するのかが分からないのです。
なんかこうラカニアンが喜んで食いつきそうなことばかり言ってますね(笑)。あ、気に障ったらごめん。
ラカン論は思想体系としては構造主義となっています(ポストって言われることもある)。
構造主義の元祖レヴィ=ストロース論がデコレーションとして有効そうな話だと思いました。
レヴィレヴィ(個人的な愛称)は未開文明においても、たとえば婚姻体系や神話群などをサンプルとして、西洋文明にも引けを取らない構造がある、としました。構造が法や教義などによって明文化されていないだけで。
明文化されてないにも関わらず、自然発生的になんらかの構造がその文化において存在している。
この理由を無意識(超自我)と関連させたくなるのは精神分析厨のダメなところ。
……ともかく、未開文明でも自然発生的な規律はある。しかし現代文明と等しく規律からこぼれ落ちてしまう人もいるでしょうね。
超自我が壊れている人間が。
>あと西由来の学問は最終的に人間が一番偉いってところに持って行きたがるからあんまし好きくない。
同感です。何故「人間が一番偉い」のか、あるいは「人なるもの」を根本にして考えてしまうのか、それを説明するには西哲も東洋哲学も自然科学もダメでした。わたしの主観で。精神分析がそれを説明しきれている、とはさすがに言えませんが、その「何故」を考えるのにもっともよい道具であるとわたしは思います。
もちろんわたしの主観に合っているという話で、おすすめしているわけではありません。
>あくまで現在の規範があるから狂気に見えるんじゃね?
そうだと思いますよ。正確には、その考え方も間違いとは言えない。
規範なるものは、確かに時代によって変化するものではありましょうが、先に述べたように自然発生的に存在するものでもあります。変化している部分もあれば普遍的な部分もある。
規範って言葉でキチガイを考えるとそういう風にややこしくなりますが、快楽原則的側面から考えるとよいでしょう。
わたしがこのブログで「ご病気の人」とか「キチガイ」とか呼ばれているのはご存知でしょ? 何故彼女たち(おお、二人とも女じゃん)はわたしなるものを「ご病気の人」「キチガイ」と表現したのか。
恐らくわたしがキモチワルイからでしょう。
「快/不快」という分別は時代によって変わるものでしょうか?
規範と同様に変化している部分もあれば普遍的な部分もあるでしょう。
たとえば、ライ病患者などは旧約聖書においてはケガレとして扱われていますが、現代でも重篤なライ病の写真を突然見せられたりしたら「うわっ」って思いますよね? でも現代では規範としてライ病患者を差別してはいけない、となっている。
要するに、規範という明文化可能な言語的な構造からも、快楽原則的な体感的あるいは想像的な構造からも、どちらからもこぼれ落ちるのがキチガイ、というわけです。
>『仮面』の女はずっと男のファルスだけ見てたのかなぁと思った。
いえ、「正体」も見ていたと思いますよ。男にとっては多分違うでしょうけど、女にとって男のファルスは「仮面」だった、と。ファルスという「仮面」と「正体」を見ていた、と。
日常的現実をコントや芝居としか感じられないわたしの主観による解釈ですけどね。
ラカン論には「男はファルスになりたがり、女はファルスを所有したがる」という定理がありますが、中島みゆきや笙野頼子の作品を見ているとなるほどなあ、と思います。その一方それを他人事としてしか理解できないわたしって一体、となりぞっとしますが。
2009-02-16 月 14:26:19 /
URL /脂 /
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>なんかこうラカニアンが喜んで食いつきそうなことばかり言ってますね(笑)。
気に障るどころか。むしろ、腑に落ちました(ママ)。
というか。レヴィ=ストロースが好きで、未開人という言葉が出てくるのはレヴィの影響です。
人間(西洋文明人)が一番偉いんだよって言わないようにしているところが好きなんです。
>……ともかく、未開文明でも自然発生的な規律はある。しかし現代文明と等しく規律からこぼれ落ちてしまう人もいるでしょうね。
超自我が壊れている人間が。
膝を打つ。
ただし、規律にしろ規範にしろ快楽原則にしろ、そこからこぼれ落ちてしまう人もこぼれ落ちて終わりで無いというところが面白いんじゃね。
でなきゃキチガイなんて言葉は出ないと思うし。
でもこぼれ落ちる絶対数が多すぎたら、人間の数を維持できないじゃないか。
人間の数を維持できなかったら獣としての人間も困るんじゃないかなぁ。
とはいえ確実に何割かはこぼれ落ちるんだけれども。
敢えて規範の境界線で勝負に出る奴らもいるし、サド文学ってそんな感じがする。あいつらなんなん?全然困って無いじゃん。
ライ病患者の写真を見てうわって思うのは、
うわって思うのが実態で、差別はいけないとか同情したりするのが現象か?
