「女は港」
2009/02/20/Fri
「終わり」が嫌いだ。
かと言って「終わり」のない「永遠」も嫌いだ。
「終わり」が嫌いということは、何かに執着しているからだろうか。
違う。執着しているものがあっても、わたしは気まぐれに違うものに執着する。
では、昔執着していたものが存続してくれることを望んでいるのか。
「女は港」と歌う演歌の中の男性のような心理なのか。
他人事視点で、それとの違いは見当たらない。
港たる女は、帰ってくるであろう男を一途に待ち続けているのか。
嘘だあ、と思う。その場所で適当に男を漁っているだろう、と思う。
でも一途なのだ。適当に男を漁っていても、男が帰ってくるのを待っている。
であれば、港たる女にとって男も港である、と言える。
演歌で歌われている男は港々に女がいるだろう。それと同じで女にも遊び相手の男がいる。
この時、男と女はお互いに港である。
一種の乱交パーティとも言える状態である。この状態の中でも、ささやかなものかもしれないけれど、唯一の繋がりを信じている。
いや、そこに男がいないから、その男を信じているのだ、と思う。港たる女にとって、待ち続ける男はそこにいない男でなければならない。多分、その男が女の傍にい続けたなら、女にとってそいつは適当に漁る男の一人に降格するだろう。
欠如しているから信じられる。まさにラカン論における父の名ではないか。
ユング妻は女にとってのアニムスは複数いるとした。ユング妻にとって欠如たる唯一の男は存在しない。パラノイアックだな、と思う。ユングがパラノイアックだからそれが伝染しているのだろう、と思う。
パラノイアは父の名即ち欠如を排除している。未去勢者にとっても欠如は存在しない。妄想分裂態勢(paranoid-schizoid position)とはよく言ったものだ。
欠如を一度受け入れたら父の名になるだけである。欠如を受け入れたことのない未去勢者にとってそれは欠如でしかない。
欠如が存在しないということは、全て「ある」であり全て「ない」である。全て「ある」と全て「ない」は等値である。極点で「ある」と「ない」は等値である。全て「ある」方向から極点に向かうのがパラノイアで、全て「ない」方向から極点に向かうのがスキゾフレニーである。
そこにいないから信じられる。欠如たる父の名に飲み込まれている状態がスキゾフレニックな状態である。
遊んでいる時期があった。ビッチを自覚してビッチを楽しんでいた時期があった。パラノイアックだったと思う。だから会社でもパラノイアックだった。キャリアウーマンを目指していた。
汚らわしい自分を自分だと肯定できていた。
世間一般ではそれが大人になるということだった。
セックスが嫌いで好きだった。
それに身を任せることがわたしにとって無垢だった。
大人になることが無垢になることだった。
乱交パーティを楽しむことが無垢であることだった。
パラノイアックなわたしにとって、周りは欠如だらけだった。全てが「ない」と欠如も存在しなくなる。パラノイアックとスキゾフレニックの中間が正常である。裏側の中間がイントラ・フェストゥムである。
正常という平均台に上ることなくわたしはパラノイアックとスキゾフレニックを振動できる。
パラノイアックとスキゾフレニックを幻想で圧殺するのが正常という平均台である。
現実的な中間がイントラ・フェストゥムである。
中間という表現も正しくない。パラノイアックもスキゾフレニックも等しく現実なのだから。所有も同一化もできない絶対的未知。「終わり」も「永遠」もないただそうであるだけの現実。
わたしはどうあがいても平均台に上れない。上っても留まれない。
「終わり」や「永遠」という幻想が嫌いだ。
でも幻想を生きなければならない。人であるということはそういうことだ。
従って、もっとも身近な「終わり」を知らなければならない。
死という「終わり」を。
「女は港」と男が歌う時、女は死んでいる。港で違う男と遊んでいる女を殺している。
一途さという槍で女を貫いている。
一途なのだ。
一途にわたしは憎んでいる。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時、見下すような笑みを浮かべたその瞬間の男を、一途に憎んでいる。
その瞬間をごまかす男は、同一人物であっても、わたしにとって適当に漁る男だ。
港たる女は死んでいる。
