よじれ
2009/02/26/Thu
トンネルの中を歩いている。
周りは真っ暗でほとんど何も見えないのにトンネルの中だということはわかる。
トンネルはうねっている。巨大ミミズのように体をたぐらせている。
巨大ミミズなんかじゃない、わたしだ、と思う。
わたしはわたしの中を歩いている。
足元がおぼつかない。
歩いているんじゃなく転がっているだけかもしれない。
手足の感覚がない。
ただ移動していることだけわかる。
移動させられているのかもしれなかった。巨大ミミズの蠕動に。
幼稚園の頃、お遊戯で悪ふざけをして廊下に立たされたことがある。
延々と泣き続けていたらしく、祖母が迎えに来て早退した。
ドラキュラみたいな人があちこちにいると訴えたそうだ。
穴の中から誰かが覗いていると。
この世界にはたくさん穴が開いている。大きな穴、小さな穴。
廊下に立たされていたにも関わらず、わたしは小屋になっている遊具の中にこもっていた。
そりゃあ先生もお手上げになるよな。
記憶ではなく事後的な想像になるが、わたしは穴の中にこもっていたのだと思う。泣きじゃくりながら穴の方に歩いていって、穴の中で泣き続けていたのだと。
体内のさまざまな反応が外界になっていた。
穴の中ではそうなる。
押入れや段ボール箱の中にこもるのもよくしていた。
その時は穴の中にいたと思わない。
「違うなあ」と思いながら仕方なくそうしていた。
多分、なかなか穴の中に入れないことにがっかりしていたのだろう。
泣きじゃくればよかったのだろうか。
小学校の近くに小さな川があった。
川にはよく釣り人がいた。
竹の釣竿でやるような釣りだった。
小学生くらいの男の子と女の子が釣りをしていた。
女の子はわたしに気づき男の子に何か話しかけていた。
だけど男の子はわたしに背を向けたまま微動だにしなかった。
男の子はのっぺらぼうなんじゃないか、と思った。
何もせず川の土手に座っていることが多かった。
少し上流に歩くと川は森の中に入っていった。
ちょうど森の入り口くらいのところに堰があった。
男の子たちが堰を駆け登って遊んでいた。
何度も何度も転んでいる背の低い男の子がいた。
何度も何度もチャレンジしては登りきれず、転んで顔をぶつけていた。
男の子は泣いていた。
泣きながらまた堰を駆け登った。
口の周りが赤くなっていた。出血していた。
堰の上で登りきった男の子たちがその子を励ましていた。囃し立てていた。嘲笑っていた。
誰も手を貸さない。
残酷だと思った。
美しいと思った。
夕方だった。
男の子の口の赤と川面の赤がとてもきれいだった。
帰りたくなかった。
男の子が登りきれば帰れるのだろう、と思った。
だから登りきらないで欲しかった。
もっと泣きじゃくってもっと出血してもっと転げ落ちて欲しいと思った。
「女子が見てるぞ」
堰の上に立つ男の子のそんなような一言でわたしは我に帰った。
顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
走って家に帰った。
トンネルの中は気温がまだらになっていた。暑いのか寒いのかよくわからなかった。
夜の街明かりに照らされるタバコの煙のようだった。
中学校の美術で色つきの煙を描いたことがある。
混じり合わずに絡み合う色たち。瞬間瞬間に形が変わる色たち。
そんなようなものを描きたかったのだがうまく描けなかった。友人に岡本太郎のパクリだと言われた。「ばれた?」と笑って返した。美術のセンスは皆無に等しい。
怪物もよく描いた。マリモのように手足と内臓が絡み合う球体を描いた。友人には「エロイ」と言われた。本当にばれたと思ったので何も返せなかった。
真っ暗だからどんな光景なのかいくらでも想像できる。
想像の手がかりは、視覚や聴覚や触覚などで区分されないなんらかの刺激。
トンネルのわたしには無数の穴が開いている。そのうちどれかの穴に幼稚園の頃のわたしがいるのかもしれない。
顔に無数の穴が開いている。穴は中でよじれている。よじれているから底が見えない。そんな絵を描こうとして描かなかった。恥ずかしさというか罪悪感というか、妙な負の感情がわたしを抑制した。
わたしにとって川は逆方向に流れていた。
川は森の中へ流れ込むべきものだった。
わたしの川はそういうものだった。
だから川を見ていたのだろうか。
わたしと逆だから。
ドブ川の淀みにゴミが溜まっている。
抑制されていたわたしが欲情している。
