『穴』――悪女は穴にいる。
2009/02/24/Tue
死ぬほど、殺したいほど愛している。それは特別なことだろうか。
わたしはセックスした男全てにそのような感情を抱いた。
口に出さなかっただけ。
笑い飛ばされると知っていたから。
いわゆる「重い女」という奴だろう。しかしそんな風には思われてなかったように思う。むしろ「ノリのいい女」と思われていただろう。
遊びだと自分に言い聞かせていたから。
わたしの本性を隠すために遊んでいる女を演じていた。
必死だった。
遊びだから「一緒に死んで」と言わない。自分で決めた自分ルール。
遊びだったの。
遊びだから本気だったの。
そんなこと言っても理解されるはずがない。
わたしの考えはおかしいだろうか。
おかしいから遊びだと言い聞かせていたのだ。
おかしいと自分で自覚していた。
本当に死ぬほど、殺したいほど愛している状態は、本人が一番自覚できる。異常だと。
遊び友だちはそんな子が多かったと思う。
嘘だ。わたしがそうだから他の子もそうだろうという思い込み。
でも、中にはそう信じたくなる子もいる。
世の中全てが演技だ。
この考えがわかってくれそうな子。
口先でそう言ってもだめ。ある程度付き合うと本気でそう思ってるかどうかわかる。
「死んで誰も悲しんでくれなくちゃさびしいじゃん」
全くそんなこと思わない。
むしろそんな悲しみという精液から逃れるために死ぬのだ。
いや、その精液を顔で受けるために死ぬのだ。
だから、悲しんで欲しいし悲しんで欲しくない。
どちらでもありどちらでもない。
ぎりぎりで平均台を歩いている。
刃物のような平均台を歩いている。
悲しんで欲しいと悲しんで欲しくないという両側からの力で、ぎりぎり刃の上を歩けている。
殺してやる。
そうつぶやくことが多くなった。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
誰を? と聞かれてもわからない。知ったこっちゃない。
殺してやる。
ただそう言うだけ。
殺してやる。
ただそんな言葉だけ。
殺してやる。
そんな言葉が刃になっている。
この刃のおかげで、わたしは狂気の泉に落ちなくて済んでいる。
『穴』という映画を見た。そうそう、そういうことだと思った。
この記事で評したドラマには悪女は存在しなかったが、この映画には悪女が存在している。
いや、主人公女性は真実を告白した。この一点をもって彼女は懺悔しているのであり悪女ではない、という反論も可能だろう。
しかし彼女は部分的な記憶喪失に陥っていた。これは詐病ではなかった、と解釈すればこの告白は懺悔的な「悪女のフリしているだけで実はいい人だった」という正常人がしたがる解釈を免れえる。
彼女は実際に心因的な記憶喪失に罹っていた。そして事件現場に戻ることにより記憶が戻った。記憶が戻るがまま彼女は事実を告白したのだ。心のうちの心と呼ぶのも違和感のある内面の力動に従っただけである。
彼女の犯行もそうであっただけである。
従って彼女は言う。「わたしは悪くない。全部アクシデントだった」と。
その通りだ。
現実界は予測不可能な状況として回帰する。予測不可能だからアクシデントだったと彼女は言っている。わたしは悪くないと言っている。
全く正しい。
彼女は外-密する現実界を生きていた。
それだけの話である。
その時の彼女はファルスが不安定になっていた。不具合が生じていた。
この映画に映るシーンに限れば、主人公女性は未去勢だったと言える。
ファルスがないから現実界に翻弄されたのだ。
全く、この映画を見て先述の日本のドラマを見ると馬鹿らしくなる。コントを現実と思い込んでいる集団的な精神疾患が透けて見える。
ほんとお前らって馬鹿だな。生きてる価値ないよ。
死ね。
殺してやる。
ベタボメしているようだが、不服なところもある。脚本にしろ演出にしろ役者の演技にしろそつがなさすぎる。隙がない。優等生的。イギリスらしいっちゃらしい。むしろこの若さでこの演技力ってところに演劇大国のすごさを感じるべきなんだろう。
