神は正常人にしか存在しない。
2009/03/12/Thu
未去勢者の鏡は壊れている。鏡像段階に不全が生じている。故にファルスに不具合が生じている。
一方、正常人の鏡は正常だ。彼らのファルスは正常に機能している。
これを神学風に換言してみよう。
「神はわれわれの内にある」
この言葉は正常人にのみ適用される。
主体の内にある神とはファルスである。鏡像段階で生じるものである。
神とは「人」を造りたもうた存在だ。
従って、正常人は、自らの内にある神をもって、「人」を造る。自分を造る。他人を造る。まるでマンガ家がキャラクターを創作するように。その心の中で。
自らの内にある神によって造られた自分他人問わない「人」は、同じく神によって作られた原則に則っているものだ。快楽原則や現実原則。自我や超自我。元型。小文字の他者や大文字の他者。
正常人同士のコミュニケーション、即ち正常な鏡による合わせ鏡の世界には、神が造りたもうた「人」しか存在しない。相手が造った自分という「人」に合わせて自分を造る。自分が造った相手という「人」に合わせて他人を造る。
しかしそれらは鏡像を根拠にした存在である。現実の存在ではない。
鏡が壊れている、ファルスが壊れている未去勢者たちは、うまく「人」を造れない。造ったとしても、現実の存在との差異に気づいてしまう。従って造られたそれは壊れていく。自壊していく。
未去勢者の内に神はいない。だから彼らの主観世界には神が造りたもうた「人」など存在しない。物や動物と同じ存在としての、現実の存在としての、人だけがある。物や獣と同類の人だけがある。
獣は鏡に映る姿が自分だと気づけない。威嚇する。
そんな未去勢者と正常人のコミュニケーションにおいては、去勢者という現実的な人が、正常人の内にいる神が造った「人」を威嚇する。正常人は恐怖する。従って、正常人という神が造りたもうた「人」は、正常人の内にある神の名において、未去勢者という獣を殺す。
正常人の主観世界に、未去勢者など存在しなくなる。神が内にいない人間など存在しなくなる。相手が未去勢者であっても、正常人とみなしてコミュニケーションする。
未去勢者たちは、神など存在しない現実を生きている。神が造りたもうた「人」など存在しない世界を生きている。
ある未去勢者のブログから引用する。
=====
>「神が俺の中にいるなら俺はなんでもできる。嫌いな奴も殺せるし強盗も出来る」
なるほど、神がファルス、すなわち正常人が持っているものだとしたら、
正常人が思考の上で
気に入らない相手を亡き者にしてそれで快感を得たり
さも相手を存在しないように意識上で黙殺できてしまったりするのも、このせいか。
羨ましいよ。
=====
神は、正常人の内にしか存在しない。
レストランか何かの調理場でわたしは何かを調理している。
スリッパぐらいの大きさの、メスのカブトムシだかカナブンだかそういうの。
包丁で外骨格をべりっとはがすと、脳だか腸だかのようなうねうねしたものが出てきた。
久しぶりにインパクトのある夢だった。
大道具をやってたってのは前にも書いたけど、演劇だけじゃなくイベントのもやってた。っていうか大道具業者って大体そうだと思う。イベントの方が金になるもん。
ある時、バラシの後産廃処理施設に捨てるのに付き合ったことがある。
恐ろしいほど巨大で深い穴に、トラック一杯のパネルやらパンチカーペットやらを捨てる。
恐ろしいほど巨大で深い穴だった。
吸い込まれそうだった。
シニフィアンスは天空にはない。
産廃処理施設の巨大な穴の中にある。
穴の中に落ちているから、象徴界への参入は空を飛ぶ夢として表れる。
地面から空を飛ぶのはシニフィアンスではない。ベイトソン論なら学習2であり、シニフィアンの宝庫への参入である。
恐ろしいほど巨大で深い穴から這い出るのが、シニフィアンスである。
苦痛のない空を飛ぶ夢は、ベイトソン論における学習2でありシニフィアンスではない。
ここが「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」たちが誤解しているところである。
お前たちの語っている我は学習2であり、意味のネットワーク的統合であり、シニフィアンスではない。それは無我などではなく我の否認である。中二病である。「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」である。サイン波コサイン波でありタンジェント波ではない。
本当の無我が見る世界とは、シニフィアンスの世界は、苦痛や不快やケガレに満ち満ちた世界である。うんこに塗れて遊ぶアラレちゃんの主観世界である。
苦痛や不快やケガレに言及しない無我論、たとえば「意識は実在しない」などという言説は、ベイトソン論における学習2についての言及であり、意味論として全く本質に近づけていない。せめて「現実界はしかめっ面をしている」ぐらい言えばまだ話を聞いてやらんこともないのに。
そういう「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」たちこそが、哲学を、学問を、宗教を劣化させている。
無我をSF化している。無我という現実を幻想化している。
我なるものこそが幻想である、という言説には同意するが、お前たちはまだうんこに触れていない。全く無我ではない。それどころが無我を幻想化させている。
うんこを絵に描いて「私こそがうんこを知っている」などと言っているようなものである。屏風に描かれている虎を縛り上げろと言われているようなものである。
死ね。マジで殺意を覚える。
わたしは屏風の裏に本物の虎を隠している。
「では、屏風から虎を出してください」
「あいよ」
