自慰と自傷
2009/02/28/Sat
ファルス的享楽が自慰なら、他者の享楽は自傷である。
たとえば映画『メメント』の主人公のように数分間しか記憶を残すことができない場合、彼の行動は必然的に非生産的なものとなる。言動が生産的なものとなるにはある程度の一貫性がなければならない。
この一貫性は、他者が存在しない場合、自慰となる。
自慰的に自傷することもあれば、自傷的に自慰することもあろう。
それが正常であるということだ。
限りなく純粋に近い自慰を行なえるのはパラノイアだ。限りなく純粋に近い自傷を行なえるのはスキゾフレニーだ。
他者という鎖から解き放たれれば、自慰的な自傷や自傷的な自慰ではない純粋に近い自慰や自傷を行なうことができる。
どちらにしろそいつにとっては不幸なことである。どちらにしろ行き着くのは精神病である。
自慰的な自傷や自傷的な自慰ができるうちは、まだ幸福なのだ。
ちょうどわたしが「セックスが嫌いだからセックスが好きだ」と思っていた頃のように。わたしにとって恋愛やセックスは自傷的な自慰だった。癲癇症者が発作を自慰的に楽しむようなものだ。
ビッチだった頃のわたしはまだ正常でいられた。幸福でいられた。根拠として希薄ではあるが他者は存在していた。
そんなわたしを傍から見ているだけで不幸だと判断し救ってあげようなどというおせっかいを働こうとしているのが笙野頼子の『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』である。
なんて傲慢な態度だろう。
ヤリマンでいられたから不幸を少し離れてささやかな幸福を保っていられたのに、勝手にそれを不幸と判断する厚顔さはどこから生じるのだろう。不思議でならない。
ここでの笙野はわたしを買う客と何も違いがない。自分が同情している状態に自己陶酔するためにわたしの主観世界を亡き物にしてわたしが感情移入したいぶきを天国に連れて行こうとする。詐欺師のような甘言を弄している。
そこにあるのはセックスするか同情するかの違いだけだ。
「セックスだろうが同情だろうがなんでもいいけど、お代はいただくよ」
笙野、お前はわたしを買うおんたこたちと何も違いはない。
笙野、お前の主観世界にわたしは存在しない。
笙野、お前はわたしを抹殺している。
なーにが「器」だ(爆笑)。
深夜の通販番組のごとく心地の良いゆりかごを販促する笙野。ゆりかごが体に合えばいいさ。合わない人がクーリングオフしているだけ。お前の言う「器」からこぼれた人間がお前の販促するゆりかごの不具合を指摘しているだけ。クレーマーだな。クレーマーだからスルーするんだろうな。
「じゃあ読まなきゃいい」
うん、読まない。以降は。気が向いたら読むかもしれないけどね。
ただクレームつけるのを制限する権利はお前にはない。
クレーマーを抹殺する権利はお前にはない。
『ろりりべ』でのお前の言動に同意できるのはうちに水晶を持てているお前と同類の人間だけだ。お前が勝手にうちに水晶のない黒いどろどろした言葉しか持てない火星人遊女に同情しているだけだ。
その目線は火星人遊女にとっておんたこたちの目線となんら違いはない。
なーにが「大河的自我」だ(大爆笑)。
大言壮語ここに極まれり、だな。
お前が『だいにっほん三部作』で描いたのは「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をしているお前自身だ。
おもろいな、お前。三冠作家だか知らないがいい気になっているんだろうな。小学生男子みたくてカワイイ(笑)とすら。
桃木はいいよ。いぶきもいい。『金毘羅』もまだいい。『金毘羅』が折り返し地点だったんだろうな。折り返し地点だからこそ評価も高くなっているんだろうな。うっすら「あー以降いい気になりそうだなー」とわたしは思ったけどね。作家なんてわたしにとっちゃ詐欺師と同然だから別にそれはどうでもいいけど。詐欺は裏切られるのが楽しいわけで。
なーんか小学生の頃わたしが周り子を観察してある程度定理として理解したそのまんまの精神状態の変遷を遂げててつまらん。底の浅い人間。
その程度だったんだな、というがっかり感。
目を覚ませはやく、甘い夢から
うまい話には裏がある
目を覚ませはやく、甘い夢から
浮かれているのはお前だけ
溺れているのはわたしだけ。
浮かれている者にも溺れている者にも他者がいない。