でうわーってなった後、見ますよね?写真かなりまじまじと。
でもまじまじと見たりしてはいけない事になっているからこっそり見るんだわ。
2009-02-16 月 22:40:42 /URL /● /
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>規律にしろ規範にしろ快楽原則にしろ、そこからこぼれ落ちてしまう人もこぼれ落ちて終わりで無いというところが面白いんじゃね。
>でなきゃキチガイなんて言葉は出ないと思うし。
ですね。規範が自然発生する正常人たちと規範なり快楽原則からこぼれ落ちるキチガイたちは常に接していますからね。なんだかんだ言って同じ人間という種である事実は揺るがないわけで。
そういった意味では「キチガイ」って言葉そのものが正常人とキチガイの接触を意味しているとも考えられますね。
>でもこぼれ落ちる絶対数が多すぎたら、人間の数を維持できないじゃないか。
あれですよ、わたしはそういったこぼれ落ちる人間は、進化論でいう突然変異の個体たちだと思うんですね。
進化とは完璧な生体を目指すものではなく、(地球の歴史スパンで見れば)目まぐるしく変わる環境に適応していくものであり、いわば行き当たりばったり的なものなわけで。
この環境に適応するための、種にとっての(機械工学的な意味での)「アソビ」みたいなものかなあ、と。
>あいつらなんなん?全然困って無いじゃん。
どうなんでしょう。困ってないなら言語化しないんじゃないかと思うのですが……。
でも、「キチガイがキチガイを演じる」っていうのはありだと思うんですね。戸川純とかわたしは未去勢者か去勢済みな主体か診断できてないのですが、サドも同じ。キチガイがキチガイを演じている場合を考慮すると診断できなくなる。
アルトーなんかも近いですね。
>でもまじまじと見たりしてはいけない事になっているからこっそり見るんだわ。
バタイユw
2009-02-17 火 12:11:50 /
URL /脂 /
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>この環境に適応するための、種にとっての(機械工学的な意味での)「アソビ」みたいなものかなあ、と。
遺伝子の構造上、生物はDNA鎖の配列の組み合わせで出来ているってことになっているから、必ず何割かは「アソビ」ができると。
システムとしてはものすごくよく出来ているように見えるけれども、
DNAとかの発見がウィトゲンシュタインが言語の構造を組み合わせであるとか説明した時期とかぶっていたりしてめちゃくちゃ気持ち悪いんだが。
組み合わせで決まるのかよw
なんで説明できるものが見つかっちゃうんだよww
探したら見つかったってどういうことだいwww
その「アソビ」を組み合わせで説明する以上、ある一定の確率で、種にとって必ずしも有用なでないもの、例えば重度の肉体的損傷や、平均値から遠く離れた精神構造をもって生まれてくる場合もあるんだよな。
ただ人間に生まれればある程度は「セーフティネット」のおかげで生き延びることはできる。
何でそんなことが出来るのかって言うと、他の獣を制圧して冨を独り占めしているからなんだわ、と勝手に思っている。
その独占っぷりたるや、地球史上初めてなんじゃないかなぁと思う。
地下資源を掘り出して燃やしたりしているのは人間だけじゃないか。
他の獣が何を考えているかは分からないけれども、もし仮に冨を独り占めできて、自身の生命を脅かされる危険が無くなったら、「やさしさ」とか「セーフティーネット」を作るんじゃないかなぁと勝手に想像してしまうのはきっとSFの読みすぎなんでせう。
だってさ。象だって仲間の象の死を悼む(ように見える)行動をしているんだもの。
あ。
リンクフリーとありましたので、あとでリンク張ります。よろしくー
2009-02-17 火 12:58:01 /
URL /● /
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たとえば癌細胞なんかは人体という一つのものとして統合された組織体にとって悪いものとされている。
