ねえ。
2009/03/20/Fri
ねえ。
自称他称問わず、キチガイたちに聞きたい。わたしの語用においては未去勢者って意味。だから、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドや本当の女性や本当のガキたちに聞きたい。
君たちは、大多数の人間が共有できる規格化された主観世界を持てずに生きている。大多数の正常人はそれを無自覚に持てている故、君たちの苦痛は彼らに全く理解されない。
一秒一秒、瞬間瞬間に苦痛が生じる世界を生きている君たちキチガイに聞きたい。
「死にたい」と思うことは普通にあると思う。
何故死なないんだろうね?
死ぬキチガイもいるじゃない。結構多いじゃない。
それと生きている君たちの違いって、何?
死ぬ決意が弱いからか、二階堂奥歯みたいな文章は書けない。
でも結構その気になっている。
誰のせいでもない、っていう彼女の言葉も実感として理解できる。いわばこれは自然の摂理だ。自然の摂理としてわたしは死ぬ。引導を渡すのが自分だっただけ。
死ぬ? 死なない?
わからないんだ。
なんで死なないのか。
なんで生きているのか。
今ただ生きているから、わからないまま生きているだけ。惰性なんだよね。「生とは(幻想的な意味を生きる生の欲動を含め)惰性である」ってニヒリズムっぽくなるからやめとく。
死んだら呪いたいけど、誰を呪っていいのかわからない。そういう意味で周りの人たちにはむしろ感謝している。多分この気持ちは感謝と呼ばれているものだろうと思う。普通の遺書になっちゃっている二階堂の文章も理解できる。
この呪いは母親への甘えと似ているな。だから、あえて呪うなら、と考えたら、今この時に限れば、笙野頼子だったりする。まあわたしが死ぬ気になった瞬間呪うならと考えたらたまたま彼女だった、って話にすぎないけれど。
二階堂みたいな文章は書けない。睾丸が破裂した精液爆弾のごとき彼女の最期の文章みたいなものは書けない。
だから、死なない。
あ、そうか。
わたしの文章が精液臭くなったらやばいってことだな。
飲茶とか妖怪紳士あたりにはネタだと思ってほしい。実際ネタのように自分で感じている。よくわからんのだ。まじで。
わたしにとってわたしとは他人事だ。そういう人生を生きてきた。お前ら自分に感情移入するのがデフォな人間と比較すると、って話だけど。精神分析やって初めてわかったよ。
ああくせえなあ。「ねえ」って文句自体が既に精液臭い。にちゃにちゃしている。
死ぬ気になってやっと自分に感情移入できたってことか。二階堂は。
誰かを呪おうと思えば生き続けられたかもしんないね。
そうそう、かべどんや。いつぞやお前「笙野と脂さんの違いは、脂さんの方が他者の視点を持てている」みたいなことゆったよな。わたしには(ラカン的な意味での)他者が希薄だからそう見えるんだよ。多分。他者が希薄ということはたとえば自己愛の対象である自分の根拠が弱いということだからな。確固たる自己がないから他者の視点を持てているように見えるだけ。
……引っ越してみるか(隠蔽劣化として)。
加護ちゃんがAVとか出始めたら生きてけそうな気もする、とふと思った。
正常人にとっては、精液まみれになることが生きるってことなんだな。
キチガイにとっては、精液まみれになることが、「恍惚の死」になるんだな。
さて、どこに住もうか=どこで死のうか。
この歌好きだ。意味的には全く違うけどピンポイントで泣いておこう。
……あれ? もっと粘っこい歌い方だったと思ったのにそうでもないな。残念、泣けなかった。あ、嘘、ノスタルジー込みで泣けた。
昔会社で隣の席の先輩が自殺したんだよ。ふへえ、ぐらいだったんだけど、死に顔みるとなんか変なものがぐあっと込み上げた。でもこの涙はなんか違うと思ったから堪えた。
ジジイが死んだ時も泣いたけど、違うよなあ、と思った。
死というものがどういうものかピンとこない。今思っている、多分正常人たちと似たような「死」という概念は、違う、というのだけわかる。
ノスタルジーじゃだめなんだ。
死んだことのない生きている人間が、死んでいる人間の立場になんて立てない。そんな簡単なことをみんななんで忘れちゃってるのだろう。忘れられるのだろう。なんでそれがノスタルジックなものになっているんだろう。
正直、損得だけなら正常人らしい顔できるんだよ。リアルでもネットでも。「ちょっとメンヘル入ってるな」ぐらいかもしれんけど。