この歌の登場人物に他者は存在していない。
たとえば映画『メメント』の主人公のように数分間しか記憶を残すことができない場合、彼の行動は必然的に非生産的なものとなる。言動が生産的なものとなるにはある程度の一貫性がなければならない。
この一貫性は、他者が存在しない場合、自慰となる。
自慰的に自傷することもあれば、自傷的に自慰することもあろう。
それが正常であるということだ。
限りなく純粋に近い自慰を行なえるのはパラノイアだ。限りなく純粋に近い自傷を行なえるのはスキゾフレニーだ。
他者という鎖から解き放たれれば、自慰的な自傷や自傷的な自慰ではない純粋に近い自慰や自傷を行なうことができる。
どちらにしろそいつにとっては不幸なことである。どちらにしろ行き着くのは精神病である。
自慰的な自傷や自傷的な自慰ができるうちは、まだ幸福なのだ。
ちょうどわたしが「セックスが嫌いだからセックスが好きだ」と思っていた頃のように。わたしにとって恋愛やセックスは自傷的な自慰だった。癲癇症者が発作を自慰的に楽しむようなものだ。
ビッチだった頃のわたしはまだ正常でいられた。幸福でいられた。根拠として希薄ではあるが他者は存在していた。
そんなわたしを傍から見ているだけで不幸だと判断し救ってあげようなどというおせっかいを働こうとしているのが笙野頼子の『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』である。
なんて傲慢な態度だろう。
ヤリマンでいられたから不幸を少し離れてささやかな幸福を保っていられたのに、勝手にそれを不幸と判断する厚顔さはどこから生じるのだろう。不思議でならない。
ここでの笙野はわたしを買う客と何も違いがない。自分が同情している状態に自己陶酔するためにわたしの主観世界を亡き物にしてわたしが感情移入したいぶきを天国に連れて行こうとする。詐欺師のような甘言を弄している。
そこにあるのはセックスするか同情するかの違いだけだ。
「セックスだろうが同情だろうがなんでもいいけど、お代はいただくよ」
笙野、お前はわたしを買うおんたこたちと何も違いはない。
笙野、お前の主観世界にわたしは存在しない。
笙野、お前はわたしを抹殺している。
なーにが「器」だ(爆笑)。
深夜の通販番組のごとく心地の良いゆりかごを販促する笙野。ゆりかごが体に合えばいいさ。合わない人がクーリングオフしているだけ。お前の言う「器」からこぼれた人間がお前の販促するゆりかごの不具合を指摘しているだけ。クレーマーだな。クレーマーだからスルーするんだろうな。
「じゃあ読まなきゃいい」
うん、読まない。以降は。気が向いたら読むかもしれないけどね。
ただクレームつけるのを制限する権利はお前にはない。
クレーマーを抹殺する権利はお前にはない。
『ろりりべ』でのお前の言動に同意できるのはうちに水晶を持てているお前と同類の人間だけだ。お前が勝手にうちに水晶のない黒いどろどろした言葉しか持てない火星人遊女に同情しているだけだ。
その目線は火星人遊女にとっておんたこたちの目線となんら違いはない。
なーにが「大河的自我」だ(大爆笑)。
大言壮語ここに極まれり、だな。
お前が『だいにっほん三部作』で描いたのは「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をしているお前自身だ。
おもろいな、お前。三冠作家だか知らないがいい気になっているんだろうな。小学生男子みたくてカワイイ(笑)とすら。
桃木はいいよ。いぶきもいい。『金毘羅』もまだいい。『金毘羅』が折り返し地点だったんだろうな。折り返し地点だからこそ評価も高くなっているんだろうな。うっすら「あー以降いい気になりそうだなー」とわたしは思ったけどね。作家なんてわたしにとっちゃ詐欺師と同然だから別にそれはどうでもいいけど。詐欺は裏切られるのが楽しいわけで。
なーんか小学生の頃わたしが周り子を観察してある程度定理として理解したそのまんまの精神状態の変遷を遂げててつまらん。底の浅い人間。
その程度だったんだな、というがっかり感。
目を覚ませはやく、甘い夢から
うまい話には裏がある
目を覚ませはやく、甘い夢から
浮かれているのはお前だけ
溺れているのはわたしだけ。
浮かれている者にも溺れている者にも他者がいない。
この歌の登場人物に他者は存在していない。