『知の挑戦』(第十章のみ)エドワード・O・ウィルソン
2006/11/05/Sun
『知の挑戦』(エドワード・O・ウィルソン著)を購入した。
「科学的知性と文化的知性の統合」という大それた副題や、「科学、宗教、芸術などあらゆる知性を統合」という煽り文句に期待を持ってしまった。
とりあえず一章と、興味のある芸術のことを書いた十章と、宗教のことを書いた十一章を流し読みで読んだ。
これだけで書評を書くというのは多大に著者に失礼且つ無知な振る舞いだと自分で思うが、論文だと考えれば抜き読みは可能であるし、著者が科学者であるということを考慮して、まあ問題なかろうと筆を取った。
以下は十章についてのみの評論と思っていただきたい。
まず、ポストモダニズム批判がある。もちろんこれに影響されたニューエイジ思想や、『脱構築』に都合のいい解釈を加えて「既存の枠組みを脱する」こと全てが『脱構築』と呼ばれている現状には私も不満がある。
しかし、私には著者が『脱構築』を誤読しているように思えた。
まずp260の「作者は死んだ」。これはパロールの対象としての作者のことであり、エクリチュールにおける「痕跡」としての作者名は意味してしていない。それはデリダの『署名論』でも明らかだ。作者名はテキストが散種するのと同じく散種する。作者名はただの記号なのだ。ここで勘違いしがちだが、文芸などで言われる作家性は否定されない。それらは作者名を含めたテキストの散種によって読者が自ら構築するものである。それこそテキストに過ぎない作者名により実在の人物像を求めることが、「テキストに支配されていないものを探して(p262)」いるのだ。
『脱構築』については著者の理解が浅いためか、この他の深い批判は見受けられない。この著者の狡猾なところは、ポストモダニズム批判の一例として脱構築をあげておいて、脱構築論そのものには深く触れず、その後の批判ではイメージ的に怪しい思想を含むポストモダニズム一般としての批判と摩り替えているところだ。非論理的な批判と言わざるを得ない。デリダに限らず、ポストモダンに対する理解も浅いように思える。
ここではこの著者と同じ轍を避けるため、彼の批判をポストモダンの中での思想面として主体の、「ポスト構造主義」批判と読み替えて話を進める。
彼は、この思想を、「気分の揺り戻し」として一蹴する(p261-262)。確かにその面はあるだろう。しかし、彼はその論拠として、芸術のトレンドの変化を比喩的に取り上げている。著者の批判しているのはポストモダニズムの中の「脱構築」などの、思想面を批判しているのではなかったか。まあいいだろう。デリダの哲学や、ラカンの精神分析学などの学問にも芸術史的なトレンドの変化はあるのかもしれない。そんなことは私は考えてもみなかった。現代思想をマクロとして振り返るにはまだ早すぎるからだ。そもそも彼は現代思想が何故「ポスト」構造主義と呼ばれているのかわかっているのだろうか。デリダにしろラカンにしろ、構造主義を推し進めただけで、トレンドの反転まで至ってないからだ。彼のいう「ロマン主義と新古典主義の同時代の二つのトレンド間における揺れ」などではなく、構造主義含めて近代的科学の思考形態に行き詰まりを覚えての思想なのだ。これは簡単に論破できる。「ポスト構造主義がロマン主義だろうが新古典主義どちらでもよいが、その対立項の思想は何ですか?」と問えば済む。彼は多分答えられないのではないだろうか。
次に、「脱構築されていない」ポストモダニズムとしてフェミニズムを上げている(p261)。これも可笑しい話だ。脱構築の主題の一つである「音声中心主義批判」ひいては「ロゴス中心主義批判」を考えればわかりやすい。私などがここで述べるより、1983年に書かれた中村雄二郎氏の『魔女ランダ考』を読めば済む話だ。中村氏はロゴス中心主義、つまり科学などの「近代的知」を批判し、それに変わる知として「演劇的知」「パトスの知」を見出した。これは女性性、母性というものと深く関係しており、著作ではそれについて鋭い考察がなされている。つまり、ロゴス的な知は男性的(事実男性は論理的である)で、「演劇的知」「パトスの知」は女性的である(女性は情念的である)、という暗喩的な性格付けが読み取れる。「近代的知」をそれこそ本来の意味で「脱構築」して女性的知とも呼べる「演劇的知」「パトスの知」を見出しているのである。
彼は、芸術に関する主題を話しておきながら、男性的(暗喩ですよ)ロゴス社会とも呼べる現代における社会や経済活動への女性進出だけを観察して「ポストモダニズムを支持するものだとは思えない」と言っているわけである。これが論理的思考と言えるだろうか?