こんな絵本を読んだことがある。
人が船に乗っている。新しい島を見つけた。島に上陸する。やがてたくさんの人が移民してくる。小さな島は街として栄える。
ある日地面がぱっくり割れる。
島だと思っていたのは巨大な魚の口だった。
島民は巨大な魚の餌になった。
環境に悪いゴミなどないと思う。それは人間にとって悪いゴミであって、環境そのものはこの巨大な魚のようなものだと思う。
色とりどりのゴミに交じって頭蓋骨が浮いている。眼窩から誰かが覗いている。
陸地全てが砂漠化した地球も美しいと思う。
だけどあの男の子は堰を登り続けるのだろう。
頭蓋骨はきっとあの男の子のだ。少なくともわたしのじゃない。穴が足りない。
海から壊れた人形の破片が流れてくる。川はそれを邪険に上流へ運ぶ。森の中へ運ぶ。
わたしより少し年下で、わたしよりはるかに大人びた演劇仲間がわたしを呼んでいる。
「幕が上がるよ」
わたしは役者じゃない。裏方。
「客入れもう終わってるよ」
違うったら。
「客電落ちるよ」
違う。
「さあ」
真っ暗になる。
劇場などどこにもない。
照明がつくまでの客席は穴だらけだ。
穴しかない。何もない。
裸舞台にわたしは立っている。
照明がつくとわたしは蒸発する。
わたしの代わりに舞台装置が固化し、あの子が実体化する。
わたしは彼女の背中を見ている。
きっと彼女ものっぺらぼうなんだろう。
劇場の裏を走り回っている夢をよく見る。裏方メインだったので当然だ。特に大劇場は。
この時、トンネルと似ているなと思う。
無限回廊。
いろんな人に怒鳴られ泣くのをこらえながらわたしは走り回っている。
押入れや段ボール箱がだめだったのはこれだ。
そこは迷宮でなくてはならない。
泣きじゃくって遊具の中にこもる幼稚園のわたしは迷宮をさまよっていた。
劇場は迷宮だ。
観客の知らない迷宮。
オアシスのように楽屋がある。タバコの煙が充満している。
のっぺらぼうがたくさんいる。
黒幕が無造作に落ちている。たたんで片付けようとそれを広げる。
中には男の子の死体がくるまれていた。
口の周りが血だらけだった。
結局登れなかったんだ、と思う。平然な頭で。
それより今のわたしにとって、幕をたたむべきかどうかが問題だった。
周りは真っ暗でほとんど何も見えないのにトンネルの中だということはわかる。
トンネルはうねっている。巨大ミミズのように体をたぐらせている。
巨大ミミズなんかじゃない、わたしだ、と思う。
わたしはわたしの中を歩いている。
足元がおぼつかない。
歩いているんじゃなく転がっているだけかもしれない。
手足の感覚がない。
ただ移動していることだけわかる。
移動させられているのかもしれなかった。巨大ミミズの蠕動に。
幼稚園の頃、お遊戯で悪ふざけをして廊下に立たされたことがある。
延々と泣き続けていたらしく、祖母が迎えに来て早退した。
ドラキュラみたいな人があちこちにいると訴えたそうだ。
穴の中から誰かが覗いていると。
この世界にはたくさん穴が開いている。大きな穴、小さな穴。
廊下に立たされていたにも関わらず、わたしは小屋になっている遊具の中にこもっていた。
そりゃあ先生もお手上げになるよな。
記憶ではなく事後的な想像になるが、わたしは穴の中にこもっていたのだと思う。泣きじゃくりながら穴の方に歩いていって、穴の中で泣き続けていたのだと。
体内のさまざまな反応が外界になっていた。
穴の中ではそうなる。
押入れや段ボール箱の中にこもるのもよくしていた。
その時は穴の中にいたと思わない。
「違うなあ」と思いながら仕方なくそうしていた。
多分、なかなか穴の中に入れないことにがっかりしていたのだろう。
泣きじゃくればよかったのだろうか。
小学校の近くに小さな川があった。
川にはよく釣り人がいた。
竹の釣竿でやるような釣りだった。
小学生くらいの男の子と女の子が釣りをしていた。
女の子はわたしに気づき男の子に何か話しかけていた。
だけど男の子はわたしに背を向けたまま微動だにしなかった。
男の子はのっぺらぼうなんじゃないか、と思った。
何もせず川の土手に座っていることが多かった。
少し上流に歩くと川は森の中に入っていった。
ちょうど森の入り口くらいのところに堰があった。
男の子たちが堰を駆け登って遊んでいた。
何度も何度も転んでいる背の低い男の子がいた。
何度も何度もチャレンジしては登りきれず、転んで顔をぶつけていた。
