本性
2009/02/21/Sat
アブジェを刺激すればファルスは勃起する。
これは死と直面すると生を強く実感し強く望むことと同じ機制だ。
ファルスを軸とした幻想を生きるのが人なるものにとっての生である。
しかしアブジェはおぞましくも魅惑的なものだ。
現実感の源泉だ。
幻想に覆われた生は、現実感を欲望する。
他者を乗り越えたところに現実感の源泉がある。
人なるものに他者は乗り越えられない。
父の名という裏打ちのない擬似的なファルスは、幻想で生きることを許されない。
わたしは存在しない。
未去勢者が自殺を選択する際、さまざまな要因が考えられ、それらの要因は去勢済みな主体が自殺する要因と重なっているだろう。
たとえば二階堂奥歯は、どこか完璧主義なところがある。オタク的に言うならコンプ(コンプリートの略)に拘っているところがある。
この完璧主義が、病んでしまった自分を許せなかった、という解釈もできうる。
それだと超自我が強すぎる故の自殺となってしまう。
しかしこの要因も一つの要因としてある可能性は否定できない。
では二階堂は去勢済みな主体なのか、と言えば、否、とわたしは答える。
未去勢な自分と去勢済みな自分は一人の人間の中に両方ある。これらは常に反発している。これらの間に断絶がある。一人一人の人間が断絶を内包している。
去勢済みな自分が弱い個体は、反発・断絶と常に直面している。心的苦痛の原因である。
それまでのその個体の常態が、反発・断絶と直面しているかどうかが、その個体が未去勢か去勢済みの主体かの、仮の区分となる。
ごまかしながらも常にごまかしきれなかったのが二階堂の生だ。ごまかしながら常にごまかしきれているのが神経症者だ。たまたまごまかしきれない時が、神経症という症状として表れる。
二階堂奥歯は周りの人間を許した。許しではない、と思う。自分の死はあなたたちに関係ないことだと彼女は言いたかったのだ。
他者の根拠が希薄な未去勢者は、他者を根拠にするため前向きに去勢に挑む。二階堂の場合たまたま自殺であっただけだ。
他者の根拠が希薄なわたしは、去勢されるために、一度助走体勢を取る。希薄ながらもやりくりしていた自分を一歩退行させる。他者など存在しない主観世界に浸る。
だから、自分の死はあなたたちに関係ないことだ、となる。
今のわたしには他者など存在していないから。
先述したような去勢済みな主体の自殺の要因は、全て他者を根拠にしている。
未去勢者がする前向きな自殺の動機には、他者が存在しない。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の、男の見下したような笑い。
わたしはその笑いを殺そうとしている。
今から殺しにいく、とは書けなかった。
二階堂のように自殺宣言できなかった。
二階堂の事後を知っているから、というのもある。
他者が湧いてしまったら誤解されるかもしれない、と警戒している。
本当にファルスはうっとおしい。
草間彌生の小さなペニスが無数に林立するオブジェ。
あのペニス一本一本がお前らだ。
二階堂の死に蟻のごとく群がったお前らだ。
死という祝祭を勃起しながら眺めるヌードショウの観客だ。
お前たちのせいでわたしは生きてきた。お前たちに唾を吐くことで生きていられた。
お前たちのせいで死ぬわけではない。
誰のせいでもない。
二階堂はそう言いたかったのだと、なんの含みもなく、思える。
死を前にして実感する生は、瞬間的なものだ。
この生は、幻想と呼ばなくてもいいだろう。
殺せ、殺せ、正常人を殺せ。
わたしは念仏のごとくそうつぶやいてきた。
わたしの主観世界で正常人たちを抹殺することは、自殺と等しい。
中島みゆきの歌。
「誰のせいでもない雨が降っている」
ドゥルーズの言葉。
「雨が降るように人は死ぬ」
合わせれば、
「誰のせいでもなく雨が降るように人は死ぬ」
なのに、誰かのせいにしたり自分のせいにしたりするのが、正常である証なのだ。正常というパラノイアックな精神疾患なのだ。