上述の二点から見ても、自論に都合のいいところだけ「芸術」という言葉を持ち出し、都合の悪いところには触れないという、「芸術」という言葉を詭弁的に用いているのがわかる。この時点で著者の芸術観の底が知れる。
次に、彼によればポスト構造主義は「伝統的な文芸作品を支配者集団、とくに西洋の白人男性の世界観を確認するコレクションにすぎないとみなしている。(p260)」のだそうだ。彼自身も書いているが、これは脱構築に政治的イデオロギーを付加するポストモダニズムがそうしているらしい。この著作が論文とも言えないのは、ここまで辛らつな批判をしておいて、引用元を示してないことだ。自分の論説を強固にする目的の引用ばかりなのだ。これでは論文と呼べない。
また、脱構築論は伝統的な文芸作品を何一つ批判していない。こういう誤解が生じかねない表現は科学者として如何かと思う。
それに彼の狡猾なところは、脱構築自体が「自由な読み方」を薦めているということを理解しながら、「脱構築派」として一まとめにして脱構築論を批判しているところだ。デリダの論は「誤読」が主題の論説であり、特に後期はもはや論文とは呼べない著作になっている。現代思想の特徴でもある論理的読解が難しいという点において揚げ足を取る形での批判だ。これに対する反論は簡単である。「そういう主旨が書かれた引用元が無いので予測でしかいえませんが、その脱構築派が脱構築を誤読しているのかもしれないし、貴方がデリダと脱構築派のどちらか、または両方を誤読している可能性はありませんか? これだけで脱構築論批判とするなら、脱構築派とデリダを分けて批判すべきではないでしょうか」
また、「西洋の白人男性」という言葉にも違和感を覚える。デリダが批判したのはキリスト教由来のロゴス中心主義であり、これを擬人化するなら西洋人的であり、男性的であるのだ。彼はクリスチャンだったそうだから、誤読ではなくこの言葉には恣意性を感じる。
と、これ以上ポスト構造主義への理解の浅さを細かく揚げ足をとっても徒労に終わるだけなので、以降は全体的な視点で叙述する。
彼の「芸術」を考察するキーワードとして、「暗喩(メタファー)」、「元型」、「人類学」とある。これらはポスト構造主義に詳しい方ならすぐピンとくるだろうが、全てポスト構造主義が主題にしてきたことなのだ。
「暗喩」から行こう。暗喩や換喩の根底には構造主義の元となったソシュール言語学による、「言葉の多義性」が本質にある。一つの言葉が辞書的な複数の意味間を行き来し、同様の運動をしている言葉と連結することで、全く違った意味を生み出す換喩や暗喩が成立する。彼が批判しているデリダは、この言葉の多義性を出発点にして、「差延」「散種」「音声中心主義批判」という思考に至った。
「元型」。ラカンはこの元型の考えを推し進め、象徴界という概念を生み出し、エスには大文字の他者としての言語が影響する、つまり言語構造がエスに投影的に影響する、という論理に辿りついた。「元型」の根底にある「集合的無意識」を説明する一つの論理としてラカンの論は機能する。
加えるなら、精神分析学を再現性がないからと言って科学ではない、と言っているのは科学自身なのだが、その点について彼はどう考えているのだろう?
「人類学」。カラハリのバンド族という未開の地の民俗について述べているのだが(p283)、彼の論はほぼ構造主義の祖であるレヴィ=ストロースの焼き直しだ。
それに、こういったヨーロッパにおける地方信仰や神話や民俗を潰してきたのがキリスト教ではないか、というのがポスト構造主義の論だが、彼はこのあたりどう考えるだろう?
