ボツ記事のゴミ箱
2009/03/07/Sat
書いたはいいけど論旨がまとまらなかったり隠喩連鎖が物足りなかったり書き終わってどうでもよくなったり文量少ないからいっかと思ってボツにしたテクストたち。
『目的』
目的そのものを否定するという目的を仮設するのはありだが、目的そのものを否定するのが目的となってはいけない。それはあくまで目的である。仮設としての目的は一過程である。過程のベンチマークである。進化論は完全な生体を目指す過程ではなく変化する環境に適応する過程である。それと似たようなことである。
それは無間地獄のごときものである。目的という確固たるものはファルスを投影できるため、癒しとなるからである。これは癒しの否定でもある。
否定し否定されなさい。
天国や癒しという嘘を拒否したければ。
『他者が根拠になっているのが自我や超自我』
わたしの語用におけるキチガイ即ち未去勢者たちは、他者という根拠がないとは言いきれないが、正常人と比して根拠として希薄である。無意識において。
動物は鏡に映る自分の姿に威嚇する。鏡に映る自分の姿は動物にとって他者である。この鏡像的他者を自分と把握即ち所有することで人は去勢される。これが鏡像段階である。この時自我が生じる。ラカン論において自我とは想像的(視覚や聴覚など体感的)なものだ。
同時に、鏡に映る光景のどこからどこまでが自分かという認知も所有される。ここからここまでが自分という象徴化である。この時象徴的ファルスが生じる。これを軸として、言語構造という網をわたあめのごとく纏わりつかせて超自我が形成される。ラカン論において超自我とは象徴的(言語的)なものだ。
従って自我や超自我は他者を根拠にしているとなる。あくまでもラカン論においてよ?
しかしまあわたしが最初未去勢的だと思っていた笙野頼子でさえ他者という根拠を再発見するのだから、未去勢者ってほんとマイナーなんだなあ、と思うわ。
ある自閉症者のブログが荒れている。交流のあった自閉症当事者同士がケンカしている。この記事でもちらっと触れてるけどね。
一度交流が損なわれると関係の修復は難しい。未去勢者たちにとって。少年マンガでありがちなケンカして「ふ、お前もなかなかやるな」って握手するようなことにはまずならない。他の中学生(今年から高校か)の自閉症者ブログでもそれが見て取れる。相手に対して一度「ああ、こいつもダメだったか」と思うとそいつとの関係の修復は困難だ。
当然だよな。無意識において他者という根拠が希薄なんだから。って違うな。そもそも大文字の他者即ち言語構造が意識と無意識というメビウスの輪の裏表を分かつわけだから、他者という根拠が希薄だから意識と無意識がメビウスの輪のままになっている、ってことか。「自閉症は自開症である」なんていう言説と呼応するな。正常人にとっての無意識が無意識になっていないから自開。正常人にとって開放するのが困難な無意識をそのまま生きているという意味での自開。
未去勢者にとって一度交流が損なわれると関係は修復されがたい。当事者同士ならなおさらだろう。
まさに谷山浩子の『きみが壊れた』だな。わたしあんま好きじゃない曲だけど。正常人視点なんだよな。わたしは谷山の本質は未去勢者だと考えているのでこういった作品は嘘っぽく聞こえる。自閉症のエコラリアのごとく聞こえる。『ゆりかごの歌』とか『夢のスープ』とかと比べると去勢済みっぽいなあ、ぐらいの話。だけど歌われている「きみ」は未去勢的なんだよな。まさしく「一度交流が損なわれると関係は修復されない」という点において。
=====
僕の罪 たった一度の
そしてその日からきみが壊れた
僕が壊した人形のきみを
棄てて明日はきっとここを出てゆく
もう帰れない どんなに夢を見ても
=====
ここでは谷山は自分を見る他者を演技して歌っている、と解釈せねばならないだろう。「僕」なわけだし。壊れている「きみ」が谷山である。つっても『よその子』も「僕」だけどこれは谷山本人の言葉だと思える。この歌の「僕」は明らかに未去勢だから。去勢されようと必死だから。最後に「わたしの子供」と言ってるしな。『金毘羅』も孤児っちゃー孤児だ。まさにガタリが言う「無意識の本質(現実界)は孤児である」。しかし笙野は次作『だいにっほんシリーズ』で去勢済みな主体即ち本質的権力者としての暴力を振るっている。水晶の暴力を振るっている。水晶を作り出そうと必死なままでいられていない。去勢された天国に安住している。つっか作り出すんじゃなくて元々心の奥底にあったものを再発見しただけだからそうなるのも当然だわな。
「無意識の本質は孤児である」即ち無意識の他者という根拠が希薄だから、無意識と意識の区別が正常人と比して曖昧だから、主観世界が無意識の本質たる現実界に親近しているから、一度の裏切りで未去勢的たる「きみ」は壊れてしまう。命のしかめっ面に翻弄される。
=====
信じてる 信じてる 信じてる
きみが言うそのたびに
きみの体の深いところでガラスの砕ける音がする
=====
恐らくこのガラスは笙野頼子が主張する「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」だ。笙野のそれは水晶でできている。ガラスのように脆くない。それどころか自然に成長していく。このことをもって、谷山浩子は笙野頼子と相対して他者という根拠が希薄なのが、未去勢的であるのが明らかだと言える。
「僕」は以前の二人の関係に未練を残している。関係を修復しようと試みてはみたのだろう。しかし壊されてしまった「きみ」がそれを拒否している。ガラスが砕けたから。水晶が砕けたから。ゆらめくヒスイはあなたじゃなかったから。「僕」は去勢済み的で「きみ」は未去勢的だ。クリステヴァのアブジェクシオンはラカンの鏡像段階即ち去勢の裏面だとわたしは考えている。「僕」は壊れた「きみ」を棄てようとする。たとえそれまでの「僕」が未去勢的であったとしても、未去勢的な「きみ」を棄却した彼は大人になるだろう。去勢を承認する・去勢されるだろう。壊れた「きみ」を棄てる=殺すことで彼のファルスは安定化する。
「僕」の無意識には他者が根拠として存在している・するだろうが、「きみ」のそれは希薄だ。希薄なままだ。
きっと「僕」の水晶が「きみ」のガラスを砕いてしまったのだと思う。欲望のシーソーである。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。「僕」の水晶と「きみ」のガラスが鏡像的に衝突してガラスが砕けた。笙野の水晶がわたしの彼女への「分魂」を失敗させたように。