でも細胞一つ一つに老化の源があるわけだから、死を敵にするなら、細胞一つ一つが死を担っていることになり、細胞一つ一つが敵となる。
この視点を取ると、人間という種は地球全体にとって癌なのかそうでないのかって理屈すら脱構築される。
でも、●さんみたいな批判的態度が、ネゲントロピーへの対抗なのかなあ、と思います。
ずっぱり言うと、後ろに行くにつれ去勢を否認しているように思います。よくも悪くもなく。
ただし、あまり知り合いに対して分析的視点を取らないように心がけていますので、分析でもなんでもなくフィーリングだと思ってください。
「なんか雰囲気が○○っぽいー」みたいなキャバ嬢の話のつなぎ的なもん。
>リンク
ご自由にどぞ。こちらこそよろでふ。
2009-02-17 火 14:14:05 /
URL /脂 /
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わたし教養学部っていうなんでもありな学部にいたんですが、生物化学かなんたらの人と話した時、「DNAって一口で言っても半数以上がゴミみたいなもん」って話を聞いたことがあります。むしろそのゴミとそうでないのを選別するのがゲノム解析だ、とかなんとか。
そこをいじっても生まれた個体に大きな影響がでない因子なのか、単にどの性質に関わるかわかっていないだけか、わかりませんが。
これって、たとえば心理学的な「人間の顔を似ていると判断する要素は目や鼻や口の形に集中している」ってことだと思うんですね。
科学者の方の認知システムとして。
要するに、人間の顔の認識は目や鼻や口という部分の集合体として象徴化されている。
先の遺伝子の話ならば、目や鼻や口以外の部分がゴミとなるでしょう。
まあ時々「君の耳の形が好きだ」ってフェチもいるでしょうけれどw
もっと言えば器質因と内因の差異にも似ていますね。
中井久夫は「前者(器質因)の異常は、粗大な脳の変化から粗大な症状が発現するものである。後者(内因)については、微細な現象から大きな変化が生じているのである」とか言っています(斎藤環の論文から引用)。内因は複雑系っぽい言い方ですね。バタフライエフェクト(笑)。
たとえば癲癇などは脳波測定で「粗大な脳の変化」を見ることができます(といっても簡単じゃないらしい。癲癇発作が起きているその瞬間の脳波を計るわけにはいきませんから)。従って器質因であると。一方、統合失調症などはその原因となる「粗大な脳の変化」がまだわかっていません。従って内因となります。
なんらかの性質と粗大な遺伝子因子の変化が結びつくこともあれば、微細な、それこそ現代の科学ではゴミだと思われてるような因子の変化(の集合)が、大きな性質の変化と結びつくことがあるのかもしれない。
原因と結果の結びつきが一筋縄ではいかない。
現代の自然科学はスキゾフレニックな領域に踏み込んでいる、というのがわたしの雑感です。
2009-02-17 火 15:25:07 /
URL /脂 /
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>ネゲントロピーへの対抗なのかなあ、と思います。
世の中には便利な言葉がたくさんあるのですね。
生命はエントロピーを減少させる機関というような議論があったけれども、
あれは生命を閉じた回路として考えるからそういう風に説明できると言う話で、
実際にはエントロピーを減少させるためな莫大なエネルギーを使っている。
エントロピーが減少するならメシ喰うな、と言いたい。
同様に人間の文明が時代とともにに発展しているように見えるのは、
他の獣を駆逐したり搾取したり、人間を搾取したり、地下資源を掘り出して燃やしたりしているのが見えていないからな気がする。
それとは別の次元で、
心を成長させて穏やかに生きることを色んな宗教が推奨しているのかなぁと。
そこで未去勢のキチガイがどういう風に扱われているのかはいまいちピンとこないけど、
例えば仏教ではまず人間になることを推奨しているっぽい。良いか悪いかは別として。
だから、妖怪人間は「はやく人間になりたい」って言うんじゃね?