つまり、この三点についてはポスト構造主義の方がよっぽど芸術の本質に迫っていると言えるのだ。これらを理解しているのかどうかわからないが、ポスト構造主義を批判し、且つポスト構造主義が芸術と相性がよいということを「気分の揺り戻し」と一蹴するなんてとんでもないことだ。都合のいい学問だけを科学と認定し、都合のいい論理を詭弁的にちりばめているだけである。
著者に一言いうならば、「科学と芸術の輪を閉じ(p288)」る前に、「貴方の思考とポスト構造主義の輪を閉じるべきではないですか」ということだ。彼の宗教がキリスト教であり、ポスト構造主義がそれに批判がちであるということから、私怨でポスト構造主義批判になっているだけの文章にしか読めない。
けなすばかりではどうかと思うので、良いところもあげておこう。
元型を説明するときに、蝶の例などを挙げて遺伝子的本能と絡めて説明している(p272、p280)。これは私はきちんと行うべきだと思う。元型、つまりユングのいう集合的無意識はラカン論での言語による共通性だけでは説明できない。集合的無意識と呼ばれたこの無意識的な共有は、言語的なものと、生物的な遺伝子的本能によるものと、二つの原因があるように思う。もちろん二つだけとは言わないが。集合的無意識を成す原因は、いくつかの要素が構造的に組み合わさってできているものだと私は個人的に考える。
もちろん、これについてこの本に書いてあることは目新しいものではないが。
また、神経生理学、認知心理学アプローチ。これも重要かもしれないが、彼がこの本であげている「デザインの冗長性(p278)」については、実は芸術はこれまで似たようなことを行っている。黄金率や、遠近法、ドラマツルギーの理論化である。実験をして統計をとるという科学的手法を行っていないだけだ。芸術にも「理」の部分はあると思うので、経験則でないこういう科学的アプローチはやりたい人がやればよいと思う。
この二点については芸術の本質に踏み込んだとはとても言い難い。これではポストモダン批判の接頭文である「芸術学の理論家は生物学にほとんど目をむけ(p260)」ないのも仕方あるまい。
生物学的という話であれば、動物と人間の違いについて。宗教と芸術の発生という視点で考えるならば、ホモサピエンスとネアンデルタール人の生物学的違いに焦点を当てるべきだろう。彼はここをさらっとしか書いてない(p275)。これについては私も引用でしかしらないが、スティーブン・ミズンの『心の先史時代』などが参考になるのではないだろうか。
彼の言う「普遍的」(p260)なものとは、どうやら科学でしか成り立たないらしい。彼のいう(科学的な)普遍性とは再現性に過ぎない。芸術性という意味での普遍性なら上で書いたようによっぽどラカンやデリダの方が本質に踏み込んでいる。再現性と普遍性を恣意的に混同させて、あたかもポスト構造主義が芸術的普遍性を疎かにしているように書いている。むしろ芸術的普遍性を神話という学問的な立場から見出したのはレヴィ=ストロースではないか(ユングもそうだと言えるが)。ポスト構造主義のどの論説が古典作品を批判したというのであろう? そもそも再現性がないからといって芸術や宗教を遠ざけてきたのは科学自身ではないか。こういったデリダ的な誤読を濫用して読者を混乱させている、非常に不愉快な文章である。
次に、湯川秀樹の例を挙げて芸術と科学の創造的プロセスの共通点をメタファーの視点で見出しているが(p267)、こんなものはとっくの昔に折口信夫が「類化性能」という言葉で表現している。彼の文章は、芸術に理解のない科学者に「芸術やっても損はないよー」という文章に過ぎず、芸術そのものに踏み込んだ文章となっていない。
また、「芸術は魔術だ(p275-276)」なんていう論も、ことさら今いうものではない。芸術を少し齧っていればその本質に呪術性(言葉はいろいろあろうが)を見出すのは大学生レベルで可能だ。ここでは簡単に福田恆存氏の『芸術とは何か』という著作を挙げておこう。
最後に彼が空想した世界を批評しよう(p282)。
彼の世界には方向性がある。そして世界の端がある。彼の地理的イメージからは不思議は微塵も感じられない。せいぜい元型理論をかじって付け足したドラゴンや悪魔といった「記号」だけだ。なぜ彼の地理的イメージには不思議さを感じられないのか。簡単である。世界に方向性があって地球平面説的に端があるからである。非常に一神教的な、キリスト教的なイメージである。きっと彼には仏教の「全は一、一は全」的な、無限回廊的な思想は理解できないだろう。彼は自然界=神秘に同調する感覚が芸術の本質だという。自然と同一化することを教義にしている仏教を敬虔なクリスチャンであった彼はどう思うのだろうか。