笙野、お前はこの歌の「僕」だ。お前はわたしを壊した。わたしという人形は、ゲル状の外側だけを固化させたものは、ガラスは、砕けた。
お前のたった一度の罪は、天国も地獄もない実存を生きる未去勢者を即ち火星人をわざわざ登場時点で殺してまで天国に連れて行こうとしたことだ。
実存を幻想で圧殺したことだ。
『生死観の逆転』
去勢されてない赤ん坊にとって死の欲動即ちエントロピー増大も生の欲動即ちネゲントロピーも両方ある。せめぎ合っている。たとえば宇宙空間を考えてみよう。エントロピー増大の法則に従って粒子たちはエントロピーの大きい状態にあるが、局所的に見れば、たとえば複数の粒子が衝突し大きな質量の粒子になり万有引力によって他の小さな粒子を引き寄せ星になることがある。この星周辺に限ってはエントロピーが減少している。ネゲントロピーが存在する。エントロピー増大とネゲントロピーがせめぎ合っている。
こういったせめぎ合いこそが未去勢者即ち統合失調症者や自閉症者やスキゾイドが感じる生の実体である。
ところが去勢されていない主観世界を殺して久しい正常人たちは、死の欲動即ちエントロピーの増大を棄却した生の欲動即ちネゲントロピーに注意を偏執させる。局所に注意を集中させる。中央集権的に星が宇宙を支配する。
正常人たちと未去勢者たちとの差異は死の欲動を棄却しているかどうかである。
生の欲動も死の欲動もある未去勢者から見れば、正常人化することとは死の欲動に翻弄される部分的な自分を殺すことでもある。
ここが重要だ。
精神分析ジャーゴンの生の欲動とは正常人が固定観念的に考える局所的な生である。ラカンによって生の欲動とは象徴界・想像界という非現実界という意味での幻想を生きることだと証明された。象徴界と想像界の重なり部分が意味なわけだから、正常人にとっての生きる意味とは意味を生きることなのである。意味に生かされているのだ。
しかし未去勢者にとってそれは生という実体ではない。少なくとも一部を殺されるという意味で死である。この点だけに限って言えば、未去勢者と正常人では生死観が逆転していると言えよう。未去勢者にとって生の欲動は(部分的な)死を意味する。
逆に言えば、正常人が束縛されている生の欲動即ち生という幻想に、死の欲動を加えれば未去勢者にとっての生の実体となる、というわけだ。
『オーパーツのような整流器』
「自分を主張すること」が即ち「他人に自分なるものをわかって欲しい」となるのが正常人だ。他人の主張をそう認識してしまうし、恐らく自分でもそうなのだろう。
しかし「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」は因果関係で結ばれているにすぎない。
わたしは思考とは蜘蛛の巣のように張り巡らされているものだと考えている。ドゥルーズ=ガタリのリゾームになんのかね、これって。この記事から。
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思考なんてある意味あみだくじのようなものだから、そういう結論に達するのは一つの可能性として否定しないけど、ほとんどの人が同じところに行きついてしまうのが。
癒されたがっているのは、癒される方がいいに決まってるって考えは、そいつの固定観念にすぎないのに、それがコミュニケーションの基本ルールとなっているのが。
論理を飛躍させるブラックボックスがここにある。オーパーツのような整流器が組み込まれている。
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あみだくじというより蜘蛛の巣だな。しいて言うなら始まりと終わりがないあみだくじ。
従って、「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という因果関係は一律でない可能性がある。それらの要素を始まりと終わりに設定すればあみだくじで一律に結びつくが、始まりと終わりのないあみだくじならそれらの要素はおのおの一通過点にすぎなくなる。始まりと終わりがないのだから通常のあみだくじにおいて下から上へ登っていくことも許される。
「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という二つの要素がおのおの一通過点であるとすれば、これら二つの要素は因果関係とはなりうるが一律に結びつかない。「自分を主張」しているのに「他人に自分なるものをわかってもらえること」を目的としていない場合だってありうる。二つの通過点の途中あみだくじの横棒がある可能性だってある。
しかし正常人の内面には「論理を飛躍させるブラックボックス」たる「オーパーツのような整流器」が埋め込まれているため、「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という因果関係は一律に結びついてしまう。「ほとんどの人が同じところに行きついてしまう」。
この二要素が一律に結びついてしまっているからこそ帰納的に「自分を主張すること」が即ち「他人に自分なるものをわかって欲しい」という推論が成り立つ。恐らく正常人同士なら、正常人しかいない世界なら推論ではなくなるだろう。「ファルスのない人間即ち机上の空論としての女性は存在しない」というラカン論なら定理として採用されてもおかしかない。まさに「手紙は宛先に届く」。
しかしこの推論には、この二要素の途中にあるあみだくじの横棒が考慮されていない。それはあくまでも推論である。そういう可能性もあるが違う要素に辿り着く可能性もある。たまたま正常人には整流器が埋め込まれているため違う要素に辿り着く可能性が棄却されているだけである。
要するにわたしにとって、「自分を主張すること」が「他人に自分なるものをわかって欲しい」となるのは、そうなる場合もあるが、ならない場合もある、という話。
『カタガキ』
中学生か高校生の頃、「肩書き」という言葉と「カタワ」という差別用語のカタが結びついて離れなかった。たとえるなら、油断すると「カタ」の語源は同じだと思い込んでしまいそうだった。
そんなことをふと思い出した。
事後的にこれを妄想化してみよう。
恐らくその時代のわたしは、「肩書き」という言葉自体に差別用語的なニュアンスを感じ取っていたのかもしれない。だからたまたま同じ「カタ」という音が含まれる差別用語と繋がった、と。
(あ、これも一個前のリゾームみたいなもん? 違う?)