>後ろに行くにつれ去勢を否認しているように思います。
というより後ろに行くにつれ井戸端会議のレベルになっている気がした。私にとっては。
去勢っていう現象があることは分かる。
それで、未去勢の人間と去勢済みの人間がいるってことも分かる。
でも、でも何でそこに境界線を引くんだよって思う。
それは人間という塊の中を見つめているから見えてくる境界線なのかなぁと。
獣としての人間という塊はそんな境界線などお構いなしに、がんがん生きているし。
なんかその辺のところが自分の関心なのかなぁと思った。
またラカニアンが喜ぶのかなぁ。
あと。
リンク張りましたー
URLは別名ですが、●のブログです。
2009-02-18 水 12:51:35 /
URL /● /
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>それは人間という塊の中を見つめているから見えてくる境界線なのかなぁと。
>獣としての人間という塊はそんな境界線などお構いなしに、がんがん生きているし。
多分、未去勢者は「大人になりたくない人たち」だと思ってませんか? 「大人になりたいのになれない人たち」ですよ?
未去勢者たちは確かに「大人になれていない人たち」です。しかし、「大人になりたがらない人たち」は去勢を否認している人たちであり、去勢済みな主体たちです。一方未去勢者は、「器質因・内因的に大人になれない人たち」つまり「物質としての自分という実体が大人になることを許してくれない人たち」です。
何故わたしがこの境界線を重視するかというと、この境界は、わたしは断絶と呼びますが、倫理の発生ポイントだと思うからです。倫理は周縁から発生するものです。絶対的未知と対峙した時人間の精神が必死でやりくりする工夫です。
わたしの中にも、他人と比べたらささやかかもしれませんが、人間としてのわたしがいます。彼女は常に獣としてのわたしと戦っています。
人間としてのわたしと獣としてのわたしは決して理解し合えません。これはわたしの心的事実として断言します。
獣としてのわたしの立場から言えば、そもそも「理解し合う」という幻想が人なるものの暴力なのです。
未去勢者たちはこんな境界お構いなしに生きていると本当にお思いですか?
その考えは単に人間としてのあなたが彼らの言葉によって惹起された獣としてのあなたに脅かされていることを否認しようとしている即ち抑圧しようとしている故のものじゃないですか?
いえ、もちろん未去勢者の中には「俺は物質として大人になれない人間なんだ。じゃあ大人にならないでいよう」と開き直っている人もいましょう。そういう人たちは「断絶などお構いなしに生きている」人と言うことが可能でしょうね。
しかし、わたしはそう口で言っている未去勢者がいても、内心ささやかながら持っている人間としてのその人が獣としてのその人と戦っていると想像します。自分を基準をして。
むしろ、その人の言動から内面のこの戦いがないと思える人には、自分のこの考えは絶対理解されないんだろうな、と思います。
この戦いは去勢済みな主体においては抑圧という形に劣化されているでしょう。しかし抑圧とは違います。火花が飛び散るようなものです。この違いはこの記事などで
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-266.html
たびたび言及している二階堂奥歯の言葉、「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」の違いに相当するでしょう。前者が神経症者の抑圧です。
わたしは大人になりたがっている自分を、あなたたちと比べたらささやかなものかもしれない人間としてのわたしを、棄却するつもりはありません。
たとえ自分の中で彼女らの戦いが一生続くとしてもね。
>リンク
よろですー。
