『鉄コン筋クリート』――パトリはしかめっ面をしている。
2009/02/27/Fri
脳内自殺ごっこがマイブームになっている。
どうやって自殺するか。
今住んでいる部屋はベランダから飛び降りれば恐らく死ねる高さにあるが、真下に金網の屋根があって、それでバウンドしたりすると困るなあ、と思う。
首吊りはどうだろう、と思って荷造りロープを探すとあっさり見つかる。こないだ雑誌処分しようとしてなかなか見つからなかったのにー。死ねと言われているようなもんだ。さすが物自体。
吊るにしても吊り点がない。従ってピンクスパイダーの人がやったみたくドアノブで吊る方式で行くしかないな、とか考える。
楽しい。
死についての方策を考えることが死そのものというわたしにとって未だ幻想なるものを覆い隠しているからだろうか。
そういうことでいいや。死にたくないから楽しい、と。
理科の実験のようなわくわく感、とだけ。
自然淘汰で自殺する、って文章書いたなあ。高校生だっけか。
その頃からちっとも成長してないわ。
どうでもいいけど米国海軍からアクセスあってワラタ。
しかしまあリンクのとこ見ると「だれだれ」やら「空気頭」やら「だらだら」やら「ものぐさ」やら「ただれた」やらお前らちっとはしっかりしろよと言いたくもなるわ。
そういう香具師ばっか読んでんのかこのブログ。
『鉄コン筋クリート』を見た。うん、おもしろかった。シロ死んじゃった方がおもしろそうだと思った。シロ殺せないならこういう終わり方になるか、くらい。クロとシロは鏡像関係ではない。そうだとしたら、欲望のシーソーがたまたまやじろべえになっている瞬間だ。いずれ月日が経てばお互いに(主観世界から現実界的なモノとしての相手を存在させなくするという意味で)殺し合うだろう。シロはクロのストッパーである。そういう意味では間主観的自己感の模倣相手とは言えるのか。鏡像相手と考える方が自然かなあ。欲望のシーソーがたまたまやじろべえになった瞬間を捉えたスナップ写真のような作品、となるか。要するにトランポリンでぼよよーんと間主観的自己感より下層に落ちることはありませんでしためでたしめでたしって映画。跳ね返らずトランポリンにしがみついている状態か。いつか跳ね返されちゃうんだろうけど。
正直そんなことどうでもいいんだな。
宮台真司がこの映画をいたく気に入ってたな、と思い出し宮台ブログのそれ関連を読んでみた。
パトリねえ。
他者・人なるものじゃない環境としての街、か。pikarrrたんみたいだな(笑)。彼こっからパクったのかな。どうでもいいけど。
でも宮台は人を排除しているわけじゃない。「街に守られているから人を守る」と言っている。むしろ人なるものと街の相関性を言及しているように読めたな。まあ単純に具体的な人じゃない街という意味なんだろうな。
宝町はしかめっ面をしている。うん。ラカン論では人なるもの即ち他者ではない環境となると人とモノの区別がない現実界ということになるな。未だモノの殺害が施行されていない主観世界。宮台は「街遊びの視点」とかで「俯瞰視線の獲得」なることを述べている。予測できず把握できず所有できない街を遊ぶことによって予測し把握し所有できるようになる。予測できず把握できず所有できなかったから予測し把握し所有できるようになる。だからわくわくする。ぞくぞくする。現実界的にしかめっ面をしていた街が象徴化・想像化されていく。シロの口癖「安心」というより緊張感だな。宝町は「安心」できる環境なんかじゃない。むしろ「安心」と言わせることで緊張感のある環境を対比的に浮かび上がらせている、という解釈が耳障りよさそうだ。
現実界的な環境だから自他も混淆している。空観的に相関しているって言った方が早いか。街遊びして予測し把握し所有できるようになったそれは自分自身を予測し把握し所有することである。まさにファルスの所有即ち鏡像段階。鏡像的にその瞬間の環境は自分自身の根拠となるから「入替不能」となる、と。
とまあそんな感じで、宮台のパトリは他者ではない現実界に親近した環境を指す概念だ、とは言えるだろうな。「狂った場所としての田舎」などという言葉からもそれは明らかだ。腐っても学者だなあ。pikarrrたんより一歩深く社会を見てはいると思うぜ。比べるのもかわいそうだけど。
そんだけ。
仏教は死を安らかに迎えるための思想だ、って学者でも仏教徒でもない人が言ってたけど、違うなあ。
想像的・象徴的な死ではなく現実的な死を前にすると人間は全てがどうでもよくなる。どうでもよくなるつっても脱力したどうでもよさじゃなくて緊張感溢れるどうでもよさ。どうでもよくなることとは即ち執着がなくなることだ。だから死を安らかに迎えるためではなく、執着をなくそうとして、結果的に生きて感受できる想像的・象徴的な死を試行錯誤して現実的な死に近づけているだけなんじゃなかろうか。
だけどこの執着は生の欲動即ちエロスの一因でありアガペーの一因でもある。そして同時にケガレである。アブジェと浸透し合っているものである。だからケガレをなくそうとするとエロスやアガペーを損なうことになる。エロスやアガペーはファルスの結果であり原因であるわけだからケガレを完全になくそうとすると自我や超自我まで損なうことになる。現実界から身を守るための鎧がなくなる。しかめっ面をした現実界に嬲られる。
ここら辺の探求が仏教という思想がやろうとしたことなんじゃないだろうか。死を安らかに迎えるためっていうのは一種の宣伝コピーみたいなもんな気がする。