「肩書き」は社会を生きていれば誰でも持っている。学生でさえ「学生」という肩書きがある。わたしも普通に学校に通っていたのだから「学生」という肩書きを持っていたはずなのだが、頭ではわかっていたのだが、わたしの無意識は持てていなかったのかもしれない。肩書きとはラカン的な意味での他者(鏡像的他者即ち自我あるいは自己愛の対象である自己あるいは現象学的な意味での他我も含まれる)から与えられるものだ。大文字の他者。
他人から見れば他の学生同様「学生」という肩書きを持っていはいたのだろうが、わたしの無意識含めた主観世界においては持てていなかったのかもしれない。だから「肩書き」という言葉自体に差別用的なニュアンスの感じた、と言うと整合しすぎてつまらない。
本当に持たざる者の苦痛は、お金や権力を持たざる者の苦痛とは別だ。未去勢者たちは、少なくともわたしは他者の承認(象徴界的ね)あるいは人間らしさ(想像界的)なるものを持っていなかった。だから他者の承認の象徴とも言える「肩書き」という言葉自体に差別されている感じを受けた、ってことか。
つまんねえな、この文章。
『雑然さ』
プラモデルとか興味なかったのだが何故かこんな記憶がある。
ジオラマだかなんだかの話で、巨大ロボットがジャングルにいるのがあって、それを見たある人がこんなことを言った。
「実際はこんな汚れ方しねーよな。だって(ロボットの)頭とか地面から相当離れてるじゃん。遺跡じゃあるまいしこんな上の方まで泥だらけになんねーって」
なるほどな、と思った。もちろんロボットが転んだりしたら頭だって汚れるかもしれない。とすると頭まで泥で汚れているこの巨大ロボットのパイロットは下手糞であることがわかる。
ジャングルなのだから迷彩効果を考えたのだ、などと言うなら塗装をどうにかするべきである。青で統一されたそのロボットは迷彩効果など考えていないはずだ。
しかしわたしはそのジオラマにリアリティを感じた。プラモデルに関する知識のなさも一因だったろう。すげーなー、って素直に思った。
多分、作った人は人間の兵士をイメージしていたのだろう。人間ならば頭まで泥で汚れていてもおかしかない。匍匐前進とかするだろうしね。もしかしたらそのロボットも匍匐前進できるのかもしれないわな。コクピットの中大変なことになるだろうけど。つか巨大ロボットが匍匐前進してなんの得があんだ?
ロボットも人型なのだから似たような汚れ方をするだろう、という思い込みが作者にあったし、恐らくわたしにもあった。だからわたしはリアリティを感じたのだ。
舞台美術でもヨゴシを入れる場合がある。しかし映像と比べるとヨゴシという要素はそれほど重要ではない。
わたしはこの記事でヨゴシと現実感の関係を述べているが、ヨゴせばいいというわけではない。
舞台美術は、三次元のものが実際にそこにある、という観客の思い込みが前提にある。だからヨゴシを入れるなどしなくてもたとえば小物やデザインのごちゃごちゃさで雑然さを醸し出せる。
要するに雑然さなんだな。現実感に必要なのは。ヨゴシは雑然さの一象徴だ。象徴自体を不安定にさせる象徴。「女」という言葉と同じ機能がある。
雑然さとは複雑さとも換言可能だ。現実は複雑系だ。複雑に象徴化が施された現代社会は現代社会という芸術作品として現実感を醸し出している。恐らくピラミッド建造に関わった人の何万倍もの人の手によって作られた作品。
また雑然さとはエントロピーが大きいことでもある。精神分析理論では生の欲動がネゲントロピーで死の欲動がエントロピー増大である。であるならば、死の欲動が含まれていないと現実感は生じない、となる。
『それはひょっとして偽悪で言っているのか』
これはボツっつーより相手のコメント欄が文字数制限あったからこっちに入れとく。
イトウさんのブログ。
薬師さんもいつぞや誰かに言われたように偽悪的に思われるのだろうなと思ったわけだが、なんなんだろうな。わたしも偽悪的だと思われているのだろうか。
キチガイには善悪という分別がないんだけど、キチガイがキチガイを演じると偽悪になるんだろうか。善悪という分別がないだけなわけだから、善悪という分別があって悪を棄却する快楽原則や現実原則に縛られた正常人から見ると、善も悪も(融合なんぞしてないが。断片として)あるってなる。その主観世界に。本当の現実には善も悪もない。そういうレッテルを人間がべたべた貼っているだけ。
しかしキチガイがキチガイを演じると、わざと悪だけになるから、偽悪的になるのかな。
そもそも正常人の分別こそがキチガイから見たら妄想で非現実的なもの。で正常人は悪を棄却するわけだから、キチガイから見れば正常人は傾向的に一律的に偽善者だとなる。薬師さんもよく言うよな、「偽善だ」って。だからってキチガイが本当の善ってわけじゃないんだよな。善悪なんてないのが現実で、その現実を生きているのがキチガイ。善悪という分別がある幻想の世界を生きて幻想の善だけを見て幻想の悪を棄却するのが正常人。幻想だから偽善となるだけで。そもそもの善悪という分別が偽だから偽善って言ってるだけで。
……。
正常人と接触して、キチガイたる自分の本性を維持しようとすれば、その主観世界を保持しようとすれば、正常人が棄却する悪をことさら主張しなければならない。正常人の偽善を指摘するために善悪の分別がない主観世界を生きている自分を主張しなければならない。だから悪を強調しなければならない。わざと悪を主張しなければならない。
だから偽悪と思われるのか。
ってこの時点で正常人に負けてるよな。ほんと窮鼠猫を噛むだわ。
しかし偽善と偽悪って語義もおかしいな。偽悪は「わざと悪を行なうこと」なのに対し偽善は「うわべだけの善行」ってなる。「わざと善を行なうこと」とはならない。これはまあわかるんだよな。善悪の分別は特に超自我によるもの。超自我は無意識なわけだから、「わざと」即ち意識的に善を行なうこととならない。偽悪は「わざと悪を行なうこと」で偽善は「うわべだけの善行」という辞書の語義自体が無意識たる超自我を表しているわけだ。平たく言うなら偽善が「わざと善を行なうこと」とならないのは性善説的な考えを根拠にしているということ。