2009-02-18 水 20:45:50 /
URL /脂 /
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恐らく、この断絶をないものとされたら、去勢済みな主体たちは未去勢者に対し、
「根性が足りないんだよ、根性が」
などと言ってくるでしょうね。
何故なら未去勢者たちの主観世界は、去勢済みな主体にとって、ケガレでありおぞましいアブジェだからです。存在してはならない世界だからです。
器質因・内因的にたまたま苦もなく大人になれただけの奴らに、器質因・内因的に大人になりづらい人たちの大人になれない苦痛は理解できないでしょう。
だからそんなことを言うわけです。
まあ、精神疾患に対し根性論ぶつけてくるような奴は議論以前の問題だと思いますがね。
2009-02-18 水 21:11:48 /
URL /脂 /
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人なるもの、人間らしさ、獣なる実体に対する人間なる現象。それらに常に対峙し続けているのが未去勢者たちです。
去勢済みな主体たちは去勢を通過して久しいですから、それが無意識の奥深くに埋もれているわけです。
倫理は未去勢者が生むものです。正確には去勢済みな主体と未去勢者の、決して快いとは限らない接触が倫理を生みます。
人という現象と獣という実体の、火花を散らすような接触が、シニフィアンスの瞬間です。
即ち、倫理の発生ポイントです。
ラカン論では享楽となりますがね。想像界や象徴界という非現実界から現実界へ近づく時と限定すれば、この表現はまあおかしかないかなあ、と詩人的センスで思います。
2009-02-18 水 21:20:27 /
URL /脂 /
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>それは人間という塊の中を見つめているから見えてくる境界線なのかなぁと。
わたしにとっての「去勢」という断絶は、現実に生きにくい自分という実体を見つめ続けて、この生きにくさの原因を表現するのに適していると思われる概念として発見したものです。
概念なわけですから、去勢というシニフィアンに連鎖するジャーゴンもジャーゴン以外も含めたシニフィアン群が含まれます。
もちろん完全に一致しているわけではありませんけど。
2009-02-18 水 21:27:50 /
URL /脂 /
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「人間という塊」について、
私の意図と異なる意味から議論が発展しているようで、ちょ、おまー。
もしかして。アブラ氏が言ってるのは、
固体としての人間の内部で起こっていることじゃね?
そもそも精神分析ってそういうものを対象といているのか。
私が言いたかったのは、
種としての人間の話だ。
他の獣を駆逐している人間という種の話だ。
「人なるもの、人間らしさ、獣なる実体に対する人間なる現象。」
というのは全て人間という種の本質じゃねえか。
だから、断絶って人間という種の中でしか起こんなくね?
って改めて書くでもない自明のことか。
>多分、未去勢者は「大人になりたくない人たち」だと思ってませんか? 「大人になりたいのになれない人たち」ですよ?
いや。思ってねーし。
あれ、でも思ってるのかなぁ。
大人になるっていうのはどういうことだ?
大人になるってことが分からないってことは、とうの昔に去勢されてるってことか。
2009-02-18 水 22:25:44 /
URL /● /
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>他の獣を駆逐している人間という種の話だ。
それって社会なる幻想とは言えませんが、SFチックな想像の話じゃないですか?