この点を読み解くために十一章を読んだのだが、なるほど彼は仏教というものを知らないようである。禅について名前だけを挙げているが(p316)、「神秘的な一体化」という、いかにもキリスト教的な「(辿り着けるかどうかは別とした)ゴールの概念」に縛れているのが読み取れる。私は禅しかわからないが、禅も自然(神秘的なもの)と自己が一体化するのを目的としている。しかし、大悟するなりして一体化しても、自我がそれを認識してしまえばその一体化は逃げてしまう。一体化するのは一瞬だが、その一瞬は時間を越える。「瞬間が永遠、永遠が瞬間」となるのだ。つまり、「ゴールという概念」が存在しない、あってもそこに止まるのは魔境になると言って禁じているのが禅なのだ。
断っておくが、私はキリスト教も、完全にロゴス中心主義であるとは思わない。事実そこを突かれて科学に取って変わられたし、「聖霊」という概念をもって非論理的な思考の余地を残しているとさえ思っている。
まとめると、私のような大学で専攻しなかったような素人が学んだ芸術学(そんなもの必要ないとすら思っているが)から見ても不完全で、取り立てて新しいことが書いてあるとは思わなかった。これで統合というならとっくに芸術は科学と統合されている。
芸術学的にも、彼の批判するポスト構造主義的視点からも、誤読や理解の足りなさが目についた。
今まである論を、ところどころ彼のベースである生物学的な、科学的な「暗喩」を使って、論理的とは言えない「脱構築」的な文章で表現したもの、という印象である。まさに衒学的な文章である。現代思想のテキストとして読めば衒学もありだが、その文脈で読むならば、キリスト教的思考に囚われている著者が、自論を暗喩的に強化させるための知識の張りぼて、または読者を詐欺的に騙すのを主題とした悪い意味での衒学を書いた、という印象の文章である。とても科学者の書いた論文とは思えない。
著者については、知の巨人というより、専門だけでやってけばいいのに、と思った。
個人的にはアランソーカルが『知の欺瞞』を書いた気持ちがわかる文章だな、と思いました……。
ポスト構造主義を批判しているからには、科学という視点で何かしらの新しい知識の体系を示しているのかと思いきや、今まである芸術論に、自分の持っている科学的な知識でお化粧した文章に過ぎず、ポスト構造主義の芸術論に対する深い示唆には到底及ばない文章でした。
彼になら、私はポストモダニストと呼ばれても構わないですね。深い読解に至ってない人に何言われても深層の心性に響いてきません。
「科学的知性と文化的知性の統合」という大それた副題や、「科学、宗教、芸術などあらゆる知性を統合」という煽り文句に期待を持ってしまった。
とりあえず一章と、興味のある芸術のことを書いた十章と、宗教のことを書いた十一章を流し読みで読んだ。
これだけで書評を書くというのは多大に著者に失礼且つ無知な振る舞いだと自分で思うが、論文だと考えれば抜き読みは可能であるし、著者が科学者であるということを考慮して、まあ問題なかろうと筆を取った。
以下は十章についてのみの評論と思っていただきたい。
まず、ポストモダニズム批判がある。もちろんこれに影響されたニューエイジ思想や、『脱構築』に都合のいい解釈を加えて「既存の枠組みを脱する」こと全てが『脱構築』と呼ばれている現状には私も不満がある。
しかし、私には著者が『脱構築』を誤読しているように思えた。
まずp260の「作者は死んだ」。これはパロールの対象としての作者のことであり、エクリチュールにおける「痕跡」としての作者名は意味してしていない。それはデリダの『署名論』でも明らかだ。作者名はテキストが散種するのと同じく散種する。作者名はただの記号なのだ。ここで勘違いしがちだが、文芸などで言われる作家性は否定されない。それらは作者名を含めたテキストの散種によって読者が自ら構築するものである。それこそテキストに過ぎない作者名により実在の人物像を求めることが、「テキストに支配されていないものを探して(p262)」いるのだ。
『脱構築』については著者の理解が浅いためか、この他の深い批判は見受けられない。この著者の狡猾なところは、ポストモダニズム批判の一例として脱構築をあげておいて、脱構築論そのものには深く触れず、その後の批判ではイメージ的に怪しい思想を含むポストモダニズム一般としての批判と摩り替えているところだ。非論理的な批判と言わざるを得ない。デリダに限らず、ポストモダンに対する理解も浅いように思える。
ここではこの著者と同じ轍を避けるため、彼の批判をポストモダンの中での思想面として主体の、「ポスト構造主義」批判と読み替えて話を進める。
彼は、この思想を、「気分の揺り戻し」として一蹴する(p261-262)。確かにその面はあるだろう。しかし、彼はその論拠として、芸術のトレンドの変化を比喩的に取り上げている。著者の批判しているのはポストモダニズムの中の「脱構築」などの、思想面を批判しているのではなかったか。まあいいだろう。デリダの哲学や、ラカンの精神分析学などの学問にも芸術史的なトレンドの変化はあるのかもしれない。そんなことは私は考えてもみなかった。現代思想をマクロとして振り返るにはまだ早すぎるからだ。そもそも彼は現代思想が何故「ポスト」構造主義と呼ばれているのかわかっているのだろうか。デリダにしろラカンにしろ、構造主義を推し進めただけで、トレンドの反転まで至ってないからだ。彼のいう「ロマン主義と新古典主義の同時代の二つのトレンド間における揺れ」などではなく、構造主義含めて近代的科学の思考形態に行き詰まりを覚えての思想なのだ。これは簡単に論破できる。「ポスト構造主義がロマン主義だろうが新古典主義どちらでもよいが、その対立項の思想は何ですか?」と問えば済む。彼は多分答えられないのではないだろうか。