なら何故偽悪は「わざと」となるのか。これはフロイト論やラカン論だけでは説明できない。クリステヴァのアブジェクシオンを持ってこなければならない。悪は超自我によって棄却される。無意識的に棄却される。正常人は無意識により善しか行えなくなっている。
……あれ? 偽悪は「うわべだけの悪行」でもいけるじゃん。
キチガイは超自我が壊れている。無意識であるはずの超自我が壊れているから無意識と意識がメビウスの輪になっている。超自我っつーのは無意識だが無意識と意識を分かつものでもあるんだな。超自我が無意識に割り込んでくるから無意識の本質たる現実界がさらにその後ろにくることになる。超自我がフィルターになっている。意識側のフィルターが自我になるのか。この安心の二重構造で正常人は無意識の本質たる現実界から隔離されている。保護されている。
正常人が無意識に押し込んだ超自我という善悪の分別の根拠は、キチガイにとって無意識になっていない。自我は正常人と等しく意識的なものとなるが、キチガイの自我は超自我同様壊れている。
再度言うがキチガイにとって善悪という無意識的な超自我的な分別こそが偽だ。だから偽悪や偽善なるものは偽の偽となる。嘘に嘘を重ねたものとなる。
……そっか、鏡か。
鏡の裏側から善悪という分別もない現実をキチガイが主張したら、鏡の国を生きている正常人は反射したものとしか考えられないんだな。キチガイにとっては鏡が既に嘘なんだが、鏡を嘘と思っていない正常人は、反射したものとしてそれを見る。マジックミラーのごとく鏡の向こうが透けて見えているのに、透けて見えている光景を自分側の光景が反射したものと思い込む。
それが、薬師さんの態度を偽悪と考える構造なわけだな。ただ自分が生きている主観世界を訴えているだけなのに。
嘘に嘘を重ねるっていうのは幻想に幻想を重ねるってことだ。キチガイは癒しの幻想を生きたいのに物体としての自分がそれを許してくれないから現実を生きている。なのに高度な、重層的な幻想として述べていると思われてしまう。
……うへえ。報われないなこりゃ。高度な幻想を生きられないから苦労するんだが。キチガイは病気や障害と言われているわけだが。
ここのこうもりさんって人のブログで論じられていることってわたしの思想に近いなーと勝手にわたしが思っているんだが、彼の言う「脱人間化」とかも偽悪と思われちゃうのだろうか。
だとしたらやるせないねえ。偽悪とかそんなんじゃなく彼も強調している「違和感」なんだよな。彼のテクストは非常に論理的だがこの違和感だけは彼自身理屈化できていない。この違和感は伝わるものか、伝えていいものか、伝えたら相手は大体不快に思うのは経験でわかってるしー、などとわたしは思う。伝えるってのも二次的なんだよな。この言語化が難しい違和感を根拠に論じているだけ。自分勝手に。
なのに偽悪だとか、性善説的な、彼の言葉なら「人間としての承認」が集合した構造の中で把握されるわけだからな。どんなに「脱人間化」を論じても解釈する側で「「人間の多様性」や「異文化の尊重」という主張」の一つとされてしまう。正常人たちの無意識がそうしてしまう。正常人たちの善や優しさや思いやりによって劣化される。
薬師さんの言っていることを偽悪だと考えるのはこれと同じ構造をしている。
おまけ。
まんこちゃんうぜえわやっぱ。うざいから見るんだけどね。快楽原則が壊れているらしいわたしには「うざいなら見るな」って理屈が理解できない。なんでうざかったら見ちゃいけないの? うざかったら見ないようにすればいいってなるの? うざさを求める人がいてもおかしかないでしょ? うざさを求めちゃう人が快楽原則が壊れている人ってことだな。「うざいなら見るな」が理解できる人はクライン論の「赤ん坊は悪い乳房を取り込む」という機制が理解できないだろう。
馬鹿相手にすんの疲れるわ。馬鹿って学んでない人じゃなくて自分から学ぼうと・考えようとしない人って意味。こいつは自分で考えるのを放棄して他人から確固とした答えが出るを待っている。自分から学ぼうと・考えようとしていない。
そういう奴に限って学問に文句をつけるんだよな。
大学が「金を払っているから教えてもらうのが当たり前だ」っつー義務教育や進学塾の延長みたいな状態になっているのってこういう奴らが増えたからなんだろうな。
大学教授は自分の研究の片手間に授業をするんだよ。大学教授と大学生は師弟関係だ。大学はサービス業じゃない。
ほんと断頭されてるよなこの子。
『目的』
目的そのものを否定するという目的を仮設するのはありだが、目的そのものを否定するのが目的となってはいけない。それはあくまで目的である。仮設としての目的は一過程である。過程のベンチマークである。進化論は完全な生体を目指す過程ではなく変化する環境に適応する過程である。それと似たようなことである。
それは無間地獄のごときものである。目的という確固たるものはファルスを投影できるため、癒しとなるからである。これは癒しの否定でもある。
否定し否定されなさい。
天国や癒しという嘘を拒否したければ。
『他者が根拠になっているのが自我や超自我』
わたしの語用におけるキチガイ即ち未去勢者たちは、他者という根拠がないとは言いきれないが、正常人と比して根拠として希薄である。無意識において。
動物は鏡に映る自分の姿に威嚇する。鏡に映る自分の姿は動物にとって他者である。この鏡像的他者を自分と把握即ち所有することで人は去勢される。これが鏡像段階である。この時自我が生じる。ラカン論において自我とは想像的(視覚や聴覚など体感的)なものだ。
同時に、鏡に映る光景のどこからどこまでが自分かという認知も所有される。ここからここまでが自分という象徴化である。この時象徴的ファルスが生じる。これを軸として、言語構造という網をわたあめのごとく纏わりつかせて超自我が形成される。ラカン論において超自我とは象徴的(言語的)なものだ。
従って自我や超自我は他者を根拠にしているとなる。あくまでもラカン論においてよ?