アメリカなら主人公の告白相手のカウンセラーだかの視点を最初に持ってきそうだ。主人公の視点で固定していたのが一本気的だったんだな。最初の主人公の妄想語りを大幅カットで事件の真相を追うカウンセラーというシーンを持ってきたらアメリカっぽくなるか。
やはり視点のごちゃごちゃさがないと未去勢的な雰囲気は出ない。自他混淆しているのがアブジェの世界なわけだから。統合失調症なら自己の流出だな。
全体的に見ればよくも悪くもなく、という評価。ただ『疑惑』という日本ドラマで「悪女は存在しない」まんまを描いてくれちゃったもんだから反動で「そうそう、そういうこと」と思ってしまったわけだ。
余談だが主人公女性のルックス日本人にいそうじゃない? 日本人は好きなんじゃないかな。血ゲロ吐いて死ぬ金髪美女より。っていうか知り合いを思い出して不快だった。遊んでいる子ではあるがわたしを軽蔑するような目で見てた奴。「遊びが遊びになってないじゃん」とでも言いたげな。そりゃそうだ。さっきも書いたようにわたしは遊びだから本気なんだから。
主人公女性がゲーゲー吐いて苦しんで死にかけている金髪女性の隣で喜々として意中の彼氏との進展を語るシーンなどはぐっときた。カナエ症例におけるシャンプー浣腸のごとく。
最近映画やドラマばかり見ているが、物語恐怖症が再発しそうで怖い。ということはわたしの内面の状態は物語恐怖症だった頃に親近していると考えられるので、今が自分の物語恐怖症を顧みるのに適している時だと言える。
うーん……。
物語を見ていると落とし穴に落ちてしまいそうな怖さを感じた。物語を見せられると地雷原に立たされているような感じを受けた。
わたしにとって物語とは退行促進装置だ。
とは言っても、二階堂奥歯ほど物語に執着していたわけではない。小説を読み漁ったわけではない。ごくごく一般的な物語との接し方をしていたと思う。普通に子供の頃はアニメを見て普通にマンガを読んで普通に時々小説を読んで普通に映画やドラマを見て、という。
スターン論においては物語的自己感が主観形成の最終段階にある。
だけど物語には落とし穴がある。簡単に言えば主人公が必ず陥る危機であるとか。
とはいえ主人公に感情移入しているわけではない。落とし穴があることが恐ろしい。感情移入しているから主人公が危機に陥り苦しむのに共感しているのか。共感ではあろうが感情移入とは言えない。別に危機に陥るのが好きでもないどうでもいい登場人物であってもそういう気がするからだ。具体的には怪談話などわかりやすいだろう。怪談話は登場人物に感情移入させる機制が重要となっているだろうか? たとえば登場人物は「知り合いの話だけどさ」などという一言で済まされる。観客に感情移入させる機制を一般の物語と比べて重要視していないことは明らかだ。
そう、言い換えれば、物語恐怖症に陥っていた時のわたしにとって、全ての物語が怪談話になっていたわけだ。たとえハッピーエンドであっても。たとえコメディであっても。
いや、コメディなどはそこそこ見れた。しかし物語的機制が働いたと思った瞬間拒絶反応が出る。ナンセンスギャグなどは物語の機制がほとんどないので大丈夫だった。四コママンガなども物語的機制があるとはいえごくごく単純なものだったので平気だった。
思うに、物語的自己感や言語的自己感などといったものは、下層にある間主観的自己感や中核自己感などに刺し縫いされているのだ。いきなりラカン用語を用いたが、そういう意味も隠喩的に含めてみるのもおもしろかろう、くらいの意図である。
この刺し縫いポイントこそがわたしが感じた「物語における落とし穴」に当たるのではないだろうか。
そう考えれば感覚的にいろいろしっくりくる。
物語的自己感や言語的自己感は間主観的自己感や中核自己感に刺し縫いされている。それらの層状の自己感(主観性)はあるポイントで貫通されている。このポイントは上層の自己感にとって落とし穴のごときものである。落とし穴に落ちることは退行することである。
しかし、だ。
