「異質な壁」
2009/02/25/Wed
なんかもうだめだな最近。いろいろだめだ。こっちがブログ閉じようかと思うぐらいだ。誰のせいでもなく自分勝手に。
二人の話し合いという状態なので割り込むつもりはない。従ってこちらに書く。
この記事のドードーとらさんとアリスさんの会話。
彼らがブログを続けるか否かなら、ドードーとらさんアリスさん双方を含めた臨床例としてわたしは続けて欲しい。臨床例とか言ってるけど要はネタ元が一つなくなるのはやだなあ、って話。
二人の話し合いに茶々を入れるつもりはない。ドードーとらさんの一発目の誘導は逆精神分析としてありだなと。アリスさんを分析家の立場に、対象aの立場に立たせようとしている。
まー直球すぎると思うけどね。ある程度見知り合った二人だからこの手法は成立する。たとえばこの記事で●さんという読者とわたしが独り言をつぶやき合っているが、わたしが●さんにこのような直球を投げてもかわされるだけだろう。彼が神経症者だったならば。
要するに話し合い自体の成り行きについてはどうでもいい、ということ。
んで。
アリスさんの一言に引っかかってしまったわけだ。いつものごとく。
=====
なんていうか、ある部分まで行くと、進もうとしても後退してしまうんですよ。これは、かなり前から感じていることなんですけどね。
コメントでもよく書いていますよね。
私はここに異質な壁を感じるんですよね。
=====
これですよ。まさに「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」。ドードーとらさんひいては自閉症者イコールうんこってことになるのであまりよい表現と言えないと自覚しながら言う。ごめんなさいね、ドードーとらさん&自閉症当事者の読者たち。
この表現の方が、何故アリスさんが後退してしまうのか、という説明にはなりえるのだ。うんこをケガレと認識するのはトイレトレーニングによってであり、生まれたばかりの赤ん坊が大人たちが支配されている快楽原則を学んでいく課程において、もっとも最終的に学ぶ「快/不快」という分別がトイレトレーニングなわけだ。だから小学生とか「うんこ」って言うだけで喜ぶのだな。「うんこはケガレである」という原則を学んだばかりだから、それをケガレと認識するのが楽しくてしょうがない。
従って、去勢済みな主体と未去勢者の主観世界が通じるドアとして「うんこ」という概念は有効なものとなる。アリスさんという分別のついた神経症者とドードーとらさんという未去勢者の共有可能な場としてうんこという言葉は有効だとなるわけだ。精神分析の理屈でね。
わたしはアリスさんがこのブログにコメントした時、自閉症者と正常人を隔てる「異質な壁」たる断絶の領域に向かおうと、「断絶を変容させる」という言い方で自分に言い聞かせているアリスさんに、こう返答したことがある。この記事のコメント欄から。
=====
別に止めはしませんが、この断絶はアブジェクトの領域です。糞便に塗れた悪魔が闊歩する領域です。定型側から見たならば。
快楽原則がある限り、この断絶は見えません。とはいえあなたは見えないけれどなんとなく「感じている」のかもしれません。
あなたにこの断絶に踏み込む勇気があるのかどうかわかりませんが、わたしの興味が続く限り、観察はさせていただきまふ。
=====
アリスさんの「進もうとしても後退してしまう」症状について、わたしはとっくに分析済みだったわけだ。
別に自慢しているわけじゃない。わたしの中で淀んでいる「そうなるよねえ」のごとき妙な負的な感情を言語化しているだけである。自分勝手に。
自閉症者はケガレの領域を、アブジェの領域を、ケガレと思わないままで、明確にそのおぞましさを認知しないままで生きている。糞便を汚いものと思わない生まれたばかりの赤ん坊のごとく。しかしこのアブジェの領域は正常人(神経症者)から見れば明確にケガレであり、おぞましさを覚える領域である。
とはいえ、未去勢とは言ってもある程度の発達は遂げているだろう。特に「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは。従って自分自身であるそれに対し、明確におぞましさと言いきれない漠然とした不安感や恐怖感あるいはストレスのようなものを感じることになるだろう。ちなみに、自閉症ではないわたしがこんな記事を書いているのも、誰のせいとも言えない、しいて言うなら自分のせいで感じている、漠然としたもやもやが原因となっている。
正常人は自我や超自我でそのおぞましさから防衛できている。見えていても見えない。ヒステリー盲目のごとく、目という器官には異常がない即ち刺激の感受としては「見えている」はずなのに、脳の認知処理でそれを棄却している。自分にも、この場合ならアリスさんにもある、あるけれど自分の見えないところに棄却してしまっただけのそれが、外側に内包しているという意味で外-密している現実界から回帰してくることを、神経症者たちは怖れる。
不快だから見えなくしたものをわざわざ机上に乗せてしまうのが未去勢者たちである。何故なら未去勢者の主観世界においてはそれはここにあるものだからだ。ヒステリー盲目的な神経症に罹患していないから見えるだけである。
それだけ。
わけわかんない。自分でも。
何が言いたいのか。何のために言っているのか。