しかしまあわたしが最初未去勢的だと思っていた笙野頼子でさえ他者という根拠を再発見するのだから、未去勢者ってほんとマイナーなんだなあ、と思うわ。
ある自閉症者のブログが荒れている。交流のあった自閉症当事者同士がケンカしている。この記事でもちらっと触れてるけどね。
一度交流が損なわれると関係の修復は難しい。未去勢者たちにとって。少年マンガでありがちなケンカして「ふ、お前もなかなかやるな」って握手するようなことにはまずならない。他の中学生(今年から高校か)の自閉症者ブログでもそれが見て取れる。相手に対して一度「ああ、こいつもダメだったか」と思うとそいつとの関係の修復は困難だ。
当然だよな。無意識において他者という根拠が希薄なんだから。って違うな。そもそも大文字の他者即ち言語構造が意識と無意識というメビウスの輪の裏表を分かつわけだから、他者という根拠が希薄だから意識と無意識がメビウスの輪のままになっている、ってことか。「自閉症は自開症である」なんていう言説と呼応するな。正常人にとっての無意識が無意識になっていないから自開。正常人にとって開放するのが困難な無意識をそのまま生きているという意味での自開。
未去勢者にとって一度交流が損なわれると関係は修復されがたい。当事者同士ならなおさらだろう。
まさに谷山浩子の『きみが壊れた』だな。わたしあんま好きじゃない曲だけど。正常人視点なんだよな。わたしは谷山の本質は未去勢者だと考えているのでこういった作品は嘘っぽく聞こえる。自閉症のエコラリアのごとく聞こえる。『ゆりかごの歌』とか『夢のスープ』とかと比べると去勢済みっぽいなあ、ぐらいの話。だけど歌われている「きみ」は未去勢的なんだよな。まさしく「一度交流が損なわれると関係は修復されない」という点において。
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僕の罪 たった一度の
そしてその日からきみが壊れた
僕が壊した人形のきみを
棄てて明日はきっとここを出てゆく
もう帰れない どんなに夢を見ても
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ここでは谷山は自分を見る他者を演技して歌っている、と解釈せねばならないだろう。「僕」なわけだし。壊れている「きみ」が谷山である。つっても『よその子』も「僕」だけどこれは谷山本人の言葉だと思える。この歌の「僕」は明らかに未去勢だから。去勢されようと必死だから。最後に「わたしの子供」と言ってるしな。『金毘羅』も孤児っちゃー孤児だ。まさにガタリが言う「無意識の本質(現実界)は孤児である」。しかし笙野は次作『だいにっほんシリーズ』で去勢済みな主体即ち本質的権力者としての暴力を振るっている。水晶の暴力を振るっている。水晶を作り出そうと必死なままでいられていない。去勢された天国に安住している。つっか作り出すんじゃなくて元々心の奥底にあったものを再発見しただけだからそうなるのも当然だわな。
「無意識の本質は孤児である」即ち無意識の他者という根拠が希薄だから、無意識と意識の区別が正常人と比して曖昧だから、主観世界が無意識の本質たる現実界に親近しているから、一度の裏切りで未去勢的たる「きみ」は壊れてしまう。命のしかめっ面に翻弄される。
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信じてる 信じてる 信じてる
きみが言うそのたびに
きみの体の深いところでガラスの砕ける音がする
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恐らくこのガラスは笙野頼子が主張する「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」だ。笙野のそれは水晶でできている。ガラスのように脆くない。それどころか自然に成長していく。このことをもって、谷山浩子は笙野頼子と相対して他者という根拠が希薄なのが、未去勢的であるのが明らかだと言える。
「僕」は以前の二人の関係に未練を残している。関係を修復しようと試みてはみたのだろう。しかし壊されてしまった「きみ」がそれを拒否している。ガラスが砕けたから。水晶が砕けたから。ゆらめくヒスイはあなたじゃなかったから。「僕」は去勢済み的で「きみ」は未去勢的だ。クリステヴァのアブジェクシオンはラカンの鏡像段階即ち去勢の裏面だとわたしは考えている。「僕」は壊れた「きみ」を棄てようとする。たとえそれまでの「僕」が未去勢的であったとしても、未去勢的な「きみ」を棄却した彼は大人になるだろう。去勢を承認する・去勢されるだろう。壊れた「きみ」を棄てる=殺すことで彼のファルスは安定化する。
「僕」の無意識には他者が根拠として存在している・するだろうが、「きみ」のそれは希薄だ。希薄なままだ。
きっと「僕」の水晶が「きみ」のガラスを砕いてしまったのだと思う。欲望のシーソーである。「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。「僕」の水晶と「きみ」のガラスが鏡像的に衝突してガラスが砕けた。笙野の水晶がわたしの彼女への「分魂」を失敗させたように。
笙野、お前はこの歌の「僕」だ。お前はわたしを壊した。わたしという人形は、ゲル状の外側だけを固化させたものは、ガラスは、砕けた。
お前のたった一度の罪は、天国も地獄もない実存を生きる未去勢者を即ち火星人をわざわざ登場時点で殺してまで天国に連れて行こうとしたことだ。
実存を幻想で圧殺したことだ。
『生死観の逆転』