恐らく普通の人は間主観的自己感に確固たるセーフティネットがあると思われる。間主観的自己感の形成期はほぼ鏡像段階と重なっている。ラカン論における(大文字小文字問わない)他者が形成されるのは間主観的自己感によるものと考えられる。
落とし穴に落ちても間主観的自己感の層においてトランポリンのようなセーフティネットがある。このトランポリンで弾き返され彼らは言語的自己感や物語的自己感に舞い戻れる。たとえば「悪女のフリしているだけで実はいい人だった」という解釈にすがりつける。
しかしこの刺し縫いがない人間はどうだろう。言語的自己感の層の厚みがどんどん増していった人間はポスト・フェストゥムとなるだろう。現実感の根拠たる現実界から、鏡像段階以前の主観世界から、中核自己感や新生自己感から遠く離れてしまうだろう。そんな時物語的自己感が父のごとく立ちはだかる。父のゲンコツによって主体は少しだけ退行させられる。去勢が回帰する。落とし穴に落とされる。トランポリンで弾き返される。去勢を承認する。従って刺し縫いが、落とし穴がない人間は精神病としてのパラノイアだと考えられる。パラノイアは落とし穴を後付けのファルスで埋め立ててしまっているのだ。
ではわたしの症状は。
わたしは最近の自己分析によって他者という根拠が希薄だと述べている。わたしにとって間主観的自己感のトランポリンは、ないとは言わないが、ひどく粗末なものなのだろう。従って中核自己感や新生自己感などという鏡像段階以前の主観世界に接してしまう。未去勢な主観世界に陥ってしまう。
だから物語恐怖症に陥ったのだ。
一度落ちてしまえば、どこにすがりつけばよいかわかる。わたしは間主観的自己感の一つ上層の言語的自己感にすがりついている。物語恐怖症は治っているが、間主観的自己感のトランポリンが構築されたわけではない。
間主観的自己感の形成期はあくまで生後二年以内である。この時期を逃して後にそれを学習することはできない。学習したとしても似て非なるものとなる。わたしにとっての「根拠として希薄な他者」のごときものとなる。
なるほどな。自己満足的な文章だから読者が理解できなくてもいいや。
無縁仏は成仏できないのか。
ならば無縁仏でいいやと思う。素で。
わたしはセックスした男全てにそのような感情を抱いた。
口に出さなかっただけ。
笑い飛ばされると知っていたから。
いわゆる「重い女」という奴だろう。しかしそんな風には思われてなかったように思う。むしろ「ノリのいい女」と思われていただろう。
遊びだと自分に言い聞かせていたから。
わたしの本性を隠すために遊んでいる女を演じていた。
必死だった。
遊びだから「一緒に死んで」と言わない。自分で決めた自分ルール。
遊びだったの。
遊びだから本気だったの。
そんなこと言っても理解されるはずがない。
わたしの考えはおかしいだろうか。
おかしいから遊びだと言い聞かせていたのだ。
おかしいと自分で自覚していた。
本当に死ぬほど、殺したいほど愛している状態は、本人が一番自覚できる。異常だと。
遊び友だちはそんな子が多かったと思う。
嘘だ。わたしがそうだから他の子もそうだろうという思い込み。
でも、中にはそう信じたくなる子もいる。
世の中全てが演技だ。
この考えがわかってくれそうな子。
口先でそう言ってもだめ。ある程度付き合うと本気でそう思ってるかどうかわかる。
「死んで誰も悲しんでくれなくちゃさびしいじゃん」
全くそんなこと思わない。
むしろそんな悲しみという精液から逃れるために死ぬのだ。
いや、その精液を顔で受けるために死ぬのだ。
だから、悲しんで欲しいし悲しんで欲しくない。
どちらでもありどちらでもない。
ぎりぎりで平均台を歩いている。
刃物のような平均台を歩いている。
悲しんで欲しいと悲しんで欲しくないという両側からの力で、ぎりぎり刃の上を歩けている。
殺してやる。
そうつぶやくことが多くなった。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
誰を? と聞かれてもわからない。知ったこっちゃない。
殺してやる。
ただそう言うだけ。
殺してやる。
ただそんな言葉だけ。
殺してやる。