次に、「脱構築されていない」ポストモダニズムとしてフェミニズムを上げている(p261)。これも可笑しい話だ。脱構築の主題の一つである「音声中心主義批判」ひいては「ロゴス中心主義批判」を考えればわかりやすい。私などがここで述べるより、1983年に書かれた中村雄二郎氏の『魔女ランダ考』を読めば済む話だ。中村氏はロゴス中心主義、つまり科学などの「近代的知」を批判し、それに変わる知として「演劇的知」「パトスの知」を見出した。これは女性性、母性というものと深く関係しており、著作ではそれについて鋭い考察がなされている。つまり、ロゴス的な知は男性的(事実男性は論理的である)で、「演劇的知」「パトスの知」は女性的である(女性は情念的である)、という暗喩的な性格付けが読み取れる。「近代的知」をそれこそ本来の意味で「脱構築」して女性的知とも呼べる「演劇的知」「パトスの知」を見出しているのである。
彼は、芸術に関する主題を話しておきながら、男性的(暗喩ですよ)ロゴス社会とも呼べる現代における社会や経済活動への女性進出だけを観察して「ポストモダニズムを支持するものだとは思えない」と言っているわけである。これが論理的思考と言えるだろうか?
上述の二点から見ても、自論に都合のいいところだけ「芸術」という言葉を持ち出し、都合の悪いところには触れないという、「芸術」という言葉を詭弁的に用いているのがわかる。この時点で著者の芸術観の底が知れる。
次に、彼によればポスト構造主義は「伝統的な文芸作品を支配者集団、とくに西洋の白人男性の世界観を確認するコレクションにすぎないとみなしている。(p260)」のだそうだ。彼自身も書いているが、これは脱構築に政治的イデオロギーを付加するポストモダニズムがそうしているらしい。この著作が論文とも言えないのは、ここまで辛らつな批判をしておいて、引用元を示してないことだ。自分の論説を強固にする目的の引用ばかりなのだ。これでは論文と呼べない。
また、脱構築論は伝統的な文芸作品を何一つ批判していない。こういう誤解が生じかねない表現は科学者として如何かと思う。
それに彼の狡猾なところは、脱構築自体が「自由な読み方」を薦めているということを理解しながら、「脱構築派」として一まとめにして脱構築論を批判しているところだ。デリダの論は「誤読」が主題の論説であり、特に後期はもはや論文とは呼べない著作になっている。現代思想の特徴でもある論理的読解が難しいという点において揚げ足を取る形での批判だ。これに対する反論は簡単である。「そういう主旨が書かれた引用元が無いので予測でしかいえませんが、その脱構築派が脱構築を誤読しているのかもしれないし、貴方がデリダと脱構築派のどちらか、または両方を誤読している可能性はありませんか? これだけで脱構築論批判とするなら、脱構築派とデリダを分けて批判すべきではないでしょうか」
また、「西洋の白人男性」という言葉にも違和感を覚える。デリダが批判したのはキリスト教由来のロゴス中心主義であり、これを擬人化するなら西洋人的であり、男性的であるのだ。彼はクリスチャンだったそうだから、誤読ではなくこの言葉には恣意性を感じる。
と、これ以上ポスト構造主義への理解の浅さを細かく揚げ足をとっても徒労に終わるだけなので、以降は全体的な視点で叙述する。
彼の「芸術」を考察するキーワードとして、「暗喩(メタファー)」、「元型」、「人類学」とある。これらはポスト構造主義に詳しい方ならすぐピンとくるだろうが、全てポスト構造主義が主題にしてきたことなのだ。
「暗喩」から行こう。暗喩や換喩の根底には構造主義の元となったソシュール言語学による、「言葉の多義性」が本質にある。一つの言葉が辞書的な複数の意味間を行き来し、同様の運動をしている言葉と連結することで、全く違った意味を生み出す換喩や暗喩が成立する。彼が批判しているデリダは、この言葉の多義性を出発点にして、「差延」「散種」「音声中心主義批判」という思考に至った。
「元型」。ラカンはこの元型の考えを推し進め、象徴界という概念を生み出し、エスには大文字の他者としての言語が影響する、つまり言語構造がエスに投影的に影響する、という論理に辿りついた。「元型」の根底にある「集合的無意識」を説明する一つの論理としてラカンの論は機能する。
加えるなら、精神分析学を再現性がないからと言って科学ではない、と言っているのは科学自身なのだが、その点について彼はどう考えているのだろう?
