『LOVE OR LUST』平井堅――ドーナッツ・ボーイ
2009/03/03/Tue
平井堅の『LOVE OR LUST』という曲。流行曲に疎いわたしはカラオケスナックでこの曲を知った。
lustという単語には微妙な思い入れがあった。『鋼の錬金術師』にもラストというキャラクターが出てて「お」と思ったらやっぱりlustだった。七つの大罪だな。
なので好きだった。曲調もこういうエロイの好きだ。平井の声にも合ってる。
lustという言葉は単純に肉欲と訳されるが、わたしのニュアンスではマゾヒスティックな欲情も含まれているように感じる。どちらかと言うと貪欲。貪欲でいることは一つのマゾヒスムだ。欲望に忠実すぎれば快楽原則の綻びに出会う。快楽原則により欲望を譲歩してしまうのが正常人だ。仏教の煩悩とは欲望を譲歩することだとわたしは考える。仏教徒は、特に小乗仏教などにおいては、仏性に対する欲望をいかに譲歩しないかが修行となっていると感じる。
この記事から。
=====
ちょうど今見てた『CSI:マイアミ4』でこんなシーンがあってな。単に男が女口説いてるだけのなんでもないシーンなんだけど。
男「女性について色々知りたいんだ。(女性としての)君は、純愛とセックス、どっちが欲しい?」
女「両方」
あーそうそう、みたいな。
=====
この女は「love or lust」ではなく「love and lust」なのだ。
当該曲でも同じことが指摘されている。
=====
愛情と欲望は背中合わせのカード
同じ顔して僕を手招きする
=====
「僕」にとっては「love or lust」なのだろう。しかし手招きする相手は裏も表も「同じ顔」をしている。この相手も「love and lust」なのだ。
「love and lust」なる相手を目の前にして「僕」は自問自答する。これはloveなのかlustなのか、と。「love and lust」である相手との関係をloveかlustかと問う。
理屈上これは無意味な問いである。裏表のあるカードを指して「そのカードは表か裏か」と問うているようなものである。カードそのものにしてみれば表も裏も分かつことのできない自分である。しかし「僕」にとっての相手というカードは表か裏かどちらかの一面でなくてはならない。だから「僕」は問う。無意味に。
この行き違いは未去勢者と去勢済みな主体の会話でよく見られる。たとえばこの記事でリンクしたドードーとらさんという未去勢者とアリスさんという去勢済みな主体との会話はまさにこの構図である。
裏でも表でもあるカードそのものたるドードーとらさんを前に、アリスさんという「僕」は裏か表かという問いから、「love or lust」という問いから逃れられない。「異質な壁」を前に後退する。裏も表もという発想ができないでいる。
アリスさんや「僕」がしている裏か表かあるいは「love or lust」という問いは自慰的なものである。裏も表もの視点から見れば。
わたしがドードーとらさんの立場だったらアリスさんに対しこう言うだろう。
「何オナニーしてんの?」
自分が裏か表か決め付けられたら楽に生きられる。一面だけを生きればよいのだから。三次元を生きるのより二次元を生きる方が楽に決まっている。自由度が制限されているのだから。
裏と表が繋がっているのがメビウスの輪である。ラカンは現実界と主体の主観世界はメビウスの輪であるとした。しかし言語構造というトーラスにより裏と表は分かたれる。象徴界への参入即ち去勢により裏と表は分かたれる。現実界と主観世界は分かたれる。
「love and lust」たる相手を前に「love or lust」と問う「僕」はトーラスに支配されている。トーラスたる「僕」はドーナッツ・ボーイだ。アリスさんはミセス・ドーナッツ。
メビウスの輪たる未去勢者たちは、無責任と言われる。裏か表か一貫性がないのだから。裏でも表でもあるだけなのに、裏か表かという言語構造に支配されている去勢済みな主体たちから見れば、たとえば「一貫性がない」などと言われる。
「純愛もセックスも欲しい」
わたしはなんの含みもなくそう言うだろう。
純愛かセックスかという一貫性がないわたしを、男たちはビッチと思うだろう。
うん、それで? 何故純愛かセックスか分けてるの? 分けなきゃいけないの? 純愛とセックスって別物なの? あなたの主観世界で別物なだけじゃないの?