独り言。
どうやって自殺するか。
今住んでいる部屋はベランダから飛び降りれば恐らく死ねる高さにあるが、真下に金網の屋根があって、それでバウンドしたりすると困るなあ、と思う。
首吊りはどうだろう、と思って荷造りロープを探すとあっさり見つかる。こないだ雑誌処分しようとしてなかなか見つからなかったのにー。死ねと言われているようなもんだ。さすが物自体。
吊るにしても吊り点がない。従ってピンクスパイダーの人がやったみたくドアノブで吊る方式で行くしかないな、とか考える。
楽しい。
死についての方策を考えることが死そのものというわたしにとって未だ幻想なるものを覆い隠しているからだろうか。
そういうことでいいや。死にたくないから楽しい、と。
理科の実験のようなわくわく感、とだけ。
自然淘汰で自殺する、って文章書いたなあ。高校生だっけか。
その頃からちっとも成長してないわ。
どうでもいいけど米国海軍からアクセスあってワラタ。
しかしまあリンクのとこ見ると「だれだれ」やら「空気頭」やら「だらだら」やら「ものぐさ」やら「ただれた」やらお前らちっとはしっかりしろよと言いたくもなるわ。
そういう香具師ばっか読んでんのかこのブログ。
『鉄コン筋クリート』を見た。うん、おもしろかった。シロ死んじゃった方がおもしろそうだと思った。シロ殺せないならこういう終わり方になるか、くらい。クロとシロは鏡像関係ではない。そうだとしたら、欲望のシーソーがたまたまやじろべえになっている瞬間だ。いずれ月日が経てばお互いに(主観世界から現実界的なモノとしての相手を存在させなくするという意味で)殺し合うだろう。シロはクロのストッパーである。そういう意味では間主観的自己感の模倣相手とは言えるのか。鏡像相手と考える方が自然かなあ。欲望のシーソーがたまたまやじろべえになった瞬間を捉えたスナップ写真のような作品、となるか。要するにトランポリンでぼよよーんと間主観的自己感より下層に落ちることはありませんでしためでたしめでたしって映画。跳ね返らずトランポリンにしがみついている状態か。いつか跳ね返されちゃうんだろうけど。
正直そんなことどうでもいいんだな。
宮台真司がこの映画をいたく気に入ってたな、と思い出し宮台ブログのそれ関連を読んでみた。
パトリねえ。
他者・人なるものじゃない環境としての街、か。pikarrrたんみたいだな(笑)。彼こっからパクったのかな。どうでもいいけど。
でも宮台は人を排除しているわけじゃない。「街に守られているから人を守る」と言っている。むしろ人なるものと街の相関性を言及しているように読めたな。まあ単純に具体的な人じゃない街という意味なんだろうな。
宝町はしかめっ面をしている。うん。ラカン論では人なるもの即ち他者ではない環境となると人とモノの区別がない現実界ということになるな。未だモノの殺害が施行されていない主観世界。宮台は「街遊びの視点」とかで「俯瞰視線の獲得」なることを述べている。予測できず把握できず所有できない街を遊ぶことによって予測し把握し所有できるようになる。予測できず把握できず所有できなかったから予測し把握し所有できるようになる。だからわくわくする。ぞくぞくする。現実界的にしかめっ面をしていた街が象徴化・想像化されていく。シロの口癖「安心」というより緊張感だな。宝町は「安心」できる環境なんかじゃない。むしろ「安心」と言わせることで緊張感のある環境を対比的に浮かび上がらせている、という解釈が耳障りよさそうだ。
現実界的な環境だから自他も混淆している。空観的に相関しているって言った方が早いか。街遊びして予測し把握し所有できるようになったそれは自分自身を予測し把握し所有することである。まさにファルスの所有即ち鏡像段階。鏡像的にその瞬間の環境は自分自身の根拠となるから「入替不能」となる、と。
とまあそんな感じで、宮台のパトリは他者ではない現実界に親近した環境を指す概念だ、とは言えるだろうな。「狂った場所としての田舎」などという言葉からもそれは明らかだ。腐っても学者だなあ。pikarrrたんより一歩深く社会を見てはいると思うぜ。比べるのもかわいそうだけど。
そんだけ。
仏教は死を安らかに迎えるための思想だ、って学者でも仏教徒でもない人が言ってたけど、違うなあ。
想像的・象徴的な死ではなく現実的な死を前にすると人間は全てがどうでもよくなる。どうでもよくなるつっても脱力したどうでもよさじゃなくて緊張感溢れるどうでもよさ。どうでもよくなることとは即ち執着がなくなることだ。だから死を安らかに迎えるためではなく、執着をなくそうとして、結果的に生きて感受できる想像的・象徴的な死を試行錯誤して現実的な死に近づけているだけなんじゃなかろうか。
だけどこの執着は生の欲動即ちエロスの一因でありアガペーの一因でもある。そして同時にケガレである。アブジェと浸透し合っているものである。だからケガレをなくそうとするとエロスやアガペーを損なうことになる。エロスやアガペーはファルスの結果であり原因であるわけだからケガレを完全になくそうとすると自我や超自我まで損なうことになる。現実界から身を守るための鎧がなくなる。しかめっ面をした現実界に嬲られる。
ここら辺の探求が仏教という思想がやろうとしたことなんじゃないだろうか。死を安らかに迎えるためっていうのは一種の宣伝コピーみたいなもんな気がする。
独り言。