「人類学」。カラハリのバンド族という未開の地の民俗について述べているのだが(p283)、彼の論はほぼ構造主義の祖であるレヴィ=ストロースの焼き直しだ。
それに、こういったヨーロッパにおける地方信仰や神話や民俗を潰してきたのがキリスト教ではないか、というのがポスト構造主義の論だが、彼はこのあたりどう考えるだろう?
つまり、この三点についてはポスト構造主義の方がよっぽど芸術の本質に迫っていると言えるのだ。これらを理解しているのかどうかわからないが、ポスト構造主義を批判し、且つポスト構造主義が芸術と相性がよいということを「気分の揺り戻し」と一蹴するなんてとんでもないことだ。都合のいい学問だけを科学と認定し、都合のいい論理を詭弁的にちりばめているだけである。
著者に一言いうならば、「科学と芸術の輪を閉じ(p288)」る前に、「貴方の思考とポスト構造主義の輪を閉じるべきではないですか」ということだ。彼の宗教がキリスト教であり、ポスト構造主義がそれに批判がちであるということから、私怨でポスト構造主義批判になっているだけの文章にしか読めない。
けなすばかりではどうかと思うので、良いところもあげておこう。
元型を説明するときに、蝶の例などを挙げて遺伝子的本能と絡めて説明している(p272、p280)。これは私はきちんと行うべきだと思う。元型、つまりユングのいう集合的無意識はラカン論での言語による共通性だけでは説明できない。集合的無意識と呼ばれたこの無意識的な共有は、言語的なものと、生物的な遺伝子的本能によるものと、二つの原因があるように思う。もちろん二つだけとは言わないが。集合的無意識を成す原因は、いくつかの要素が構造的に組み合わさってできているものだと私は個人的に考える。
もちろん、これについてこの本に書いてあることは目新しいものではないが。
また、神経生理学、認知心理学アプローチ。これも重要かもしれないが、彼がこの本であげている「デザインの冗長性(p278)」については、実は芸術はこれまで似たようなことを行っている。黄金率や、遠近法、ドラマツルギーの理論化である。実験をして統計をとるという科学的手法を行っていないだけだ。芸術にも「理」の部分はあると思うので、経験則でないこういう科学的アプローチはやりたい人がやればよいと思う。
この二点については芸術の本質に踏み込んだとはとても言い難い。これではポストモダン批判の接頭文である「芸術学の理論家は生物学にほとんど目をむけ(p260)」ないのも仕方あるまい。
生物学的という話であれば、動物と人間の違いについて。宗教と芸術の発生という視点で考えるならば、ホモサピエンスとネアンデルタール人の生物学的違いに焦点を当てるべきだろう。彼はここをさらっとしか書いてない(p275)。これについては私も引用でしかしらないが、スティーブン・ミズンの『心の先史時代』などが参考になるのではないだろうか。
彼の言う「普遍的」(p260)なものとは、どうやら科学でしか成り立たないらしい。彼のいう(科学的な)普遍性とは再現性に過ぎない。芸術性という意味での普遍性なら上で書いたようによっぽどラカンやデリダの方が本質に踏み込んでいる。再現性と普遍性を恣意的に混同させて、あたかもポスト構造主義が芸術的普遍性を疎かにしているように書いている。むしろ芸術的普遍性を神話という学問的な立場から見出したのはレヴィ=ストロースではないか(ユングもそうだと言えるが)。ポスト構造主義のどの論説が古典作品を批判したというのであろう? そもそも再現性がないからといって芸術や宗教を遠ざけてきたのは科学自身ではないか。こういったデリダ的な誤読を濫用して読者を混乱させている、非常に不愉快な文章である。