その言葉が隠喩として示す本質は同じものだとは言えるでしょう。先にリンクした記事でも「社会に対する違和感」と「世界に存在することへの違和感」は本質部分で通底している、と述べているようなことですね。
しかし、「現実界/非現実界」という区分を考えると、わたしの心的事実をもとにして述べている言葉と比して、非現実界的な言葉のように思えます。
ああいえ、●さんが獣姦マニアとかだったりしたらそうでもない、って話になりますが。揶揄ではありませんよ。一時期アマチュア小説家のチャットで「猫耳なんて甘っちょろい。これから獣姦だ。お前ら獣姦小説を書け」ってぶったこともあります。これは半分揶揄も入っていますが、揶揄ではないところもありました。最近の思索でいろんな宗教が太古から論じてきた「獣と人の差異」って都合のよい言い訳を見つけたので述べているだけです。わたしは、ね。
>いや。思ってねーし。
>あれ、でも思ってるのかなぁ。
軽いジャブなのでお気になさらない方がよいかとw
2009-02-18 水 22:43:02 /
URL /脂 /
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>というのは全て人間という種の本質じゃねえか
そうです。
わたしはこのブログでも「純粋な器官なき身体も、純粋な身体なき器官も存在しない」と述べています。純粋な器官なき身体が獣としてだけの内面で、純粋な身体なき器官が人としてだけの内面となるでしょう。
しかし、です。
去勢済みな主体たちには、獣の主観世界に堕ちる際に、確固たるセーフティネットがあるのも事実です。
去勢済みな主体たちはこのセーフティネット故に獣の世界に堕ちることができません(BGM『狼になりたい』)。去勢済みな主体たちはこのセーフティネット、「異質な壁」、断絶を目の前にして折り返します。
ちなみにこの「異質な壁」という言葉は、自閉症児を抱える母親が、別の自閉症当事者とディスカッションしている時に発した言葉です。人としての主観世界にとって異質な何かに常に対峙している人だからこそ、この言葉には重みがあります。
このセーフティネット、「異質な壁」、断絶は、この記事で
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-345.html
イトウさんと議論した時、わたしが発した「折り返すポイント」「落としどころ」に相当するでしょう。
去勢済みな主体は、この確固たるセーフティネットによって、ケガレたる獣の主観世界に堕ちることから守られている。まさしく精神疾患的な、パラノイアックなBPD的な、ヒステリー盲目的な機制により、ケガレたる獣の主観世界が見えなくなっている。見えなくなる精神疾患に罹患している。「正常という精神疾患」という発想の逆転は、これを実感として去勢済みな主体たちに伝えるのに有効な手段だとわたしは考えます。
一方、未去勢者たちはこのセーフティネットが弱い故に、常態としてケガレたる獣の主観世界に接している。それは未去勢者たちにもささやかながらもあるかもしれない人としての内面にとってもケガレです。だから未去勢者たちは心的苦痛を訴えるわけです。だから統合失調症や自閉症やスキゾイドは病気とされているのです。
このセーフティネットを抜きにして
「なんだ、じゃあ未去勢者たちも俺たちと同じじゃねえか」
となると、それこそ精神疾患者に「根性が足りないんだよ、根性が」と吐き捨てるゲスの心理と同じ構造じゃないか、とわたしは思います。警戒してしまいます。
2009-02-18 水 23:22:41 /
URL /脂 /
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>それって社会なる幻想とは言えませんが、SFチックな想像の話じゃないですか?
いや。心的事実ではないんだが、体験に即した話。
フィールドワークで、過疎高齢化が進んでいるど田舎の山村に行ったんだわ。
じじぃどもらが獣の駆除つか追い払っているんだが、人は少ないし、じじぃだし。人間舐めておるから、人殺す以外のことは何でもするわ、あいつら。
常に獣の領域と人間の領域はせめぎあっておって。人間様が気を緩めていたらあいつらどんどん獣の領土を広げるんだろうなーと思ったのは、
多分都会に住んでいて、平和ボケした私のSFちっくな妄想。
>ああいえ、●さんが獣姦マニアとかだったりしたらそうでもない
何で分かったんだwww
というのは冗談として無類の動物好きですょ?哺乳類、鳥類、魚類、昆虫、軟体なんでもござれ。好みはあるけどな。
あいつらとセックスすることを考えると、自分が分からなくなるので考えないようにしている。つか、普段はそんな事考えねーし。
あー、でも今考えている。考えているぞ。
なんて事をしてくれたんだwwww
ただ、私は犯す主体としての自分が想像できないので獣姦は分かるようなわからんような。蛸に襲われる美女とかなら分かるんだけど、それはちょっと違うか。逃げる。
>軽いジャブなのでお気になさらない方がよいかとw