そうして「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」は喰い殺されましたとさ。
めでたしめでたし。
一方、正常人の鏡は正常だ。彼らのファルスは正常に機能している。
これを神学風に換言してみよう。
「神はわれわれの内にある」
この言葉は正常人にのみ適用される。
主体の内にある神とはファルスである。鏡像段階で生じるものである。
神とは「人」を造りたもうた存在だ。
従って、正常人は、自らの内にある神をもって、「人」を造る。自分を造る。他人を造る。まるでマンガ家がキャラクターを創作するように。その心の中で。
自らの内にある神によって造られた自分他人問わない「人」は、同じく神によって作られた原則に則っているものだ。快楽原則や現実原則。自我や超自我。元型。小文字の他者や大文字の他者。
正常人同士のコミュニケーション、即ち正常な鏡による合わせ鏡の世界には、神が造りたもうた「人」しか存在しない。相手が造った自分という「人」に合わせて自分を造る。自分が造った相手という「人」に合わせて他人を造る。
しかしそれらは鏡像を根拠にした存在である。現実の存在ではない。
鏡が壊れている、ファルスが壊れている未去勢者たちは、うまく「人」を造れない。造ったとしても、現実の存在との差異に気づいてしまう。従って造られたそれは壊れていく。自壊していく。
未去勢者の内に神はいない。だから彼らの主観世界には神が造りたもうた「人」など存在しない。物や動物と同じ存在としての、現実の存在としての、人だけがある。物や獣と同類の人だけがある。
獣は鏡に映る姿が自分だと気づけない。威嚇する。
そんな未去勢者と正常人のコミュニケーションにおいては、去勢者という現実的な人が、正常人の内にいる神が造った「人」を威嚇する。正常人は恐怖する。従って、正常人という神が造りたもうた「人」は、正常人の内にある神の名において、未去勢者という獣を殺す。
正常人の主観世界に、未去勢者など存在しなくなる。神が内にいない人間など存在しなくなる。相手が未去勢者であっても、正常人とみなしてコミュニケーションする。
未去勢者たちは、神など存在しない現実を生きている。神が造りたもうた「人」など存在しない世界を生きている。
ある未去勢者のブログから引用する。
=====
>「神が俺の中にいるなら俺はなんでもできる。嫌いな奴も殺せるし強盗も出来る」
なるほど、神がファルス、すなわち正常人が持っているものだとしたら、
正常人が思考の上で
気に入らない相手を亡き者にしてそれで快感を得たり
さも相手を存在しないように意識上で黙殺できてしまったりするのも、このせいか。
羨ましいよ。
=====
神は、正常人の内にしか存在しない。
レストランか何かの調理場でわたしは何かを調理している。
スリッパぐらいの大きさの、メスのカブトムシだかカナブンだかそういうの。
包丁で外骨格をべりっとはがすと、脳だか腸だかのようなうねうねしたものが出てきた。
久しぶりにインパクトのある夢だった。
大道具をやってたってのは前にも書いたけど、演劇だけじゃなくイベントのもやってた。っていうか大道具業者って大体そうだと思う。イベントの方が金になるもん。
ある時、バラシの後産廃処理施設に捨てるのに付き合ったことがある。
恐ろしいほど巨大で深い穴に、トラック一杯のパネルやらパンチカーペットやらを捨てる。
恐ろしいほど巨大で深い穴だった。
吸い込まれそうだった。
シニフィアンスは天空にはない。
産廃処理施設の巨大な穴の中にある。
穴の中に落ちているから、象徴界への参入は空を飛ぶ夢として表れる。
地面から空を飛ぶのはシニフィアンスではない。ベイトソン論なら学習2であり、シニフィアンの宝庫への参入である。
恐ろしいほど巨大で深い穴から這い出るのが、シニフィアンスである。
苦痛のない空を飛ぶ夢は、ベイトソン論における学習2でありシニフィアンスではない。
ここが「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」たちが誤解しているところである。
お前たちの語っている我は学習2であり、意味のネットワーク的統合であり、シニフィアンスではない。それは無我などではなく我の否認である。中二病である。「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」である。サイン波コサイン波でありタンジェント波ではない。
本当の無我が見る世界とは、シニフィアンスの世界は、苦痛や不快やケガレに満ち満ちた世界である。うんこに塗れて遊ぶアラレちゃんの主観世界である。
苦痛や不快やケガレに言及しない無我論、たとえば「意識は実在しない」などという言説は、ベイトソン論における学習2についての言及であり、意味論として全く本質に近づけていない。せめて「現実界はしかめっ面をしている」ぐらい言えばまだ話を聞いてやらんこともないのに。
そういう「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」たちこそが、哲学を、学問を、宗教を劣化させている。
無我をSF化している。無我という現実を幻想化している。
我なるものこそが幻想である、という言説には同意するが、お前たちはまだうんこに触れていない。全く無我ではない。それどころが無我を幻想化させている。
うんこを絵に描いて「私こそがうんこを知っている」などと言っているようなものである。屏風に描かれている虎を縛り上げろと言われているようなものである。
死ね。マジで殺意を覚える。
わたしは屏風の裏に本物の虎を隠している。
「では、屏風から虎を出してください」
「あいよ」
そうして「我をだだ漏れさせながら無我を語るアホウ」は喰い殺されましたとさ。
めでたしめでたし。