純愛しているわたしとセックスしているわたしは同じ顔をしている。
わたしの返答を聞いて「僕」は延々と自問自答する。純愛かセックスか。
「love or lust」
そんな彼を尻目にわたしは横を通り過ぎる違う男へと興味が向く。
=====
愛し始めた時にはもう次の愛を探し始めている
=====
「僕」が顔を上げた時わたしはもうそこにいない。こんな置手紙が残されている。
「勝手に光探してろ。あたしは夜を生きている。ただそれだけのこと」
ああそんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
ああ明るすぎる真昼の薄闇の中
夜はいつでもあたしのものさ
今頃アニメ『魍魎の匣』を見ているが、もっと俯瞰的アングルが欲しいなあ、と思った。アニメにしているからにはキャラクターへの感情移入が優先されるのは理解できるが、もっと演劇的な俯瞰視点、というか舞台上の世界が観客を覆っているような感じが欲しい。単純に言えば時代感とかそういうもの。具体的には背景や小物のヨゴシとか。一例としてなら『鉄コン筋クリート』みたいな登場人物に影響を及ぼす環境への拘りみたいなもの。『魍魎~』原作は文体でそういった感覚を醸し出しているが、このアニメにはそれがない。耳障りのよい文章しか書けない優等生的ラノベ作家が書くような世界になっている。時代考証が必要だというわけではない。一つの手段ではあろうが。どうしようもなくそこにいさせられているやるせない実体感とでも言おうか。
受取手の注意を登場人物に集中させるにしても、環境がやっぱり必要だ。演劇なら舞台装置、照明、音響。このアニメは原作の魅力であるそれを損なって役者を強くフィーチャーしている。考えてみれば宮崎駿にしても評価されているポイントは背景や自然物の表現である。押井守もそうだよな。キャラクターというより舞台装置がその作品の魅力となっている。『ビューティフルドリーマー』にしろ『攻殻機動隊』にしろ。
アニメと映画を比べるのもどうかと思う。しかしたとえばSFアニメなどは演劇で言う舞台装置が重要なポイントになっていないか。『クラウ』というアニメが好きだったが、舞台装置をしっかり描けている。とはいえこの作品が特別描けているとは言わない。他にもSF系では舞台装置で見せている良作がたくさんある。『ラーゼフォン』もよかったな。特に第一話の街が破壊されるシーン。ってBONESばっかだなおい。『エウレカセブン』もそこそこ好きだったし。さすが出渕さん。『未来放浪ガルディーン』の挿絵ゆうきまさみで統一しろよなどと生意気なこと考えてごめんなさい。わたしが今ぱっと思い出せるのがこの程度ってこと。
SFなら科学考証が必要などという考えになりがちだが、時代考証と同様一手段ではあるけれどもそれが唯一の要因というわけではない。いわゆるセカイ系で議論されがちな「象徴界に纏わる問題視点の欠如(東浩紀などが言う「象徴界の喪失」という言葉は理屈的に正しくないのでこう述べる)」が原因なのではない。この記事から。
=====
また、ここで述べているように、わたしは「セカイ系」と呼ばれるジャンルに違和感を覚えている。違和感の根拠としてそれを評した、「社会性あるいは(誤用であることを知りながら言うなら)象徴界の喪失」という言説にも違和感を感じる。わたしから見れば、「セカイ系」と呼ばれる作品群は、まったく象徴界を喪失していない。社会性を喪失していない。それを「社会性の喪失」と評する主体たちが持っている固有の「社会という共同幻想」が崩壊しているだけである。彼らは彼ら固有の「社会性という共同幻想」に自閉したがっているのだ。「セカイ系」を制作する主体たちも、彼らなりの(幾分想像的ではあるが)「社会性という共同幻想」を、その作品で遺憾なく表現している。『エヴァンゲリオン』にしろ『イリヤの夏、UFOの空』にしろ『エウレカセブン』にしろ、作り手の社会性が発揮されている。
=====
社会が象徴的であるべきか想像的であるべきかなどという議論に芸術は振り回されてはならない。
社会とは人なるものの集合体であり、自然とは別物である。人なるものではない環境としての実存感。現実感というとリアリズムと解釈されがちなのでそう述べた。ラカン的な意味での現実であり演劇論におけるリアリズムとは(親近はしていようが)また少し違う。どちらかというとシュルレアリスム。
そもそも何を現実に思うかなど人それぞれであることは精神分析の理屈で明らかだ。この記事から。
=====
精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
=====
実存感が人それぞれな感じを醸し出す舞台装置であれば実存感が感じられる、ということか。押井の描く猥雑な街とか好きだ。リアルでも一昔前のシモキタが好きだった。夜の繁華街もそう。一人一人が自分勝手。自分勝手に主観世界を生きている。一人一人のそれが表象になって複合すると猥雑な感じになる。それはプライベートとかってものじゃない。プライベートとは自分の価値観という幻想の総体だ。だからプライベートは防衛される。わたしの言う実存感の根源たる主観世界は自分が翻弄されるものだ。プライベート空間は保持即ち所有できる。現実的な主観世界は所有できない。主観世界に対して自分は完全に受動である。そもそもそこでの自他(人なるものに限定されない)は混淆的である。