ただ言葉を並べただけ。
それだけ。
二人の話し合いという状態なので割り込むつもりはない。従ってこちらに書く。
この記事のドードーとらさんとアリスさんの会話。
彼らがブログを続けるか否かなら、ドードーとらさんアリスさん双方を含めた臨床例としてわたしは続けて欲しい。臨床例とか言ってるけど要はネタ元が一つなくなるのはやだなあ、って話。
二人の話し合いに茶々を入れるつもりはない。ドードーとらさんの一発目の誘導は逆精神分析としてありだなと。アリスさんを分析家の立場に、対象aの立場に立たせようとしている。
まー直球すぎると思うけどね。ある程度見知り合った二人だからこの手法は成立する。たとえばこの記事で●さんという読者とわたしが独り言をつぶやき合っているが、わたしが●さんにこのような直球を投げてもかわされるだけだろう。彼が神経症者だったならば。
要するに話し合い自体の成り行きについてはどうでもいい、ということ。
んで。
アリスさんの一言に引っかかってしまったわけだ。いつものごとく。
=====
なんていうか、ある部分まで行くと、進もうとしても後退してしまうんですよ。これは、かなり前から感じていることなんですけどね。
コメントでもよく書いていますよね。
私はここに異質な壁を感じるんですよね。
=====
これですよ。まさに「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」。ドードーとらさんひいては自閉症者イコールうんこってことになるのであまりよい表現と言えないと自覚しながら言う。ごめんなさいね、ドードーとらさん&自閉症当事者の読者たち。
この表現の方が、何故アリスさんが後退してしまうのか、という説明にはなりえるのだ。うんこをケガレと認識するのはトイレトレーニングによってであり、生まれたばかりの赤ん坊が大人たちが支配されている快楽原則を学んでいく課程において、もっとも最終的に学ぶ「快/不快」という分別がトイレトレーニングなわけだ。だから小学生とか「うんこ」って言うだけで喜ぶのだな。「うんこはケガレである」という原則を学んだばかりだから、それをケガレと認識するのが楽しくてしょうがない。
従って、去勢済みな主体と未去勢者の主観世界が通じるドアとして「うんこ」という概念は有効なものとなる。アリスさんという分別のついた神経症者とドードーとらさんという未去勢者の共有可能な場としてうんこという言葉は有効だとなるわけだ。精神分析の理屈でね。
わたしはアリスさんがこのブログにコメントした時、自閉症者と正常人を隔てる「異質な壁」たる断絶の領域に向かおうと、「断絶を変容させる」という言い方で自分に言い聞かせているアリスさんに、こう返答したことがある。この記事のコメント欄から。
=====
別に止めはしませんが、この断絶はアブジェクトの領域です。糞便に塗れた悪魔が闊歩する領域です。定型側から見たならば。
快楽原則がある限り、この断絶は見えません。とはいえあなたは見えないけれどなんとなく「感じている」のかもしれません。
あなたにこの断絶に踏み込む勇気があるのかどうかわかりませんが、わたしの興味が続く限り、観察はさせていただきまふ。
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アリスさんの「進もうとしても後退してしまう」症状について、わたしはとっくに分析済みだったわけだ。
別に自慢しているわけじゃない。わたしの中で淀んでいる「そうなるよねえ」のごとき妙な負的な感情を言語化しているだけである。自分勝手に。
自閉症者はケガレの領域を、アブジェの領域を、ケガレと思わないままで、明確にそのおぞましさを認知しないままで生きている。糞便を汚いものと思わない生まれたばかりの赤ん坊のごとく。しかしこのアブジェの領域は正常人(神経症者)から見れば明確にケガレであり、おぞましさを覚える領域である。
とはいえ、未去勢とは言ってもある程度の発達は遂げているだろう。特に「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは。従って自分自身であるそれに対し、明確におぞましさと言いきれない漠然とした不安感や恐怖感あるいはストレスのようなものを感じることになるだろう。ちなみに、自閉症ではないわたしがこんな記事を書いているのも、誰のせいとも言えない、しいて言うなら自分のせいで感じている、漠然としたもやもやが原因となっている。
正常人は自我や超自我でそのおぞましさから防衛できている。見えていても見えない。ヒステリー盲目のごとく、目という器官には異常がない即ち刺激の感受としては「見えている」はずなのに、脳の認知処理でそれを棄却している。自分にも、この場合ならアリスさんにもある、あるけれど自分の見えないところに棄却してしまっただけのそれが、外側に内包しているという意味で外-密している現実界から回帰してくることを、神経症者たちは怖れる。
不快だから見えなくしたものをわざわざ机上に乗せてしまうのが未去勢者たちである。何故なら未去勢者の主観世界においてはそれはここにあるものだからだ。ヒステリー盲目的な神経症に罹患していないから見えるだけである。
それだけ。
わけわかんない。自分でも。
何が言いたいのか。何のために言っているのか。
ただ言葉を並べただけ。
それだけ。