去勢されてない赤ん坊にとって死の欲動即ちエントロピー増大も生の欲動即ちネゲントロピーも両方ある。せめぎ合っている。たとえば宇宙空間を考えてみよう。エントロピー増大の法則に従って粒子たちはエントロピーの大きい状態にあるが、局所的に見れば、たとえば複数の粒子が衝突し大きな質量の粒子になり万有引力によって他の小さな粒子を引き寄せ星になることがある。この星周辺に限ってはエントロピーが減少している。ネゲントロピーが存在する。エントロピー増大とネゲントロピーがせめぎ合っている。
こういったせめぎ合いこそが未去勢者即ち統合失調症者や自閉症者やスキゾイドが感じる生の実体である。
ところが去勢されていない主観世界を殺して久しい正常人たちは、死の欲動即ちエントロピーの増大を棄却した生の欲動即ちネゲントロピーに注意を偏執させる。局所に注意を集中させる。中央集権的に星が宇宙を支配する。
正常人たちと未去勢者たちとの差異は死の欲動を棄却しているかどうかである。
生の欲動も死の欲動もある未去勢者から見れば、正常人化することとは死の欲動に翻弄される部分的な自分を殺すことでもある。
ここが重要だ。
精神分析ジャーゴンの生の欲動とは正常人が固定観念的に考える局所的な生である。ラカンによって生の欲動とは象徴界・想像界という非現実界という意味での幻想を生きることだと証明された。象徴界と想像界の重なり部分が意味なわけだから、正常人にとっての生きる意味とは意味を生きることなのである。意味に生かされているのだ。
しかし未去勢者にとってそれは生という実体ではない。少なくとも一部を殺されるという意味で死である。この点だけに限って言えば、未去勢者と正常人では生死観が逆転していると言えよう。未去勢者にとって生の欲動は(部分的な)死を意味する。
逆に言えば、正常人が束縛されている生の欲動即ち生という幻想に、死の欲動を加えれば未去勢者にとっての生の実体となる、というわけだ。
『オーパーツのような整流器』
「自分を主張すること」が即ち「他人に自分なるものをわかって欲しい」となるのが正常人だ。他人の主張をそう認識してしまうし、恐らく自分でもそうなのだろう。
しかし「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」は因果関係で結ばれているにすぎない。
わたしは思考とは蜘蛛の巣のように張り巡らされているものだと考えている。ドゥルーズ=ガタリのリゾームになんのかね、これって。この記事から。
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思考なんてある意味あみだくじのようなものだから、そういう結論に達するのは一つの可能性として否定しないけど、ほとんどの人が同じところに行きついてしまうのが。
癒されたがっているのは、癒される方がいいに決まってるって考えは、そいつの固定観念にすぎないのに、それがコミュニケーションの基本ルールとなっているのが。
論理を飛躍させるブラックボックスがここにある。オーパーツのような整流器が組み込まれている。
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あみだくじというより蜘蛛の巣だな。しいて言うなら始まりと終わりがないあみだくじ。
従って、「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という因果関係は一律でない可能性がある。それらの要素を始まりと終わりに設定すればあみだくじで一律に結びつくが、始まりと終わりのないあみだくじならそれらの要素はおのおの一通過点にすぎなくなる。始まりと終わりがないのだから通常のあみだくじにおいて下から上へ登っていくことも許される。
「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という二つの要素がおのおの一通過点であるとすれば、これら二つの要素は因果関係とはなりうるが一律に結びつかない。「自分を主張」しているのに「他人に自分なるものをわかってもらえること」を目的としていない場合だってありうる。二つの通過点の途中あみだくじの横棒がある可能性だってある。
しかし正常人の内面には「論理を飛躍させるブラックボックス」たる「オーパーツのような整流器」が埋め込まれているため、「自分を主張すること」と「他人に自分なるものをわかってもらえること」という因果関係は一律に結びついてしまう。「ほとんどの人が同じところに行きついてしまう」。
この二要素が一律に結びついてしまっているからこそ帰納的に「自分を主張すること」が即ち「他人に自分なるものをわかって欲しい」という推論が成り立つ。恐らく正常人同士なら、正常人しかいない世界なら推論ではなくなるだろう。「ファルスのない人間即ち机上の空論としての女性は存在しない」というラカン論なら定理として採用されてもおかしかない。まさに「手紙は宛先に届く」。
しかしこの推論には、この二要素の途中にあるあみだくじの横棒が考慮されていない。それはあくまでも推論である。そういう可能性もあるが違う要素に辿り着く可能性もある。たまたま正常人には整流器が埋め込まれているため違う要素に辿り着く可能性が棄却されているだけである。
要するにわたしにとって、「自分を主張すること」が「他人に自分なるものをわかって欲しい」となるのは、そうなる場合もあるが、ならない場合もある、という話。
『カタガキ』
中学生か高校生の頃、「肩書き」という言葉と「カタワ」という差別用語のカタが結びついて離れなかった。たとえるなら、油断すると「カタ」の語源は同じだと思い込んでしまいそうだった。
そんなことをふと思い出した。
事後的にこれを妄想化してみよう。
恐らくその時代のわたしは、「肩書き」という言葉自体に差別用語的なニュアンスを感じ取っていたのかもしれない。だからたまたま同じ「カタ」という音が含まれる差別用語と繋がった、と。
(あ、これも一個前のリゾームみたいなもん? 違う?)