でも中身は常に舞台の本番。どっかでも書いたけど、舞台では、たとえば歩く距離が半歩変わると振り返る方向が変わる。そんなことまで意識しないと演技は成り立たない。日常ではどうでもいいような自分の言動の細部まで注意を行き渡らせなきゃいけない。自然な言動をするためにとてつもない努力が必要になる。中身は全然自然じゃない。緊張しまくり動揺しまくりそわそわしまくりおどおどしまくりびくびくしまくり。
高校までは、逆に目ざとい観客だった。どんなに親しい人間でも「なんてへたな演技しているんだろう」とずっと思っていた。うまい役者なんてそうそういない。へたな役者って見ているこっちがもぞもぞしちゃわない? ああいう感じが常にあった。
自分もへただと思っていた。自分もへたに見えているんだろうからそれでいいじゃん、とはならなかった。へたな他人も自分も許せなかった。嘘つきだと言われる方が嘘であることを気にしていた。気にしているから嘘がばれやすいのだ。
わたしにとってこの世のほとんどが嘘だった。
だから、演劇という思想がしっくり入ってきた。「主体なんて幻想にすぎない」とする精神分析があっさり理解できた。
演技や嘘なのだ。
正常になることとは、演技や嘘で塗り固められることなのだ。演技や嘘が本当になるのが、……いや違う。本当は別にある。だから、演技や嘘を自分で演技や嘘と思わなくなることが正常でいることなのだ、と言うべきだ。
本音と建前が別になっていることが正常であることなのだ。
たまに、本音と建前が同じになっていると思える人もいる。だけどこちらからちょっとつつくとすぐ本性を見せる。本音と建前が別になっている本性を。演技や嘘で塗り固められている本性を。
演技や嘘が本当になっている人は、真性パラノイアなんだろう。後付けのファルス。
わたしにはファルスが癒着しなかった。
単にそういう話。
あ、コメントはいらないよ。つーかすんな。したらお前たちのことだ、自分も死にたくなっちゃうだろ? こんなことまじで考え始めたら。理科の実験感覚で。だからすんな。集団自殺みたいできめえから。
答えないなら答えないでもぞもぞした気持ち悪い感じを持ち続けてしまうかもしれないけど、それがお前たちにとって生きるということだ。お前たちは苦痛を感じるために存在する物体だ。誰か(特定された誰かである必要はない)を呪うことでしか生きられない疫病神だ。
違う、っつうならお前はわたしの思うキチガイじゃないってだけさ。
この問いについての思考は、隠蔽しておけ。正常人も生きている世界では。
じゃあ聞くなよ。てへっ、ごめんね。
あなたという他者は、わたしにとってマンガの登場人物やMMOのプレイヤーにすぎない。
いや、マンガの登場人物は違うな。作者というファルスが影響していることが多い。
MMOのプレイヤーなら、ゲーム制作者が作ったものを仮に纏っているだけで、それぞれ別々のファルスになっている。
ファルスじゃないな。
それぞれ別々の主観世界を生きている。
演劇もそうだ。脚本家も演出家も役者もそれぞれ別々の主観世界を生きている。
映像はカット割やカメラアングルなどで制作者(監督か)の主観世界の影響が色濃くなる。アニメも然り。演劇でも大道具や照明や音響などはその主観世界を作品に乗せにくいよな。作品によるけど。舞台美術は強いと言えるか。舞台美術はむしろ映像の監督に近いか。一般的に。
まあどうでもいいや。
こういう視点で芸術を見ている人が少なすぎる、って話だけ。
それぞれ別々の主観世界を生きているという現実を忘れてしまった人が多すぎる、って話。
その現実を思い出させようとしているだけ。わたしは。
でもだめだった、って話。
私信。
ドードーとらさんへ。スレ読んでるよー。ブログ更新期待してま。
串焼かれたっぽいのでこちらで。
追記。
ちょw 『相棒』及川でどうなることやらと思ってたけどはまってるやんw
かけ合いもよい。緊張感がある。おそらく及川のリアル緊張感なんだろうなこれ。
むーやるなキャスティング。
自称他称問わず、キチガイたちに聞きたい。わたしの語用においては未去勢者って意味。だから、統合失調症者や自閉症者やスキゾイドや本当の女性や本当のガキたちに聞きたい。
君たちは、大多数の人間が共有できる規格化された主観世界を持てずに生きている。大多数の正常人はそれを無自覚に持てている故、君たちの苦痛は彼らに全く理解されない。
一秒一秒、瞬間瞬間に苦痛が生じる世界を生きている君たちキチガイに聞きたい。
「死にたい」と思うことは普通にあると思う。
何故死なないんだろうね?