わたしは港になりたい。
かと言って「終わり」のない「永遠」も嫌いだ。
「終わり」が嫌いということは、何かに執着しているからだろうか。
違う。執着しているものがあっても、わたしは気まぐれに違うものに執着する。
では、昔執着していたものが存続してくれることを望んでいるのか。
「女は港」と歌う演歌の中の男性のような心理なのか。
他人事視点で、それとの違いは見当たらない。
港たる女は、帰ってくるであろう男を一途に待ち続けているのか。
嘘だあ、と思う。その場所で適当に男を漁っているだろう、と思う。
でも一途なのだ。適当に男を漁っていても、男が帰ってくるのを待っている。
であれば、港たる女にとって男も港である、と言える。
演歌で歌われている男は港々に女がいるだろう。それと同じで女にも遊び相手の男がいる。
この時、男と女はお互いに港である。
一種の乱交パーティとも言える状態である。この状態の中でも、ささやかなものかもしれないけれど、唯一の繋がりを信じている。
いや、そこに男がいないから、その男を信じているのだ、と思う。港たる女にとって、待ち続ける男はそこにいない男でなければならない。多分、その男が女の傍にい続けたなら、女にとってそいつは適当に漁る男の一人に降格するだろう。
欠如しているから信じられる。まさにラカン論における父の名ではないか。
ユング妻は女にとってのアニムスは複数いるとした。ユング妻にとって欠如たる唯一の男は存在しない。パラノイアックだな、と思う。ユングがパラノイアックだからそれが伝染しているのだろう、と思う。
パラノイアは父の名即ち欠如を排除している。未去勢者にとっても欠如は存在しない。妄想分裂態勢(paranoid-schizoid position)とはよく言ったものだ。
欠如を一度受け入れたら父の名になるだけである。欠如を受け入れたことのない未去勢者にとってそれは欠如でしかない。
欠如が存在しないということは、全て「ある」であり全て「ない」である。全て「ある」と全て「ない」は等値である。極点で「ある」と「ない」は等値である。全て「ある」方向から極点に向かうのがパラノイアで、全て「ない」方向から極点に向かうのがスキゾフレニーである。
そこにいないから信じられる。欠如たる父の名に飲み込まれている状態がスキゾフレニックな状態である。
遊んでいる時期があった。ビッチを自覚してビッチを楽しんでいた時期があった。パラノイアックだったと思う。だから会社でもパラノイアックだった。キャリアウーマンを目指していた。
汚らわしい自分を自分だと肯定できていた。
世間一般ではそれが大人になるということだった。
セックスが嫌いで好きだった。
それに身を任せることがわたしにとって無垢だった。
大人になることが無垢になることだった。
乱交パーティを楽しむことが無垢であることだった。
パラノイアックなわたしにとって、周りは欠如だらけだった。全てが「ない」と欠如も存在しなくなる。パラノイアックとスキゾフレニックの中間が正常である。裏側の中間がイントラ・フェストゥムである。
正常という平均台に上ることなくわたしはパラノイアックとスキゾフレニックを振動できる。
パラノイアックとスキゾフレニックを幻想で圧殺するのが正常という平均台である。
現実的な中間がイントラ・フェストゥムである。
中間という表現も正しくない。パラノイアックもスキゾフレニックも等しく現実なのだから。所有も同一化もできない絶対的未知。「終わり」も「永遠」もないただそうであるだけの現実。
わたしはどうあがいても平均台に上れない。上っても留まれない。
「終わり」や「永遠」という幻想が嫌いだ。
でも幻想を生きなければならない。人であるということはそういうことだ。
従って、もっとも身近な「終わり」を知らなければならない。
死という「終わり」を。
「女は港」と男が歌う時、女は死んでいる。港で違う男と遊んでいる女を殺している。
一途さという槍で女を貫いている。
一途なのだ。
一途にわたしは憎んでいる。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時、見下すような笑みを浮かべたその瞬間の男を、一途に憎んでいる。
その瞬間をごまかす男は、同一人物であっても、わたしにとって適当に漁る男だ。
港たる女は死んでいる。
わたしは港になりたい。