現実界においては「誰のせいでもなく人は死ぬ」なのだ。
当然だろ? 無意識の本質は孤児なんだから。
現実界に他者など存在しないのだから。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の、男の見下したような笑い。
あなたはそう思ったわたしを、あなたの主観世界で殺している。
そう思ったわたしを去勢しようとしている。
このまま生きてやってもいい。
だけどわたしは去勢されたい。
まともになりたい。
二階堂の自殺はそういうものだ。
それにオナニーしているお前らの主観では想像できない理由だ。
二階堂の死について述べた藤田博史の言葉など、こそばゆくてたまらない。
まあ建前だけで言っといた、とも考えられるがね。
少なくとも「ああこいつもだめそうだな」と思うには充分な言葉だった。
藤田、お前は精神分析家失格だ。わたしの主観でそう判断する。
あれは社交辞令で言っただけ、と言うならまだグレーゾーンに残してやってもよい。
「ボクチン奥歯タンの自殺でオナニーしたんだにょーん」などと言えば見直してやる。
二階堂の死に精液をぶっかけている自分を自覚しているならば。
わたしは二階堂ほど女を演じられていないから、こう述べている。
月日は全ての悲しみを癒すことができない。
まともな子たちと遊んでいる夢が多くなった。
彼女たちはわたしを気持ち悪いと思ってはいたのだろうが、気持ち悪さをおかしみに変える術を持っていた。
快楽原則の綻びを自覚し、わたしのような人間に綻びを当てはめることができた。
もちろんそんな人間は少ない。
わたしに向かって彼女らは言う。
「あんたほんとに変わんないねえ」
みんな安心するような口調でそう言う。
変わらないということは成長していないということだ。
三人の囚人だったとして、わたしは走り出せない。走り出せないままずっと座っている。
時々牢屋に帰ってきた囚人が、わたしを見て安心する。
「あんた変わんないねえ」
牢屋という平均台。
ぎりぎりだ。
思わせぶりはもうやめて。
あんたの本性を見せて。
これは死と直面すると生を強く実感し強く望むことと同じ機制だ。
ファルスを軸とした幻想を生きるのが人なるものにとっての生である。
しかしアブジェはおぞましくも魅惑的なものだ。
現実感の源泉だ。
幻想に覆われた生は、現実感を欲望する。
他者を乗り越えたところに現実感の源泉がある。
人なるものに他者は乗り越えられない。
父の名という裏打ちのない擬似的なファルスは、幻想で生きることを許されない。
わたしは存在しない。
未去勢者が自殺を選択する際、さまざまな要因が考えられ、それらの要因は去勢済みな主体が自殺する要因と重なっているだろう。
たとえば二階堂奥歯は、どこか完璧主義なところがある。オタク的に言うならコンプ(コンプリートの略)に拘っているところがある。
この完璧主義が、病んでしまった自分を許せなかった、という解釈もできうる。
それだと超自我が強すぎる故の自殺となってしまう。
しかしこの要因も一つの要因としてある可能性は否定できない。
では二階堂は去勢済みな主体なのか、と言えば、否、とわたしは答える。
未去勢な自分と去勢済みな自分は一人の人間の中に両方ある。これらは常に反発している。これらの間に断絶がある。一人一人の人間が断絶を内包している。
去勢済みな自分が弱い個体は、反発・断絶と常に直面している。心的苦痛の原因である。
それまでのその個体の常態が、反発・断絶と直面しているかどうかが、その個体が未去勢か去勢済みの主体かの、仮の区分となる。
ごまかしながらも常にごまかしきれなかったのが二階堂の生だ。ごまかしながら常にごまかしきれているのが神経症者だ。たまたまごまかしきれない時が、神経症という症状として表れる。
二階堂奥歯は周りの人間を許した。許しではない、と思う。自分の死はあなたたちに関係ないことだと彼女は言いたかったのだ。
他者の根拠が希薄な未去勢者は、他者を根拠にするため前向きに去勢に挑む。二階堂の場合たまたま自殺であっただけだ。
