子供の大声
2009/03/02/Mon
涙が止まらない。
なんでもないことで涙が流れる。
戯れにあるネトゲをやっているのだが、それでチャイム音がなるだけでびくっとしてしまう。泣く。
ドラマや映画を見ている方が泣かなくて済む。どんなに泣けるような映画であっても「これはこういう機制だな」と精神分析的な理屈に噛み砕かれる。
本当になんでもないことで泣く。
マンションの一階から子供が大声でどなっているのを聞いただけでびくっとなって泣く。
涙は生の欲動の症状だ。
幻想を生きようとしている症状だ。
赤ん坊の涙は養育者とコンタクトするという幻想への参入たる症状だ。
宇宙人とのコンタクトだ。
それが涙だ。
人間にとって。
脳内自殺ごっこがマイブームだと書いた。
死ぬとなったらいろいろ片付けたくなるものだ。だけどどうでもいいや、とも思う。死後の世界を信じていないからか。
この「全部どうでもいいや」がプラスに働いたらすごいエネルギーになるんだろうな、と思う。このエネルギーが生の欲動方向に働けば、そしてそれを維持できれば、わたしはひとかどの権力者になれるかもしれない。経営者とかになるのかな、実際的には。
だけどそちら方向にエネルギーを働かせるやり方を忘れてしまったらしい。
「死ぬ気になればなんでもできる」
然り。このエネルギーはすごいものだ。
死ぬ気になれば死ぬこともできる。
食欲がない。一日食べない時もある。
食べようと、何食べようかと考えるだけで吐き気がする。
適当に買ったコンビニのデザートを食べた。こういう時だけスイーツ(笑)。
食べられるじゃないか。
だけど次食べることを考えると吐き気がする。
ベッドに横になる。寝ようと思っても眠れない。仕方ないので酒と睡眠薬を飲む。
そうか、鬱病ってこういう感じか、と思う。
治るのだろうか。
治ったとしてもまた全てが演技だった頃の、全身がレーダーと化していた頃のわたしに戻るだけか。
鬱病も内因だっけ。
ならば、喪ではないだろう。
神経症としての抑鬱症は喪だとしても、内因的な鬱病は喪ではない。
体が変化を拒否する。そんな感じ。
享楽は精神的なものではない。
不動の享楽。
風邪を引いた時、「神様が休めと言っているんだ」と言われたことがある。
神様じゃなくてわたしという肉体がそう言っているんだろうな。
違うな。そんなものじゃない。
動きたいのに動けない。
体が腐敗しているのかもしれない。
エントロピーの増大に身を委ねているだけ。
鬱と死を結びつけるのは短絡的だと思っていた。
エントロピーの増大だから、たまたま死という表象が合致するだけ、か。
死すらどうでもよくなっている。
だから死ねてしまいそう。
抑鬱症の喪はアガペーと癒着している。鬱病の症状にはアガペーがない。
そういうことか。
死を考えると吐き気がする。
消化器官がぎゅうっと絞めつけられるような感じ。
クリステヴァは不随意筋含めた筋肉の緊張/弛緩をもって赤ん坊の内面を読み解こうとした。排便も泣くのも喉や腸あるいは肛門の筋肉の緊張であり繋がっているものだと。
この吐き気は本番直前舞台袖で感じる緊張感に似ている。
吐きそうになる。十ステージぐらいやれば慣れてくるものだがそれでも下品な言葉で言うと「尻の穴がきゅうっとすぼまる」感じがする。
この緊張感は必要なものだ。決して演技にとってマイナスなものではない。
赤ん坊はお乳をよく吐く、という話題になった時、誰かがこんなことを言っていたのを思い出す。
「赤ちゃんはそれまでへその緒で栄養をもらっていたわけだから、初めのうちはうまく摂取できないのも当然だと思いません?」
ゲップなども空気を一緒に飲み込んでしまうからさせなきゃならない。初めのうちは母乳を飲み込むという動作一つさえうまく制御できていない。なるほど。
であるならば、消化器官にとって母乳も最初は異物としての刺激だったわけだ。
考えれば乳首を吸う動作も筋肉の収縮だ。口唇欲動。欲動とは不随意筋随意筋問わない筋肉の収縮を示している。いや、視覚なども欲動の働きだと言える。筋肉の収縮に代表されるような肉体各部の収縮的変化の認知が(部分)欲動ということか。
ここに快/不快などという区別はない。
まだ発達していない、後に視覚や聴覚や嗅覚などと区分される外界からの刺激も異物だらけ。内面の消化器官においても異物だらけ。
異物だから収縮する。
死という異物。
死という未知の世界。
本番の舞台という新しい世界。
本物の死を経験したことないのにまるで当然のことのように人の死を悲しいものとして語る正常人は、あたかも本番の舞台に立ったこともないのに役者にあれこれ文句をつけるへたくそな演出家だ。
正常人の考える死は後付けの嘘を信じ込んでいるだけだ。
死という絶対的未知を目の前にしたら不随意筋随意筋問わず筋肉が収縮する。全ての筋肉がというわけではないが日常的な生体反応とは別の機制でそうなる。随意筋は意識でどうにでもなるので判断のポイントは不随意筋になるだろう。それこそ消化器官などといった。
生まれたばかりの、外側も内側も全てが絶対的未知な異物だった頃。
これが回帰したのが恍惚の死。
二階堂奥歯が体験した死。
鏡像段階より原始的なトラウマ。
鏡像段階により正常な精神が生成するのだから、これは心身という区分以前のトラウマとも言える。
現実感の本当の根拠。
存在の本当の根拠。
このもっとも原始的なトラウマが現在化したのが二階堂奥歯の死。