そんな言葉が刃になっている。
この刃のおかげで、わたしは狂気の泉に落ちなくて済んでいる。
『穴』という映画を見た。そうそう、そういうことだと思った。
この記事で評したドラマには悪女は存在しなかったが、この映画には悪女が存在している。
いや、主人公女性は真実を告白した。この一点をもって彼女は懺悔しているのであり悪女ではない、という反論も可能だろう。
しかし彼女は部分的な記憶喪失に陥っていた。これは詐病ではなかった、と解釈すればこの告白は懺悔的な「悪女のフリしているだけで実はいい人だった」という正常人がしたがる解釈を免れえる。
彼女は実際に心因的な記憶喪失に罹っていた。そして事件現場に戻ることにより記憶が戻った。記憶が戻るがまま彼女は事実を告白したのだ。心のうちの心と呼ぶのも違和感のある内面の力動に従っただけである。
彼女の犯行もそうであっただけである。
従って彼女は言う。「わたしは悪くない。全部アクシデントだった」と。
その通りだ。
現実界は予測不可能な状況として回帰する。予測不可能だからアクシデントだったと彼女は言っている。わたしは悪くないと言っている。
全く正しい。
彼女は外-密する現実界を生きていた。
それだけの話である。
その時の彼女はファルスが不安定になっていた。不具合が生じていた。
この映画に映るシーンに限れば、主人公女性は未去勢だったと言える。
ファルスがないから現実界に翻弄されたのだ。
全く、この映画を見て先述の日本のドラマを見ると馬鹿らしくなる。コントを現実と思い込んでいる集団的な精神疾患が透けて見える。
ほんとお前らって馬鹿だな。生きてる価値ないよ。
死ね。
殺してやる。
ベタボメしているようだが、不服なところもある。脚本にしろ演出にしろ役者の演技にしろそつがなさすぎる。隙がない。優等生的。イギリスらしいっちゃらしい。むしろこの若さでこの演技力ってところに演劇大国のすごさを感じるべきなんだろう。
アメリカなら主人公の告白相手のカウンセラーだかの視点を最初に持ってきそうだ。主人公の視点で固定していたのが一本気的だったんだな。最初の主人公の妄想語りを大幅カットで事件の真相を追うカウンセラーというシーンを持ってきたらアメリカっぽくなるか。
やはり視点のごちゃごちゃさがないと未去勢的な雰囲気は出ない。自他混淆しているのがアブジェの世界なわけだから。統合失調症なら自己の流出だな。
全体的に見ればよくも悪くもなく、という評価。ただ『疑惑』という日本ドラマで「悪女は存在しない」まんまを描いてくれちゃったもんだから反動で「そうそう、そういうこと」と思ってしまったわけだ。
余談だが主人公女性のルックス日本人にいそうじゃない? 日本人は好きなんじゃないかな。血ゲロ吐いて死ぬ金髪美女より。っていうか知り合いを思い出して不快だった。遊んでいる子ではあるがわたしを軽蔑するような目で見てた奴。「遊びが遊びになってないじゃん」とでも言いたげな。そりゃそうだ。さっきも書いたようにわたしは遊びだから本気なんだから。
主人公女性がゲーゲー吐いて苦しんで死にかけている金髪女性の隣で喜々として意中の彼氏との進展を語るシーンなどはぐっときた。カナエ症例におけるシャンプー浣腸のごとく。
最近映画やドラマばかり見ているが、物語恐怖症が再発しそうで怖い。ということはわたしの内面の状態は物語恐怖症だった頃に親近していると考えられるので、今が自分の物語恐怖症を顧みるのに適している時だと言える。
うーん……。
物語を見ていると落とし穴に落ちてしまいそうな怖さを感じた。物語を見せられると地雷原に立たされているような感じを受けた。
わたしにとって物語とは退行促進装置だ。
とは言っても、二階堂奥歯ほど物語に執着していたわけではない。小説を読み漁ったわけではない。ごくごく一般的な物語との接し方をしていたと思う。普通に子供の頃はアニメを見て普通にマンガを読んで普通に時々小説を読んで普通に映画やドラマを見て、という。
スターン論においては物語的自己感が主観形成の最終段階にある。
だけど物語には落とし穴がある。簡単に言えば主人公が必ず陥る危機であるとか。