他者の根拠が希薄なわたしは、去勢されるために、一度助走体勢を取る。希薄ながらもやりくりしていた自分を一歩退行させる。他者など存在しない主観世界に浸る。
だから、自分の死はあなたたちに関係ないことだ、となる。
今のわたしには他者など存在していないから。
先述したような去勢済みな主体の自殺の要因は、全て他者を根拠にしている。
未去勢者がする前向きな自殺の動機には、他者が存在しない。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の、男の見下したような笑い。
わたしはその笑いを殺そうとしている。
今から殺しにいく、とは書けなかった。
二階堂のように自殺宣言できなかった。
二階堂の事後を知っているから、というのもある。
他者が湧いてしまったら誤解されるかもしれない、と警戒している。
本当にファルスはうっとおしい。
草間彌生の小さなペニスが無数に林立するオブジェ。
あのペニス一本一本がお前らだ。
二階堂の死に蟻のごとく群がったお前らだ。
死という祝祭を勃起しながら眺めるヌードショウの観客だ。
お前たちのせいでわたしは生きてきた。お前たちに唾を吐くことで生きていられた。
お前たちのせいで死ぬわけではない。
誰のせいでもない。
二階堂はそう言いたかったのだと、なんの含みもなく、思える。
死を前にして実感する生は、瞬間的なものだ。
この生は、幻想と呼ばなくてもいいだろう。
殺せ、殺せ、正常人を殺せ。
わたしは念仏のごとくそうつぶやいてきた。
わたしの主観世界で正常人たちを抹殺することは、自殺と等しい。
中島みゆきの歌。
「誰のせいでもない雨が降っている」
ドゥルーズの言葉。
「雨が降るように人は死ぬ」
合わせれば、
「誰のせいでもなく雨が降るように人は死ぬ」
なのに、誰かのせいにしたり自分のせいにしたりするのが、正常である証なのだ。正常というパラノイアックな精神疾患なのだ。
現実界においては「誰のせいでもなく人は死ぬ」なのだ。
当然だろ? 無意識の本質は孤児なんだから。
現実界に他者など存在しないのだから。
「一緒に死んで」となんの含みもなく言った時の、男の見下したような笑い。
あなたはそう思ったわたしを、あなたの主観世界で殺している。
そう思ったわたしを去勢しようとしている。
このまま生きてやってもいい。
だけどわたしは去勢されたい。
まともになりたい。
二階堂の自殺はそういうものだ。
それにオナニーしているお前らの主観では想像できない理由だ。
二階堂の死について述べた藤田博史の言葉など、こそばゆくてたまらない。
まあ建前だけで言っといた、とも考えられるがね。
少なくとも「ああこいつもだめそうだな」と思うには充分な言葉だった。
藤田、お前は精神分析家失格だ。わたしの主観でそう判断する。
あれは社交辞令で言っただけ、と言うならまだグレーゾーンに残してやってもよい。
「ボクチン奥歯タンの自殺でオナニーしたんだにょーん」などと言えば見直してやる。
二階堂の死に精液をぶっかけている自分を自覚しているならば。
わたしは二階堂ほど女を演じられていないから、こう述べている。
月日は全ての悲しみを癒すことができない。
まともな子たちと遊んでいる夢が多くなった。
彼女たちはわたしを気持ち悪いと思ってはいたのだろうが、気持ち悪さをおかしみに変える術を持っていた。
快楽原則の綻びを自覚し、わたしのような人間に綻びを当てはめることができた。
もちろんそんな人間は少ない。
わたしに向かって彼女らは言う。
「あんたほんとに変わんないねえ」
みんな安心するような口調でそう言う。
変わらないということは成長していないということだ。
三人の囚人だったとして、わたしは走り出せない。走り出せないままずっと座っている。
時々牢屋に帰ってきた囚人が、わたしを見て安心する。
「あんた変わんないねえ」
牢屋という平均台。
ぎりぎりだ。
思わせぶりはもうやめて。
あんたの本性を見せて。