なるほどな。
なんでもないことで涙が流れる。
戯れにあるネトゲをやっているのだが、それでチャイム音がなるだけでびくっとしてしまう。泣く。
ドラマや映画を見ている方が泣かなくて済む。どんなに泣けるような映画であっても「これはこういう機制だな」と精神分析的な理屈に噛み砕かれる。
本当になんでもないことで泣く。
マンションの一階から子供が大声でどなっているのを聞いただけでびくっとなって泣く。
涙は生の欲動の症状だ。
幻想を生きようとしている症状だ。
赤ん坊の涙は養育者とコンタクトするという幻想への参入たる症状だ。
宇宙人とのコンタクトだ。
それが涙だ。
人間にとって。
脳内自殺ごっこがマイブームだと書いた。
死ぬとなったらいろいろ片付けたくなるものだ。だけどどうでもいいや、とも思う。死後の世界を信じていないからか。
この「全部どうでもいいや」がプラスに働いたらすごいエネルギーになるんだろうな、と思う。このエネルギーが生の欲動方向に働けば、そしてそれを維持できれば、わたしはひとかどの権力者になれるかもしれない。経営者とかになるのかな、実際的には。
だけどそちら方向にエネルギーを働かせるやり方を忘れてしまったらしい。
「死ぬ気になればなんでもできる」
然り。このエネルギーはすごいものだ。
死ぬ気になれば死ぬこともできる。
食欲がない。一日食べない時もある。
食べようと、何食べようかと考えるだけで吐き気がする。
適当に買ったコンビニのデザートを食べた。こういう時だけスイーツ(笑)。
食べられるじゃないか。
だけど次食べることを考えると吐き気がする。
ベッドに横になる。寝ようと思っても眠れない。仕方ないので酒と睡眠薬を飲む。
そうか、鬱病ってこういう感じか、と思う。
治るのだろうか。
治ったとしてもまた全てが演技だった頃の、全身がレーダーと化していた頃のわたしに戻るだけか。
鬱病も内因だっけ。
ならば、喪ではないだろう。
神経症としての抑鬱症は喪だとしても、内因的な鬱病は喪ではない。
体が変化を拒否する。そんな感じ。
享楽は精神的なものではない。
不動の享楽。
風邪を引いた時、「神様が休めと言っているんだ」と言われたことがある。
神様じゃなくてわたしという肉体がそう言っているんだろうな。
違うな。そんなものじゃない。
動きたいのに動けない。
体が腐敗しているのかもしれない。
エントロピーの増大に身を委ねているだけ。
鬱と死を結びつけるのは短絡的だと思っていた。
エントロピーの増大だから、たまたま死という表象が合致するだけ、か。
死すらどうでもよくなっている。
だから死ねてしまいそう。
抑鬱症の喪はアガペーと癒着している。鬱病の症状にはアガペーがない。
そういうことか。
死を考えると吐き気がする。
消化器官がぎゅうっと絞めつけられるような感じ。
クリステヴァは不随意筋含めた筋肉の緊張/弛緩をもって赤ん坊の内面を読み解こうとした。排便も泣くのも喉や腸あるいは肛門の筋肉の緊張であり繋がっているものだと。
この吐き気は本番直前舞台袖で感じる緊張感に似ている。
吐きそうになる。十ステージぐらいやれば慣れてくるものだがそれでも下品な言葉で言うと「尻の穴がきゅうっとすぼまる」感じがする。
この緊張感は必要なものだ。決して演技にとってマイナスなものではない。
赤ん坊はお乳をよく吐く、という話題になった時、誰かがこんなことを言っていたのを思い出す。
「赤ちゃんはそれまでへその緒で栄養をもらっていたわけだから、初めのうちはうまく摂取できないのも当然だと思いません?」
ゲップなども空気を一緒に飲み込んでしまうからさせなきゃならない。初めのうちは母乳を飲み込むという動作一つさえうまく制御できていない。なるほど。
であるならば、消化器官にとって母乳も最初は異物としての刺激だったわけだ。
考えれば乳首を吸う動作も筋肉の収縮だ。口唇欲動。欲動とは不随意筋随意筋問わない筋肉の収縮を示している。いや、視覚なども欲動の働きだと言える。筋肉の収縮に代表されるような肉体各部の収縮的変化の認知が(部分)欲動ということか。
ここに快/不快などという区別はない。
まだ発達していない、後に視覚や聴覚や嗅覚などと区分される外界からの刺激も異物だらけ。内面の消化器官においても異物だらけ。
異物だから収縮する。
死という異物。
死という未知の世界。
本番の舞台という新しい世界。
本物の死を経験したことないのにまるで当然のことのように人の死を悲しいものとして語る正常人は、あたかも本番の舞台に立ったこともないのに役者にあれこれ文句をつけるへたくそな演出家だ。
正常人の考える死は後付けの嘘を信じ込んでいるだけだ。
死という絶対的未知を目の前にしたら不随意筋随意筋問わず筋肉が収縮する。全ての筋肉がというわけではないが日常的な生体反応とは別の機制でそうなる。随意筋は意識でどうにでもなるので判断のポイントは不随意筋になるだろう。それこそ消化器官などといった。
生まれたばかりの、外側も内側も全てが絶対的未知な異物だった頃。
これが回帰したのが恍惚の死。
二階堂奥歯が体験した死。
鏡像段階より原始的なトラウマ。
鏡像段階により正常な精神が生成するのだから、これは心身という区分以前のトラウマとも言える。
現実感の本当の根拠。
存在の本当の根拠。
このもっとも原始的なトラウマが現在化したのが二階堂奥歯の死。
なるほどな。