死ぬキチガイもいるじゃない。結構多いじゃない。
それと生きている君たちの違いって、何?
死ぬ決意が弱いからか、二階堂奥歯みたいな文章は書けない。
でも結構その気になっている。
誰のせいでもない、っていう彼女の言葉も実感として理解できる。いわばこれは自然の摂理だ。自然の摂理としてわたしは死ぬ。引導を渡すのが自分だっただけ。
死ぬ? 死なない?
わからないんだ。
なんで死なないのか。
なんで生きているのか。
今ただ生きているから、わからないまま生きているだけ。惰性なんだよね。「生とは(幻想的な意味を生きる生の欲動を含め)惰性である」ってニヒリズムっぽくなるからやめとく。
死んだら呪いたいけど、誰を呪っていいのかわからない。そういう意味で周りの人たちにはむしろ感謝している。多分この気持ちは感謝と呼ばれているものだろうと思う。普通の遺書になっちゃっている二階堂の文章も理解できる。
この呪いは母親への甘えと似ているな。だから、あえて呪うなら、と考えたら、今この時に限れば、笙野頼子だったりする。まあわたしが死ぬ気になった瞬間呪うならと考えたらたまたま彼女だった、って話にすぎないけれど。
二階堂みたいな文章は書けない。睾丸が破裂した精液爆弾のごとき彼女の最期の文章みたいなものは書けない。
だから、死なない。
あ、そうか。
わたしの文章が精液臭くなったらやばいってことだな。
飲茶とか妖怪紳士あたりにはネタだと思ってほしい。実際ネタのように自分で感じている。よくわからんのだ。まじで。
わたしにとってわたしとは他人事だ。そういう人生を生きてきた。お前ら自分に感情移入するのがデフォな人間と比較すると、って話だけど。精神分析やって初めてわかったよ。
ああくせえなあ。「ねえ」って文句自体が既に精液臭い。にちゃにちゃしている。
死ぬ気になってやっと自分に感情移入できたってことか。二階堂は。
誰かを呪おうと思えば生き続けられたかもしんないね。
そうそう、かべどんや。いつぞやお前「笙野と脂さんの違いは、脂さんの方が他者の視点を持てている」みたいなことゆったよな。わたしには(ラカン的な意味での)他者が希薄だからそう見えるんだよ。多分。他者が希薄ということはたとえば自己愛の対象である自分の根拠が弱いということだからな。確固たる自己がないから他者の視点を持てているように見えるだけ。
……引っ越してみるか(隠蔽劣化として)。
加護ちゃんがAVとか出始めたら生きてけそうな気もする、とふと思った。
正常人にとっては、精液まみれになることが生きるってことなんだな。
キチガイにとっては、精液まみれになることが、「恍惚の死」になるんだな。
さて、どこに住もうか=どこで死のうか。
この歌好きだ。意味的には全く違うけどピンポイントで泣いておこう。
……あれ? もっと粘っこい歌い方だったと思ったのにそうでもないな。残念、泣けなかった。あ、嘘、ノスタルジー込みで泣けた。
昔会社で隣の席の先輩が自殺したんだよ。ふへえ、ぐらいだったんだけど、死に顔みるとなんか変なものがぐあっと込み上げた。でもこの涙はなんか違うと思ったから堪えた。
ジジイが死んだ時も泣いたけど、違うよなあ、と思った。
死というものがどういうものかピンとこない。今思っている、多分正常人たちと似たような「死」という概念は、違う、というのだけわかる。
ノスタルジーじゃだめなんだ。
死んだことのない生きている人間が、死んでいる人間の立場になんて立てない。そんな簡単なことをみんななんで忘れちゃってるのだろう。忘れられるのだろう。なんでそれがノスタルジックなものになっているんだろう。
正直、損得だけなら正常人らしい顔できるんだよ。リアルでもネットでも。「ちょっとメンヘル入ってるな」ぐらいかもしれんけど。