「肩書き」は社会を生きていれば誰でも持っている。学生でさえ「学生」という肩書きがある。わたしも普通に学校に通っていたのだから「学生」という肩書きを持っていたはずなのだが、頭ではわかっていたのだが、わたしの無意識は持てていなかったのかもしれない。肩書きとはラカン的な意味での他者(鏡像的他者即ち自我あるいは自己愛の対象である自己あるいは現象学的な意味での他我も含まれる)から与えられるものだ。大文字の他者。
他人から見れば他の学生同様「学生」という肩書きを持っていはいたのだろうが、わたしの無意識含めた主観世界においては持てていなかったのかもしれない。だから「肩書き」という言葉自体に差別用的なニュアンスの感じた、と言うと整合しすぎてつまらない。
本当に持たざる者の苦痛は、お金や権力を持たざる者の苦痛とは別だ。未去勢者たちは、少なくともわたしは他者の承認(象徴界的ね)あるいは人間らしさ(想像界的)なるものを持っていなかった。だから他者の承認の象徴とも言える「肩書き」という言葉自体に差別されている感じを受けた、ってことか。
つまんねえな、この文章。
『雑然さ』
プラモデルとか興味なかったのだが何故かこんな記憶がある。
ジオラマだかなんだかの話で、巨大ロボットがジャングルにいるのがあって、それを見たある人がこんなことを言った。
「実際はこんな汚れ方しねーよな。だって(ロボットの)頭とか地面から相当離れてるじゃん。遺跡じゃあるまいしこんな上の方まで泥だらけになんねーって」
なるほどな、と思った。もちろんロボットが転んだりしたら頭だって汚れるかもしれない。とすると頭まで泥で汚れているこの巨大ロボットのパイロットは下手糞であることがわかる。
ジャングルなのだから迷彩効果を考えたのだ、などと言うなら塗装をどうにかするべきである。青で統一されたそのロボットは迷彩効果など考えていないはずだ。
しかしわたしはそのジオラマにリアリティを感じた。プラモデルに関する知識のなさも一因だったろう。すげーなー、って素直に思った。
多分、作った人は人間の兵士をイメージしていたのだろう。人間ならば頭まで泥で汚れていてもおかしかない。匍匐前進とかするだろうしね。もしかしたらそのロボットも匍匐前進できるのかもしれないわな。コクピットの中大変なことになるだろうけど。つか巨大ロボットが匍匐前進してなんの得があんだ?
ロボットも人型なのだから似たような汚れ方をするだろう、という思い込みが作者にあったし、恐らくわたしにもあった。だからわたしはリアリティを感じたのだ。
舞台美術でもヨゴシを入れる場合がある。しかし映像と比べるとヨゴシという要素はそれほど重要ではない。
わたしはこの記事でヨゴシと現実感の関係を述べているが、ヨゴせばいいというわけではない。
舞台美術は、三次元のものが実際にそこにある、という観客の思い込みが前提にある。だからヨゴシを入れるなどしなくてもたとえば小物やデザインのごちゃごちゃさで雑然さを醸し出せる。
要するに雑然さなんだな。現実感に必要なのは。ヨゴシは雑然さの一象徴だ。象徴自体を不安定にさせる象徴。「女」という言葉と同じ機能がある。
雑然さとは複雑さとも換言可能だ。現実は複雑系だ。複雑に象徴化が施された現代社会は現代社会という芸術作品として現実感を醸し出している。恐らくピラミッド建造に関わった人の何万倍もの人の手によって作られた作品。
また雑然さとはエントロピーが大きいことでもある。精神分析理論では生の欲動がネゲントロピーで死の欲動がエントロピー増大である。であるならば、死の欲動が含まれていないと現実感は生じない、となる。
『それはひょっとして偽悪で言っているのか』
これはボツっつーより相手のコメント欄が文字数制限あったからこっちに入れとく。
イトウさんのブログ。
薬師さんもいつぞや誰かに言われたように偽悪的に思われるのだろうなと思ったわけだが、なんなんだろうな。わたしも偽悪的だと思われているのだろうか。
キチガイには善悪という分別がないんだけど、キチガイがキチガイを演じると偽悪になるんだろうか。善悪という分別がないだけなわけだから、善悪という分別があって悪を棄却する快楽原則や現実原則に縛られた正常人から見ると、善も悪も(融合なんぞしてないが。断片として)あるってなる。その主観世界に。本当の現実には善も悪もない。そういうレッテルを人間がべたべた貼っているだけ。
しかしキチガイがキチガイを演じると、わざと悪だけになるから、偽悪的になるのかな。
そもそも正常人の分別こそがキチガイから見たら妄想で非現実的なもの。で正常人は悪を棄却するわけだから、キチガイから見れば正常人は傾向的に一律的に偽善者だとなる。薬師さんもよく言うよな、「偽善だ」って。だからってキチガイが本当の善ってわけじゃないんだよな。善悪なんてないのが現実で、その現実を生きているのがキチガイ。善悪という分別がある幻想の世界を生きて幻想の善だけを見て幻想の悪を棄却するのが正常人。幻想だから偽善となるだけで。そもそもの善悪という分別が偽だから偽善って言ってるだけで。
……。
正常人と接触して、キチガイたる自分の本性を維持しようとすれば、その主観世界を保持しようとすれば、正常人が棄却する悪をことさら主張しなければならない。正常人の偽善を指摘するために善悪の分別がない主観世界を生きている自分を主張しなければならない。だから悪を強調しなければならない。わざと悪を主張しなければならない。