ジャブって簡単に言いますねー。
よく分かんないが小学校の真ん中くらいまで、授業中座っていられない子供だったんだわ。勝手に教室の外へ出て行ったりした記憶もあるし。
同級生の仲間に入れてもらえなくて、中軽度の知的障害のある子としか遊べなかった。
でも心の中ではそいつらのことバカにしてたわ。
小学校高学年くらいで、問題行動が目立たなくなってきたが。中学にあがったら突然目の前からあいつらが消えたんだわ。
あーよかった、私は「普通の人間」の側だったんだって今だに思う。
でもたまたまこっち側だったってだけなんだよな。そして、私はこっち側では相当どんくせぇ人間なんだなって思うし。
だから「大人になりたくてもなれない奴」って例えばあいつらのことなのかなーって思う。アブラ氏の言うキチガイとは違うみたいだが。
あっち側とこっち側は確かにあるんだわ。
2009-02-18 水 23:31:10 /
URL /● /
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>じじぃどもらが獣の駆除つか追い払っているんだが、人は少ないし、じじぃだし。人間舐めておるから、人殺す以外のことは何でもするわ、あいつら。
あ、それならわかります。
わたしの祖父母の家もものすごく田舎で、ゴエモン風呂で、車を山肌の道路に路駐して、獣道みたいな山肌を三十分ほど歩いて行くようなところでした(最近近くに道路が通ったらしい。わたしが小学生の時には普通の内風呂もあった)。
祖父は早くに死んでしまったのですが、祖母は普通に畑を荒らす狸を毒殺するような人でした。
そういうのは、獣と人間のリアルな戦いとして、わたしも理解できます。
2009-02-18 水 23:38:41 /
URL /脂 /
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獣姦について思い出した。
試そうとしたことあるわー。
ただ、体のサイズも違ったし、こっちの愛情表現にいまいちピンと来ていない様子だったから、至らなかった。
いや、いや待てよ。
あるわー、擬似的にだけれども。
動物と遊んでいると、動物がサカることってよくあるんだが。
向こうの愛情を受け入れることが出来ないんだ。物理的に、精神的にも。
興奮して噛み付いてきたりすると痛みに我慢ならなくなるから中断してしまう。
いや、人間が噛み付いてくるのと全然違うんだ。うまく言えないけれども。
比喩的に言うと、人魚とどうやってセックスしたら良いんだ。穴が無いじゃないか。
逆にこっちがもの寂しさを感じて襲い掛かっても、なんかピンとこないって言うか。
最終的なもって行き所がわかんなくなる。
サイズが合えばまた違う結果になったのかもしれないなぁ。
男と女の愛情でも程度は違うけど似たようなものなのかもな。
だったら愛なんて無くて、暴力と相違ないのかもしんないなぁ。
ラカンか?
2009-02-18 水 23:56:26 /
URL /● /
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そんなこと自分のブログでぼやけw
>だったら愛なんて無くて、暴力と相違ないのかもしんないなぁ。
はクリステヴァっすねー。「アガペーとは想像的父である」って奴。わたしは「人格とはパラノイアである」というラカン論をつぎはぎして「アガペーとは人なるものに心的エネルギー(ここだけユング論)の備給先を限定させる征服者たる原パラノイアである」と言い換えていますが。
心的エネルギー(byユング)≒リビドー(byフロイト)っすよ。わたしは心的エネルギーの方がしっくりくるけど。
2009-02-19 木 00:01:03 /
URL /脂 /
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>そんな事自分のブログでぼやけ
うっせwww
そうさせてもらうわwww
クリスティヴァってすげぇな。
今までフェミニストが愛なんて権力うんぬん言ってんのマジうぜぇwwww
って思ってたけど。
その元ネタなんですね。
愛は権力って叫べば叫ぶほど愛という権力に縛られてんじゃねーか。ざまぁwwww
フェミニストまじご苦労。
2009-02-19 木 22:30:28 /URL /● /
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>今までフェミニストが愛なんて権力うんぬん言ってんのマジうぜぇwwww
それが精神分析的な主体ではなく社会に対する意見となったのがアナーキズム的フェミニズムってことになるんでしょうか。
>愛は権力って叫べば叫ぶほど愛という権力に縛られてんじゃねーか。ざまぁwwww
その人が愛を感じている瞬間やその相手に叫ばないと意味ないですよね。
それこそ幻想でのやり取りでしかない。
2009-02-24 火 00:18:22 /
URL /脂 /
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