次に、湯川秀樹の例を挙げて芸術と科学の創造的プロセスの共通点をメタファーの視点で見出しているが(p267)、こんなものはとっくの昔に折口信夫が「類化性能」という言葉で表現している。彼の文章は、芸術に理解のない科学者に「芸術やっても損はないよー」という文章に過ぎず、芸術そのものに踏み込んだ文章となっていない。
また、「芸術は魔術だ(p275-276)」なんていう論も、ことさら今いうものではない。芸術を少し齧っていればその本質に呪術性(言葉はいろいろあろうが)を見出すのは大学生レベルで可能だ。ここでは簡単に福田恆存氏の『芸術とは何か』という著作を挙げておこう。
最後に彼が空想した世界を批評しよう(p282)。
彼の世界には方向性がある。そして世界の端がある。彼の地理的イメージからは不思議は微塵も感じられない。せいぜい元型理論をかじって付け足したドラゴンや悪魔といった「記号」だけだ。なぜ彼の地理的イメージには不思議さを感じられないのか。簡単である。世界に方向性があって地球平面説的に端があるからである。非常に一神教的な、キリスト教的なイメージである。きっと彼には仏教の「全は一、一は全」的な、無限回廊的な思想は理解できないだろう。彼は自然界=神秘に同調する感覚が芸術の本質だという。自然と同一化することを教義にしている仏教を敬虔なクリスチャンであった彼はどう思うのだろうか。
この点を読み解くために十一章を読んだのだが、なるほど彼は仏教というものを知らないようである。禅について名前だけを挙げているが(p316)、「神秘的な一体化」という、いかにもキリスト教的な「(辿り着けるかどうかは別とした)ゴールの概念」に縛れているのが読み取れる。私は禅しかわからないが、禅も自然(神秘的なもの)と自己が一体化するのを目的としている。しかし、大悟するなりして一体化しても、自我がそれを認識してしまえばその一体化は逃げてしまう。一体化するのは一瞬だが、その一瞬は時間を越える。「瞬間が永遠、永遠が瞬間」となるのだ。つまり、「ゴールという概念」が存在しない、あってもそこに止まるのは魔境になると言って禁じているのが禅なのだ。
断っておくが、私はキリスト教も、完全にロゴス中心主義であるとは思わない。事実そこを突かれて科学に取って変わられたし、「聖霊」という概念をもって非論理的な思考の余地を残しているとさえ思っている。
まとめると、私のような大学で専攻しなかったような素人が学んだ芸術学(そんなもの必要ないとすら思っているが)から見ても不完全で、取り立てて新しいことが書いてあるとは思わなかった。これで統合というならとっくに芸術は科学と統合されている。
芸術学的にも、彼の批判するポスト構造主義的視点からも、誤読や理解の足りなさが目についた。
今まである論を、ところどころ彼のベースである生物学的な、科学的な「暗喩」を使って、論理的とは言えない「脱構築」的な文章で表現したもの、という印象である。まさに衒学的な文章である。現代思想のテキストとして読めば衒学もありだが、その文脈で読むならば、キリスト教的思考に囚われている著者が、自論を暗喩的に強化させるための知識の張りぼて、または読者を詐欺的に騙すのを主題とした悪い意味での衒学を書いた、という印象の文章である。とても科学者の書いた論文とは思えない。
著者については、知の巨人というより、専門だけでやってけばいいのに、と思った。
個人的にはアランソーカルが『知の欺瞞』を書いた気持ちがわかる文章だな、と思いました……。
ポスト構造主義を批判しているからには、科学という視点で何かしらの新しい知識の体系を示しているのかと思いきや、今まである芸術論に、自分の持っている科学的な知識でお化粧した文章に過ぎず、ポスト構造主義の芸術論に対する深い示唆には到底及ばない文章でした。
彼になら、私はポストモダニストと呼ばれても構わないですね。深い読解に至ってない人に何言われても深層の心性に響いてきません。