だから偽悪と思われるのか。
ってこの時点で正常人に負けてるよな。ほんと窮鼠猫を噛むだわ。
しかし偽善と偽悪って語義もおかしいな。偽悪は「わざと悪を行なうこと」なのに対し偽善は「うわべだけの善行」ってなる。「わざと善を行なうこと」とはならない。これはまあわかるんだよな。善悪の分別は特に超自我によるもの。超自我は無意識なわけだから、「わざと」即ち意識的に善を行なうこととならない。偽悪は「わざと悪を行なうこと」で偽善は「うわべだけの善行」という辞書の語義自体が無意識たる超自我を表しているわけだ。平たく言うなら偽善が「わざと善を行なうこと」とならないのは性善説的な考えを根拠にしているということ。
なら何故偽悪は「わざと」となるのか。これはフロイト論やラカン論だけでは説明できない。クリステヴァのアブジェクシオンを持ってこなければならない。悪は超自我によって棄却される。無意識的に棄却される。正常人は無意識により善しか行えなくなっている。
……あれ? 偽悪は「うわべだけの悪行」でもいけるじゃん。
キチガイは超自我が壊れている。無意識であるはずの超自我が壊れているから無意識と意識がメビウスの輪になっている。超自我っつーのは無意識だが無意識と意識を分かつものでもあるんだな。超自我が無意識に割り込んでくるから無意識の本質たる現実界がさらにその後ろにくることになる。超自我がフィルターになっている。意識側のフィルターが自我になるのか。この安心の二重構造で正常人は無意識の本質たる現実界から隔離されている。保護されている。
正常人が無意識に押し込んだ超自我という善悪の分別の根拠は、キチガイにとって無意識になっていない。自我は正常人と等しく意識的なものとなるが、キチガイの自我は超自我同様壊れている。
再度言うがキチガイにとって善悪という無意識的な超自我的な分別こそが偽だ。だから偽悪や偽善なるものは偽の偽となる。嘘に嘘を重ねたものとなる。
……そっか、鏡か。
鏡の裏側から善悪という分別もない現実をキチガイが主張したら、鏡の国を生きている正常人は反射したものとしか考えられないんだな。キチガイにとっては鏡が既に嘘なんだが、鏡を嘘と思っていない正常人は、反射したものとしてそれを見る。マジックミラーのごとく鏡の向こうが透けて見えているのに、透けて見えている光景を自分側の光景が反射したものと思い込む。
それが、薬師さんの態度を偽悪と考える構造なわけだな。ただ自分が生きている主観世界を訴えているだけなのに。
嘘に嘘を重ねるっていうのは幻想に幻想を重ねるってことだ。キチガイは癒しの幻想を生きたいのに物体としての自分がそれを許してくれないから現実を生きている。なのに高度な、重層的な幻想として述べていると思われてしまう。
……うへえ。報われないなこりゃ。高度な幻想を生きられないから苦労するんだが。キチガイは病気や障害と言われているわけだが。
ここのこうもりさんって人のブログで論じられていることってわたしの思想に近いなーと勝手にわたしが思っているんだが、彼の言う「脱人間化」とかも偽悪と思われちゃうのだろうか。
だとしたらやるせないねえ。偽悪とかそんなんじゃなく彼も強調している「違和感」なんだよな。彼のテクストは非常に論理的だがこの違和感だけは彼自身理屈化できていない。この違和感は伝わるものか、伝えていいものか、伝えたら相手は大体不快に思うのは経験でわかってるしー、などとわたしは思う。伝えるってのも二次的なんだよな。この言語化が難しい違和感を根拠に論じているだけ。自分勝手に。
なのに偽悪だとか、性善説的な、彼の言葉なら「人間としての承認」が集合した構造の中で把握されるわけだからな。どんなに「脱人間化」を論じても解釈する側で「「人間の多様性」や「異文化の尊重」という主張」の一つとされてしまう。正常人たちの無意識がそうしてしまう。正常人たちの善や優しさや思いやりによって劣化される。
薬師さんの言っていることを偽悪だと考えるのはこれと同じ構造をしている。
おまけ。
まんこちゃんうぜえわやっぱ。うざいから見るんだけどね。快楽原則が壊れているらしいわたしには「うざいなら見るな」って理屈が理解できない。なんでうざかったら見ちゃいけないの? うざかったら見ないようにすればいいってなるの? うざさを求める人がいてもおかしかないでしょ? うざさを求めちゃう人が快楽原則が壊れている人ってことだな。「うざいなら見るな」が理解できる人はクライン論の「赤ん坊は悪い乳房を取り込む」という機制が理解できないだろう。
馬鹿相手にすんの疲れるわ。馬鹿って学んでない人じゃなくて自分から学ぼうと・考えようとしない人って意味。こいつは自分で考えるのを放棄して他人から確固とした答えが出るを待っている。自分から学ぼうと・考えようとしていない。
そういう奴に限って学問に文句をつけるんだよな。
大学が「金を払っているから教えてもらうのが当たり前だ」っつー義務教育や進学塾の延長みたいな状態になっているのってこういう奴らが増えたからなんだろうな。
大学教授は自分の研究の片手間に授業をするんだよ。大学教授と大学生は師弟関係だ。大学はサービス業じゃない。
ほんと断頭されてるよなこの子。