でも中身は常に舞台の本番。どっかでも書いたけど、舞台では、たとえば歩く距離が半歩変わると振り返る方向が変わる。そんなことまで意識しないと演技は成り立たない。日常ではどうでもいいような自分の言動の細部まで注意を行き渡らせなきゃいけない。自然な言動をするためにとてつもない努力が必要になる。中身は全然自然じゃない。緊張しまくり動揺しまくりそわそわしまくりおどおどしまくりびくびくしまくり。
高校までは、逆に目ざとい観客だった。どんなに親しい人間でも「なんてへたな演技しているんだろう」とずっと思っていた。うまい役者なんてそうそういない。へたな役者って見ているこっちがもぞもぞしちゃわない? ああいう感じが常にあった。
自分もへただと思っていた。自分もへたに見えているんだろうからそれでいいじゃん、とはならなかった。へたな他人も自分も許せなかった。嘘つきだと言われる方が嘘であることを気にしていた。気にしているから嘘がばれやすいのだ。
わたしにとってこの世のほとんどが嘘だった。
だから、演劇という思想がしっくり入ってきた。「主体なんて幻想にすぎない」とする精神分析があっさり理解できた。
演技や嘘なのだ。
正常になることとは、演技や嘘で塗り固められることなのだ。演技や嘘が本当になるのが、……いや違う。本当は別にある。だから、演技や嘘を自分で演技や嘘と思わなくなることが正常でいることなのだ、と言うべきだ。
本音と建前が別になっていることが正常であることなのだ。
たまに、本音と建前が同じになっていると思える人もいる。だけどこちらからちょっとつつくとすぐ本性を見せる。本音と建前が別になっている本性を。演技や嘘で塗り固められている本性を。
演技や嘘が本当になっている人は、真性パラノイアなんだろう。後付けのファルス。
わたしにはファルスが癒着しなかった。
単にそういう話。
あ、コメントはいらないよ。つーかすんな。したらお前たちのことだ、自分も死にたくなっちゃうだろ? こんなことまじで考え始めたら。理科の実験感覚で。だからすんな。集団自殺みたいできめえから。
答えないなら答えないでもぞもぞした気持ち悪い感じを持ち続けてしまうかもしれないけど、それがお前たちにとって生きるということだ。お前たちは苦痛を感じるために存在する物体だ。誰か(特定された誰かである必要はない)を呪うことでしか生きられない疫病神だ。
違う、っつうならお前はわたしの思うキチガイじゃないってだけさ。
この問いについての思考は、隠蔽しておけ。正常人も生きている世界では。
じゃあ聞くなよ。てへっ、ごめんね。
あなたという他者は、わたしにとってマンガの登場人物やMMOのプレイヤーにすぎない。
いや、マンガの登場人物は違うな。作者というファルスが影響していることが多い。
MMOのプレイヤーなら、ゲーム制作者が作ったものを仮に纏っているだけで、それぞれ別々のファルスになっている。
ファルスじゃないな。
それぞれ別々の主観世界を生きている。
演劇もそうだ。脚本家も演出家も役者もそれぞれ別々の主観世界を生きている。
映像はカット割やカメラアングルなどで制作者(監督か)の主観世界の影響が色濃くなる。アニメも然り。演劇でも大道具や照明や音響などはその主観世界を作品に乗せにくいよな。作品によるけど。舞台美術は強いと言えるか。舞台美術はむしろ映像の監督に近いか。一般的に。
まあどうでもいいや。
こういう視点で芸術を見ている人が少なすぎる、って話だけ。
それぞれ別々の主観世界を生きているという現実を忘れてしまった人が多すぎる、って話。
その現実を思い出させようとしているだけ。わたしは。
でもだめだった、って話。
私信。
ドードーとらさんへ。スレ読んでるよー。ブログ更新期待してま。
串焼かれたっぽいのでこちらで。
追記。
ちょw 『相棒』及川でどうなることやらと思ってたけどはまってるやんw
かけ合いもよい。緊張感がある。おそらく及川のリアル緊張感なんだろうなこれ。
むーやるなキャスティング。