話が抽象化してきたのでここまでにする。
lustという単語には微妙な思い入れがあった。『鋼の錬金術師』にもラストというキャラクターが出てて「お」と思ったらやっぱりlustだった。七つの大罪だな。
なので好きだった。曲調もこういうエロイの好きだ。平井の声にも合ってる。
lustという言葉は単純に肉欲と訳されるが、わたしのニュアンスではマゾヒスティックな欲情も含まれているように感じる。どちらかと言うと貪欲。貪欲でいることは一つのマゾヒスムだ。欲望に忠実すぎれば快楽原則の綻びに出会う。快楽原則により欲望を譲歩してしまうのが正常人だ。仏教の煩悩とは欲望を譲歩することだとわたしは考える。仏教徒は、特に小乗仏教などにおいては、仏性に対する欲望をいかに譲歩しないかが修行となっていると感じる。
この記事から。
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ちょうど今見てた『CSI:マイアミ4』でこんなシーンがあってな。単に男が女口説いてるだけのなんでもないシーンなんだけど。
男「女性について色々知りたいんだ。(女性としての)君は、純愛とセックス、どっちが欲しい?」
女「両方」
あーそうそう、みたいな。
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この女は「love or lust」ではなく「love and lust」なのだ。
当該曲でも同じことが指摘されている。
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愛情と欲望は背中合わせのカード
同じ顔して僕を手招きする
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「僕」にとっては「love or lust」なのだろう。しかし手招きする相手は裏も表も「同じ顔」をしている。この相手も「love and lust」なのだ。
「love and lust」なる相手を目の前にして「僕」は自問自答する。これはloveなのかlustなのか、と。「love and lust」である相手との関係をloveかlustかと問う。
理屈上これは無意味な問いである。裏表のあるカードを指して「そのカードは表か裏か」と問うているようなものである。カードそのものにしてみれば表も裏も分かつことのできない自分である。しかし「僕」にとっての相手というカードは表か裏かどちらかの一面でなくてはならない。だから「僕」は問う。無意味に。
この行き違いは未去勢者と去勢済みな主体の会話でよく見られる。たとえばこの記事でリンクしたドードーとらさんという未去勢者とアリスさんという去勢済みな主体との会話はまさにこの構図である。
裏でも表でもあるカードそのものたるドードーとらさんを前に、アリスさんという「僕」は裏か表かという問いから、「love or lust」という問いから逃れられない。「異質な壁」を前に後退する。裏も表もという発想ができないでいる。
アリスさんや「僕」がしている裏か表かあるいは「love or lust」という問いは自慰的なものである。裏も表もの視点から見れば。
わたしがドードーとらさんの立場だったらアリスさんに対しこう言うだろう。
「何オナニーしてんの?」
自分が裏か表か決め付けられたら楽に生きられる。一面だけを生きればよいのだから。三次元を生きるのより二次元を生きる方が楽に決まっている。自由度が制限されているのだから。
裏と表が繋がっているのがメビウスの輪である。ラカンは現実界と主体の主観世界はメビウスの輪であるとした。しかし言語構造というトーラスにより裏と表は分かたれる。象徴界への参入即ち去勢により裏と表は分かたれる。現実界と主観世界は分かたれる。
「love and lust」たる相手を前に「love or lust」と問う「僕」はトーラスに支配されている。トーラスたる「僕」はドーナッツ・ボーイだ。アリスさんはミセス・ドーナッツ。
メビウスの輪たる未去勢者たちは、無責任と言われる。裏か表か一貫性がないのだから。裏でも表でもあるだけなのに、裏か表かという言語構造に支配されている去勢済みな主体たちから見れば、たとえば「一貫性がない」などと言われる。
「純愛もセックスも欲しい」
わたしはなんの含みもなくそう言うだろう。
純愛かセックスかという一貫性がないわたしを、男たちはビッチと思うだろう。
うん、それで? 何故純愛かセックスか分けてるの? 分けなきゃいけないの? 純愛とセックスって別物なの? あなたの主観世界で別物なだけじゃないの?