男の子は泣いていた。
泣きながらまた堰を駆け登った。
口の周りが赤くなっていた。出血していた。
堰の上で登りきった男の子たちがその子を励ましていた。囃し立てていた。嘲笑っていた。
誰も手を貸さない。
残酷だと思った。
美しいと思った。
夕方だった。
男の子の口の赤と川面の赤がとてもきれいだった。
帰りたくなかった。
男の子が登りきれば帰れるのだろう、と思った。
だから登りきらないで欲しかった。
もっと泣きじゃくってもっと出血してもっと転げ落ちて欲しいと思った。
「女子が見てるぞ」
堰の上に立つ男の子のそんなような一言でわたしは我に帰った。
顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
走って家に帰った。
トンネルの中は気温がまだらになっていた。暑いのか寒いのかよくわからなかった。
夜の街明かりに照らされるタバコの煙のようだった。
中学校の美術で色つきの煙を描いたことがある。
混じり合わずに絡み合う色たち。瞬間瞬間に形が変わる色たち。
そんなようなものを描きたかったのだがうまく描けなかった。友人に岡本太郎のパクリだと言われた。「ばれた?」と笑って返した。美術のセンスは皆無に等しい。
怪物もよく描いた。マリモのように手足と内臓が絡み合う球体を描いた。友人には「エロイ」と言われた。本当にばれたと思ったので何も返せなかった。
真っ暗だからどんな光景なのかいくらでも想像できる。
想像の手がかりは、視覚や聴覚や触覚などで区分されないなんらかの刺激。
トンネルのわたしには無数の穴が開いている。そのうちどれかの穴に幼稚園の頃のわたしがいるのかもしれない。
顔に無数の穴が開いている。穴は中でよじれている。よじれているから底が見えない。そんな絵を描こうとして描かなかった。恥ずかしさというか罪悪感というか、妙な負の感情がわたしを抑制した。
わたしにとって川は逆方向に流れていた。
川は森の中へ流れ込むべきものだった。
わたしの川はそういうものだった。
だから川を見ていたのだろうか。
わたしと逆だから。
ドブ川の淀みにゴミが溜まっている。
抑制されていたわたしが欲情している。
こんな絵本を読んだことがある。
人が船に乗っている。新しい島を見つけた。島に上陸する。やがてたくさんの人が移民してくる。小さな島は街として栄える。
ある日地面がぱっくり割れる。
島だと思っていたのは巨大な魚の口だった。
島民は巨大な魚の餌になった。
環境に悪いゴミなどないと思う。それは人間にとって悪いゴミであって、環境そのものはこの巨大な魚のようなものだと思う。
色とりどりのゴミに交じって頭蓋骨が浮いている。眼窩から誰かが覗いている。
陸地全てが砂漠化した地球も美しいと思う。
だけどあの男の子は堰を登り続けるのだろう。
頭蓋骨はきっとあの男の子のだ。少なくともわたしのじゃない。穴が足りない。
海から壊れた人形の破片が流れてくる。川はそれを邪険に上流へ運ぶ。森の中へ運ぶ。
わたしより少し年下で、わたしよりはるかに大人びた演劇仲間がわたしを呼んでいる。
「幕が上がるよ」
わたしは役者じゃない。裏方。
「客入れもう終わってるよ」
違うったら。
「客電落ちるよ」
違う。
「さあ」
真っ暗になる。
劇場などどこにもない。
照明がつくまでの客席は穴だらけだ。
穴しかない。何もない。
裸舞台にわたしは立っている。
照明がつくとわたしは蒸発する。
わたしの代わりに舞台装置が固化し、あの子が実体化する。
わたしは彼女の背中を見ている。
きっと彼女ものっぺらぼうなんだろう。
劇場の裏を走り回っている夢をよく見る。裏方メインだったので当然だ。特に大劇場は。
この時、トンネルと似ているなと思う。
無限回廊。
いろんな人に怒鳴られ泣くのをこらえながらわたしは走り回っている。
押入れや段ボール箱がだめだったのはこれだ。
そこは迷宮でなくてはならない。
泣きじゃくって遊具の中にこもる幼稚園のわたしは迷宮をさまよっていた。
劇場は迷宮だ。
観客の知らない迷宮。
オアシスのように楽屋がある。タバコの煙が充満している。
のっぺらぼうがたくさんいる。
黒幕が無造作に落ちている。たたんで片付けようとそれを広げる。
中には男の子の死体がくるまれていた。
口の周りが血だらけだった。
結局登れなかったんだ、と思う。平然な頭で。
それより今のわたしにとって、幕をたたむべきかどうかが問題だった。