とはいえ主人公に感情移入しているわけではない。落とし穴があることが恐ろしい。感情移入しているから主人公が危機に陥り苦しむのに共感しているのか。共感ではあろうが感情移入とは言えない。別に危機に陥るのが好きでもないどうでもいい登場人物であってもそういう気がするからだ。具体的には怪談話などわかりやすいだろう。怪談話は登場人物に感情移入させる機制が重要となっているだろうか? たとえば登場人物は「知り合いの話だけどさ」などという一言で済まされる。観客に感情移入させる機制を一般の物語と比べて重要視していないことは明らかだ。
そう、言い換えれば、物語恐怖症に陥っていた時のわたしにとって、全ての物語が怪談話になっていたわけだ。たとえハッピーエンドであっても。たとえコメディであっても。
いや、コメディなどはそこそこ見れた。しかし物語的機制が働いたと思った瞬間拒絶反応が出る。ナンセンスギャグなどは物語の機制がほとんどないので大丈夫だった。四コママンガなども物語的機制があるとはいえごくごく単純なものだったので平気だった。
思うに、物語的自己感や言語的自己感などといったものは、下層にある間主観的自己感や中核自己感などに刺し縫いされているのだ。いきなりラカン用語を用いたが、そういう意味も隠喩的に含めてみるのもおもしろかろう、くらいの意図である。
この刺し縫いポイントこそがわたしが感じた「物語における落とし穴」に当たるのではないだろうか。
そう考えれば感覚的にいろいろしっくりくる。
物語的自己感や言語的自己感は間主観的自己感や中核自己感に刺し縫いされている。それらの層状の自己感(主観性)はあるポイントで貫通されている。このポイントは上層の自己感にとって落とし穴のごときものである。落とし穴に落ちることは退行することである。
しかし、だ。
恐らく普通の人は間主観的自己感に確固たるセーフティネットがあると思われる。間主観的自己感の形成期はほぼ鏡像段階と重なっている。ラカン論における(大文字小文字問わない)他者が形成されるのは間主観的自己感によるものと考えられる。
落とし穴に落ちても間主観的自己感の層においてトランポリンのようなセーフティネットがある。このトランポリンで弾き返され彼らは言語的自己感や物語的自己感に舞い戻れる。たとえば「悪女のフリしているだけで実はいい人だった」という解釈にすがりつける。
しかしこの刺し縫いがない人間はどうだろう。言語的自己感の層の厚みがどんどん増していった人間はポスト・フェストゥムとなるだろう。現実感の根拠たる現実界から、鏡像段階以前の主観世界から、中核自己感や新生自己感から遠く離れてしまうだろう。そんな時物語的自己感が父のごとく立ちはだかる。父のゲンコツによって主体は少しだけ退行させられる。去勢が回帰する。落とし穴に落とされる。トランポリンで弾き返される。去勢を承認する。従って刺し縫いが、落とし穴がない人間は精神病としてのパラノイアだと考えられる。パラノイアは落とし穴を後付けのファルスで埋め立ててしまっているのだ。
ではわたしの症状は。
わたしは最近の自己分析によって他者という根拠が希薄だと述べている。わたしにとって間主観的自己感のトランポリンは、ないとは言わないが、ひどく粗末なものなのだろう。従って中核自己感や新生自己感などという鏡像段階以前の主観世界に接してしまう。未去勢な主観世界に陥ってしまう。
だから物語恐怖症に陥ったのだ。
一度落ちてしまえば、どこにすがりつけばよいかわかる。わたしは間主観的自己感の一つ上層の言語的自己感にすがりついている。物語恐怖症は治っているが、間主観的自己感のトランポリンが構築されたわけではない。
間主観的自己感の形成期はあくまで生後二年以内である。この時期を逃して後にそれを学習することはできない。学習したとしても似て非なるものとなる。わたしにとっての「根拠として希薄な他者」のごときものとなる。
なるほどな。自己満足的な文章だから読者が理解できなくてもいいや。
無縁仏は成仏できないのか。
ならば無縁仏でいいやと思う。素で。