純愛しているわたしとセックスしているわたしは同じ顔をしている。
わたしの返答を聞いて「僕」は延々と自問自答する。純愛かセックスか。
「love or lust」
そんな彼を尻目にわたしは横を通り過ぎる違う男へと興味が向く。
=====
愛し始めた時にはもう次の愛を探し始めている
=====
「僕」が顔を上げた時わたしはもうそこにいない。こんな置手紙が残されている。
「勝手に光探してろ。あたしは夜を生きている。ただそれだけのこと」
ああそんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
ああ明るすぎる真昼の薄闇の中
夜はいつでもあたしのものさ
今頃アニメ『魍魎の匣』を見ているが、もっと俯瞰的アングルが欲しいなあ、と思った。アニメにしているからにはキャラクターへの感情移入が優先されるのは理解できるが、もっと演劇的な俯瞰視点、というか舞台上の世界が観客を覆っているような感じが欲しい。単純に言えば時代感とかそういうもの。具体的には背景や小物のヨゴシとか。一例としてなら『鉄コン筋クリート』みたいな登場人物に影響を及ぼす環境への拘りみたいなもの。『魍魎~』原作は文体でそういった感覚を醸し出しているが、このアニメにはそれがない。耳障りのよい文章しか書けない優等生的ラノベ作家が書くような世界になっている。時代考証が必要だというわけではない。一つの手段ではあろうが。どうしようもなくそこにいさせられているやるせない実体感とでも言おうか。
受取手の注意を登場人物に集中させるにしても、環境がやっぱり必要だ。演劇なら舞台装置、照明、音響。このアニメは原作の魅力であるそれを損なって役者を強くフィーチャーしている。考えてみれば宮崎駿にしても評価されているポイントは背景や自然物の表現である。押井守もそうだよな。キャラクターというより舞台装置がその作品の魅力となっている。『ビューティフルドリーマー』にしろ『攻殻機動隊』にしろ。
アニメと映画を比べるのもどうかと思う。しかしたとえばSFアニメなどは演劇で言う舞台装置が重要なポイントになっていないか。『クラウ』というアニメが好きだったが、舞台装置をしっかり描けている。とはいえこの作品が特別描けているとは言わない。他にもSF系では舞台装置で見せている良作がたくさんある。『ラーゼフォン』もよかったな。特に第一話の街が破壊されるシーン。ってBONESばっかだなおい。『エウレカセブン』もそこそこ好きだったし。さすが出渕さん。『未来放浪ガルディーン』の挿絵ゆうきまさみで統一しろよなどと生意気なこと考えてごめんなさい。わたしが今ぱっと思い出せるのがこの程度ってこと。
SFなら科学考証が必要などという考えになりがちだが、時代考証と同様一手段ではあるけれどもそれが唯一の要因というわけではない。いわゆるセカイ系で議論されがちな「象徴界に纏わる問題視点の欠如(東浩紀などが言う「象徴界の喪失」という言葉は理屈的に正しくないのでこう述べる)」が原因なのではない。この記事から。
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また、ここで述べているように、わたしは「セカイ系」と呼ばれるジャンルに違和感を覚えている。違和感の根拠としてそれを評した、「社会性あるいは(誤用であることを知りながら言うなら)象徴界の喪失」という言説にも違和感を感じる。わたしから見れば、「セカイ系」と呼ばれる作品群は、まったく象徴界を喪失していない。社会性を喪失していない。それを「社会性の喪失」と評する主体たちが持っている固有の「社会という共同幻想」が崩壊しているだけである。彼らは彼ら固有の「社会性という共同幻想」に自閉したがっているのだ。「セカイ系」を制作する主体たちも、彼らなりの(幾分想像的ではあるが)「社会性という共同幻想」を、その作品で遺憾なく表現している。『エヴァンゲリオン』にしろ『イリヤの夏、UFOの空』にしろ『エウレカセブン』にしろ、作り手の社会性が発揮されている。
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社会が象徴的であるべきか想像的であるべきかなどという議論に芸術は振り回されてはならない。
社会とは人なるものの集合体であり、自然とは別物である。人なるものではない環境としての実存感。現実感というとリアリズムと解釈されがちなのでそう述べた。ラカン的な意味での現実であり演劇論におけるリアリズムとは(親近はしていようが)また少し違う。どちらかというとシュルレアリスム。
そもそも何を現実に思うかなど人それぞれであることは精神分析の理屈で明らかだ。この記事から。
=====
精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
=====
実存感が人それぞれな感じを醸し出す舞台装置であれば実存感が感じられる、ということか。押井の描く猥雑な街とか好きだ。リアルでも一昔前のシモキタが好きだった。夜の繁華街もそう。一人一人が自分勝手。自分勝手に主観世界を生きている。一人一人のそれが表象になって複合すると猥雑な感じになる。それはプライベートとかってものじゃない。プライベートとは自分の価値観という幻想の総体だ。だからプライベートは防衛される。わたしの言う実存感の根源たる主観世界は自分が翻弄されるものだ。プライベート空間は保持即ち所有できる。現実的な主観世界は所有できない。主観世界に対して自分は完全に受動である。そもそもそこでの自他(人なるものに限定されない)は混淆的である。
話が抽象化してきたのでここまでにする。